書簡
月季は花がほころぶような可憐な笑みを浮かべていた。
「その様子では、代筆ではないようだな」
「ああ。まだ生きている。良かった」
貰った書簡に大切そうに目を通し、一度胸に押しいだいてから、丁重に書簡を懐にしまうそのさまを見届ける。
「都督もやはり人の子か」
「お前も同じだろう。ずっと向こうばかり気にして」
月季が降りあおぐと、角楼の姫墻に腰掛けた瞬華が、地平に灯る、夜営の微かな瞬きを眺めながらゆっくりと伸びをしていた。
「昼間、内通者が接触してきた。金札が出されたと」
「頭越しだと? まだご執心なのか、あいつらは」
「らしいぞ」
「……不幸なことだ」
ああ、と思わせ振りなため息をついた隣で、瞬華がちらりと目線を下ろした。
「月季、お前に訊きたいことがある」
「なんだ、藪から棒に」
「個人的な話だ。適当な相談者がいなくて困っている。お前への協力の見返りに、少し知恵を貸してもらえれば助かる」
ああ、と唇に笑みを刻むと、月季は瞬華に続きを促した。
「話というのは──主のことだ。
ここに来る前まで、私は故あってある男の従者をしていた。だが彼は四六時中、私に構ってくる。どこに行くにも身動きが取れなくなり、実際、業務に支障が出た」
姫墻に寄りかかり、月季は静かに瞬華を見上げた。
「面白い奴だな。死なぬというに、悩みは人間のままだ」
「私はお前のように志願してはいないんだ。ある出来事で己が死なぬと分かったものの、性根は急に変わらなかった」
「ほう?」
興味を引かれたのか、月季は探るような口ぶりになった。
「主殿は厳しくしつけたのか」
「ああ。あまりに酷いので時間の要りそうな仕事ばかり勧めてやったが、しっかり片付けて抜け出してくるようになった」
「それは素晴らしいじゃないか。主にそうまでされたなら、そのまま愛妾にでも収まれば良かった」
「それが……彼に妻は居ないんだ。口の上では、ずっと生き別れた許嫁を探していると」
月季はちらりと瞬華を見た。
「なるほど。それは、はた迷惑な」
「離れる前は、私が彼に教えることも多かった。だから距離も保っていられた。だが……」
瞬華の頭上、澄み渡った薄暮の空に星がぽつりと輝いていた。
「わかるんだ。近く、彼は私を追い越す。そうなった時、私はどうあるべきなのかと」
「嫌なら国には戻るな。離れておれば、どう扱おうが気になどなるまいよ」
まるで茶化した声を投げる月季に、瞬華は腰掛けた姫墻から不満げに見下ろした。
「出来ぬ理由がある。だから訊いている」
月季はちらり表情を窺った。瞬華の表情が真に迫るものだと理解すると、今度はゆっくり、言葉を選びつつ口を開いた。
「人たらしだな、その男は」
「人、たらし?」
耳慣れぬ言葉を確かめるように瞬華が繰り返した。
「老若男女のべつくまなく魅了してしまう困った人間を、この世ではそう呼んでいる」
幼くも涼やかな声でそう語る女都督に、瞬華がふと振り向いた。
「月季、彼は……隻眼なんだが」
「できるさ。人たらしたる者に美醜はない。
そこにいるだけで周囲の人間を絶えず魅了し、徐々に、だが確実に周囲を変えていく。よいようにも、悪いようにも」
瞬華は、ふと彼を思い出していた。
幾度となく目にしたのは、地位の別なく人に囲まれ、何やら楽しげに話に興じる背中だ。面識のない多くの人間と楽しむ話題があるのか、彼女の理解を越えていたからだ。
「あれは、魔性なのか」
「天性のものもある。努力や挫折を経て境地に達する者もいる。どちらにしろお前はその人たらしに魅了され、すべての判断を明け渡そうとした──だから、急に先が見えなくなったのだ」
「魅了……。そうか」
求めていた答えを見つけたのか、どこか安堵し納得したような反応を見せる美貌の間者を見上げると、月季は眉根を寄せ、思案を巡らせる彼女に触れた。
「まだ答えてやれるが?」
「あ、ああ」
手招く月季に応え、瞬華は姫墻から静かに降りると、腕組みをし婉然と微笑む女都督にさらに問うた。
「しかし、その能力があるならば……私を魅了したなら好きに使い倒せばいいはずだろう。傍目からは、彼は私を気に入っていると、周囲に隠しもしていない。
