妖精と羊飼い
四方を苔むした石壁に囲まれたその場所は、空からの光が届くはずもないのに、なぜかランタンの灯りが必要ないほどに明るい。
草原の真ん中にある小高い丘の上には、奇妙に曲がった一本の樹が生えていた。
丘の周囲には、まるでその樹を讃えるかのように、地下迷宮には似つかわしくない植物の群れが生い茂っている。
――きっとそうだ、間違いない。きっとこの樹が……!
伝承ではこれほど弱々しい樹だとは語られてはいなかった。
とてつもなく大きな樹だと聞かされていた。
それでも少年は、不思議な地下迷宮の薄明るいオアシスに弱々しく生えているこの樹こそが、自分の探し求めていた「癒しの樹の王、ガオケレナ」であると確信した。
一万の癒しの植物に囲まれた
癒しの樹の王、ガオケレナ
一口食べれば癒しをもたらし
粉にして撒けば死者は息を吹き返す
そしてその者、不老不死をも手に入れる
樹の周りに薬草が群生しているのを見ながら、少年はガオケレナの伝承を思い出していた。
少年はそれほど多くの薬草を知っているわけではなかったが、少年が知っている数少ない薬草である「ビタヨモギ」に「チドメソウ」、「サグスビエ」が、これほど密集して生えているのを見たことがない。
だからこそ、少年は神秘的な草原の真ん中に生え、あらゆる薬草に囲まれたこの樹こそ間違いなく「ガオケレナ」であると思い定めた。
しかし実際のところ、この樹が本当に「ガオケレナ」なのかどうか、少年には知る由もなかった。
なぜなら、その伝説の樹を実際に見た者は誰一人としておらず、「ガオケレナ」はおとぎ話の中でのみ語られる伝説の樹であったからだ。
とにかく少年は、それがガオケレナの樹だと信じ、手に持つナイフを樹の枝に滑らせた。
枝はまるで毛糸でも切ったかのように、簡単に少年の手に落ちた。
少年はガオケレナと思われる枝を布に包むと、背負っていたリュックの奥深くへと大切に仕舞い込んだ。
――さあ、欲しいものは手に入った。後はこの迷宮を無事に脱出するだけだ。ランタンの油の減り具合からして、迷宮に入ってから九時間くらいは経ったんだろう。迷宮に入ったのは夜明け前だし、きっと今日中には戻れるはずだ。
そんな目算を立てながら、少年は草原の出口を振り返った。
少年は石垣の隙間から覗く暗闇を見て、またあの真っ暗な迷宮を戻らなければならないのかと、少しげんなりしたが、それでも伝説の樹の枝を持ち帰ることを考えると、幾分か気持ちは軽くなった。
ゴツゴツとした岩山の中に造られた、広大な迷宮に一人で足を踏み入れた少年は、迷宮など一度も入ったことのないただの羊飼いだった。
そんな羊飼いの少年の名前を「サムルク」といった。
冒険者ではないサムルクは、幸運にも、このガオケレナの生える内庭に来るまでに、一度として魔物に遭遇することがなかった。
――街の人々に聞かされていた、『デーンカルド迷宮』の恐ろしい冒険譚の数々は、きっと子供たちがこの迷宮に飛び込むのを防ぐため、大人たちが大げさに話していたのに違いない。
あまりにすんなりと思いが叶ったサムルクは、少し得意気になってそんなことを考えていた。
サムルクは、迷宮の入り口から運び出される、酷く傷ついた冒険者たちのことをすっかりと忘れてしまっているようだった。
サムルクはガオケレナの生える丘を下りながら、おそらくもう二度と訪れることはないであろう、神秘的な迷宮の内庭を隅々まで見渡した。
地底のどこからか吹く風が、癒しの樹を囲む草花たちを優しく揺らしている。
サムルクは、風に乗ってきた爽やかな緑の香りを目一杯吸い込むと、それからマッチをひと擦りしてランタンに火を灯した。
そして、肺に広がる清涼な香りが、ランタンから漏れる煙と油の臭いで台無しになったところで、サムルクは意を決して石垣に開いた裂け目へと歩きはじめた。
