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接吻

 幾度も触れては離れていく、やわらかな彼女の唇を愉しみながら、悌夏はあの夜のことを思い出していた。


 数月前、悌夏は彼女に一目惚れした。

 最初の接触は、とある砦から連れ帰ったことだった。

 大きな瞳、長い睫毛まつげ、華やかかつ怜悧れいりな容貌――間者という職にあるものの、決して影に埋もれることのない美貌に、悌夏は一目で心奪われてしまった。


 そのはらに一族の復讐を秘めながら、かたきである軍師、何首烏かしゅうの側に隷属同然で付き従っているという、二重にじゅう埋伏まいふくを粛々と行っていたとも知らず、悌夏は一時いっときの雨宿りとして彼の部屋に潜り込んだ彼女を口説き落として――正確には、他者に盗られまいと嫉妬にくあまり――彼女を我が物とした。


 だが、二人は契ったにも関わらず、まるでその件が無かったかのように、表面上は振舞うようになっていた。


 それは悌夏と彼女とのあいだにある見えない壁――そして彼女の内にある不可侵の領域の存在にある。


 後朝きぬぎぬ、彼女が悌夏に見せた秘密。

 彼女の腰から背に描かれた、繊細な筆致の芙蓉の意味を知っていると、悌夏はその後幾度となく匂わせてきたのだが、彼女は昔のあるじを隠居に追いやった後も、『瞬華』という存在としてこの国に腰を落ち着けている。


 彼女は未だ、真の名を名乗ってはいない。


 極めて冷静に一線をひき、その線を絶対に越えては来ないし、逆に求めてくることもない。分をわきまえているといえば聞こえはいいが、他人行儀に過ぎるといっても良いくらいの距離感を、未だに瞬華は取り続けているのだ。


 それは彼女が間者の経験ゆえに、人の扱いに関して割り切り過ぎているきらいがあることも理由の一つではある。


 悌夏にとってもあの夜為せたことはそれだけで、瞬華の正式な返答を得たわけでもなく、結局のところ主従の延長でしか悌夏を見ていないのではないかという疑問も残る。


 何か手伝おうとしても、彼女は誰にも頼らず、関わらせない。武であれ知であれ、全て独力で考え、組み立て、最低限の相談があった次の日にはすでに実現しているという有様だ。


 悌夏とて周囲の情報に気を配り、些細な報告に耳を傾ける余裕はあるのだが、こと彼女一人で策を巡らせているものに関しては、周囲も恐ろしく口堅いというおまけまで付いている。悌夏より、明らかに戦いに関する才能なり、知識なりが備わっているのが実際のところなのだ。


 ただ、彼の本心である霆夏ていか――この表記は蒼弦に名をたまわる前の名である――は、芙芙の良人おっととして、未来の妻としての瞬華の人間的な側面をでき得る限り見てみたいと欲する。他愛もない我儘や愛情表現、嫉妬、焦り、悲しみに至るまでも、彼女を愛する男として、全てを見てみたいし、担ってやりたい気にさせられる。


 とはいえ、せっかくうまくまわっているものにけちをつけたいわけでは決してない。


 あるじである悌夏が彼女に一言「従え」と命じるなら、有無を言わさず従わせることも出来てしまうし、蒼弦も認める美女と評される彼女をはべらせながら、彼女の愛も欲しいと悩むのは贅沢な悩みといえばそれまでなのだ。瞬華が彼に従い、主だった不平不満も出てこない以上、この主従関係が既定路線になってしまうのではないかと、常に冷や冷やとしている。


 隣に居て面倒を起こす事もなく、平時は彼の側に静かに控え、必要なときに必要なだけ存在感を発揮する。完璧なまでの助け手に徹する、そんな彼女を手に入れてからというもの、悌夏の身にある劇的な変化が訪れていた。


 彼の行動は全く変わってはいないにも関わらず、諸将から発せられていた不名誉な二つ名――主に『刺史上ししあがり』とか『凡将ぼんしょう』などという――が、ぴたりと止んだのである。