ただ──その上で私に呆れたことがある。『お前は他人や己の心にも無頓着だ』と」
月季がふっと吹き出した、ように見えた。
「ああ、わかった。――お前、靡こうとしたんだな」
刹那、瞬華の内部が、かあっと熱くなるのを感じた。
思わず顔をそむけ、表情を隠した瞬華の姿を見やりつつ、月季はくすりと笑んだ。
「話を総合した。お前たちは共に規則的なやり取りをしていたようだ。だが、ただ一度だけ、お前は己の欲望を優先せざるを得ぬ事態に陥った。
理由について私が知る由もない。だがお前にとっては何かとても重大なことだ。だがお前はその何かを明かさぬまま、ただ勢いで靡こうとした。
たいていの男なら、女に誘われたら断らぬもの。だがお前が断られた場合、少々話が違ってくる」
人を食ったような反応から一転、半ば興奮気味に言葉を並べた月季は、ひどく生気に満ち満ちた表情で瞬華の顔を覗き込んだ。
「お前は後に温経の牡丹となった。そのような美女の誘いを断る男、この世にそうはいない。
お前の欲望と、お前が隠した何か。二つをすり替えたことにも気づき、わざわざ警告まで残している。判断は極めて冷静になされている」
「……そう、だったのか」
「怖いだろうな」
「……ああ」
「先方は、お前が秘密を抱えていることに気付いている。その上で、荷を全て解けと迫ってもいる。
望みは心服だ──もちろん容易に出来ぬと承知の上で」
月季は意味ありげな、妖しい笑みを浮かべる。
「心服? 私は――」
「心からは服従していない。おおかた……」
細い指先がついと瞬華の顎を捕らえたかと思うと、月季はためらいなく瞬華と唇を重ねた。
「! ……お前!」
柔らかでみずみずしい唇にも関わらず、刹那のうちに沸き上がる違和感に思わずもぎ取るように頭を離すと、月季は妖艶な笑みを浮かべた。
「つれないな。『奴』も私も、したことは同じというに」
その言葉に──瞬華の頭がふと何かを理解した。
「上策は、あるのか」
月季は姫墻に頭を預けたまま、しばらく頭上の星を仰いだ。
「気にするな、としか」
あっけらかんとした答えに、瞬華は刹那、返すべき言葉を失った。
*
「よく考えてもみろ。秘密に気づいたのも、それを明かせと迫るのも、あちらが勝手にことを進めた結果だ。あの手の人間は止めようとしても止まらん。
そのうち勝手に答えも得て、ひとり傷つき思い悩む。所詮はあちらの勝手で始めたこと。お前の知ったことではない。合わせてやる必要もない。ましてや自ら責めることではない」
投げやりとも思える返答に、瞬華の顔が徐々に気色ばんでゆく。
「月季……対策が、それか?」
いら立ちを隠そうともしない瞬華の語気に、月季はふん、と鼻で笑い飛ばした。
「考えてはみたが、どう策を講じても勝算がない。先方はもう何倍も、お前という人間を知ってしまった。
仮に先方がお前を手にしても、それ以上をどうこう企む気は感じられない。ならばせいぜい向こうの思うがままに誑されて、真のお前とはどんなものか、手取り足取り教えて貰え。そのほうが互いに話が早い」
「それでは困るから聞くのだろう! 私は彼の護衛をする身なんだ。黙って誑されろなんて、そんな――」
本当に解っていないんだな、とばかりに嘆息すると、月季は瞬華に向かって微笑みかけた。
「おまえ自身なのだぞ。契約とやらを盾に抗っているのは」
瞬華の目が、ぱちくりと瞬いた。
「……なぜ知ってる」
あはは、と幼貌の都督が笑った。
「良姜に話したろう? あいつの口は軽い。お前が思っている以上だぞ」
「あいつ……!」
あはは、ははは、と夜闇に幼い笑い声が響いた。
瞬華が顔を曇らせる横でひとしきり大笑いした後、月季は目尻に浮かべた涙を指先で払った。
「恐がる必要はないさ。一度真実がもたらされたら、互いの過去など消え失せる。残念だが人誑しに見せかけの服従は通じない。しばらく策は引っ込めて、なるように任せろ。あとは向こうが、勝手にどうにかするだろう」
小さく肩をすくめ、月季は姫墻から身を起こした。
