視線
視線を感じる。
ちらちらと、幾度も、幾度も。
開け放たれた出入口をその人影が通り過ぎるたび、視線がこちらを覗き込むのがわかり、瞬華は思わず辟易としたため息をついた。
「どうされました?」
老境の武官にそう促され、彼女はふと書面に向けていた顔を上げた。
「……いえ、何でも」
「続けてもよろしいでしょうかな」
「ええ、お願いします」
答えてすぐに、それていた視線が、再びこちらを向いた。
熱い。
髪を結い上げた、うなじの辺りが。
鋭くも好奇を秘めた、たったひとつの眼差しは、自らが無遠慮だと認めながらも、押さえきれない好奇心に煽られるように、こちらを黙したまま見つめている。
熱い。
少し席を立って殴りつけてやりたいほどに。
送られる目線でちりちりと焦がされるかのように熱くなる首筋を、彼女は冷めた手のひらですっと覆った。
もう見るな、集中できない――そう告げるように。
辛夷が勇退を決めた。
辺境の一青年だった悌夏を数年で一人前の武官として育て上げた彼が、悌夏の隣から退くことに伴い、彼の持つ全ての情報を、彼に代わって護衛に就任した瞬華へと引き継ぎを行なうべく、悌夏の執務室と部屋続きとなっている応接室を借り、こうして話をしているのだ。
「悌さまは、年齢にしては分別のある方です。
酒は嗜まれますが、前後不覚になることはありますまい」
「ああ、やはり」
「ええ。ああ見えて結構気を使われる方なのです。私など、あまりに居心地が良すぎてしまって、果たしてどちらが主なのかと……たまにわからなくなることもありましてな」
「まあ、確かにその点は……」
扉は開け放しており、会話の内容は筒抜けも良い所だ。辛夷も辛夷で気を使っているのか、悌夏のことをそれとなく褒めたり持ち上げたりしている内容が、隣接した悌夏の執務室まで漏れ聞こえている。
部屋の外、執務室と応接間をつなぐ小さな通路でうろうろと歩き回っていた足音がぱたりと途切れた。
やがてちらりと応接室に顔を覗かせた隻眼の将は、椅子を並べ、背を向けて話し合う二人に自信ありげな声を掛けた。
「おい、瞬華。話をしたい。少しいいだろうか」
「今は辛夷殿との引き継ぎ中でございます。それが終わり次第、いつでも」
だから今は割り込むな、と――振り向くことなく伝えるも、当の悌夏は意に介していないかのように答える。
「では、それまで外しても構わんか? 少し準備して来たいのだが」
勝手にすればいい。
そんな棘のある言葉をしばらく口内でがりがりと噛み砕くと、瞬華はその言葉を吐く代わりに薄く微笑んだ。
「どうぞ。――ああ、悌夏殿」
去りかけて足を止めた彼に、瞬華は声をかける。
「今日は少し、薬草の手入れをしなければならないのです。私が執務室に居なければ、調合室に居りますから、お手数ですがお探しいただきたく」
「おう、わかった」
声は平坦、極めて事務的にそう告げたにも関わらず、心なしか楽しそうに、悌夏は片手を挙げて応えた。
*
引き継ぎが終わり、水差しを抱えた瞬華は、ひとり厨房の入口で炊事係の女官に声を掛けていた。
「済まない、水を貰えるだろうか」
水差しを抱え、外に設えた井戸の方へ足を向けた女官の後姿を目で追うと、井戸の端に一際高く逞しい背が見えたことで、瞬華は刹那、目をこらした。
「何をしてるんだ、あんなところで」
その後ろ姿はどう見ても、彼だ。背を向けた不審な動きは、しきりに口の中をせせっているように見える。そのうちちらりと横顔が覗いたもののこちらの視線に気づきもせず、房楊枝と思われるもので入念に歯を磨いているとわかった。
やがて借りてきたと思われる木の椀に水を注ぎぶくぶくと口を漱ぎはじめると、瞬華の側にも水を満たした水差しを手にした厨房係に声をかけられる。
「お待たせ致しました」
「ああ、ありがとう」
――……なんでああも分かりやすいのだ、あの男は。
心の中で独りごちながら、瞬華は受け取った水差しを抱えると、そのままくるりと背を向けた。
