短慮
「で、屋敷を貰ったと?」
「そうなんだ。殿がどうしても、というから」
饅頭の味が良かったのか、太客がつくようになったのか、瞬華お気に入りの饅頭屋は人気が高じ、店舗には増改築が施され、今はちょっとした料亭も兼ねるようにまでなっていた。
話というのは、二ヵ月ほど前に遡る。
城の廊下で瞬華が蒼弦に呼び止められたことが、そもそもの発端であった。
「お前が給金を引き出しにこないので、担当の文官から怒られてしまってな。どうにかして使ってもらいたいらしい。
そこでだ。お前に屋敷を与えたいと思うのだが、どうだろうか」
「……屋敷、ですか」
謁見の間でもない、ただの廊下でのすれ違いである。
こんな話を振るほうも受けるほうも、今考えるとどうかしていたと瞬華は思う。
もっとも瞬華自身、何かの冗談だと思い本気にしていなかったのだが、それがつい十日前、にこにこと嬉しそうな様子で文官たちを引き連れ廊下を歩み寄ってきた蒼弦は、おもむろに瞬華に近づくと、屋敷の位置を記した竹簡を一枚、すっと手渡したのだ。
「そなたの館の場所だ。人は揃っておるが、家具はそなたの好みもあるゆえ、敢えて手は回さなんだ。済まぬが、それだけは買い足してくれい」
仕事を少し早めに切り上げ、おそるおそる竹簡に書かれた場所へ立ち寄ってみると、確かにそれはあった。
どっしりと重厚なつくりの門構えの中、まだ見ぬ主の姿を心待ちにしながら、干した敷布を嬉しそうに取り込む、侍女数人の姿も。
「瞬。その話、なぜ俺にしなかった?」
「え? あの……いきなり呼び止められて、そういう話になって。物が急に増えて置き場もなくて、でも、まさか本当に貰えるとも思っていなくて。
……貰ってはいけないもの、だったか?」
その答えに、参ったな、と言わんばかりに悌夏は表情を曇らせた。
「屋敷を貰うなぞ、これでは嫁げなくなるぞ」
「とつっ……」
確かに瞬華は誰とも婚姻していない。
武官であれば既に誰かを捕まえていても不思議ではなく、彼女とて文字通りいい歳である。
瞬華は放たれたその言葉に少々不機嫌になりながらも、返す刀で彼の脇腹を抉りに行く。
「悌も、まだ独りだったな」
紅を差さずとも良いくらいの、血色の良い彼女の唇が桜桃の実を咥え、ぷちんと実についた小枝を取り去った。
妙に色っぽいその食べ方を間近で眺めながら、悌夏は答える。
「まだ、とは何だ。……まあ、独りだが」
「ああ、貴方には許婚者が居たんだったな。その方の手がかり、掴めたのか」
もぐもぐと桜桃を口に含みつつ、当てつけるように訊いてくる彼女を見ながら、悌夏は曖昧に答えを濁す。
「ん? まあ、ぼちぼちな」
「ぼちぼち? どう言うことだ?」
明瞭に突っ込まれ、悌夏はたじろいだ。
「いやまあ、その、少し事情があってな」
「ほう? 欲しければ拙速も厭わぬ貴方がな。一体、どういう事情だ」
更に追及され、彼は言いかけた言葉をごくりと呑み込んだ。
言えなかった。
目の前のお前こそが、俺の許婚者だとは。
というより、「お前、芙芙なんだろう?」と直接確認出来ないのが何より辛い。
『芙蓉門の芙芙にございます』
瞬華にその名を自ら明かさせること、それが芙蓉門と天崖郷とに交わされた約定であり、その方法でしか彼女を芙芙として認めることができない。
瞬華が悌夏のことを婿として認めるのならば、彼が黙っていても真の名を名乗る。
しかし今もってその名を彼に明かさないことは「名乗り出たくない」「婿と認めたくない」と拒まれているに等しい。
だから例え『その名』を知っていたとしても、自分の許婚者はお前だと確かめることすら出来ないのだ。
