孤独な冒険
母クスティが目を覚まさなくなってから、三日目の早朝。
サムルクは、牧草地の先にある森を抜け、その奥に切り立つ崖の下にいた。
薄暗かった東の空が白みはじめ、木々のすき間から、徐々に三日月が空の中に溶けているのが見える。
崖の下にぽっかりと開いた穴は、前にサムルクが見つけたときのままだった。
本当なら、サムルクは昨日のうちに迷宮に入るつもりでいた。
しかし、寝不足のために体力が落ちていたサムルクは、少しだけ仮眠を取ることにしたのだが、目覚めたときにはすっかり夜になっていた。
はじめのうちは、迷宮の中はいつでも暗いのだから、夜に潜っても同じだろうと考えていた。
だが、夜中の迷宮で出くわす魔物は、昼間よりも凶暴だという噂を思い出し、わずかであれ、危険をさけるために早朝から迷宮へ潜ることにしたのだった。
昨日の朝、牧草地から急いで帰ったサムルクは、シルプヘップ婆さんに、「街のお医者様の手伝いをしたら、少し薬を分けてくれるというから二、三日留守番をお願いします」と伝えた。
しかし、お婆さんは牧草地に行ったばかりのサムルクが、急いで帰って来るなり突然そんな話をしはじめたので、サムルクの作り話をまるで信じていないようだった。
それでも、お婆さんはサムルクにあれこれ詮索したりしなかった。
「危ないことだけはするんじゃないよ」
それだけ言って、後はサムルクの旅支度を一緒になって手伝ってくれた。
そしてお婆さんはサムルクが出発する前に、「これはあたしの家に代々伝わる強力なお守りだから、きっとあんたを守ってくれるはずさ」と言って、大鷲の首飾りをサムルクに手渡した。
それは、シルプヘップ婆さんがいつも首から掛けていたお守りだった。
「ちゃんと帰ってきたら返すんだよ」
サムルクに手渡しながら、お婆さんは心配そうな顔をして、釘を刺すように言った。
きっとお婆さんは遠回しに、「無事に帰ってきなさい」と言っているのだろうとサムルクは思った。
そして明け方、日が昇るのを待たずに、サムルクは愛犬リヨンとお婆さんに見送られ、まだ暗い夜明け前の道をランタンで照らしながら家を出発した。
サムルクは、お婆さんに旅の本当の目的を話さなかったことに罪悪感を感じていた。
しかし、デーンカルドの迷宮に入ってガオケレナを取ってくるなどと話したら、流石に引き止められたに違いない。
帰ってきたら、ちゃんとお婆さんに謝ろうと思いながら、サムルクは真っ暗な道をランタンで照らし歩いた。
崖の下の穴に到着したサムルクは、その迷宮の入り口をランタンで照らしながら、真っ暗な迷宮に足を踏み入れることに躊躇していた。
――迷宮に入って、もし望みのない挑戦だと感じたら、そのときに引き返してくればいい。挑戦もせずに諦めるのはなしだ。
サムルクはようやく覚悟を決めると、不気味な穴の中へ、一歩、また一歩と足元を確かめながら踏み込んでいく。
迷宮に入るとすぐに、カビや泥、それにすえたような臭いの混ざり合った、生暖かい空気がサムルクにまとわりついた。
道は左右に分かれていて、正面は石壁が行く手をさえぎっている。
壁と同じく、岩の敷きつめられた床は、サムルクの想像とは違ってかなり凸凹していた。
サムルクは異様な静けさの漂う中で、不快な空気の圧迫を感じながら、その場で耳をそばだてた。
しばらくの間、サムルクは目を凝らし、左右に伸びる通路の先を交互に見つめていたが、それからなんとか自分を励まして、とりあえず右手に伸びる道を進むことに決めた。
真っ暗な通路をランタンで照らしながら、サムルクは慎重に進む。
運動したわけでもないのに、額からうっすらと汗をかいた。
サムルクは、必要以上にランタンを前にかざしながら、相棒のリヨンがいてくれたらどれだけ心強かっただろうと考えていた。
それでもサムルクは、自分だけでなく、リヨンまで家を空けてしまったら、お婆さんが一人きりになってしまうと思い、リヨンを連れてはこなかった。
それに、考えたくもないが、もしかしたらこのまま無事に生きて戻れないかも知れない旅に、リヨンを巻き込むことはできなかった。
サムルクは、お婆さんに「二、三日で戻る」と伝えたが、はたして本当のところ、ガオケレナはどこにあって、そしてそこに行くまでどのくらい時間が掛かるのか。
何よりも、それは本当に存在するものなのか。
何もかもが雲をつかむような話だ。
確かなことは、この迷宮には恐ろしい魔物がひそみ、そして、いまだかつて誰一人として伝説の樹を見たものがいないということだ。
それでもサムルクは、母の病気を治すため、デーンカルドの奥地から流れてくるという「青草の香り」を求め、それだけを信じて進むしかなかった。
サムルクは目の前の暗闇を注意深く照らしながら、凸凹した通路をゆっくり進んで行くと、再び道が左右に分かれた通路へと突き当たった。
左の通路は下方向へ、それとは逆に右の通路は上方向へと伸びている。
サムルクはもちろん左に伸びる道を選び、またゆっくりと慎重に歩きはじめた。
途中、左右の石垣に分岐路が現れたが、サムルクはとにかく突き当たりまでは直進することにした。
まっすぐ歩き続けていると、暗闇の奥に青白い明かりが射していることに気づき、サムルクは慌ててランタンの灯りを消した。
――あの明かりは何だろう? 他の冒険者がいるのだろうか。それともヒト以外の『何か』だったら……? い、いや、もしも向こうにいるのが冒険者だとして、このまま進んで行っても大丈夫なのか? 僕のことを魔物と勘違いして急に襲ってきたりしないだろうか?