**
藍城の隅、急ごしらえの簡素な渡り廊下を踏み、悌夏は調合室と書かれた板のかかる小屋に、そろそろと忍び込んでいた。
ちらりと背後を気にすると、後ろ手に静かに扉を閉める。
陽光を出来るだけ遮った涼しく仄暗い部屋の中、ずらり整然と並ぶ素焼きの瓶には、皮革と紐でしっかり蓋と封がなされ、素材の名前の代わりに番号が記されていた。
「おーい、瞬」
声を殺し、親愛なる女性の愛称を呼ばう隻眼の将は、注意深く部屋を見回しながら彼女の姿を探す。
「おい、いるのか?」
「私ならここだ」
背後から声がし、悌夏はぎょっとしてそちらに顔を向ける。と、彼の視界の死角、入り口に近い薬草棚の奥から瞬華が姿を現し、悌夏は胸をなでおろした。
「お前……気配を消すな」
「そこの隅で少し記録をしていた。別に気配は消してない」
植物を扱うにしては整然とし過ぎた空間――ここは、彼女が隠居に追い込んだ軍師、何首烏の屋敷に置いてあった薬草の鉢を全て城の敷地内に持ち込み、薬草園として一時的に間借りした一角である。
水や肥料をやりに来る瞬華以外に立ち寄る者もなく、また薬を勝手に調合できないよう工夫されているため、彼ら二人の密会にとって今のところ最適の場となっているのだ。
「済まないな、わざわざこんな場所で」
「お気になさらず。……さて、伺いましょうか。辛夷殿の前では出来ぬ話とやらを」
そう声を掛けつつも、瞬華は脇に書き物用の板を挟んだまま、瓶の口に張られた皮革の蓋を外し、中の薬草の量をひとつひとつ確認していく。静かに在庫の確認作業を再開する己の護衛の背を、悌夏はじっと見つめた。
「あ……ああ、そうだな」
黙々と作業を進める瞬華の背に向かい、徐々に距離を詰めていく悌夏は、無難な質問から問うていく。
「その前に、だ。何か困ったことはないか聞きたい。俺の軍では、お前一人が女だからな」
上官部下としての距離から、男女の距離へ――歩み寄る彼の動きを足音から読み取ると、瞬華は手早く薬草の瓶に封を施し、寄ってくる彼の前にすっと立ち上がると、言葉をほんの少しだけくだいた。
「特に問題はないよ。悌の軍は世辞抜きに規律正しいから。
居心地に文句はないんだ。今のところ、他の者に妙な言動をされたことも、襲われかけたなんてこともない。安心してくれ」
「ああ、それは……良かったな」
「話は以上?」
「ん? まあな」
「そう。では、少し作業に集中してもいいかな」
振り返りつつ、彼の脇をすり抜けかけた瞬華を、悌夏の身体が制した。
「瞬華」
「何でしょう?」
じっと彼女を見る悌夏の喉仏が、その時ごくりと大きく動いたのに気付き、瞬華は少々迷惑そうな顔をした。
「まだ何か?」
「あ、ああ……兵卒から聞いたんだが。お前、医術の知識をもっているらしいな」
「少しだけな。体の不調か?」
水を向けてみると、彼は嬉しくも――否、さも重病そうに声の調子を落とした。
「まあ、そのようなものなんだが。相談というのは……最近眠れなくて、困っていてな」
気づいてくれ。
そんな期待が込められた視線と口調で問うてくる隻眼の将の姿に、瞬華はひどく真面目な表情で問い直す。
「眠れないのか?」
「ああ、そうなんだ」
「体が睡眠を欲していないだけではないのか? 眠れないなら、無理に眠らなくてもいいんだぞ」
その返答に、悌夏が明らかに首をひねった。
「いや……そういうわけじゃ、ないんだが」
「運動不足ということもあるな。悌夏殿は、最近あまり動いているように見えない」
「運動はしてるだろう。あの罠砦にどれだけ俺が振り回されてると思ってる」
しかし彼女の表情は顎に手を当て、真剣そのものに切り替わっている。
「うーん、あとは……何か気になることがあるか」
「そう、それだ! ……多分それだ」
やっと出た正解に近い意見に大きく反応するも、瞬華の表情は更に気難しいものになっていく。
「うん? 気になることなどあったか? 周辺は平和、現時点で裏切りの兆候もないし――」
ふと、目線が合った。
その眼光で穴でも開けられそうなほどまじまじと見られ、その原因が瞬華本人であることを悟った彼女は、静かに合った目線を外した。