と、その時――
「だ、ダメだよ! そっちは……っ!!」
突然背後から声をかけられ、サムルクは一瞬にして全身の血が凍るのを感じた。
サムルクは咄嗟に振り返った拍子に転んで尻餅をついたが、それでもランタンをしっかり手放さなかったのは称賛すべきだろう。
「ご、ごめんよ、驚かすつもりはなかったんだ。お前が危ない目に遭うのをほっとけなくって……」
ついさっきまで誰もいなかったその場所に、人のかたちをした薄緑色の小さな子供が立っていた。
サムルクは尋常ではないほど驚いていたが、慌てずに黙ったままで、緑の子供から目を離さないようにゆっくりと立ち上がった。
「なあ、お前人間だろ?」
緑色の子供は、随分馴れ馴れしい口ぶりでサムルクに話しかけてきた。
サムルクは驚いて、声を裏返しながら「え…っ?」とだけ答えた。
突然の質問にサムルクが躊躇していると、緑色の子供はそんなことはお構いなしで、矢継ぎ早に喋りはじめた。
「お前まだ子供なのに、一人でこんなところまで潜ってくるなんて凄いやつだな! おいら人間見るなんてどれくらいぶりか覚えてないもんね! よくもまあ、お前みたいな子供がこんなところま来れたもんだ! よっぽど隠れるのが上手いのか? それとも何か凄い魔法でも使えるのかい?」
少し離れた場所から、警戒しながらも暇なく喋り続けるとんがり耳の子供に、サムルクはやっとのことで言い返した。
「お、お前だって子供だろう! き、急にどこから……いや、お前は一体なにものだ?」
サムルクが話し始めたのを聞いて、子供はさも楽しげに答えた。
「おいらはフラワシさ! あっはははは! 人間はそんなことも忘れちまったのかい? 昔はあんなにたくさん喋っていたのに! そういうお前はなんて名前だ? 人間の子供!」
陽気に話す「フラワシ」と名乗る子供の気に押され、不思議と警戒心の解けたサムルクは、「僕はサムルクだ!」と自分の名を明かし、「それと、お前よりも子供じゃないぞ!」と付け加えて言った。
「へぇ! おいらより大人のサムルク! それでお前はどうしてこんなところにいるんだい?」
緑色の子供は目をまん丸に輝かせ、飛び跳ねながら近づいてきた。
サムルクはそれにいくらか恐怖を感じて、後ずさりしながら大声を上げた。
「な、なんだっていいだろ! お前には関係ないことだ! あっちへ行けよ!」
怒鳴るつもりはなかったが、つい大声を上げてしまったサムルクは、 その声に驚いて悲しそうな顔をしているフラワシを見て、自分の言葉に後悔した。
さっきまで楽しそうにはしゃいでいたフラワシは、うつむいて、今にも泣き出しそうだった。
「ごめん……君が突然現れたから、ちょっとびっくりしちゃったんだ……」
サムルクは怒鳴ってしまったことを謝ると、迷いながらも、自分が癒しの樹を求めてここまで来たということを、素直にフラワシへ打ち明けた。
フラワシはサムルクの話を聞くと、すぐに何事もなかったかのように、さっきまでの元気な子供に戻り、また嬉しそうにサムルクに質問をはじめた。
サムルクはそんなフラワシを見て釈然としない気持ちになったが、初めて妖精(――多分その類なのだろう……)と話すことに高揚感を覚えていた。
「それにしたって、よく無事でこんなところまで来れたもんだな! 一体どんな仕掛けをしたんだい?」
どうやらこの妖精は、サムルクがどうしてここまでたどり着いたのか興味があるらしかった。何か面白い冒険話でも期待しているのかもしれない。
しかしサムルクはこれといって、ワクワクするような冒険も、ドキドキするような危ない目にも合ってはいない。
この妖精には申し訳ないが、サムルクにはフラワシが楽しみにしているような話が何一つ思い浮かばなかった。
