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明け方の霧

 サムルクがデーンカルド迷宮へ挑む前日のこと。

 サムルクは首都ザラスシュトラの町はずれにある高原の牧草地にいた。

 なだらかな傾斜のついた牧草地の(いただき)にある腰掛け岩に腰をおろし、サムルクと牧羊犬のリヨンは羊たちが草をはむのを眺めていた。

 サムルクの隣りに伏せていたリヨンは、今にも泣き出しそうな顔をして眉間にしわを寄せている、サムルクを落ち着かない様子で見ていた。

 元気のない主人の様子を、心配そうにうかがっている相棒に気づいたサムルクは、リヨンの頭を撫でながら言った。

「大丈夫……きっと母さんは少し疲れてしまっただけだよ……」

 リヨンはそうして頭を撫でられながら、主人の横で鼻を鳴らす他にはなかった。


 そのさらに一日前。

 いつもの通り、サムルクは朝日とともに起き出して、庭の井戸から水を汲み上げると、台所にある貯水樽へと注いでいた。

 いつもなら、そこで母のクスティが朝食の準備をしていて、二人はいつも通りの素っ気ない「おはよう」の挨拶を交わすはずだった。

 しかし、その日は母の姿が見当たらなかった。

 サムルクは、そこに母の姿がないことを少し不思議に思ったが、今日はめずらしく寝過ごしたのだろうと考えて、母が起きて来るまでに朝食の準備をすることにした。

 戸棚から、パンとバター、それにチーズを取り出すと、サムルクは小さな(かご)を持って外へ出た。

 ニワトリ小屋を覗いてみると、卵が二つ転がっている。

 今日はちょうど二人分の目玉焼きを作れそうだ。

 サムルクは卵をそっとカゴに入れ、それから裏の畑に向かいキャタスの葉を数枚ちぎると、それも籠の中へ入れた。

 手慣れた様子で、淡々と朝食の準備をしていると、不意にリヨンが呼びかけてきた。

「バウッ!」

「おはようリヨン。悪いな、今日は母さんが寝坊したみたいだから、まだ朝飯はないよ」

 サムルクは笑いながらリヨンに言った。

 しかし、リヨンの慌てる理由が朝食の催促ではないことに気づき、サムルクはすぐに母の部屋へと走った。

 母の部屋のドアを叩いてみるが、何の返事も返ってこない。

 サムルクは急いで母の部屋のドアを開けると、母のクスティはベッドの上で身じろぎもせずに眠っていた。

「母さん……?」

 サムルクの心臓は、誰かに握られたように苦しくなった。

 こわばりながらも母に近づき、母の口元で耳をすましてみる。

 わずかながらに母の口から息のもれる音が聞こえ、サムルクは少しだけ安心すると、鼻先がツンと痛くなった。

 ――それでも、なぜ起き出してこないんだろう?

 サムルクは今度は母を揺さぶり、大声で呼びかけた。

「母さん? 母さん! 起きて!」

 揺する母はだらんと力なく、まるで魂が抜け落ちたかのように、ただ目を閉じて眠っている。

 サムルクは母の額に手を当ててみたが、特に熱があるようでもなく、むしろ冷たく感じるほどだった。

 これはただごとではないと感じたサムルクは、急いで隣の家(隣といっても百メートルほど距離がある)に住むシルプヘップ婆さんに助けを求め、そしてそのまま街の医者を呼びに走った。

 早朝に医者を呼びに走ったサムルクだったが、それからサムルクの家へ医者が訪れたのは、なんとその日の夕方のことだった……。


 小綺麗な身なりをした医者は、みすぼらしいロバの引く馬車に乗ってやって来るなり、サムルクの家をジロジロと値踏みするように眺めて言った。

「これで本当に診療代が払えるんだろうね……」

 家に入るときなどは、細かい刺繡の入った高級そうなハンカチで口元を覆い、あたかも汚い場所にでも入るように振る舞うのを見て、その横で医者の鞄持ちをしていたサムルクは、こんな医者に治療を任せて大丈夫なのかと感じていた。

 しかし、早朝からずっと町中の医者に治療を断られ続け、やっとの思いで見つけてきた医者だったので、ここは我慢するより仕方がないとサムルクは心を落ち着かせた。

 偉そうな口ひげをたくわえた、見るからにインテリ気取りの男は、それでもいかにも医者らしく一通りの診断を淡々とこなすと、固唾を飲んで見守るサムルクたちへ事も無げに結果を告げた。

「これは今、(ちまた)で流行している"眠り病"であろう。私の診療所に来て適切な処置をすれば、あるいは助かる見込みも無いではないが……、君ら風情が到底払える治療費でもあるまい。運が悪かったと諦めることだ。精々あと一週間もつかどうかであろう」