「……真面目に相談に乗った私が愚かだったかな」
「仕方ないだろう、お前が気になって眠れんのだ、俺は」
そう。
悌夏には彼女から是非とも聞いておきたい言葉があった。
一つは非常に単純明快な好意の言葉。
そして彼女の正体に関する告白の言葉。
彼は未だに、彼女の気持ちはどこにあるのか、わからずにいたのである。
*
「どこかの砦の時のように、温経でも鷹揚に口説き通せば良かったんじゃないか? それならば、こそこそとこうして二人になることもないと思うんだが」
彼の心の動きなど知り尽くしているかのように、瞬華は悌夏の心に寄り添わず、敢えて解決の立場を取ると、刹那、主従は容易に逆転し、悌夏が食い下がる格好をとる。
「あ、あれはお前を引き抜きたいがために、相当気を張ってだな……当分あの異質な緊迫感は味わいたいとは思わん。お前には分からんかもしれんが」
「ほう? あの時はなかなかいい男だと思ったのに。強面の癖に、心は随分と繊細なんだな」
「い……いいだろう、別に」
ふいと横を向いて照れを隠す悌夏の横顔に、間者上がりの美しき将は優勢とばかりに容赦ない質問を浴びせかける。
「だが、既に一番の興味は満たしたはずなんだがな。それ以上に私の何が欲しいんだ、悌夏殿」
はっ、と悌夏の目が驚きに見開かれた。
「ちょっと待て。俺の気持ちは、先日伝えたはずでは……」
「ああ、聞いてる。だが私だって分からないことはある。
悌……貴方は一体、私の何が欲しいんだ」
やはりその問いが繰り返される――彼にとっては非常に扱いづらい、あの問題に。
何度強行に突破しようとしても往なされ、堂々巡りにはまり込み、傷持つ脛を蹴り上げられた挙句、蟻地獄に突き落とされるような感覚に、悌夏は反駁しようと口を開く。
「いや、だがな。こういったことはちゃんとお前の口から――」
「仕事が手につかないから言質を取りたいと?」
あっさり言いづらいことを先に言われ、悌夏は思わずうなだれた。
「そ、そう。その通り」
「悌夏殿。貴方は私を信じていないようだな」
ぴしゃりと言い切られ、思わず悌夏は彼女を見ると、そこには不機嫌そうに眉根を寄せる瞬華の表情がある。
「私は貴方に全てを任せ、従っているだろう。これ以上の答えがどこにある? 貴方は私に、それ以外の何を望むんだ」
「……」
強面の髭面が見る間にしゅんとしてしまった。
その様子に気づいた瞬華は少しやりすぎたと思ったのか、口調を改めた。
「なぜ、それを聞きたがる」
「え?」
「なぜか、と聞いているんだ。聞くからには意味があるのだと思うが」
やはり詰問調に戻りながらも瞬華が問いかけると、悌夏は一旦彼女から目線を外し、こう呟いた。
「……俺には、お前というものがよく解らない」
「悌。私のことなら、どう解釈しても――」
「それが分からんのだ!」
意図せず大声を発してしまい、悌夏は声をひそめた。
「お前は、普通の女とは趣向が大分違う。俺と同じように武器やら兵器、それから計略……なにかと物騒なものにしか興味を示さない。そればかりか……」
「そればかりか?」
「俺をどう思っているのか、お前の気持ちがどこにあるのか……未だに分からん時がある」
瞬華の口から、辟易としたため息が出た。
「従っているだけでは、不満ということか」
「そういう意味ではない。それでは単なる主従と何ら変わりがないだろう。
それにお前は人だ、牛馬とは違うんだぞ。
俺はお前から……人間的な言葉が聞きたいと思っているんだが」
その言葉に、ふと瞬華の表情が緩んだ。
「ああ、好きと言えと?」
「……あ、いや、だから……」
悌夏の脳裏に、何か違う嫌な予感がよぎる。
慌てて会話の流れを止めようとするも、瞬華の納得の仕方は悌夏の予想をはるか遠くに追いやるほど衝撃的な発言となって表れた。
「なんだ、それで貴方との関係が円滑になるのか。それなら、喜んで『業務』に加えさせてもらうぞ」
「ぎょっ……」
業務に加えさせてもらう――?