「どうして迎えに行かないんだ? ちゃんと娶るんだろう?」
「……ま、まあ、そのつもりだ。だがな、瞬」
追及の手は緩めず、やたらと噛み付く口調の瞬華に、悌夏は急に真面目な表情で呟いた。
「別に、お前が来てもいいんだぞ」
その言葉に――瞬華は口に入れた桜桃を、つるりと飲み込んだ。
「っ!」
「ん、どうした?」
喉を指さし大きく咳き込む瞬華の背に手をやり、優しく撫でる彼に、瞬華は切れ切れに答える。
「水! みず……!」
「ああすまん、ほら」
差し出された椀に入った水で喉につかえた水菓子を流し込む。
やがて桜桃が胃に落ちた感覚を得ると、瞬華は意外ともとれる目線で悌夏を見た。
「真顔でそんな冗談言わないでくれ」
「冗談? いや、俺は本気だが」
ごふっ、瞬華が今度は飲みかけた水をむせかけ、慌てて袖で口元を隠す。
「も、もうその話はいいから! だからと言って、命じるのも駄目だからな」
悌夏の目線がゆるりと彼女のそれと合い、しばし見つめ合う。
しばらくの後、彼の肩がはっ、と反応した。
「しまった、その手が――」
「だ、駄目だって言ってるだろう!」
やたらと大きな声でそう駁して、一転、瞬華は声をひそめた。
「貴方には許婚者が居る。その方を早く探せ、私も手伝うから!
いくら足掻いても、私はその方の代わりにはなれない。それに命じられてしまったら、私は抗えない」
「瞬。俺の探し人は……」
しかしその言葉を最後まで言い終わる前に、命令に抗しきれない、不安な瞳が彼を射た。
どこか可憐な表情の瞬華に魅せられ、彼は喉まで出掛かった言葉を再度無理やり飲み下してしまった。
「探して、見つからなくて、その上でどうしてもというなら命じてくれていい。その時は、ちゃんと……」
「……ちゃんと?」
期待に満ちたひとつの視線に、瞬華は諦めたように微笑む。
「ちゃんと、対応させてもらうぞ。『業務』としてな」
悌夏の肩が、負けを認めたようにがくりと落ちた。
「片っ端から業務、業務と……俺の希望はすべて業務で片付けるのか、お前は。
……ならばいい。もう結構だ」
空になった椀を彼に手渡しつつ、瞬華は元の怜悧な表情を取り戻しながらしれっと言い放つ。
「貴方は色々と脇が甘い。許婚者を娶る前に、もう少し奸知というものを知っておくべきだと思うぞ。今の貴方は、存在からして無防備も甚だしい」
そう指摘する瞬華に、悌夏は隻眼を向ける。
「奸知など……お前が解っていればいい」
「悌、それでは駄目なんだ。これは貴方自身がちゃんと身につけなければ――」
「お前が傍に居るなら、その必要もない」
そう強調して、小枝を持ちつつ口に運ぼうとした桜桃が、悌夏の手からひょいと逃げた。
「ん」
彼の手に残るは小枝のみ。
目の前にぷかりと浮くは小さな紅玉ひとつ。
その仕掛けは四寸程の細い鉄針――瞬華の手首に仕込まれていたそれが、裏側から桜桃をぷつりと突き刺していた。
「瞬、何してる」
「貴方は時々、短慮に過ぎるときがある」
真面目な顔でそう諭すも、悌夏の顔は鉄針の先の桜桃を見つめたまま動かない。
「行動を起こす前に――」
口を開け、その顔ごと宙に浮く桜桃に齧り付こうとして、再びひょいと往なされる。
「動けばどうなるかくらい、少しは考えておいてくれ」
瞬華の手が僅かに鉄針を動かすと、再びぷかりと桜桃が宙を泳ぐ。
悌夏の隻眼がその方向へとじりじりと動く。さながら獲物を狙う猫――否、虎のような様相で宙に浮く紅玉を見つめる悌夏に、瞬華は呆れたような声で諭す。
