泥酔
錬暁は酒を呷っていた。
対面から、無言で差し出されるのは酒の肴だ。
干魚に干し肉、数種類の木の実──普段は真っ直ぐに自分の屋敷に直行するところ、自邸から地味な武官服を持ち出し、わざわざ着替えてまでこんなことをしたかったのには、衆目の目の届かぬところでひとり酔いたいという理由があった。
ここを隠れ家、と呼ぶのが正しいのだと思う。
そしてここは、正しくは店ではないのかもしれない。だが、不思議なことに料理を振る舞ってくれる者がいる。
「あと数ヶ月はいらっしゃらないかと思ってましたよ。珍しいこともあるもんだ」
次に卓に供されるであろう木の椀でなにがしかを和えながら、しわがれた声で一人ごちるのは、この料理屋の主人だ。
この料理人との出会いは三ヶ月ほど前になる。
瞬華が将の職に復帰したことを祝い、梅香台で有志による宴があり、錬暁はそこに参加していた。
ただし有志とは名ばかりで、実際は誰も彼女のそばについたこともなければ、話した経験もないという、いわゆる勝手連――瞬華を中心に勝手に連帯する者たちの集団であった。
一人現実を知る錬暁が呼ばれたのは、ひとえに彼女と接点があったからという理由からである。
当然、瞬華本人はこの宴に呼ばれてはいないし、開かれていることすら知らずにいただろう。
しかしながら、瞬華に憧れるという共通点のみを持った勝手に連帯する男たちは、まるで彼女が自分の妻であるかのように実に楽しく彼女の話題を語っては、今ひとつ雰囲気についていけない錬暁に、彼女を匿っていた時期の話を聞きたいなどと臆面もなく依頼してきたのである。
普段の彼女はどんな感じなのか。
好きな食べ物は何で、何が似合うのか。
どんなことに興味をもっているのか――等々、聞かれたことは枚挙に暇がない。
瞬華――その当時は芙芙だったが――と過ごした月日は決して辛いものではなかった。
むしろもっと過ごしていたかったから、話す段になって辛さが増す。
繊細な思い出ゆえ、本来であればそっとしてほしいが、会に主賓として呼ばれている以上、嫌でも思い出さねばならない。
参加者の顔を見れば、様々な階層から集まっていることもわかる。比較的血筋の確かな家の子弟から、兵卒叩き上げの者、果ては彼女と話したことも無いであろう城づとめの文官までいる。それらが一同に会し、軍議軍略を語るでもなく、ただ手指すら触れたこともない瞬華の話題のみに終始するのは、錬暁には少し異様な光景に思えた。
この力、もっと別の方向に使えば良いものを――せがまれては話し、陽気に浮かれる彼らに合わせるように酒盃を重ねてはいたものの、錬暁本人にとっては傷口に塩でも塗るかのような行為に、夜もふけた頃にはすっかり足腰に響き、歩くこともままならない状況となっていた。
梅香台の床で至福の表情で雑魚寝する者たちを置いたまま、ひとり城へ戻ろうと帰路を行くうちに気を失い倒れていたところを、この料理人は家に運んでくれた挙句、酷い二日酔いで寝込んだ錬暁に酔い覚ましの薬湯と腹ごしらえの粥まで振舞ってくれたのである。
「随分お辛い宴だったんでしょうね」
ぬかるみに足をとられて転び、泥にまみれた自分を見て、料理人はぶっきらぼうにそうつぶやいたことを覚えている。
決して裕福とはとは言いがたいこの家屋に、どこでどのように入手してくるかもわからぬ、やたらと高価な食材が並ぶことも驚いたのだが、海から遠いこの都では高価とされる干し貝を入れた良い匂いの粥を供してもらいつつ、ただの行き倒れの武官に惜しげもなく振舞う彼に、錬暁の心がふと、何かを感じ取った。
時は昼に近くなり、昼餉の匂いが漂いだす。ややもすればまた商売度外視の商いをしそうになっていたこの料理人に、一宿一飯の金と握り渡そうとすると、やはりやんわりと断られたのだ。
「いいんですよ、あたしが勝手に振舞っただけですから」