 医者はそれだけ告げると、すぐに診療代を催促してサムルクから銀貨十枚をひったくった。

 それをご自慢のハンカチで一枚一枚磨いた後に、背広の内ポケットに大事にしまい込む。

 そして来たときと同じように、面倒臭そうにしながらみすぼらしいロバの引く馬車に乗って帰って行った。

 サムルクは、傲慢な医者の横っ面を思いっきり殴り飛ばしてやりたいと思ったが、あの男の言う通り、医者に差し出した十枚の銀貨がサムルクの家のほぼ全財産だった。

 本当ならば、もっと治療代が掛かるところを、銀貨十枚で診察に訪れてくれたのだ。

 それだけでも感謝すべきことなのだろう。

 サムルクは、どこにもぶつけることのできない(いきどお)りを感じ、今にも泣き叫んで暴れ狂いそうだった。

 しかし、サムルクの代わりにシルプヘップ婆さんが盛大に泣きわめいてくれたおかげで、サムルクはまだ冷静を保つことができていた。

 ――こんなとき、父さんだったら一体どうしただろう……。

 国からの招集により、この国の健康な男たちは、貴族の軽薄な金儲けや身勝手な見栄の張り合いのため、戦争へと駆り出されていた。

 サムルクが五歳のとき、働き盛りであった他の男たちと同様に、サムルクの父も兵士として召喚された。

 最初は頻繁に届いていた父からの手紙も、だんだんとまばらになっていき、やがて届くことがなくなった。

 今では父が生きているのかさえ分からない。

 その戦争は、サムルクが十四歳になった今もなお続いていた。

 サムルクはいつも、「自分が兵士に志願できる十六歳になったら父さんを探しに行くよ」と母に話して悲しませた。 

 母をこの家に一人残し旅立とうとしていたサムルクは、今まさに一人取り残されてそのことを考えた。


 母が目を覚まさなくなった翌朝。

 サムルクは昨日から何かを考えていたような、何も思い浮かばないような、モヤモヤとした気持ちのまま目覚めた。

 辺りは朝霧に包まれて、家の手前では小鳥たちがせわしなく鳴いている。

 サムルクが一階に降りてみると、シルプヘップ婆さんが台所ですっかり朝食の準備をしてくれていた。

 シルプヘップ婆さんは、昔からサムルクの家族のような存在だった。

 身寄りのないシルプヘップ婆さんは、昨日からサムルクの家に泊まり、当然のように母親とサムルクの世話を焼いてくれていた。

 サムルクは食欲がなかったが、朝食を用意してくれたお婆さんに感謝しながら、疲れた顔で朝食を食べた。

 お婆さんは、しなびた顔で朝食を食べるサムルクを見て、出し抜けに言った。

「サムや、今日も天気が良くなりそうだから、あんた羊たちを牧草地につれて行っておあげよ」

 サムルクは、眠り続ける母を残したままで、羊の世話なんてしている場合じゃあ……、と少し迷ったが、家にいても母にしてあげられることは何もない。

 寝不足で何も考えがまとまらなかったサムルクは、お婆さんの提案に素直に従うことにした。

 ――お婆さんは、ずっと気が張っている僕を気遣ってくれたのだろう。

 サムルクは朝食の片付けを済ませ、愛犬のリヨンとともに羊たちを急き立てて、お婆さんに「日暮れ前には帰るよ」と告げてから牧草地へと出発した。

 牧草地に向かう道すがら、サムルクは前を歩く羊たちを眺めているようで、ただ(くう)を見つめていた。

 ――母さんがあのまま目を覚まさなければ……。父さんがもう二度とあの家に帰って来なかったら……。

 疲れ切ったサムルクは、これから自分はどうなっていくのだろうと考えた。

 考えれば考えるほど、悲観的な未来を想像することしか出来なかった。


 習慣とは不思議なもので、サムルクは気がつくと、牧草地の(いただき)にあるいつもの腰掛け岩に腰を下ろしていた。

 その傍らで、リヨンが心配そうにサムルクをうかがっている。

 サムルクは、リヨンの頭を撫でながら、「大丈夫……きっと母さんは少し疲れてしまっただけだよ……」とつぶやいた――

 それからサムルクは、またぼんやりと否定的なことを考える作業に戻ろうとした。

 と、その時、サムルクの目にデーンカルドの迷宮を行き交う冒険者たちの姿が映った。

 その日は天気がよかったために、はるか眼下に見える豆粒のような冒険者たちが、迷宮を出入りしているのがよく見えた。

 昔から、迷宮にまつわる恐ろしい冒険譚をたくさん聞かされていたサムルクは、迷宮に足を踏み入れたいなどと思ったことはない。

 それでも、この牧草地から時折見える、果敢にも迷宮へと挑んで行く冒険者たちの姿を眺めるのは好きだった。

 死のリスクを負いながらも、おのれの知恵と技だけで迷宮に挑む彼らを、サムルクは別の世界の特別な人間のように感じていた。