サムルクはその場に立ったまま、グルグルと思考を巡らせたが、結局のところ好奇心に動かされ、その明かりの正体を確かめることにした。
できるだけ音を立てないように、サムルクは通路を這うようにして、暗闇に射し込む明かりへと近付いていった。
徐々に明かりに近づくにつれ、サムルクの耳に、かすかな鳥のささやき声や、風の音が聞こえてくる。
それを聞いたサムルクは、もしかしたらあれは日の光じゃないかと勘づいた。
そうと知ると、サムルクの歩みはどんどん大胆になっていき、光の中を覗く頃には、ほとんど普通に歩いていた。
それでも念のため、サムルクは姿勢を低くして、そっと光の射す通路を覗いてみると、そこには清々しい青白い空が広がっているのが見えた。
四方は石垣に囲まれていたが、天井の吹き抜けた空から、心地よい朝日がサムルクを照らした。
サムルクが出てきたその場所は、二階建ての屋敷ほどの大きな広間だった。
真っ暗な迷路を歩き続けるものとばかり思っていたサムルクは、この吹き抜けの広間にたどり着いたことで、肩の力が少しだけ緩んだのを感じた。
――もしかしたら、冒険者たちはこの広間で待ち合わせをしたりだとか、集まって迷宮に挑む準備をしたりするのかも知れない。
サムルクは、なんだか自分も冒険者になったような誇らしい気分で、荘厳な広間を心なしか胸を張って歩いていた。
しかし朝が早いせいなのか、それともたまたまなのか、今は大きな広間に誰の姿も見当たらず、サムルクだけが一人ぽつんと取り残されたようだった。
サムルクは、誰もいないことに心細さを覚えて、コソコソと辺りを見回すと、これからどこへ進むべきなのかを見定めた。
広間には緩やかな段差がついていて、まるで迷宮の奥へとつづく道を示してくれているようだった。
サムルクはその緩やかな階段を下っていくと、大きな門が開け放たれていた。
門の両脇には、長槍と大盾を持った巨大な兵士の石像がすえられている。
門の奥を覗いてみると、石垣に吊るされたランタンの明かりが、延々通路の先まで照らしているのが見える。
サムルクは、それを見て少しほっとした。
何と言ったって、ランタン一つで暗闇の中を歩くことほど心細いものはない。
壁に備え付けられたランタンが、一体どこまで伸びているのかは分からないが、きっと組合が取り付けた物なのだろう。
組合費を払っていないことに心が痛みながらも、サムルクはザラスシュトラの冒険者組合に感謝した。
それからサムルクは、大門の石細工がとても芸術的だったので、しばらく周囲を見てまわることにした。
門の両側に立つ巨大な兵士もさることながら、門の上に飾られた、蛇をくわえて食べようとしている大鷲もそれは見事な石像だった。
その大鷲の上には燦々と輝く太陽が彫られ、そして大鷲の下に、おごそかな文字で「デーンカルド迷宮」と彫られている。
サムルクはその文字を読んで、思わず吹き出してしまった。
デーンカルドの迷宮はこの門の先からで、サムルクはまだ迷宮に足を踏み入れてもいなかったのだ。
入口の鼻先で、あんなにビクビクしていたのかと思うと、サムルクはなんだか情けなかった。