 変えたといえば、瞬華から「これはちょっと」と言われた言動を改めただけなのだが、瞬華による何首烏襲撃事件――実際には何首烏による国家転覆計画の阻止なのだが――を八方丸く治めて以降、理を解し義に厚く懐深い一将星として周囲に強烈に認知され、その過程で瞬華を手に入れた事によって、彼の存在価値が跳ね上がると同時に、彼女が側にいることの実利、宣伝効果、そして策とはいえ何首烏がいかに彼女の恩恵を受けてあの地位にあったかをも痛感することになった。


「……っ」


 考えに考え過ぎ、抱きすくめた腕の力に彼女が苦しげに声を漏らすのが聞こえ、悌夏は一旦唇を離した。


「すまん」


 そう囁いて、耳下から首筋に掛けて唇を滑らせる。

 再び彼女の唇に戻ると、まぶたを軽く閉じて彼の動きを待つその表情を好きなだけ侵食していきながら、悌夏は彼女と深く熱い口づけを続けていく。


 配属当日の夜に開かれた、彼女の歓迎会という名の逢引あいびきを終えた帰路、我慢ならず半ば襲い掛かるように奪い取ったのが、この『業務』のそもそものきっかけである。


『俺の望む時に、こうさせてくれ』


 誰にも触れさせたくないあまりに放ってしまった、無責任かつ拒まれること前提の一言だったのだが、あろうことか、瞬華は指先で軽く唇を拭いつつ、怜悧な顔のままでこう言い放ったのだ。


『いつでもどうぞ』


 翌日、その提案は正式な契約となって、なんと彼女の側から提示された。


 一、悌夏あるじの求めに従うこと。

 ただし、悌夏あるじの求めが従者の体調に支障をきたす場合、従者の都合を優先すること。


 但し書きはそれのみで、それ以外の雑多な取り決めの文は追記されなかった。つまり意味するところ、彼女の体調さえ優先すれば、自らの心ひとつで行くも止めるも自由、その制限すらない、ということだ。


 今回が四度目となるこの『業務』――悌夏も最初は軽く重ねるだけに留めるつもりでいるのだが、彼女を前にすれば、そんな決意は毎回はるか彼方にぶち飛んでいく。


 接する時間は長く、密度も濃く、少々の飛び火もする。だが一向に何も言われないし、不思議と拒まれたことは一度もない。業務と割り切っているようにも見えるのに、拒まない理由を彼も聞かないし、彼女も明かそうともしない。ただ『業務』という細い認識の糸でのみ繋がっているだけなのだ。

 名残惜しそうに唇を離すと、心配そうな声で瞬華が囁いてくる。


「もう、いいのか」


 そんなはずなどない。

 本当はこの場で仕事を放り投げ、我を忘れてしまいたい――だが、それは環境が許さない。


 実際には調合室このへやでのんびりしている余裕はなく、彼に会うため遠路はるばる陳情に訪れた民への面会がこの後に控えている。


 彼女に溺れ「今日はお会いにならないそうだ」などと衛兵に言わせるべきではないし、面会を後回したところで彼女が喜ぶとはとても思えない。


 自分のために、彼女のために、ずっと大切な関係を保つためには、わずかに残った理性を振り絞るしかない。


「……ああ、もう大丈夫だ。

 木々の手入れが終わり次第合流してくれ、お前の同席が要りそうな案件が来ている」

「……わかった」


 精一杯そう強がりながら最後に一度、強く抱きしめ合ってこの儀式は終わる。

 それがこの関係を続ける最善の道――瞬華の全てが欲しいという切なる願いを、相変わらず秘めたままで。


   *


 悌夏が調合室を出たあと、瞬華は残った作業を片付けながら、ぽつり困ったように呟いていた。


「芙蓉門は、天崖郷を守る為に居るというのに……。

 言葉で確認などしなくとも、私は――なのに、従っているだけでは駄目、とは……」


 がり、と頭を掻きかけて、ぐしゃりと結い上げた髪が崩れる。


「……ああ、もう」


 不潔に見えるからやめろと叱ったはずの彼の癖。

 気がつけば移ってしまったことに、刹那、瞬華は何とも言えない渋い表情を浮かべると、乱れた髪を結いなおすべく、さらりとそのくくりを解き放った。


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