誰が健康診断だって?
フィオナが備えがたりないと訴えたところで、今の備えでたりるかも知れないからと、治癒院にマジックバックを取りに戻ろうとするフィオナをガブリエルは俵担ぎにして連行する。
足音も吸収する高そうな絨毯をガブリエルが渡り、10分ほどかけて回廊や階段を通れば、大きな扉の前に出た。
「陛下に引き継ぎを」
「はっ」
重そうな扉が近衛兵二人で開かれる。手前に応接セット、奥には天蓋付きのベッド。それを取り囲むように祈祷師がまじないを唱えていた。
ドサッと無造作に床に転がされたフィオナはそのまま、天蓋付きベッドに駆け寄る。途中、近近衛兵がフィオナの行く手を塞ごうとしたが、それをガブリエルが止めた。
陛下の呼吸音に閉塞音が混ざる。唇は青く、体に酸素が回っていないことがうかがい知れた。
侍医と思われる老人三名は、祈祷師にならって祈りを捧げていた。フィオナが彼らへの協力要請を諦めるには十分な状況だった。
「ちょっと失礼します!」
おもむろに陛下の寝室の窓を開けたフィオナ。
「何するんだ?!」
「陛下が風邪をめされるだろ!」
「逃げる気か?」
背中に罵声を浴びるが、フィオナの動きは止まらない。人の命がかかっている。何よりも優先されるのは人命。帝国の初代皇帝が説き、帝国人の魂に刻まれた帝国人の信念だ。
フィオナが窓から飛び降りた。一瞬沈黙に包まれた寝室は時が止まったようだった。一拍遅れてガブリエルは窓の外をのぞき込むと、強い風が吹いた。今しがた窓から飛び降りたはずのフィオナが、トンと軽やかに窓の縁に踵を鳴らした。
「……何が起きて……」
「……申し訳ありません! 陛下のあまりの瀕死の状況を受け止めることができず取り乱してしまいました!」
「ですが、もう大丈夫です!」と室内に体を滑り込ませたフィオナは、再び陛下の下に駆け寄った。
「陛下! 私の声が聞こえますか?」
何の反応も示さない陛下の肩をフィオナが叩く。それを見ていた侍医や祈祷師たちが声を荒げた。
「陛下に何をする! 不敬な!」
「あの女を引っ捕らえよ!!」
侍医の言葉を受け、執事が声を上げる。近衛兵が一丸となってフィオナに向かっていく。
「やめろ! 彼女の邪魔をする者はこの私が許さん! 王位継承権三位であるこのガブリエル・エンペラーがこの場の責任をもつ!」
ガブリエルは王姉の息子。陛下の甥にあたる。陛下に息子は二人。この国で王位継承権を継ぐのは男子であるため、ガブリエルは王位継承権三位にあった。
そんな言葉が耳に入っているフィオナではない。それどころではない。今まさに陛下の呼吸が止まろうとしているのだから。
フィオナはマジックバックからライトが付いたカチューシャを取り出して額に付けた。続いて、舌を押さえる舌圧子、喉に挿入するチューブを取り出した。額につけたライトで喉の奥を覗く。舌圧子で舌を押さえるがチューブの入る隙間はない。陛下の呼吸は弱まっていく。
そのへんにそれまで持っていた器具を放り投げ、マジックバックから取り出したのは……先の尖った、刃だった。反対の手には液体を握っている。
近衛兵、侍医、祈祷師、執事。その場にいる者全てが緊張感に包まれる。皆がフィオナとガブリエルを交互に見る。その目が雄弁に語っていた。
「この状況も許容しろと言うのか」
「これでも責任を取るというのか」
皆の視線がガブリエルに注がれた。ぎゅっと瞼に力を入れる。再び開眼したガブリエルの瞳には強い意志が宿っていた。
「皆の者。手を出すことは許さない」
その言葉を了承と捉えたかのようにフィオナは、左手に持った液体を陛下の喉にかける。膜を張った自身の手にも同じように液体をかけると、陛下の喉に刃を滑らせ、鋏のような器具で切開創の幅を広げ、液体から取り出したチューブをその穴に差し込んだ。
(喉を切るなど)
