秘密の入り口
右に左にどこをどう走ったのか、サムルクたちは慌ただしく迷宮の中を突っ走ていた。
途中、通路の陰から不意にヌメついた触手のようなものが飛び出してきたが、全力で走っていた三人は、間一髪でその得体の知れない触手から逃れることができた。
そんなことがあった後、アヴェスタはこのまま走り続けるのは危険だと気づき、サムルクの服を引っつかんで走るのを止めた。
「もう大丈夫だよ、あいつらには見つからない」
サムルクは息も絶え絶えに、肩で息をしながら女盗賊に尋ねた。
「なんで……」
アヴェスタはサムルクほど疲れていない様子で、一度呼吸を整えてから、「私はアヴェスタ。あいつらに雇われてただけの鍵師だよ。あいつらの仲間でも何でもないから安心してよ」そう言いながら、逃げ出す前についでに持って来てくれていた、サムルクのナイフや水袋を返してくれた。
「いい加減あいつらにはうんざりしてたんだ。さっさととんずらしてやろうって思ってたときに、丁度あんたが現れたってわけ」
アヴェスタから荷物を受け取ったサムルクは、そこで思い出したように、急いで背負っていた鞄の中身を確認し始めた。
逃げ出す際、床に散乱した物を適当に突っ込んだ鞄の中は、大切な食料やランタンの油などと一緒に、薪の破片や鉄くずなどがごちゃまぜになって入っていた。
しかし、サムルクはそこにどんな物が入っていようと、ぼろ布に包まれた枝がたった一本あればそれで充分だった。
サムルクが逃げ出したとき、布から飛び出したガオケレナの枝を、確かに鞄に押し込んだつもりでいたが、それをもう一度確認するまでは安心できなかった。
アヴェスタは、突然ヒステリックに鞄の中身をひっくり返すサムルクを見て、「あ~……残念だけど"退魔のお守り"は取り返せなかったんだ。アーリマンのやつが大事に握ってたもんだから……」と申し訳なさそうに言った。
それを聞いたのと同時に、サムルクの手が止まった。
サムルクは、無造作に放り込まれた荷物の底に、白くか細いガオケレナの枝が横たわっているのを見つけて、胸を撫で下ろした。
確かにシルプヘップ婆さんから預かった、大切なお守りを奪われてしまったことは悔やまれたが、ガオケレナの枝までも奪われなかったことは不幸中の幸いであったろう。
それから、サムルクはあらためてアヴェスタに向き直ると言った。
「助けてもらったのに、お礼も言わないでごめんなさい。僕はザラスシュトラのサムルクです。助けてくれてありがとう」
その時、アヴェスタの後ろでしおらしく控えていたフラワシも見つけ、「ありがとうなフラワシ。まさか助けに来てくれるなんて思わなかったよ」と声をかけた。
フラワシは、「すぐに助けられなくてごめんよ……」と申し訳なさそうにしていたが、サムルクは、「助けに来てくれただけで嬉しいよ」と心からの感謝を伝えた。
「それで? 一体あんたたちは何だって、こんなデーンカルドの下層なんかにいるのさ? それにフラワシとかいうあんたって……? 妖精か何かなの?」
アヴェスタの質問は当然だったが、サムルクは何と答えていいものか、アヴェスタのことをどこまで信用していいのか分からなかった。
サムルクが、アヴェスタの質問にどう答えるべきか迷っていると、フラワシがサムルクよりも先に話し出し、「おいらはおいらさ! サムルクの友達だ!」と元気よく言い放つ。
しかし、アヴェスタがその返答に納得するはずもなく、「友達なのは分かったけど、あんたの種族は何かって聞いてんの!」と鋭く聞き返した。
フラワシは、アヴェスタの言葉に威圧され、サムルクの後ろに隠れながら、自分が「フラワシ」であること以外わからないとでもいうように、「お、おいら……フラワシ……」と、それだけつぶやいていた。
「まさか自分が何者かもわからないなんて言うんじゃないでしょうね?」
そんなフラワシとアヴェスタのやりとりを見ながら、サムルクは、「迷宮の内庭」のことと「ガオケレナを見つけた」ことは黙っておいて、母の病気を治すために、伝説の樹ガオケレナを探しに来たということだけを告げた。
フラワシとは、「とある草原」で出会って友達になったと話し、その場所の詳細などはあえて明かさなかった。
