ごはん
「タリー! 起きてよ!」
「うぅぅん?」
「うーんじゃないよ! 今日仕事なんでしょ? クロエさんが起こしてきてって!」
うっすらと開けた視界にぼんやりと漆黒が移り、がばっと起き上がったタリーは口の周りを腕でおさえた。
(ヨダレたらしてないよな……)
ベッドの横で座るフィオナは、タリーの頭をぽんぽんした。
「ごはんできたって」
「……分かった」
頭を撫でるフィオナの手を払いのけるように腕を回す。ふふっとフィオナが笑んだ。
「おはようのチューは必要ですか?」
「ばっ! いらねーよ!」
フィオナがタリーにとって特別となったのはいつからだっただろうか。タリーはもう思い出すことができない。
突然の父の不調。生命の危機さえ感じる不調の中でタリーは走って走って走って。ようやく辿り着いた治癒院。出てきたのは幼女。
父の回復を諦めるしかないと。そう思った。だけど、その幼女――フィオナはいくつか質問するだけで手早く薬草を煎じ、アダンの回復と治療薬を提供した。
この国では見ない色を持つフィオナ。濡れ羽色の艶めいた黒髪に、潤んだ漆黒の瞳。幼女にしか見えない彼女は関わるほどに年齢相応の気概を見せつけた。いや、実年齢以上の。
患者に欺かれたり軽んじられたりすることのないよう、取り立てにまで赴く始末だ。護衛として駆り出され、治癒師としてのフィオナだけではなく、それ以外のフィオナの本質を知った。
しがらみができるのが面倒だから嫌だと、貴族の往診には俺を必ず同行させるくせに、決して患者を見放したりはしない。最善を尽くしているのが、医術に対してのなんの知識もない俺にも分かる。
最初はそのギャップに興味を惹かれたのだったとタリーは考える。幼気な見た目にも関わらず、思考や能力は同世代の女性とも異なる。
症状を伝え、問われる質問は、最小限なのだろうと。その最小限の質問に答えただけで、的確に症状に効果のある薬を煎じる才覚。薬で抑えるだけの、その場しのぎの治療にとどまらず、父が安念に暮らせるように自宅の環境も整えてくれた。
伯爵のせいでできた公爵との縁。フィオナの考えは分からないが、丁寧に今後の生活を送る上での注意点を述べていく彼女を見れば、なんの下心もなく、ただ純粋に公爵を助けたいのだと感じた。
薬の受け取りを部下に頼んだら、本人確認ができないため父の薬は渡せないという。であればと、傭兵団隊長の印を押して部下に持たせるが、その印が確かなものか出自がこの国でない自分には分からないと、またしても手ぶらで帰される。仕方がないので母に頼むと渋々薬を渡してくれたと。
これはもう、俺に会いたいのだなと内心ほくそ笑んでいたが、その後に会って分かった。護衛をしてほしかったのだと。
本当にフィオナには振り回されっぱなしだ。だけど、それも楽しく、なんなら嬉しいと思ってしまうこの気持ちは……父が言うように、惚れているのだとタリーも思う。
「手を出すなよ」
そう言った父に「そんなこと考えてもない」と返事した。その言葉に嘘偽りはない。タリーは傭兵をしているだけあって屈強な体をしている。こんなごつい体で、8歳くらいにしか見えないフィオナをどうこうなどとは思わない。そんな自分を想像したら犯罪臭しかしない。
タリーとて今まで女性に縁がなかったわけではない。そういう経験もある。だけど、だからこそ、幼い容姿のフィオナに手を出そうとは思わなかった。想像するだけで罪悪感がすごい。いづれ大人の容姿になったら、そのときは気持ちに変化があるかもしれないが、今は思うだけで十分幸せだ。
タリーの今までの女性関係というと、何故か好意を持たれ、アプローチ後告白され、タリーにとっても憎からず思っていた相手だったため付き合い、やがて男女の関係となった1人の女性だけだ。
このまま結婚するのかとタリーは思っていたが、なんの前触れもなく女性の方から別れを告げられた。別れたいのなら仕方がないとタリーは了承した。
