二人の客(2)
その後、二刻が過ぎていた。
「……そういうことは事前に言え」
酒を呷る。
飲み屋の外、泥の中で眠っていた錬暁を介抱したと知った悌夏は、再び持ち込んだ酒を自分で注ぎ足しながら、呆れたようなため息をついた。
「……申し訳ない」
「お前が止めるのが遅ければ、俺はあいつを八つ裂きにするところだったぞ」
すっかり騒動が収まった広間で、悌夏は再び盃を手に、うろうろと当て所なく歩き回っていた。
侍女たちの話を総合すると、錬暁はずっと部屋で眠っていたのだが、どうやら部屋に詰めていた侍女はかねての疲労ですっかり眠りこけ、それに遠慮した錬暁は、誰のものとも知らぬ屋敷の中をひとり厠探しに彷徨った挙句、時同じくして厠に向かった悌夏と鉢合わせ、騒動になったとのことだった。
錬暁は重ね重ね頭を下げながら帰っていった。
生乾きの服を着て。
「瞬、お前は女だ。お前の分け隔てない対応は感心できる。だが泥酔者を拾うなど……何が起きるかはわからんのだぞ」
悌夏の怒号が響きわたったことで、酔いの吹っ飛んだ瞬華が廊下へ走り出たときには、夜着を羽織ったよれよれの錬暁が、怒りをあらわにする悌夏の刀の柄を必死の形相で押さえていたのだった。
「てっきり俺は錬暁と……」
「申し訳ない」
「瞬」
「――黙っていて、申し訳ありませんでした」
言い訳ひとつせぬ凛とした声が重なり、悌夏はそれ以上の怒りをぐっと抑えると、盃に口をつけながら瞬華に促した。
「……言い訳くらい、聞くぞ」
「言い訳などありません。貴方に隠し通した理由は、ひとえに錬暁殿の健康のため。そして彼の猛将たる体面を保つため。こうせざるを得ませんでした」
「体面か。ふん、勝手に潰れておいて体面も何もなかろうが……」
そう鼻を鳴らす悌夏に、瞬華は言を継ぐ。
「もちろん、貴方がそんな人間でないことは、私も理解しております。ですが……彼が猛将たる力を十全に発揮するには、相応の面子も必要でしょう。
刀を研ぐ技を持った貴方がそうしたように、泥にまみれた錬暁殿を見つけてしまった以上、助ける義務はあるかと考えました。この朮にとって、錬暁殿は大切な人材でありましょうから」
「……なるほど」
「とはいえ、この特異な状況を説明し、納得を得るのは難しい。それに、以前より貴方が私に好意を抱いていることを明確にされている。 錬暁殿が貴方より先に屋敷に上がっていると明らかになれば、やはり穏便に済むわけがない。
こうなれば最後まで黙っておくほうが得策――そう思ったゆえです。
……結果として、こんな形で騒動にしてしまいましたが」
「責めた俺も悪い、ということだな」
「申し訳ありません」
真摯に反省しているその姿が痛々しく、悌夏は雰囲気を変えようと、まじまじと顔を覗き込む。
「で、見たのか」
隣で酒を飲みかけた瞬華が咳き込んだ。
「な、何を?」
意味は通じたな、という表情を残しつつ、悌夏は目線を酒盃に落とした。
「泥の中で寝ていたのだろう? 洗ってやったんじゃないのか、隅々まで」
酔いも手伝ってか、嫌味なほどの丁寧な聞きぶりに、瞬華は刹那気まずそうな顔で答える。
「それは……侍女が、な。私も手伝おうとしたが、すぐ追い出されてしまった」
長椅子に座った瞬華は膝を抱え小さくなりながらぶつぶつと呟くと、隣に悌夏がどっかりと腰を下ろす。
「やはり手伝おうとしていたか。よく分かっているのは侍女たちのほうだな」
盃に、酒を注ぎ足される。悌夏には安堵の笑みが戻るも、瞬華の瞳は浮かないままだ。
「悌に……屋敷は薦めないと言われた意味が判ったよ」
「館の主が女、しかもお前となれば、居座りたい奴らなどどこにでもいる。ある日突然、羅布麻や蒼弦が居座っていた、なんてことにもなりかねん」
「……まるで弱点だな」
「ああ、それも見えて触れる、図体のでかい弱点だ」
「参ったな……」
隣の悌夏の腕が伸び、彼女の肩を抱き寄せた。
軽く酔いがまわり、肩口に軽く頭を預けながら瞬華は困ったように呟くと、頭を寄せた悌夏に向け、ぽつりと問うた。
「そういえば、悌。……夜もだいぶ更けた。そろそろ迎えが来る頃ではないのか」
「俺は、引き止めんのだな」
声に微かな嫉妬を乗せるも、瞬華は素っ気ない。
「貴方は健康だ。一人で歩ける者を、ここに泊める理由はない」
盃を卓に戻そうと身体を動かしかけた瞬華の動きが止められた。まわされた彼の腕が、ずしりと瞬華の肩に力をかけ、その動きを封じていた。
「では今からでも、浴びるように飲むか」
声音は平静に、ちらりと目線を合わせた悌夏がわずかに目を細める。