――まさかこの迷宮の中に、草原があるなどとは思いもよらないだろう。きっとアヴェスタは、地上のどこかの草原で僕とフラワシが出会ったと思うに違いない。
サムルクはそう考えた。
アヴェスタは、たどたどしく話すサムルクが、何かを隠しているのは察しがついたが、執拗にそれを詮索することはしなかった。
なぜならアヴェスタ自身が、「初対面の相手に全てを打ち明ける奴はよっぽどの馬鹿だ」という考えを持っていたからでもあった。
母親のためとはいえ、無謀にも、この迷宮へ命を捨てに来たサムルクが善人であることは間違いない。
今はそれだけ分かれば充分だろう。
「なるほどね……、まったく無茶したもんだよ。あんなデタラメ話を信じてこんなところまで潜ってくるなんて……」
そう言うアヴェスタに、何かを言い返そうとするフラワシの口をサムルクは慌ててふさいだ。
アヴェスタは、モガモガと何を言いたいのか、サムルクに口をおさえられているフラワシを見ながら、(――もしもこいつがサムルクのことを騙してこんなところまで連れてきたのなら、わざわざ危険を承知でサムルクを助けたりしないか……。)と考えて、この謎めいた妖精もひとまず信用することにした。
「とにかくこのへんてこりんのフラワシが、迷宮の道に詳しいってわけなんだね? ガオケレナが見つからなかったのは残念だろうけど、もうこんな息苦しい墓穴からはさっさとおさらばしようじゃないか」
それを聞いたフラワシは、サムルクの顔を見て、「鍵屋のアヴェスタも一緒に連れていくのか?」と尋ねた。
すると、サムルクが答えるよりも先にアヴェスタが、「鍵師だよ、おばかさん。当然あたしもついて行っていいだろ? 正直いうと、こんな下層まで下りたことがなかったから、一人で戻るには骨が折れるなって思ってたんだ」と打ち明けた。
サムルクからすれば、自分の命の恩人でもある、頼れる冒険者からの申し出を断る理由などあるはずがない。
「もちろん! 冒険者のアヴェスタさんが一緒に来てくれるんなら、僕も助かります!」
サムルクがそう言うと、アヴェスタは「プッ」と吹き出した。
「アヴェスタさんだなんてやめてよ! あんた意外と育ちがいいんだねサムルク! 呼び捨てでいいよ!」
アヴェスタは、サムルクの肩をパンと叩いてからかった。
サムルクは、なんだか恥ずかしくなって、「じ、じゃあ案内をたのむよフラワシ。ここがどこだか分かるかい?」と、すぐに話題をそらした。
「もちろんさ! おいらにまかせときな! あっという間におてんとうさんの下まで連れてってやらァ!」
そう自信たっぷりに、フラワシは先頭切って真っ暗な迷宮をのしのしと歩き出す。
夜目の利かない二人は、暗闇に消えていく案内人を見失わないよう、ランタンをかざしながらその後を追いかけた。
*
「ちくしょう! あのガキぶっ殺してやる!」
ダハーカは左手であごを押さえながら、鞄をかきむしるようにして、荷物の中に隠し持っていた金貨の詰まった革袋を探していた。
その横で、アジーもガンガンと痛む頭を振りながら、同じように自分の荷物をひっくり返している。
「だからあの女は信用できねえつったじゃねえか……」
そのアジーの言葉に、ダハーカは怒り心頭で怒鳴りつける。
「おめえの『信用できねえ』は毎度のことだろうが! そういうことは先に言えってんだ、ちくしょうめ!」
アヴェスタが、去り際に蹴り飛ばしたランタンから油が漏れ出たことで、一時は部屋の床から炎が上がり、哀れな盗賊たちは、荷物の中にあった毛布や外套などを使ってその炎を消火した。
火事で部屋中に充満した煙は、幸いなことに時間が経つにつれ、綺麗さっぱりどこかへ流れて消えた。
それはおそらく、この部屋を作り上げた職人たちの、見事な仕事の賜物であっただろう。
しかし、煙が晴れた後の部屋はススにまみれて真っ黒だった。
そして、迷宮では命綱ともいえるランタンは、はめ込まれていたガラスが粉々に割れ、アヴェスタの蹴ったところもしっかり歪み、修理なくして使える状態ではなくなっていた。
今は、アーリマンが壊れたランタンの代わりに、杖の先に魔法の光を灯して、部屋の中を照らしていた。
「くそったれ! ご丁寧にランタンもぶち壊していきやがって! あの女、絶対に見つけ出して八つ裂きにしてやる!」
ダハーカは癇癪を起して言った。