 そんな冒険者たちをぼんやり眺めていたサムルクは、不意に昔シルプヘップ婆さんがよく話してくれた「伝説の樹」の話を思い出した。


 一万の癒しの植物に囲まれた

  癒しの樹の王、ガオケレナ

   一口食べれば癒しをもたらし

    粉にして撒けば死者は息を吹き返す

     そしてその者、不老不死をも手に入れる


 それは、サムルクがとても好きなおとぎ話だった。

 サムルクがまだ子どもだった頃、よくシルプヘップ婆さんにせがんでは、何度も話をしてもらったものだ。

 サムルクはその一節を思い出し、あのおとぎ話は本当なのだろうかと夢を見た。

 デーンカルドの迷宮内で、今までにたくさんの魔法の道具(アイテム)が発見されているのは知っている。

「水が湧き続ける壺」だとか、「雷を宿した杖」などという物が、冒険者たちの手により発掘されて、今では国の遺産となっている。

 サムルクは、そのことを思い出すと、「病気を治す樹」だって存在していても不思議じゃないのではないかと考えはじめた。

 実際、ガオケレナの樹を探し求めて、デーンカルドの迷宮へ潜る冒険者も少なくないと聞いたことがある。

 サムルクはいつの間にか、そんな"癒しの樹"のことで頭がいっぱいになっていた。

 冷静に考えたなら、冒険の経験など皆無に等しい羊飼いの少年が、多くの冒険者が探し続けながらも、未だ発見に到っていない伝説の樹をいきなり探しに出向いたところで、見つかるはずがないと分かるだろう。

 しかしサムルクには、自分ならそれを見つけ出せるかもしれないという、根拠のない自信と、その無謀な可能性に突き進むだけの若さがあった。

 手掛かりもまるでないわけではない。

 伝承にある「――暗闇の奥より、ひそかに流れる青草の香りをたどりしその先に、見るも雄大な癒しの樹の王――」という一節の通りに、迷宮の奥で「青草の香り」を嗅いだことがあるという冒険者はたくさんいた。

 その言葉の通り、「ひそかに流れる青草の香り」を迷宮の中で嗅ぎとって、それをたどって行けたなら、伝説の樹へとたどり着くことができるはずだ。

 ――医者が見放した母さんを助けるためにはそれしかない。

 腹の決まったサムルクは、来たばかりの牧草地から早々に引き上げようと、帰り支度をはじめた。

 サムルクの隣で伏せていたリヨンは、突然活力を取り戻した主人を見ると、喜んで羊たちを急き立てた。

 サムルクはさっきまでとは打って変わって、これから入念な準備を進めるために、色々と考えを巡らせはじめた。

 一番はじめに浮かんだことは、迷宮に入るためにはザラスシュトラ冒険者組合(ギルド)の許可証が必要だということだった。

 だがサムルクは、町医者に診療代を支払ったばかりで、組合へ加入するだけのお金を持ってはいない。

 しかしサムルクは、組合へ加入する冒険者が少ないことも知っていた。実際、真面目に組合へ入会費を払う冒険者は少なかった。

 それというのも、デーンカルド迷宮の入り口が一つや二つだけでなく、冒険者組合の管理が追いつかないほど、迷宮への抜け道が多く存在しているという理由があった。

 各地から、デーンカルド迷宮へ挑みに来る冒険者は、そのほとんどが(ふところ)の寂しい貧乏人だ。

 なので大抵の冒険者は、無許可で非正規の入り口から迷宮に潜り込んでいた。

 本来ならば、冒険者組合に加入するのが当然だろう。組合に加入すれば、色々な恩恵も受けることもできるはずだ。

 しかし、すっからかんのサムルクは、冒険者組合には申し訳ないと思いつつ、今回ばかりは貧しい冒険者たちに習うことに決めた。

 迷宮へは、他の冒険者が通らないような場所を選んで、組合員に見つからないように入ることにしよう。

 サムルクは、そんな"誰も知らないような迷宮の入り口"に、思い当たる場所があった。

 前に、群れからはぐれた子羊を探していたとき、山のふもとにある深い森の奥で見つけた穴だ。

 崖が崩れてできた穴を覗いてみると、そこには石垣と石床のつづく迷宮の通路がのびていた。

 ――あんな場所にも迷宮の入り口が開いているなんて、誰も気づいてはいないだろう。後は、一体どれくらい時間が掛かるのか……。

 あの医者は、母の余命が一週間ほどもないと言っていた。

 しかし、サムルクはもう三日も残されていないような気がして心がざわついた。

 とにかく、シルプヘップ婆さんには心配をかけないように出発しなければならない。

 サムルクは、お婆さんにどんな言い訳をしたものか、思案しながら帰路を急いだ。

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