――それにしても、本当になんて立派な石像だろう。
そうしてサムルクが大門の石細工に見とれていると、背後の通路から金属がこすれる音が近づいてきた。耳を澄ますとガヤガヤと人の話し声もする。
どうやら冒険者の一行が、この広間にやって来ているらしかった。
サムルクは、冒険者たちに見つからないよう急いで大門をくぐり、壁に備え付けられたランタンの明かりを頼りに、早足で迷宮の奥へと歩きはじめた。
*
どれくらい経っただろう……。
サムルクは、いつしかまたランタンの灯りだけを頼りに、暗闇の中を歩いていた。
ランタンを持つ手のもう一方には、役に立つとも分からないナイフを握りしめ、目の前の暗闇に集中している。
実は少し前から足が痛みだし、サムルクはどこかで休憩を取りたいと思っていたが、辺りから聞こえる何かのうごめく音や、不気味な唸り声を聞くたびに、休憩を取る気も失せていた。
幸いなことに、サムルクは未だ魔物などには出くわしていなかったが、それでもサムルクの神経はどんどん削られ、意味もなく目の前の暗闇に向かって大声を上げてしまいそうだった。
しかしサムルクは、それをすることがどれほど愚かなことか、まだ理解できていた。
サムルクは、自分がどれだけ迷宮を潜って来たのか見当もつかなかったが、もはやここから引き返すには深く潜り過ぎてしまっていると感じていた。
なぜサムルクは引き返すこともできないようなところにまで、何時間もこの暗闇の中を進みつづけてしまったのか?
それには理由があった。
石壁に備え付けられていたランタンが途切れ、それからサムルクが再び暗闇の中をさ迷いはじめたときのこと。
暗闇の奥から聞こえる物音に言い知れぬ恐怖を感じ、得体の知れない何かが、今にも目の前の暗闇からぬっと現れるのではないかと想像して、サムルクの足はすくんでいた。
サムルクの心は、そのとき早々にポッキリと折れてしまった。
――引き返そう……。
サムルクは自分の軽率で無謀な旅を後悔し、おのれの未熟さに悪態をつきながら、冒険者組合が備え付けたランタンの吊るされた通路へと引き返した。
ところが、どこをどう間違えたのか、歩けど歩けどランタンの明かりが灯る通路へ戻ることができず、サムルクは真っ暗闇の中、必死に帰り道を探すという悲惨な状況に陥った。
サムルクはパニックになり、大声を上げて助けを呼ぼうとした。
しかし、そんなことをすれば、寄ってくるのは冒険者などではなく魔物だろう。
そう思い直してなんとか留まった。
サムルクはひどく動揺しながらも、とにかく上を目指して暗闇の中をさ迷い歩いた。
どこをどう通ったのか、サムルクは同じような道を通り過ぎ、心が絶望に満たされていくのを感じていた。
その時、ふいにどこからか、ほのかに爽やかな草花の香りが漂ってきた。
サムルクは立ち止まり、懐かしくさえ感じる、そのかすかな草花の香りを一心不乱に嗅いだ。
そして香りを捕まえたサムルクは、にわかに興奮し、その香りを見失わないよう、犬みたいに鼻を利かせて草花の香りをたどりはじめた。
――この香りこそ冒険者たちが嗅ぎ取ったという『青草の香り』に間違いない!