そんなダハーカの怒りの炎に、わざわざ油を注ぐかのように、「見つけるまでにゃあ、俺らの銭っこは泡みたいに使われて、どうしたって後の祭りってなもんだ……」とアジーがため息まじりにぼやいた。
「うるせえ! ごちゃごちゃぬかしてんじゃねえ!」
ダハーカは自分の鞄をアジーに投げつけ、怒りのあまり床を何度も踏み鳴らした。
間抜けな盗賊たちの会話を冷めた目で見ていたアーリマンは、擦りむいた鼻を撫でながら言った。
「あんた達はまだ分かっちゃいないのかい。あの娘に取られた金貨なんて、まったくどうでもいいことだろうに……」
それを聞いたダハーカは、怒りの捌け口を見つけたといわんばかりに、アーリマンへ食いかかった。
「俺たちが汗水たらして稼いだ銭っこをどうでもいいたあ、どういう訳だいアーリマンさんよ!」
ダハーカは、吹けば飛ぶようなアーリマンを引っつかんで殴り飛ばす勢いでいたが、アーリマンはそれに動じるでもなく、「お前たちは、もう財宝のことを忘れたのか? 一体何のためにこの迷宮に入ってきたと思っている?」とダハーカの手を払いのけながら不愛想に言った。
ダハーカはそれを聞いて、「忘れるわけはねえだろう、あんな大蜘蛛の化け物を! こっちは二人もやられてんだぞ!」と言った。
アジーも続けざまに言った。
「そうさアーリマンの旦那。財宝があるにしたって、あそこを根城にしてる化け物蜘蛛を、どうにかしねえことには金貨一枚だって取れりゃしないぜ」
アーリマンはそれを聞いて、「まったく……あきれたやつらだ」と濃淡のない表情で言うと、手に持っていた大鷲の首飾りを二人に見せた。
「お前たちは、まだこの"退魔の首飾り"の圧倒的な力が分かっていないようだな」
アーリマンという魔法使いが、何の確信もなく言葉を操る男ではないことを知っていた二人の盗賊は、黙りこくって目の前の骸骨男と、その手から垂れ下がった"退魔の首飾り"を交互に見つめた。
「まさか……それ……あんな化け物でも効き目があんのかい……?」
二人の盗賊は、瞬時にアヴェスタに奪われた金貨のことなどさっぱり忘れ、いつしかその目にぎらぎらと強欲な光を宿し、口元を笑みで歪ませていた。
*
同じ頃、サムルクの心臓はこれまで経験したことがないほどに、激しく鼓動していた。
暗闇の中、サムルクの少し手前を巨大なトカゲ人間が、たくましい尻尾を振りながら、後ろ足だけで歩いて通り過ぎていく。
サムルクは、かつて牧草地で群れからはぐれた狼と対峙したことがあった。
しかし、そのときの恐怖とはまるで比べ物にならない。
その時は相棒のリヨンがそばにいてくれたおかげで、なんとか乗り切ることができたが、この怪物の前では、たとえ勇敢なリヨンでも尻込みしてしまうだろうと思った。
サムルクは通路のものかげで、自分の体とは思えないほどその身を震わせながら、できるだけ息を殺して身を隠していた。
それからトカゲ人間をやり過ごした三人は、そのあとしばらく充分様子をうかがってから、ようやく一息ついた。
「やれやれ……フラワシが早めに気付いてなかったら、あのリザードマンに襲われるところだったね」
アヴェスタが、小さくしぼっていたランタンの炎を元に戻しながら言った。
サムルクは、シルプヘップ婆さんが持たせてくれた、お守りの偉大な効果を今になって噛みしめていた。
そして、また気を取り直して再びフラワシについて行こうとした矢先、アヴェスタがフラワシに質問を投げかけた。
「フラワシ、あんた本当に道が分かってるんだろうね? ずっと迷宮の底に向かって歩いてないかい?」
それはサムルクも前から感じていた疑問だった。
「そうさ? だって底に向かってるんだから」
フラワシは、さもあたりまえだというように二人に言ってのけた。
それを聞いた二人は驚いて、そしてフラワシに恐怖を感じずにはいられなかった。
「だ、だって君は、僕らを地上に案内するって言ったじゃないか!」
サムルクはもう少し冷静に喋るつもりが、思わず大きな声を出してしまったことに自分も驚きながら、フラワシに問いかけた。
それから、サムルクよりは少し落ち着いた口調でアヴェスタが言った。
「やっぱりあんたは私たちをだましてたってわけかい。なんてこった、あたしとしたことがまんまと引っかかっちまったよ」
そんな二人の言葉を聞いて、フラワシは天をあおぎながら言った。