その場にいる全ての者がそう思った。殺人罪だと。だが、喉に差し込んだチューブから少しの血しぶきが上がると、先ほどまで苦痛に歪んでいた陛下の顔が穏やかなものに変わった。
ほっとしたように額の汗を拭った幼女は、マジックバックから更に透明なマスクを取り出した。マスクの先にはチューブが繋がっている。そのマスクを陛下の喉に入れたチューブの先にあてると、更に陛下の呼吸は楽になったように見えた。
「フィオナ。……陛下のご容体は?」
「まだ余談は許しませんが、呼吸停止の危機は免れました」
呼吸が止まればいずれその命は尽きる。そんなことはガブリエルも知っている。ほっと一息ついたそのとき。
「ですが、根本的な解決には至っていません。この気道閉塞は、拒否反応です。ここ2週間ほどで陛下の口に入る内服薬や食べ物で心当たりはありませんか」
しんと静まりかえった中、「はっ」と一人の侍医の吐息が漏れた。
「何か思い当たることがあるのか?」
厳しい目でガブリエルが問い詰める。見つめられた侍医は恐怖におののき歯をガタガタと震わせ、余計に会話ができなくなった。
「公爵閣下、そのような怖いお顔をなさらないでください。どんな食物や薬にも効果があれば副作用もあります。例外なく、ここにおられる侍医さま方は、副作用を考慮してなお、効果の利点が上回るとお考えになったから、それを陛下にお与えになったのだと思います」
「では、君は、その副作用に耐えられなかった陛下の御身に問題があると言いたいのか?」
「いえ、そうではありません。人の体調はその時々で違うものです。昨日何事もなく食べられたものでも、今日は受付ない。そういうことはままあるものです」
「その言葉に偽りはないだろうな……?」
「侍医たちを庇うための発言ではないだろうな?」と言いたげにガブリエルの瞳に力が込められたが、今はそれどころではない。
「本当です。それよりも今はこのような問答をしている時間はありません。侍医さま方は思い当たる薬剤、食物をあぶり出してください」
そう言って、陛下に視線を戻すと、フィオナは針を陛下の腕に刺した。ポタポタと陛下の血が流れる。そこに薬剤の入った袋、その袋から繋がる管を接続した。
「それはなんだ?」
「これは拒否反応を和らげるお薬です」
このような状況に至る前に侍医が気付いていれば、問題となる薬を中止するだけで済んだはずだ。侍医たちも相手がこの国の頂点であるがゆえに、体の隅々まで確認をするのは難しかったのかも知れないし、陛下に自覚症状がなかったため発見が遅れたのかもしれない。
過ぎたことを問い詰めて侍医たちが解雇されるような状況になるのは悪手だ。なし崩しにフィオナが主治医にされてはたまらないし、侍医と陛下の間の信頼関係も形成されているだろう……と思いたい。
何はともあれ、フィオナはやるべきことはやった。ここまですればあとは経過観察と時間毎の薬の投与だ。注射針は柔らかい素材でできており、陛下が腕を動かしたところで血管が破れることも抜けることもない。
陛下のことは侍医たちに任せればいい。
フィオナは時間毎の薬剤の投与法を教えた。
「この薬は陛下の拒否反応を和らげる薬です。先ほど思い当たる薬を教えてくださいましたが、その中だと、拒否反応が現れやすいのはこちらの薬。他のこれらは拒否反応の出現が2%以下ですし、それらの薬剤での拒否反応はまた別です。ですので投与は継続で大丈夫です」
老人に近い侍医たちに8歳くらいにしか見えない幼女が指南しているのはなんとも不思議な光景だが、事実、陛下の命を繋いでいるのは見た目幼女のフィオナだ。誰もがフィオナの教示を素直に受け入れた。
「さぁ。公爵閣下。私の役目はこれでおしまいですよね?」
やりきった顔で笑むフィオナの幼い顔が、ガブリエルには何故か年相応の大人の女性に見えた。