サムルクは少しばつが悪そうに、「ど、どんな仕掛けと言われても……、僕はただ真っ暗な迷宮を歩いて来ただけで……。君にしてあげられるような話はなんにもないよ……」とごにょごにょフラワシにそう告げた。
すると、さっきまで楽しそうな顔をしていたフラワシが、急に真顔になってサムルクを見た。
「ここへ来るまでに何もなかっただって……!? ここへ来るまでに、そ、その、たとえば、まっ黒くて大きな蜘蛛だとか、グニョグニョしててネバネバのやつだとか、火を噴くトカゲや、毒を撒き散らすコウモリだとか……色々……お前、そいつらに一度も遭わなかったのかい?」
フラワシがつぶらな瞳をまん丸と見開いて、一体何をそんなに驚いているのか、サムルクには訳が分からなかった。
「う、うん。そんなのには一度も出会っていないけど?」
それを聞いたフラワシは、さらにサムルクに詰め寄った。
「ここに来るまでに? 一度も!? それじゃあお前はここからまた、なんにも遭わずに迷宮を戻ろうってわけなのか!?」
サムルクはフラワシの奇妙な驚きかたに、何か不味いことでもしたような気持ちになった。
「ど、どういうことだ? 何もないと駄目なのか??」
サムルクは戸惑いながら、そうフラワシに聞き返すと、フラワシは首を振ってうなだれた。
「なんてこった……サムルク、お前はなんにもわかっちゃいないんだ。お前がここまで来れたのは偶然の大まぐれだとしても、それが帰り道にも起こるなんてことはありゃしないんだ。道理で不用心にも"南の回廊"から出て行こうとしたわけだ……。なんてこった、信じられない……まぐれでこんなところまで来るなんて……」
そう言いながら、フラワシはサムルクを哀れむような顔で見た。
サムルクにしてみれば、この迷宮のどっちが北でどっちが南かなど分かるはずもない。
「南の回廊……? そっちに行ったら何があるっていうんだ?」
サムルクは、フラワシに呼び止められたことを思い出しながら尋ねてみると、案の定「さっきお前が帰ろうとしていた道さ!」と教えてくれた。
それからフラワシは、「あの先には"アラーニェおばさん"が巣を張って待ち構えてたんだ。お前があのまま進んでいたら、間違いなくおばさんのメインディッシュにされてたろうぜ!」と、ぞっとするような話を付け足した。
「そ、そのアラーニェおばさんって……?」
「南の回廊の主さ。大きい蜘蛛の女王さまだ。おいらも何回食われそうになったことか……」
フラワシはそう言いながら身震いした。
「きっとお前がガオケレナを取りに来たとわかって、それでここまで見逃したんだ。この園に魔物は入れないもんだから、サムルクがガオケレナを取った帰りに、一緒にまとめて頂いちまうつもりだったんだ」
それを聞いたサムルクは、フラワシに呼び止められなければ命がなかったことよりも、フラワシが魔物ではないことがわかって安堵した。
「そうか……ありがとうフラワシ。危ない道へ進もうとしてたのを止めてくれて」
フラワシは、サムルクの真っ直ぐな感謝の言葉が以外だったのか、しどろもどろになりながら、恥ずかしそうに「べ、別に!」とだけ返した。
サムルクはフラワシの話を聞いて、どうすればここから無事に地上へ戻ることができるだろうかと考えた。
フラワシの話からすると、この場所は、本当なら手練れの冒険者でもなければたどり着けない場所なんだろう。
サムルクが、考えごとをするときの癖で唇をつまんでいると、その隣でなぜかフラワシも、同じように唇をつまんでサムルクを見つめている。
フラワシの言うように、もしも、迷宮に入ってすぐに何か手痛い目に遇っていたら、サムルクはきっと恐れをなして、その場で迷宮から逃げ出したに違いない。
