おとぎ話
「私どもがいればフィオナは落ち着いてアバの診察ができないでしょう」
そう言って、公爵と伯爵はアバの住む離れを後にした。もう診察を終えたため、早く帰宅して、二度とこの場に来たくないと思うフィオナも、伯爵家の侍女たちが、お茶の準備をしているのを見れば帰るとは言えない。
「はぁ」
肯定とも否定とも取れる返事をするだけで精一杯だった。フィオナがちらりとタリーに視線を投げると、タリーは一つ頷く。やはり、貴族が平民を持て成そうとしているのに断るという選択肢はないらしい。
「治癒師様、わたくし本当に感謝していますのよ。貴方のおかげで健康を取り戻し、愛妾としての立場も強化できました。おかげさまでノアも何不自由なく暮らせております」
対面に座るアバは優雅に微笑みフィオナへ礼を告げる。アバの隣に座るノアもアバを見上げて嬉しそうに微笑んだ。同じ平民だがフィオナの護衛役のためタリーは座らずフィオナの後ろに立つ。
「お姉ちゃんすごいや! まるでおとぎ話の治癒師様みたいだね!」
「まぁ。ノアもそう思う? わたくしもよ。わたくしだけでなく、どんな高名な治癒師様が診察されても快方に向かわなかった公爵様までもあれほどまでに回復なさったのですから」
おとぎ話の内容が分からずフィオナは首を傾げながらタリーを見た。
「……おとぎ話?」
フィオナの視線を受けたタリーはゆっくりと首を縦に振る。だが、あくまで護衛役のタリーが話をするわけにはいかない。
「まぁ。治癒師様は、おとぎ話をご存じないの?」
「はい。私の故郷ではとくに治癒師に関わるおとぎ話はなかったかと……」
***
遠い遠い昔。まだ貴族や平民など、人の階級を表す言葉が何一つなかった、王様とそれ以外の者しかいなかった頃のこと。
裕福な家に生まれたダレンは、何一つ不自由なく育った。美味しい食事を食べ、綺麗な衣服に身を包み、清潔なベッドで眠る。欲しいと思ったものは、何もかもが与えられた。ただ一つ、手にできなかったもの。それは、健康な体だ。
彼は、生まれながらにして心臓に病を抱えていた。少し歩けば息は上がり、唇は紫に、顔色は赤みを消す。兄や姉のように、整えられた色とりどりの花が咲く庭園を走り回ることも、森に狩りに出かけることもできない。
ダレンの両親は金に物を言わせて各地から有能と言われている治癒師をかき集めた。しかし、どの治癒師が診察しても首を横に振るばかり。
ダレンの両親は、ダレンを救いうる治癒師を探しながらも、いつ終わるとも知れないダレンの命の灯火を前に、軟禁することはやめた。彼がいつ、その命の灯火が尽きようと楽しい人生だったと思えるように。
ダレンはとにかく外の世界を見たがった。体力の許す限り馬車で出かけた。海が見たいと南に行き、日の出を見に東へ、夕日を見に西へと赴く。嬉しそうにお土産話をしてくれる我が子に、両親は嬉しそうに、けれども、悲しそうに微笑んだ。
そんな日々が続いたある日。ダレンは一人の少女を連れて帰った。友達になったと。ダレンの友達にしては随分と年下に見える黒髪黒瞳の少女だったが、その少女が微笑むとダレンは顔を真っ赤にして、はにかむように笑った。
少女は毎日のように遊びにきた。ダレンとお茶を飲みながら他愛ない話をして帰る。少女と友達になってからダレンは家にいることが多くなり、両親は安堵した。ダレンの望みとはいえ、外遊するのは体に負担であるため心配が尽きなかったのだ。
まだ恋も知らないだろう少女は、無邪気ゆえにダレンを翻弄し、恋という沼に引きずり込んでいく。ダレンの両親は初恋にあたふたしている我が子を微笑ましそうに見つめていた。ダレンの心に恋が芽生えたことが嬉しかった。
穏やかな毎日が続いていた。――はずだった。
いつもと変わらず、少女と楽しそうに話していたダレンは急に咳き込んだ。ヒューと高い音が部屋に響く。椅子に座ってさえいられなくなったダレンは胸を押さえて、床に倒れ込んだ。
(あぁ、僕は死ぬんだな……)