だが錬暁は彼には清廉でいたかったので、数度の押し問答をした。
その結果、主人はようやく彼の申し出を受け入れ、そして最後に、皮肉げににたりと笑ったのだ。
「じゃ、今度からは先にお支払いを。そしたら酔いつぶれちまっても構いませんよ。ここではね」
以降、この料理人の家は、錬暁専用の隠れ家となった。
しかしながら錬暁は、今もってこの主人の名を知らない。
逆に主人は錬暁のことを知っているようだが、主人なりの配慮なのか、敢えて彼を「武官さん」と呼び、一定の距離を保っているようにも見えた。
「名前なんてどうでも良いでしょう? 武官さんが、あたしのことを覚えててくれりゃあ、それでいい」
昔、乾貨の行商をしていたとも言うが、それ以上の詳しい事は教えてはくれない。
しかし、そこはかとなく漂う、かつて頂点を目指していたのではないかという雰囲気だけが、錬暁の心に確たる感覚としてある。
「お辛いことが続きなさると、腹も心も参っちまいますからね。はい、どうぞ」
ことりと、木の椀に上品に盛られた膾が差し出され、錬暁はそっと箸を握った。
「済まぬな、主人」
「変えられそうにないことなんで?」
「まあ、な」
錬暁は酩酊した頭で、ぼんやりとその光景を思い返していた。
*
新しく読み上げ人を雇ったことを、錬暁はつい先日知った。
羅布麻の部屋から声がする。
彼の部屋は固く閉ざされ、その前を守る兵が扉向こうをちらちらと気にしている。
そこに転戦から帰った錬暁が通り掛かり、緊張感のない兵を見咎めた。
「顔が緩んでいるぞ、二人とも」
「これは錬暁さま。申し訳ございません。ですが我々も少々気になっておりまして」
「どういう事だ」
詳細を聞こうとしたその時、部屋の向こうから羅布麻の声と共に、恐怖に怯えた女の声が響いた。
「おやめください……!」
どきりとした。
漏れ聞こえるその声音に、はっきりと記憶が甦った。
「そう、その声だ。もっと俺に聞かせてみろ」
「中に誰がいる?」
問うも、兵二人も揃って首を横に振る。
「実は、私たちもよくわからないんです。女の方といらっしゃるのは解るのですが……羅布麻さまのご機嫌を損ねると、こちらも危なくて」
「……まずいな」
その声は似ていた。『彼女』そのものだった。
「錬暁さま、申し訳ありません、確かめて頂けませんか」
「解った」
飛び込む頃合を見計らうべく、錬暁は扉に耳を近づける。
ばたばたと部屋を逃げ回る女の足音と共に、羅布麻の嬉しさをかみ殺したような声が響く。
「俺が良いと言っている、もう躊躇うな」
「ですが……!」
「ほら、捕まえたぞ。もう静かにしろ」
――頃合いだ。
錬暁はそう踏ん切ると、入室の許可すら取らず、扉にぶち当たる。
「羅布麻殿、失礼いたしますぞ!」
そこには。
武骨な指に紅を乗せ、女官と思われる女を机に押し倒したまま、その唇に紅をひこうとする羅布麻の姿があった。
「どうした、錬暁? 何か火急の用か」
すっと姿勢をもとに戻し、好戦的な顔を見せる羅布麻に、錬暁は拍子抜けした表情で問い直す。
「あ……いえ。今しがた、女の悲鳴が聞こえましたもので」
「悲鳴? ああ、こいつのことか」
机上に倒された女官服の女に手を差し伸べ、ぐいと引っ張り上げる。
「どちらの方ですか、この女人は? まさかまた……」
生々しくよれた女の服の合わせに嫌な予感を禁じ得ず、そこへの目線を振り切りながら錬暁が問うと、羅布麻は誇ったように女の肩を抱き寄せる。
「ほら、俺の補佐をする錬暁だ。挨拶してみろ」
「……も、申し訳……ございません」
顔つきはあまり良いと言えない。
しかし謝る女の声は――瞬華、そのものだ。
「羅布麻殿、もしかして」
「どうだ? よく見つけてきただろう。新たに雇った読み上げ人だ。
ずっとこういう女が欲しかったのだ、俺はな」
それで気づいたのだ。
羅布麻は瞬華を前に『妥協』したのだと。
錬暁にはその女の名前すらも知らされていなかった。