サムルクの眼は、そのことで一瞬にして光を取り戻した。
香りをたどればたどるほど、草花の香りはより強く、みずみずしく香り、まるでサムルクを誘っているかのようだった。
それからサムルクは、出口を探して暗闇の中をさ迷うのをやめ、休憩らしい休憩も取らず、ひたすら香りの強くなる方向へ歩きつづけていたのだった。
しかし、サムルクの限界は近かった。
足はジンジンと痛み、疲労のためか体が小刻みに震えている。
それでもサムルクは休む場所を探しながら、重い足を引きずって、ノロノロと青草の香りのする方へ歩いた。
歩みを止めて少し休憩すればいいのだが、サムルクは少し前からずっと何かに追われている気がして、その場に立ち止まることさえ躊躇していた。
しかし、ついに足がもつれたサムルクは、通路の真ん中に崩れ落ちた。
「もう……駄目だ……一歩だって歩けない……」
喉もカラカラに渇いていたが、水袋の中身はすでに空っぽだった。
全身にひどい脱力感を感じて、指一本も動かす気にはなれなかった。
サムルクは目を閉じて、そのまま眠ってしまいたかった。
そんなことをすれば、この暗闇から何が襲いかかって来てもわからないだろう。
しかしサムルクは、どこまで歩いてもたどり着かない目的地をあきらめて、こころざし半ばで全てのことを投げ出そうとしていた。
――どの道、はじめから伝説の樹を見つけるなんて無理な話だったんだ……。大体この青草の香りをたどって行って、本当にガオケレナにたどり着くことが出来るのか……? それも、もうわからない……。冒険者でもない自分が、こんな迷宮に挑んだこと自体無茶だったんだ……。
「それでも……ここまで結構がんばったよな……」
サムルクはそうつぶやきながら、家に残してきた母や、愛犬のリヨン、それにシルプヘップ婆さんの姿を思い浮かべた。
そして疲れ切ったサムルクは、火照った体をほどよく冷ましてくれる迷宮の床につっぷしたまま、涙がにじむその目をゆっくりと閉じた……。
「――サムルク!」
その瞬間、サムルクは誰かに名前を呼ばれた気がして、ハッと目を見開いた。
脈拍が上がり、その心臓の音を聞きながら慌てて辺りを見回すが、サムルクの周りには誰のいる気配もない。
辺りは相変わらず鬱々とした石壁が、サムルクを逃がさまいと取り囲んでいるだけだった。
サムルクは、さっきの声が幻聴だったと気づき、動悸がおさまるのを待った。
気持ちを落ち着かせながら、サムルクはさっき聞こえた野太い声が、ずっと昔に聞いた懐かしい父の声だったような気がして、心の中に少しだけ力が湧いた。
すると不意に、ランタンの炎が最後の力を振り絞り、ポッと音を立てたかと思うと、辺りは一瞬にして真っ暗になった。
おさまりかけていた心臓は再び激しく鳴りはじめ、サムルクは緊張で体を硬直させた。
そういえば迷宮に入ってから、一度もランタンに油をつぎ足していなかった。
サムルクは暗闇の中、急いで背負っていた荷物からランタンの油を探す。
その時、ふと通路の奥に違和感を感じたサムルクは、目を凝らして暗闇の中を覗き込んだ。
さっきまではランタンの灯りで気づかなかったが、よく見れば、前の暗闇から淡くかすかな光がこぼれているのが見える。
サムルクは、その光も幻ではないかと疑いながら、そのわずかな光を凝視した。
だが、その光が確かに存在すると確信したサムルクは、荷物の中から蝋燭とマッチを見つけ出すと、それから流れるような動きで蝋燭に火を灯し、その明かりを使ってランタンに油を注ぎ込んで、ランタンに火を灯した。
そして、サムルクは再び力を振り絞り、白い光のこぼれる暗闇に向かって、棒のようになった足を一歩、また一歩と無我夢中で突き出した。
サムルクは何度も転びながら、壁に寄りかかり休みながらも、ついに白い光の射し込む石垣の裂け目をくぐり抜けた。
石垣の裂け目を通り抜けてすぐ、サムルクはむせ返るほどの草花の香りと、目の前に広がる光景に圧倒されて、思わず感嘆の声を上げた。
そこには草原が広がっていた。
迷宮の地下深くにありながら、そこはまるで地上に戻ってきたのかと錯覚するほどに明るい。
四方は石垣で囲まれていたが、その石垣にも緑が生い茂っている。
草原は窪地になっていて、中ほどに小高い丘がある。
その丘のすぐ近くに小川が流れているのが見えた。
サムルクは、夢でも見ているような気分になって、草原を見渡しながら窪地の真ん中を流れる小川に向かってヨロヨロと歩きだした。
――あんなに綺麗な水なら、きっと飲めるはずだ。空っぽになってしまった水袋も満たすことができるだろう。
サムルクは疲れた足を引きずりながら、なんとか川にたどり着くと、ほとんど何も考えずに、ためらうことなく小川に手を突っ込んだ。
小川の水は、まるで牧草地の山から湧き出る清水のように冷たかった。
サムルクは、川に浸けた手の疲れがどんどん洗い流されているような気がした。
それから、サムルクは手ですくうこともせず、川に頭を突っ込むと満足するまで水を飲んだ。
渇いた喉に、たらふく小川の水を流し込む。
「ぶはァ!」
サムルクは水が体中に行き渡るのを感じた。
それと同時に、サムルクは目が覚めたような気分になって、これまでの疲れもまるで嘘のように消えたようだった。
サムルクは、小川の不思議な効能に驚きながらも、見上げた丘の上に目を奪われていた。
小高い丘の上には、奇妙に曲がった一本の樹が生えていた。
丘の周囲には、まるでその樹を讃えるかのように、地下迷宮には似つかわしくない植物の群れが生い茂っている――