「さあ、そろそろ頃合いだ。行かなければ」
「どこへ行く?」
「つまらぬ会議だよ。延曲さまがこちらに到着された。兵糧の件で、今後の話をせねばならない」
名を出され、瞬華がああ、と今更ながらの表情を浮かべた。
「……忘れていた。やっと顔が拝めるのか」
「期待するな。決して気持ちの良い男ではないよ」
本音と思える語気で吐き捨てたあと、月季はちらりと悪戯っぽい笑顔を瞬華に向けた。
「とはいえ、久々に面白い話が聞けた。軽率に人を辞めるべきでなかったわ」
*
「ちょっと、月季?」
深夜の通路、対面から侍女数名を引き連れた月季に行き会ったことで、良姜は思わず彼女を呼び止めていた。
「良姜か。すまないな、これから行くところがあるから」
「その恰好……夜着じゃないか?」
「ああ、そうだが」
「そんな格好でどこに行くんだい」
良姜の片眉が、怪訝そうにくっとつり上がる。明らかに面白くなさそうな表情を醸し出すと、月季は呆れたように微笑んだ。
「少し顔を出すだけだよ」
「顔?」
行こうか、と侍女に促し、その場から立ち去ろうとした時、良姜の手が彼女の衣に引っ掛かった。
はらりと上衣がはだけ──良姜はそれを見た。
「!?」
月季の背が、炭のように真っ黒く染まっていた。
否。
彼女の背は。
数限りない、大小の焼印で隙間なく焼かれていたのだ──。
*
「……何の、会なんだい」
「何って……延曲さまに陳情を。お前を取り立ててもらえるように」
「こんな、夜中に……?」
「夜更けでないと会ってくださらないんだ」
それって、と言いかけた良姜を遮り、月季は微笑んだ。
「良姜。お前にはもう言ってあるぞ? 私の肌は、既に熱も痛みも分からぬと。分からぬものは無いと同じ、そうだろう?」
――お前、一体何を言っているんだ?
良姜の眉間に、にわかに不信を示す深い縦皺が寄った。
それは、肌を痛めつける感覚が無い故にできること。
密かに身体に行うそれは、彼女には見ることも、感じることも出来ぬけれど。
「悪いな。もう行くよ」
「月季!」
山賊上がりの彼女の有能さが如何なく発揮できた原因がこれだと、良姜にはその時はっきりと理解できた。
表面上はみな彼女にかしずいている。それは彼女が、君主お気に入りの『玩具』だからだ。
玩具は替えがきく──彼女より『良い玩具』が既に手に入っているならば、君主の機嫌ひとつで、いつすげ替えられても問題にはならない。
あたりを見回しながら、見知った顔の侍女が扉を閉めた。振り返ったその頬が、侮蔑にまみれた薄笑いを浮かべた刹那、良姜は思わずはっと目を瞠った。
「俺は、なんて……」
彼らは、彼女らは何も思いなどしないのだろう。
玩具を愛そうと傷つけようと、城内の誰も気になどしない。せいぜいそれが壊れるさまを、黙って見届ければそれで良いのだから。
黒く焼け焦げた背中が、未だ彼の目の裏にちらついていた。
近く彼女は使い捨てられるだろう。そして凶手は、遠からず己の身にも――。
ざっ、という音とともに、夜闇を大粒の雨が叩きつけ始めていた。
「今しか……なさそうだ」
気がつけば、良姜は駆け出していた。
月季を、守らなければならなかった。
月季を守り、保護できるところであるなら、行き着くところはどこでも良くなった。
この身の軽佻浮薄ぶりを活かすのは、今をおいて他になかった。
走る。走った。
顔に雨粒が叩きつけ、足は泥濘に取られて汚れ、彼は幾度もその身を大地に這わせた。
しかし幸いにも泥濘は彼の足跡をどろりと呑み込むと、夜明け頃には出奔したことすらも、知らぬ振りをした。
*
「悌夏さま、門の外に、露蜂房の良姜と申す者が」
「来たか。通せ」
悌夏の幕舎の前に引き出された良姜は、全身泥にまみれた姿のままで崩れるように膝をつくと、
「お助けを、どうかお助けください! ……お願いします……!」
声の続く限り叩頭拝跪を繰り返すその姿を悌夏は見下ろすと、一言「汚れを取ってやれ」と兵士に命じた。
こうして良姜は、命からがら出奔に成功する。
拐った瞬華を擁していた朮軍、悌夏の駐屯地に。