二人の出会い
その日、王都エルムヴァルでは、聖信教の主催による春の訪れを祝う祭りがおこなわれ、町は賑わいを見せていた。
ネレティス祭──毎年この時期に行われる戦女神の名がつけられたこの祭りに、王国の内外から多くの人々が集まり、皆が大いに楽しんでいる。
祭りの喧噪の中、エリシールは町の大路をひとりきりで歩いていた。
つい先ほどまでは、護衛の女騎士が彼女の側にぴたりとくっついていたのだが、いつの間にかはぐれてしまった。
薄手の外套をまとっていたが、外套の頭巾はかぶらず、白金色の髪と美しい顔をそのままに晒している。
城下へ出たのは、はじめてというわけではなかったが、土地勘などもなく、ひとまず歩きながら祭りを見て回った。
エルムヴァルは普段から、活気のある明るい町だった。
目に映る人々は皆陽気で、朗らかなようすだ。
自国の国民が笑顔で暮らしている姿を見て、エリシールはとても嬉しく思った。
そしてふと、町の中に異質な暗がりを見つけた。
日はまだ高く、町にはあたたかな陽光がふりそそいでいたが、それでもそこは一際影が濃かった。
こわいもの見たさといわけでもないが、エリシールは興味をひかれて、その暗がりに足を踏み入れた。
彼女と親しい人間が見たならば卒倒しかねない、迂闊な行動である。
だがエリシールは、生まれてからこれまで、面と向かって人に害されたことなどなかった。
人並みに不安は覚えども、まだ現実を知らなかった。
──貧民区。
町の住民からは《凶穴》とも呼ばれる場所に、エリシールはひとりで入っていった。
すぐさま、すえた臭いが鼻をついた。
エリシールが今まで嗅いだことのない強烈な臭いだった。
路地裏のような狭い小路を少し歩くと、ひどく薄汚れた格好の男が路の上に倒れていた。
「……あの」
心配になって、エリシールが声をかける。
けれど路端の男は何の反応も見せない。
「あ、あの」
エリシールが再度呼びかける。
ややあって、のそりと男が頭を上げた。
白く濁った虚ろな瞳がエリシールに向けられたが、そこに彼女の姿はうつっていなかった。
男はだらしなく口を開けていて、心ここにあらずなようすだった。
「……」
何も話さぬまま、男はまた路の上に伏せった。
エリシールは言葉をなくし、呆然となった。
顔を上げて薄暗い小路の先に目をこらすと、いくつもの人影が点々と伏せっているのが見えた。
どれも多少身じろぎしていたので死体ではなさそうだが、エリシールにとってそれは異様な光景だった。
そこでようやく、ここが自分にとって場違いなところであると気付いた。
途端に寒気をおぼえて小さく身震いする。
エリシールは踵を返し、慌てて来た道を引き返した。
「おっと」
彼女の行く手に男たちが立っていた。
ごろつきといった風体の男が三人。
武装はしていないが皆屈強な体をしていた。
その中の一人、眼帯の男がはしゃぐように言った。
「何だ、姉ェちゃん、どこ行くんだ?」
卑俗な笑みを浮べて眼帯の男がエリシールに尋ねる。
他の男たちも、彼女の顔と身体に、猥雑な視線をあびせていた。
「わ、私は……」
エリシールが、か細く消え入りそうな声で呟く。
未知の恐怖で足が震えていた。
「何だって? 聞こえねぇよ」
眼帯の男が無遠慮に顔を近付ける。
強烈な酒のにおいに当てられ、咄嗟にエリシールは眼帯の男から逃がれようとした。
「ちっ! この餓鬼が!」
それが気に入らなかったのか、眼帯の男がエリシールの腕を強く掴んだ。
「きゃぁ!!」
エリシールが悲鳴をもらす。
「へぇ」
ここで眼帯の男が、エリシールの美しさに、あらためて気がついた。
王都中どこを探しても、決してお目にかかれないほどの美貌だ。
着ている服も、庶民がやすやすと身に着けられるものではない。
「貴族のお嬢さまがこんなところに、のこのこひとりで来やがってよ。ちょいと、世間の厳しさってやつを教えてやらねぇとなぁ」
眼帯の男がエリシールをか細い腕をひねり上げる。
エリシールは苦痛に呻いた。
──痛い! 怖い! お願い、誰か! 誰か助けて!