その経験がタリーにとっての“恋”だった。
だけど、フィオナに出会って感じた。これが本当の“恋”なのだと。どんな理不尽に思えても求めてもらえることが嬉しく、笑顔を見られたら、その日は一日幸せに過ごせる。
小さな手で手際良く料理するフィオナ。調合時と同じくらいの真剣な眼差し。見たこともない料理。嫌いなピーマンをしれっと調理して報復しようとする悪戯なところも、食べたことのない味のクリームを何の気なしに出すところも。風の魔法で竜巻の中心になったのだけは正直怖かったけど。言ったところでフィオナが必要と判断すればタリーの思いなど考慮にいれず、何度でも竜巻の中心にされるだろう。
でも、それでもいい。それでいい。気兼ねなしにありのままで。いつかフィオナにとってかけがえのない存在になれたらと。
この胸の中心に灯るぬくもりを、じっくり時間をかけて育てていきたい。できたら、フィオナの心にも同じように、この灯火が宿ればいいと。
******
「おっ隊長! 今日は弁当っすか? 珍しいっすねー」
「これなんですか? 見たことないんですけど」
「誰に作ってもらったんですかー!」
早朝訓練が終わり、傭兵団の食堂でタリーが弁当を広げると、団員が定食片手に集まってきた。それもそのはず。いつもならタリーも食堂の定食を食べていたのだから。
今日はなぜか母がフィオナに弁当を作らせていた。フィオナが言うには「私が作るといつも同じメニューになってしまうから、治癒師さまの故郷の弁当を見てみたい」と強請られたそうだ。
フィオナはタリーには厳しいが、タリーの両親には優しい。タリーにとってそれは自分には心を開いてくれている証のようにも、自分だけないがしろにされているようにも感じ、嬉しくも不愉快でもある。
ただクロエはタリーの味方のようだ。朝から作ったこともない弁当の相談をしてフィオナにタリーの弁当を作らせていたのだから。
「あぁ、ちょっとな」
「ちょっとなって! なんすかぁ? まさか女?」
「また変な女に言い寄られてるんじゃないでしょうね? その弁当異常ないか調べましょうか」
フィオナとタリーの関係を説明するのは難しい。お泊まりや護衛がなければ、治癒師と患者家族といったシンプルな説明で済むが、タリーの希望的観測を含めなくてもそれ以上の関係になっていると思う。
だからと言って知人というと遠い気がするし、友人といってもピンとこない。故に濁した返事になったわけだが、部下に心配されてしまった。
無理もない。タリーにとっては今まで女性に好かれたことなどただの一度だけという認識だが、実際はタリーが気付いていないだけで結構なアプローチが各方面から届いている。タリー以外はみんな気付いているが、なまじ真面目で純粋なため会話を深読みしないタリーは気付かない。
部下たちが弁当の異常を調べるよう勧めたのは訳がある。以前、タリーを慕っていた娘が弁当の差し入れをした。ありがたく受け取ったタリーはその後、酷い腹痛と下痢症状に見舞われた。人の好いタリーは男爵令嬢を決して疑うことがなかったが、部下はピンときた。当時、両思いになるまじないに、自身の一部――爪の煎じたものや、垢、唾液などを片思い相手に食べさせることが流行っていたのだから。
部下はその娘を問いただし、何を入れたか問うた。幸いその娘は自身の一部を入れることはしなかったが、市場で売っていた惚れ薬をしこんだらしい。その娘が踏みとどまった理由は「だって、私の一部を入れて、お腹を壊されたりしたら耐えられないもん!」だった。
なににせよ、人の一部を食すことなく済んだタリーであったが、問題はその惚れ薬。動悸やほてりを誘発する薬だそうだ。その相手といることでドキドキして顔が紅潮するため、相手のことが好きだと思い込む効果があると。