「それから。罠を張り巡らせた場所に、真正面から突入するようなことは絶対にやめてくれ。知らなかったとはいえ、私も似神に死なぬ身にされていたんだ、条件は悌と互角になる。
私が罠に関わる以上、少なからず貴方に傷はつく。当たりどころが悪ければ死に至ることだってあるんだ、それをよく覚えておいてくれ。
私は、貴方に死なれては困るんだ」
その言葉に、桜桃を追っていた隻眼がふと彼女を見た。
「瞬、俺は……」
「わかったな」
そう言葉を続けようとして、瞬華の声が重なる。ゆっくりと駄目を押すようなその確認に思わず頷くと、瞬華はふと微笑みを浮かべた。
「わかったなら、いいんだ」
桜桃が、唇に軽く押し付けられる。
桜桃と口づけているような形を保ったまま悌夏が怪訝な表情を投げかけると、瞬華がくいと顎を上げ、あーん、と口を開くよう促した。
やはり色っぽく見えるその仕草に、つられて悌夏も口を開く。瞬華は鉄針の先に刺さった桜桃を悌夏の口の中に差し入れてやると、彼はぱくりと食いつき、そのままもぐもぐと口を動かした。
「俺は……お前になら、命を張れるぞ」
ぼそりとそう呟いた悌夏に、彼女は鉄針を拭き取りつつ、冷静にこう返した。
「悌。常々思ってはいたが、その科白も少し考えたほうがいいぞ。
そもそも貴方はただでは死なぬ。堂々と空約束をするのは、見ていて少し痛々しいものがある」
しかしどうしてこう、この男は何かにつけ個人的な関係に落とし込みたがるのだろう――瞬華は彼の直情的な言動を眺めながら、内心首を傾げていた。
*
「で、これが屋敷か」
「ああ」
与えられた屋敷を目前に、悌夏は隣で所在無さげに立つ瞬華をいとおしそうに見つめ、唇に優しげな笑みを浮かべていた。
「瞬。今日、この後は?」
「貴方が暇なら、私も暇、と言ったはずだ」
「では俺たちで用事をつくるか。新築の祝いに酒でも贈ろうかと思うが、どうだ」
突然の申し出に、彼女がふと悌夏を見上げた。
「……いいの?」
「お前こそいいのか」
逆に問われ、瞬華は曖昧に頷く。
「ああ、私なら問題はないけれど」
「よし、では今晩、上がらせてもらうとしよう。良い酒を用意する」
ちらりと後ろを振り返り、周囲に人気の無いのを確認すると、悌夏はおもむろに瞬華の肩に手を掛けると、その頬に唇を寄せた。
硬めの髭の感触がざわりと触れ、瞬華が驚きに身を震わせた。
「おい、悌……!」
「ああ、悪い。ちと拙速だったな」
「ここは往来だ、妙なことを……」
抗いかけるも、彼女より上背のある悌夏の身体は、瞬華の身体をすっぽりと覆い尽くす。
「ちょっと待て、離してくれ」
「せっかくだ、拙速ついでにいつものを貰うか」
「しかし、こんなところを見られたら」
「命令だ、くれ」
言う間に指が顎を捉えると、仕方なしに彼女の瞼が閉じ、襟元を掴み掛けた彼女の手が、諦めたように彼の袖に滑っていく。
ややあって重ねた唇を解放してやると、瞬華は呆れた表情で悌夏の身体を突き離した。
「知らないぞ、見られても」
「一度は見せておくのが礼儀と聞いたが。違ったか?」
周囲をそれとなく確かめつつ照れたように指で唇を拭う姿に愛らしさを感じながら、悌夏も彼女に倣いぐるりと周囲を見回した刹那、瞬華の姿がその視界からふと居なくなる。
「おい、瞬」
焦って振り返りかけた悌夏の腰に、真後ろからごつんと衝撃が走る。
それが彼女の正拳と気づく前に、背後から彼女の冷ややかな声が浴びせられる。
「勘違いするな。私は貴方の目、貴方の護衛だ。自分の目玉をいつまでも愛でるんじゃない」
「……そうだったな」
腰に手をやりながら、触れた拳を包み込んで死角から引きずり出すと、見えるところに居ろ、と彼女を右前に押し出した。