「泥まみれなわけでもないだろう?」
「では、泥濘で倒れればいいのか」
「……冗談が過ぎる」
静かに反論する瞬華に構うことなく、悌夏の眼差しが、顔が、真摯な表情で迫った。
「冗談など言ってない。そうすれば、俺を風呂に入れ洗ってくれるのか。衣が乾くまで、俺を温めてくれるのか」
身体を支えていた手を払われ、瞬華はどさりと長椅子に押し倒された。
「どうなんだ、瞬華」
否――芙芙と呼びたかった。
いくら泥酔した猛将を匿ったとはいえ、嫉妬という心の燻りが悌夏の中から完全に消えたわけではない。
彼女が行動に及んだ理由が至極真っ当なものだっただけに、悌夏には気持ちの確認すら許さない瞬華の言動にいやに腹が立ち、今ここで、再び独占行為に及びたいと動くのは、彼には当然の事のように思われた。
「瞬華、俺は――」
しかし瞬華は押し倒されたままにも関わらず、きっと覚悟したような瞳で彼を見上げると、まるで上官に進言するように声を放った。
「ならばそれを命じてくれ。貴方は既に、その権限を持っている」
悌夏の隻眼に、ぐっと力がこもった。
しかし瞬華は、上官を諫めるような声音で、言葉を続ける。
「貴方は、私の主だ。私が欲しいなら、今ここで好きなだけ抱けばいい。
俺のものになれと、一言命じてくれ。
私は貴方を主とし、貴方に従うと契約を交わした。貴方が私を罰するなら、私はどんな罰も甘んじて受ける。命じてくれていい。罰してくれていい。私の体調に不備は無いから。貴方の求めに応じると誓う。今宵は、すべて貴方の望むままだ」
艶かしく首筋を晒した彼女が目を伏せ、紅を引いた唇で命令を求める。
悌夏は彼女を押し倒したまま彼女の顔をしばらく眺めていたが、やがて諦めたようにゆっくりと口を開いた。
「……いや、やめておく」
大きな双眸を隠した瞼が、意外な言葉にぱっと開いた。
「やめる? どういうことだ?」
「言った通りだ。もうこれ以上はしない」
「どうして」
そう訝る彼女は、明らかな狼狽を隠そうともせず、押し倒された上半身を肘を使ってゆっくりと起こした。
「意味が解らない。貴方にとって、これ以上ない好条件のはずだ。……なのに、それを使わない?」
好条件――彼の独占欲のみを満たすだけなら、確かにそう言える。
だが悌夏にとっては聞けば聞くほど、彼の感情など二の次だと言わんばかりの軍議のようなやりとりに聞こえてくる。
やるせなく辺りに視線を泳がせた悌夏は、まるで言動に傷ついたかのように、瞬華に告げた。
「……お前は少し、人の心に無頓着だな。俺のだけではなく、お前自身の心にも」
「己の、心にも?」
色めき立つ瞬華の顔から乱れた前髪を取り払いながら、悌夏はゆっくりと語りだした。
「極端な緊張と孤独を経験するとかかる流行り病があってな。
その流行り病を患った者は、他者にどんな思惑を持たれ、どんな無茶を押し付けられても、駆け引きすらせず無条件に受け入れてしまうんだ。
味方の数を維持するために、考えることを止めてしまう――おそらく、お前はそんな状態から抜け出せていないと、俺は思っているのだが」
くっ、と瞬華が嗤ったのがわかった。
「考えすぎだ」
「そうか? 俺には……」
「違うと、言ってる」
横を向き、ぼそりと分析を一蹴した瞬華の答えに悌夏は腕を外すと、彼女の上から身を退いた。
背を向けて淡々と帰り支度を始める悌夏に、瞬華は再び狼狽したような声で悌夏を呼び止める。
「ちょっと待て。本当に帰るのか? 命じないのか?」
「ああ、命じない」
背を向けたまま、刀を革帯に括りつける。
帰宅の用意を続ける彼に、瞬華は改めて問うた。
「どうして? ここは私の家だ、罠など無い」
「もちろん、知ってる」
「ならばなぜ帰る? 好きに命じたらいい。貴方には、この状況は好機ではないと?」
「ああ、今宵は色々あった。どうにも日が悪い、改めて機会を設けよう」
腰にくくられた長刀を鳴らしながらふと振り返ると、不安げな表情の瞬華と目があった。
「……悌」
悌夏は微笑むと、一旦帰りかけて踵を返す。
「仕方ない。いつものやつだけ貰っておくか」
腕を開いて胸に引き入れると身を屈め、彼女の唇にほんの軽く口を付ける。
「今度は、俺の屋敷にも招いてやる。今宵は一人で満喫しておけ」
そう囁いてしばらくその身体を抱きしめた悌夏は、門柱のそばまで連れられてきた馬に跨った。
「……気をつけて」
「ああ。では失礼する」
悌夏は短く、馬に号を発した。
その胸には、未だ解しきれぬしこりのような想いが疼いていた。