幸か不幸か、タリーはその薬を全く受け付けない体質だったため、体が拒否反応を示し、早くに体外に排出しようと、酷い下痢に見舞われた。
タリーはその弁当の事実ごと知らない。部下たちも真実をつきつける気にはなれなかった。
しかし、それがきっかけで、団員たちは思ったのだ。
『歪んだ愛情からこの純粋なお方を俺たちが守らねば!』
そんな部下たちの考えを知るよしもないタリーは、なぜ弁当の異常の調査が必要なのか首をひねるばかりだ。
「いや、これは、知り合い? が作ってくれたものでな。見たことがないのは彼女が母に強請られて故郷の料理を作ってくれたからなんだ」
今にも訳の分からない薬品を弁当に振りかけられそうになり、タリーは慌てて弁当に蓋をかぶせた。
女の敵は女というように、女の女を見る目は厳しい。息子の相手として見ているタリーの母公認ならば、その娘は信用できるだろうと部下たちは思った。そうと分かれば次に沸くのはただの興味だ。
「……彼女? 隊長! もしかして結婚されるんすか?」
「どんな子なんですか? 自分見てみたいです!」
「母とって、もう家族公認……」
「いや、結婚なんてどんでもない! 彼女は、その、なんていうか、まだ幼いし、その……」
「……放っといてくれ」と顔を赤らめて隊長がそう言えば、部下たちはそれ以上何も言えなかった。ただただ、微笑ましい。至上最年少で隊長になったタリー。武力や人柄は尊ぶべき存在だが、この年下の上司を愛さずにはいられない。
「隊長、一ついいですか?」
「なんだ?」
「その、茶色いのなんですか? どんな味がするんですか?」
「ん? あぁ。俺も食べたことがないから分からないな」
タリーの食べるところを部下たちがじっと見つめる。居心地の悪さを感じながら、肉とじゃがいも、人参の煮物を口に入れた。
口に入れたらほぐれてなくなるじゃがいも。肉はジューシーで甘塩っぱい味付けが癖になりそうだ。
恍惚と咀嚼するタリーをみれば、その茶色の何かが美味しいのだろうというのは誰の目にも明らかだった。ゴクリと誰かの喉がなった。ヨダレを垂らすものまでいる。
「……よかったら」
「ありがとうございます!」
「すんません、一口だけ!」
「自分のこれと交換でお願いします!」
タリーが一口、その場にいた部下4人も一口食べれば、あの甘塩っぱい煮物はなくなってしまった。もの悲しい気持ちになったタリーだが、フィオナの手料理を美味しく食べてもらえたのは誇らしい気もした。
「あの、ちなみにその、クリームがかかったブロッコリーとえびと卵? はどのような味なんでしょうか?」
「自分も興味あります」
「そのようなクリームは初めてみます」
またしても衆人環視の下、和え物……フィオナはこのクリームをマヨネーズと呼んでいたか。を食べることになる。
卵とマヨネーズが絡んだクリームが茹でたブロッコリーとえびに絡んでなんとも口の中が幸せになる。昨日出会ったばかりのこのマヨネーズとやらは、こんな風にも姿を変えるのか。時折、ピリッとした胡椒が効いて、いくらでも食べられそうだ。
あまりの口の中の幸せに、それだけに集中してしまっていたタリーはハッと視線を辿る。一つだけではない視線を。眉を寄せて嫌そうに彼らを見るが、期待に満ちた目で見つめられるばかりである。
「……もしよかったら……」
お人好しのタリーはついそんな言葉を発してしまう。マヨネーズの作り方は教えてもらったからタリーも作れる。
「いいんすか」
「待ってました!!」
それ以外の弁当の具材もあっという間になくなってしまい、タリーは結局、罪悪感を持った部下たちにいつも通りの定食を奢られて食べることになったのだった。
(これもまずいわけじゃない。だけど……だけど……!!)
「また作ってもらえたらご相伴させてくださいね!」
言葉を返せないタリーだった。