そうでなくとも、サムルクはここに来るまでに何度も心が折れて、その度に引き返そうとしていた。
それでも、ここまで諦めずに来ることができたのは、確かに魔物に一度も出会わなかったからだろう。
ガオケレナの枝を手に入れて浮足立っていたサムルクは、ようやく今になって、重傷を負った冒険者たちが迷宮から運び出されるのを、何度もその目で見ていたことを思い出した。
街で聞いていた、デーンカルド迷宮の恐ろしい冒険譚は、やはり作り話や大袈裟に語られた話などではなく、紛れもない事実だったのだ。
サムルクは、自分がこの内庭にたどり着けたのは、本当に "偶然の大まぐれ "だったのだと理解した。
それでもサムルクは、ここに来る間に何も恐ろしいことが起こらなかったのは、感謝すべきだと感じていた。
ここから無事に地上へ戻れるのかわからないとしても、ガオケレナの霊樹がどうしても必要だった、サムルクの目的は達成されたのだ。
しかしこの迷宮から無事に戻るためには、これから先、これまで通りに奇跡や幸運を当てにしてはいられないだろう。
――だけど、もしかしたら、また魔物に出会うことなく、この迷宮を抜け出せたりはしないだろうか?
サムルクは一瞬そんなことも考えたが、血まみれの冒険者たちが迷宮から運び出される光景が頭をよぎり、すぐにその考えを捨てることにした。
実際フラワシに呼び止められなければ、サムルクは今ごろ大蜘蛛の餌食になっていたところだったのだ。
サムルクは、ここからどうすれば無事に地上へ戻ることができるのか、なにも思いつかず途方に暮れた。
そしてサムルクのそばで、唇をつまみながら自分を見つめるフラワシに気づくと、この妖精に力を借りられないだろうかと考えた。
とはいえ、ついさっき出会ったばかりの人間に力を貸してくれたりするだろうか。
それでも、こんな迷宮の奥底で他に頼れる者などいない。
サムルクは、フラワシに力を貸りられないか、思い切って聞いてみることにした。
「ねえ、フラワシ、きっと僕は君の言う通り、ただのまぐれでここまで来られたんだと思う。だけど、それでも僕はどうしても家に帰らないといけないんだ。君に何をお礼出来るかは分からないけど、家に帰り着いたら必ずお礼をするから、だから……僕に力を貸してくれないか?」
そうお願いしながらも、サムルクはフラワシが力を貸してくれるはずがないと思っていた。
何の義理もない、さっき出会ったばかりの人間に、危険を承知で力を貸してくれる者などいるはずがない。
そんな都合のいい話があるわけがない。
サムルクは返事を聞く前から肩を落とし、フラワシを見ることもできずに、ただ足元に咲く黄色い花を見つめていた。
フラワシは、サムルクの突然のお願いに呆気に取られたような顔をしていたが、すぐ照れくさそうにして言った。
「ま、まあアレだ、おいらから声かけちゃったしな! 仕方ない、お前はなんか危なっかしそうだから、おいらが面倒見てやるよ!」
フラワシが、いとも簡単に協力を引き受けてくれたことに驚いて、サムルクは無意識のうちにフラワシの手を握った。
「あ、ありがとう!」
とても喜ぶサムルクを見て、フラワシは恥ずかしそうにしながら、「そのかわり、お前がちゃんと家に帰り着いたら、旨いもん腹いっぱい食わせてもらうからな!」と言って意地悪に笑った。
それからフラワシは、自分のニヤけた顔を隠すように、サムルクのお腹めがけて飛び込んだ。
突然お腹に抱きつかれたサムルクは、嬉しいのと、お腹のあたりがくすぐったいのも手伝って、悲鳴にも似た笑い声を上げながらフラワシを引き剥がそうとした。
フラワシは、そんなサムルクを見て無邪気に笑い、さらにサムルクの脇腹をくすぐった。
気づけば、二人は大笑いしながら草原を走り回っていた。
迷宮の地下深くで出来た友達に、心強さを感じながら。