瞳に涙が溜まっていく。涙の意味なんてダレン自身にも分からない。ただ分かるのは、これが最期だということ。ダレンが手を伸ばすと、瞳からポロポロと涙を流す少女が、その手を取った。途切れ途切れになる言葉を紡んでいく。
「僕は、ずっ、と……きみの、ことが……だ……いすき、だっ、たんだ……」
ダレンの瞳に溜まった涙が滴となり頬を流れていく。胸にこれまでに感じたことのない痛みが走った。それでも、彼は微笑む。大好きな彼女に。自分の笑顔を覚えていてほしいから。
「きづい、て、……た、か、な……?」
痛みに笑顔が歪んでいることは分かっている。それでも。それでも。彼女の記憶に残る自分は笑顔がいい。
彼女はポロポロと涙を流しながら首を横に振る。掠れた声で叫んだ。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
悲鳴のような少女の声が屋敷中に響いたその刹那。少女とダレンの握り合う手を中心に光が膨れ上がり、光の密度が増していった。あまりの眩しさに駆けつけた両親、侍女、執事。光の中心であるダレンさえ、目をつぶらずにはいられなかった。
強い風が吹いて、瞼の裏を刺激する光が弱まったと同時に両親らは目を開く。光の塊がなくなったそこには健康を取り戻したダレンが。
平均寿命が五十代の世のこと。ダレンはしかと寿命を全うし、最愛の伴侶に、子に、孫に恵まれ、その一生を終えた。
***
「ふ、ふぅーん。そ、そんなおとぎ話がこの国にはあるのね」
「えぇ。この国では昔から伝わるおとぎ話よ。……実際は、不治の病でも、治癒師に匙を投げられても希望を捨てずに生きられるようにと作られたお話だと言われているわ」
「えぇぇぇぇ、僕、本当にその治癒師様はいると思うなー」
フィオナはうーんと唸る。
「おとぎ話を真剣に掘り下げるのもなんだけど、どうしてそれが治癒師様のおとぎ話として伝わっているの?」
「それは、光に目がくらんで、次に目を開けたときには、その少女がどこにもいなかったからよ。その少女がすごい高名な治癒師様だったんじゃないかって」
「なんで、身を隠す必要があるの?」
「そんなこと分からないわ。ただのおとぎ話だもの。……自分の命を引き換えにダレンの命を救ったから消滅したんじゃないかとは言われているけど……。わたくしはそんな自己犠牲愛嫌いだわ。みんな一緒に幸せがいいもの」
「……そうね」
悲恋かハッピーエンドか分からないおとぎ話に一同沈黙となるが、無邪気なノアが口を開いた。
「その少女も黒髪黒瞳でしょ? お姉ちゃんと一緒!」
「……ノアは、私に命を引き換えに誰かを助けろって言うの?」
フィオナの低い声に室温が下がる。もしかしたら無意識に風魔法を使っているのかも知れない。
「っ! そうじゃないよ! おとぎ話とか伝説とか! そんな物語になりそうなくらいお姉ちゃんはすごいし、感謝してるってことだよ!」
「……及第点ね。まぁ、許してあげるわ。だけど、それとは別で、もうアバの往診は必要ないの。引継書は置いていくから、今後は伯爵家の治癒師にみてもらってね。いつまでも平民の私が、伯爵家に関わるわけにはいかないわ」
「そんな!」
「もし困ったことがあればまた治癒院に来ればいいわ。何も私はアバを見放すわけじゃない。伯爵家の治癒師がアバの体の把握をしていることの方が、現状よりも望ましいと考えただけ」
「ノア。治癒師様のおっしゃる通りよ。治癒師様はわたくしのためにおっしゃってくださっているの。聞き分けなさい」
「……はい……」
ノアが縋るような目をフィオナに向けるのは、フィオナに会えることが減ることに対する不満が半分。せっかくフィオナの治療でここまで回復している母だ。このまま母を見て欲しいという不満があと半分だった。
ノアの不満の正体にフィオナは気付いているが、だからといってノアの思いに答えるわけにはいかない。フィオナにとって大事なのは、自分に救える患者を救うこと、故郷の医療機器を他国に広めること。
そして、運命の人を見つけることだ。