おそらく錬暁には伏せられたまま、領内で募集をかけたのだろう。
錬暁が転戦している間、二人は酒色に耽っていたと、後から伝え聞いた。
羅布麻は。
欲しいものは何が何でも巻き上げねば済まない性格だったはずだ。
それが、瞬華という存在を前にいとも簡単に反故になったことになぜか悲しくなった。
羅布麻に書簡を書かせるよう促した時、心のどこかで瞬華に近づけると思っていた自分がいたことは否定しない。
本来であれば自分だけでも書簡を書きたいのだが、羅布麻はとうに興味がなく、名前を勝手に使うわけにもいかなくなってしまったからだ。
そもそも、錬暁は彼の名代、いわば影である。羅布麻その人ではないし、羅布麻という実体とかけ離れた動きを彼がしてはならない。
一蓮托生――そういう意味で、羅布麻が興味を失ったものに、錬暁はいつまでも興味を持ち続けるわけにはいかないのだ。
どんどんと、過去になっていく。
少しだけ手を伸ばせば、錬暁は彼女に触れられる距離にいた。
それは間違いようのなかった事だというのに、自分と彼女とに巡らされた縁の糸は、己の意思に反して、ひとつ、またひとつと途切れていく。
まるで雨風に晒されたままの看板のように、彼女との記憶が日一日と褪せていくことが、錬暁にはひどく耐えられないことに思えた。
どうすればいいのか。
どうしたらいいのか。
錬暁自身ですらもよくわからなくなっていた。
自分が支えたものとは一体、何だったのか。
これが正しいことなのか。
色々考えるうち、胸の奥底で、何かが砕けた音がした。
響いて、痛かった。
夜の都に浮かれる大衆にまぎれるように、ふらりとひとり酒を飲みに出たものの、どんなに痛飲しても気が晴れることなどなく――気がつけば、この隠れ家の前に佇んでいたのだ。
*
箸で肴を口に入れた。
薄黄色く細切れにされたものを噛み締めたとき、こり、と奇妙な歯ごたえがし、錬暁はふと主人を呼んだ。
「主人。これは、何だ?」
「武官さま。水母、ってご存知です?」
「水母?」
聞き覚えのないその名称に首を傾げると、主人はわずかに錬暁を振り返りつつ、包丁を握ったままの手でその造形を表わし始める。
「水に浮かぶ、白くてきれいな生き物なんですよ。
あたしも一度しか見た事はないんですが、水に浮かんだ月みたいに、ふわふわと綺麗で。仙女の衣みたいに、ひらひらした長い脚がくっついてるんです。触ると若い娘っ子の肌みたいにぷるぷるとしていて、これがまあ気持ち良いんですが……脚には毒を潜ませてましてね」
「! ……主人、私を殺す気か?」
慌てて箸を置きかけた錬暁に、料理人はその背越しに笑う。
「ご心配なく、水母の毒は殺しにゃ向かねえ。
触れたらぴりりときちゃ、武官さんならすぐ気付くでしょう」
「……ああ、なんだ」
気を取り直しひょいと箸でつまんでみるが、細切れにされたそれは、滑らかさはあるが柔らかさは欠けているように見える。
しばらく食べずに眺めていると、主人はまるで幼子を諭すかのように語り始めた。
「水母はね、そのままじゃ食えたもんじゃあないんですよ。手間隙かけて整えて、水っ気をきって、それで初めて食えるようになる。これがまた面倒なんで、都まで持ち込むやつもあまりいない。でも、都の若い胡瓜と一緒にすると、この通り」
「随分とかかるのだな」
「まあ、それがいいんですよ。飯の美味さは空腹あってこそだ」
「……確かにな」
こりこりと口の中で鳴る奇妙な感覚を楽しみつつ一口酒を呷ると、主人はふとこんな事を口にした。
「武官さんも、たまには水母のように生きたらいいのに」
「ふわふわと、か? 出来れば苦労などしないのだが……」
主人は調理の手を止めることなく、ぐいと酒盃を呷る背後の武官をちらりと窺った。
「できますよ。心は誰にも縛ることは出来ねえ。
心だけでも、水母のようになればいい。望むままに流されて、ね」