叫びたかったが、痛みが強すぎて大声が出せない。
かろうじて「ひゅっ」と息を鳴らすことくらいしか出来なかった。
エリシールの声は、誰にも届かない──はずだった。
「何をしている」
ごろつきたちのものとは違う若い男の声が、苦悶するエリシールの耳に届いた。
「……誰だ、手前ぇは?」
男たちの視線の先に、ひとりの少年が立っていた。
年の頃は、十代の半ば。
髪と瞳は栗色で、背丈は百七十セルム(百七十センチメートル)ほど。
体は引き締まって見え、使い古した革製の胸当てを身につけている。
腰には年季の入った中程度の長さの剣を一振り携えていた。
若い冒険者か旅慣れた渡り者のような身なりであったが、外套はまとっておらず、荷物の類も持ち合わせていなかった。
「誰でもいい。その人を放せ」
少年は不敵な態度で、エリシールの腕を掴む眼帯の男に言う。
三人の悪漢を前にしても、臆する気配は微塵もない。
「はっ! 嫌だと言ったら?」
眼帯の男が、鼻を鳴らして嘲笑する。
そのやりとりの間に、仲間の二人が少しずつ少年に近付いていく。
男たちは素手であったが、体格と数の上での優位を過信してか、余裕に満ちた表情だった。
「痛い目に合ってもらう」
少年は言い放ち、男たちを視界におさめながら、腰の剣を抜く。
その姿は堂に入っており、男たちがわずかながらたじろいだ。
「もう一度だけ言う。その人を放せ」
少年が剣を正眼に構える。
一息の後、はじめに動いたのは、エリシールを掴んだ眼帯の男だった。
「分かった。そんじゃあ放すぜ!」
言いながら眼帯の男は少年に向かってエリシールを突き飛ばした。
少年は剣先を逸らして一歩前に足を踏み出し、エリシールをしっかりと抱きとめた。
「あ──」
エリシールは少年に礼を言おうとしてすぐに状況を思い出し、口をつぐむ。
にわかに体勢を崩した少年に向かって、男たちの一人が少年に殴りかかった。
しかしその途中で、
「ぐぁ!」
殴りかかってきた男が、自分の右目に猛烈な痛みを感じて呻く。
その隙をついて少年がエリシールを片腕に抱いたまま、男の鳩尾を目がけて前蹴りを放った。
「がぁっ!」
靴に何か仕込まれているのか、少年が軽く蹴っただけで男が腹を押さえて地に崩れ落ちた。
「調子に乗るな!」
さらにもう一方の男が少年に掴みかかる。
「リリィ」
少年が誰かの名前を呼んだ。
直後、少年に掴みかかってきていた男が、左耳に激痛を覚えて動きを止めた。
少年がエリシールを庇いながら、横蹴りを放って男の膝関節を踏み折る。
男は悶絶し、地面を転げまわった。
手にした剣を使うまでもなく、少年はあっという間に二人を倒したのだった。
何が起こっているのか、エリシールにはまるきり理解できなかった。
ただ少年の腕の中で彼女は何か予感めいたものを感じていた。
それが何であるのかを彼女が知るのは、もっとずっと後のことであったが。
残るはあと一人。
先ほどまでエリシールを捕らえていた眼帯の男だ。
「く、くそっ!」
眼帯の男が、やぶれかぶれに少年に突っ込んでくる。
少年はエリシールを左腕で抱いたまま、右手で握った剣の切っ先を男に向ける。
そこに──
「風衝!」
少年の後方から声が上がり、一瞬の後に生じた激しい突風が、眼帯の男を吹き飛ばした。
「エリー! 無事か!」
理法剣を手にしたエルフの女騎士がエリシールと少年に走り寄る。
女騎士──ヘルゲは一瞥で状況を察すると、少年に頭を下げた。
「貴君が助けてくれたようだな。感謝する」
それからすぐに、少年の腕の中のエリシールをくまなく見つめ、息をついた。
「いえ、たまたま見かけたものですから」
少年はエリシールをそっと離し、剣を鞘におさめて居住まいを正す。
「お役に立てたなら幸いです。それでは、僕はこれで──」
一礼し、何のてらいもなく少年は来た路を引き返すように歩き出した。
「待ってください!」
エリシールが慌てて少年を呼び止めた。
「あ、あの……遅くなってしまって申し訳ありません。助けていただいて、ありがとうございました」
それを受けて少年は微笑を返す。
「お怪我がなくて、よかった。このあたりは危険です。どうかお気をつけください」
優しく言い、少年は再び歩き始めた。
「あの、せめてお名前だけでも……」
口に出してからエリシールは途端に恥ずかしくなった。
これではまるで、おとぎ話の一幕のようではないか。
頬が熱くなるのを感じながら、それでも彼女は少年から視線を外せなかった。
少年がかすかに躊躇って見えたのは、彼もまた何かおもはゆい感情を覚えたからか。
しかし少年はすぐに雑念を払うように首を振ってから、まっすぐにエリシールを見つめ返して答えた。
「僕はロラン・ブローリンといいます。それからこっちが──」
これが、エリシールとロランの出会いだった。
今より一年と少し前の出来事である。