「おいおい人間! おいらがお前たちをだましたりするもんか!」
そして、やれやれと首をふりながら、再び暗闇の中に背を向けて歩き始めた。
「お前たちは、こんな地面の底から這い上がるのに、一体どれくらいかかると思ってんのかね、まったく……。そんなんじゃ、空の下に着くまでに命がいくつあっても足りやしないってんだ……。はぁ……、人間てやつは……、いつまでたっても目の前のことさえ見えちゃいないんだな……」などとブツブツ言っている。
サムルクは、今まで助けてくれたフラワシを疑ってしまったことを後悔し、急いで後を追いかけた。
「ごめん……君のことを疑ったりして……。だけどなんだって地上に戻るのに下に降りていくんだい?」
フラワシは、サムルクに疑われたことをさほど怒っている様子もなく、「そりゃあ"フーム様"に会いに行くためさ」と答えた。
「フーム様?」
「そうさ、フーム様に"太陽の門"を開いてもらうのさ! そうすりゃまばたきしてる間に空の下だ! フーム様はいつでも迷宮の外にも行けるし、他にも、もっと凄いことが出来るんだぜ!」
フラワシは誇らしげにそう言った。
それを後ろから聞いていたアヴェスタが口をはさむ。
「なんだ、そういうことなら早く言やあ良かったのに」
フラワシはそれを聞いて、「聞かれりゃいつでも話したさ!」とアヴェスタにやり返した。
「そのフーム様は僕らなんかのために、その"太陽の門"を開いてくれるのかい?」
サムルクは、フーム様がどんな凄い力を使えたとして、果たして自分たちにその力を使ってくれるのかと心配になった。
「ははは、人間と違ってフーム様はそんなけちんぼじゃないから安心してろって!」
そう言うとフラワシは、何の変哲もない石壁の前で足を止めた。
「どうした? へんてこりん?」
いつの間にか、フラワシのことをそう呼ぶようになっていたアヴェスタが声をかける。
するとフラワシは、二人の方をふり返り、得意気に笑ってからもう一度石壁へ向き直った。
それから、おもむろにその壁に張りついた石のいくつかを、力を込めて押し始めた。
フラワシに押された石たちは、「ズズズ……」と重い音を立てながら、次々と奥へ引っ込んでいく。
気づけば、フラワシの押していない石までも、まるで生きているかのように次々と壁の奥へと沈んでいる。
そして見る見るうちに、石壁だったその場所に、大男でも通れるほどの大きな通路がぽっかりと姿を現した。
サムルクたちがその光景に驚いていると、フラワシは「へっへっへ、驚くのはまだ早いぜ!」と嬉しそうに言いながら、石壁にできた通路の奥へと伸びる階段を降りていく。
サムルクとアヴェスタも、フラワシの後に続き、その秘密の入り口をくぐった。
二人が秘密の入り口をくぐった瞬間、草花のいい香りが押し寄せてきた。
アヴェスタはその香りを嗅いで、「なにこれ……いい匂い」と声を漏らす。
サムルクは、すぐにそれがガオケレナの樹が生えていた、内庭で嗅いだ香りと同じであることに気づき、あのオアシスのような場所は、あそこだけではなかったのかと心を躍らせた。
あんな綺麗な景色を、もう一度見られるなんて思いも寄らなかった。
アヴェスタもきっと驚くに違いない。
サムルクたちが気持ちを高ぶらせながら階段を降りていると、後ろからさっきと同じように、「ズズズ……」と重い石の動く音が聞こえてきた。
どうやら秘密の入り口が、ひとりでに、またただの石壁に戻っているようだった。
「この秘密の入り口を見つけないことには、誰もフーム様には会えないのさ」とフラワシが教えてくれた。
草花の香りを嗅いで、興奮している様子のアヴェスタは、階段の下から差し込む明かりを自分が一番に見つけたというように、「見てみなよサムルク! 明かりが見えるよ!」と指さした。
二人の楽しそうな様子を見て、嬉しくなったフラワシが、「さあ、もうそんなランプなんていらないぞ!」と言うが早いか、二人を残して階段を一気に駆け降りはじめた。
それを見た二人も、階段の下にどんな景色が広がっているものか、早く見たくてフラワシを追いかけた。
サムルクは、まだ地上に戻れたわけでもないのに、もうすっかり全てが解決したような気持ちになって、階段の下から差し込む光に向かって笑いながら駆け下りていた。