「……」
箸を置く音がし、料理人は包丁を動かす手を止めた。
「もう一皿ございますよ、武官さん」
「いや、今日は帰ることにする。すこし考え事ができた」
その言葉に振り返ることなく、料理人はふと微笑んだ。
「足元、気をつけて」
「ああ。……また、寄らせてもらうぞ」
馳走になったと短く告げて、錬暁は人通りまばらな裏路地に顔を覗かせた。
路地を抜けると盛り場の域内を示す、白い提灯が軒先に並ぶ通りに出る。いくら飲んでも酔えなかったあの酒場と、距離はさほど離れていない。
しかし――
「この道、こんなに長かったか……?」
行けども行けども、一向に路地から出られる
気配がない。
ぐにゃぐにゃと長く、どこまでも伸びゆく細い道。
進んではいるものの、足元がおぼつかず、錬暁は近くの壁に手をつく。
「おかしい、な……」
世界が徐々に、ゆっくりと回っていく感覚がする。
民家の壁伝いに一歩ずつ歩を進めながら、やがて提灯の下までたどり着くと、そこには目も眩むほどの賑わいが待ち構え――さらに一歩踏み出しかけた直後、錬暁の酩酊した頭は後悔の念に囚われたことを感じた。
「やはり、潰れておく……べきだったな」
この賑わいは明るすぎる。
物思いに、耽るには。
眩しさに思わず目を細めると、己の両膝が勝手に力を抜くのが分かった。
そして。
錬暁の記憶が、途絶した。
*
酒場の前に人だかりができているのを、瞬華は見つけていた。
市への買い出しの帰り、侍女二人と非番の衛兵とともに、祝いの花飾りを載せた馬車に揺られながらその場所を通りがかった彼女は、何やら妙な気配を感じ、馬車を止めるように声を発していた。
「どうされました、瞬華さま」
衛兵が馬を引きながら振り返ると、神妙な面持ちの瞬華が耳打ちする。
「あの人だかりから妙な感じがするんだ。済まないが見てきてくれないだろうか」
「はい、承知いたしました」
人混みの中に衛兵がまぎれ混むと、瞬華は人混みの周囲で話す野次馬に耳を傾ける。
「あの御仁、大丈夫かね」
人々が口々に、人の輪の中央で倒れ臥す人物の話をする。
「文字通り泥酔ってやつだな」
「ずいぶんいい服着てたな。位の高い方かもしれんぞ」
やがて衛兵が人だかりから戻ってくるのを見つけ、瞬華が声を掛ける。
「どうだった」
「それが……実は見覚えがありまして。申し訳ございません、共に来ていただけますか」
衛兵に連れられて人の輪に踏み込む。
野次馬を掻き分けつつその中央を覗き込んだ瞬華は、泥中に倒れ伏す者の服の模様を認めた刹那、その脳裏に鮮烈に記憶がよみがえった。
「あれは……」
「どういたしましょう」
衛兵が囁くが、考える時間はあまりない。
そして出会ってしまった以上、そこには義務というものが発生する。
「彼を引き上げてくれ、屋敷に運ぶ」
短く令を発すると、衛兵も頼もしい笑みを浮かべた。
「では、馬車でお待ちを。服が汚れます」
人混みから離れると、背後から衛兵がちょっとどいてくれ、と声を掛けるのが聞こえ、やがて泥酔した男を肩に抱え戻ってきた。
「瞬華さま、この方をどうされるのです? 本日はお客さまが……」
ぬかるみに半分以上つかり、顔や髭にもべったりと泥をつけた泥酔者の姿に気色ばむ侍女に構うことなく、瞬華は口を開いた。
「屋敷でこの方の泥を落とす。これでは体に障る。あなたたちにも手伝ってもらいたい、いいだろうか」
侍女たちは不審げに少し目配せし合っていたが、やがて二人は揃って頷く。
「わかりました。お任せください」
「済まないな。恩義のある方なのだ、よろしく頼む」
新築を祝う花飾りの隣に、どさりと泥まみれの男が載せられると、ゆっくりと馬車は動き出した。
何があったのだろう。
話を聞く以上、彼はこんな人間ではないと思ったのだが――急遽二人の客を迎えることになった自らの屋敷に戻りつつ、瞬華は荷台で潰れる男にちらりと目を落とした。