いきなりのことに泡を食う悌夏をよそに、瞬華はひとり淡々と業務の組み立てに入っていく。
「とすると、問題は頻度だな。毎日はさすがにしつこい……三日に一度くらいが適当か。時間帯は……」
「みっ……」
三日に一度くらいが『適当』……?
この女、どうしてそれを業務に押し込めようと考える――愕然とした彼の表情をよそに、「まったく、仕方ないな」とひとり納得しかけた瞬華に、悌夏は慌てて手で制した。
「いや、待て。それは結構だ。というより『業務』になどせんでくれ。鸚鵡のようにくり返されても、こっちは全く嬉しく……」
「ん? では今のは取り消しということだな。承知した。言わないでおく」
決めるのも早ければ取り消すのもまた早い。
どうしてこうも極端なんだ――そう思いつつ、あっさりと提案を引っ込めた彼女の表情がやはり変化しないことで、悌夏は諦め半分に口を開いた。
「お前はきっと、心の底からそう思わぬ限り言葉を出さん性質なのだろうな。済まん、時間を取らせた」
言って踵を返しかけた彼の背に、瞬華はくすりと笑いかけた。
「それはそうと、悌。本来の用事とは何だったのだ? 念入りに歯まで磨いてたようだが」
聞かれ、悌夏は本来の用事を思い出し、大仰にぐるりと振り返った。
「お前、居たのか?」
「厨房で水を貰っていたら、偶然見かけたんだ。主の姿ならば、もうどこにいても判別はつく」
「では……もう何をするか、分かっているな」
じり、と更に距離を詰めにじり寄る悌夏の姿に、瞬華は呆れたような声を発した。
「いつでもどうぞ、と言っているぞ? 主の求めとあれば、私は従うまで」
突き放した言い方をしつつも、いつもの理知的な顔が、珍しく僅かににこりと笑んだ。
彼の望みを理解しながらも、彼に請われるまでは絶対に踏み込んでは来ない瞬華に、悌夏は居てもたっても居られなくなると、おもむろに瞬華の両の肩をがっしと掴み、そのまま瓶の並ぶ棚と棚の隙間に隠れるように無言で押し込んでゆく。
「瞬」
壁際に閉じ込め、ぎゅっと両腕に力を込めて瞬華のたおやかな身体を抱きすくめる。
「瞬。命じた俺が言うのもなんなのだが……、本当にこれも『業務』でいいのか」
低く艶のある声で疑念混じりにそう囁くものの、瞬華の答えはまるで何かの口上のように完璧に近い響きを宿す。
「主との関係を円滑に保つのも、業務の一環でございます。
貴方に命じられて以降、私が拒んだ事がありましたか? それが無いなら、問題などそもそも発生していないのですよ、悌夏殿」
「……」
確かに。
言いたいところはあれど、回答に非を打つべき所が見つからない。
何故、彼女をこんな関係に収めてしまったのだろうか――全て、あの夜の拙速が招いたことだと思うと歯痒くて仕方がない。
「では……いつものをくれ」
「……はい」
別段抵抗する事もなく、そう答えた彼女の両の指先が、彼の両頬を挟むように優しく触れる。
瞼を閉じ、背を屈めた悌夏の顔に、瞬華は少しだけ背伸びをすると、やや乾燥した彼の唇に彼女のそれを、そっと重ねた。