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縁の糸

「桃源宮の様子を見てきた。随分荒らされたと聞いてはいたが……よく片付いておったわ。お前の心配には及ばなかったようだ」

「それは何よりだったな」


 朝議前。

 悌夏の執務室と蒼弦の寝所に挟まれた応接室で、朮丞相の青弦とその縁戚の隻眼の将は、過日引き起こされた後宮急襲の後日談を語っていた。


寵姫ちょうきたちが気丈であったのが何よりの救いよ。踏み折られた草木に関しては後日運び込むとして、大体の復旧の目処はたった」


 そう言って、安堵の表情を浮かべる。

 満足とは言い難い状況ながら、彼女たちの頑張りが功を奏したのだろう。悌夏もつられて笑顔を浮かべかけると、ふと思い立ったかのように蒼弦は悌夏に訊いた。


「しかし悌夏……どうやってあの者たちを動かした? あの場では、贅に慣れた者も多かったろうに」

「どうやって? いや、いつも通り大まかに指示しただけだぞ。君主の女につきっきりになって事がうまく運ぶならいいが……それがお前にとって好ましい事だとは言えんだろうしな」

「……まあ、な。しかし、今回の一件……わしのせいだな」

「取り戻す策はあるんだろうな」

「うむ、心配はないが……」


 声に張りがないのは、手だてがないと自白するようなものだと、悌夏は思った。


 瞬華が拐かされて七日が経過――手掛かりは皆無といっていい状況であった。

 だが国の先頭に立つものだからこそ、蒼弦は臣下に対し心配はないと言い続けなければならない。例え今現在救う手立てがなくとも、である。


「ま、あいつは俺などより相当に賢い。間違っても自ら窮地に飛び込むような女ではないことは確かなんだが……。かといって、こちらがいつまでも悠長にはしていられんが」

「……そうだな」


 済まぬ――そう口を開きかけた蒼弦をさえぎったのは、悌夏の部屋で待機する文官の呼び声だった。


「丞相、悌夏殿。鴉胆殿がどうしてもお目通り願いたいと申しておるのですが」

「どうしても?」

「はい。少し憔悴しておられる様子で」


 顔を見合わせると、黙って頷きあう。


「通してくれ」


 やがて文官に連れられ現れた鴉胆は、その瞳に言いようもない後悔を湛えたまま、悌夏の顔を見るなり、まるでその場に崩れるように平伏した。


「殿、悌さん……申し訳ありません!」

「鴉胆? お前、どういうことだ」

「どうもこうもないんです!

 瞬華の誘拐、俺が少しでも目を離さずにいたら、防げていたかもしれねえんです……!」


 いきなりそう告げられ、悌夏はすさまじい勢いで話を始めようとする鴉胆を制した。


「ちょっと待て。状況が読めんぞ」

「あの、良姜りょうきょうが――いえ、昔の仲間を、誘拐の直前に都で見たんです。そしたら昨日、脱員した奴がふらっと戻ってきまして……良姜と共に、誘拐にたずさわったと。聞けば俺の元を離れて以降、ずっと良姜の元に世話になっていたって……。

 俺、何も知らねえで――まさか、ずっとこういうことだったとは。本当に申し訳ありません」


 詳しい説明がところどころ飛んでいるのは、それだけ鴉胆が焦っている証拠だろう。


「挽回の目はありそうか、鴉胆」


 もたらされた情報に、にわかに目に活気の戻り始めた蒼弦がそう訊くと、鴉胆は僅かに頷き、口を開いた。


「連れ去られた場所、これについてははっきりしてるんです。瞬華が連れ去られた先は望江南の先にあるけんという小国しょうこくでしょう」

 再び、蒼弦と悌夏は顔を見合わせた。


けん?」

「聞いたことがないな」

「でしょうね。牽が建国されてから、まだ十年も経っていませんから。

 まだまだ国としちゃ赤子、なんですが……これがなかなか攻めきれぬ国なんです。簡単に言うなら、国全体が隠れ里といったところですかね」

「お前がそう呼ぶ、ということは――天然の要害に阻まれているように聞こえるが」


 悌夏が指摘すると、鴉胆は大きく頷いた。


「ええ、その通りで。

 まず牽に入るまでの道が極端に細いんです。まるで蛇の寝床――その名も蛇床じゃしょうと呼ばれる細い谷あいの道でしか、たどり着くことができないんです」

「その国、君主は?」

「牽の君主はえん一族、出自は水賊すいぞくと呼ばれる者達です。

 陸に生きる俺達とは違い、馬の代わりに船を操って川沿いの豊かな集落を襲うことを生業としていました。

 聞くところによると、現在の君主は延索えんさく、その麾下きかは大都督の薯蕷しょよ、名前は不明ながら軍師が一名。これが主要な三人となります。

 いずれも、盗みで国を持つまでに成り上がった者たちです。切れ者なのは言うまでもなく、少数ながら油断はできません。

 ただ今、薯蕷の下で都督ととくをしてるのは月季げっき――昔、俺と良姜の仲間だった女なんです。俺からつなぎをとれば、何とか接触できるはずだと思うんですが」

大都督だいととくの下、お前の仲間、とすれば……その女は『知の者』か」

「はい。残る良姜りょうきょうは『商の者』です」


 そこまで聞いて、蒼弦が口を挟んだ。


「小国、と申したが。我が軍勢で一気に攻め上がることは出来んのか」

「あー……多分、無理っすね」

「無理、とな?」


 呆気に取られる蒼弦に、言葉が平易に過ぎたと気づいた悌夏が鴉胆の肩を小突くと、鴉胆も慌てて口調を改める。


「あ、すみません。無理というより、出来ないん……ですよ。

 牽は山あいの集落と集落の間を網の目のように結んでいて、一時いちどきに全滅させられないような仕組みになっているんです。

 なんていうか……こちら側にとって攻めるに不利すぎるんすよ。条件なんて一個や二個じゃ済まない範囲で」

「地形に詳しい者がいるな」


 そう呟いた悌夏に、鴉胆は深く頷く。


「ええ。おそらくはこの土地、軍師が直々に探したんでしょう。

 この軍師ってのもなかなかの難物で、これだけ情報漁っても、そいつの話題だけはひとつも掴めてないんです。今の段階でかなり切れ者の匂いがぷんぷんだ」

「水賊に山賊……これらをまとめる軍師、一体何者だ」

「牽の入口、蛇床の上からは弓兵が揃って待っていて、部外者と解れば迷わず射掛けられます。さらに、うまく入り込めたとしても、季節の変わり目には川から霧が上がってきて、この辺りは真っ白。背後は川ですが、残念ながらまだ船があるようで……、万一の時は、主要な人間はそれで逃げちまうでしょう。はっきり言って恵まれすぎてますよ。変に刺激を与えるわけにも行かないですから」

「こちらに地の利はない、か……攻めるに難しいな」

「すまんな、調べてもらって」


 悌夏が労うと、鴉胆は大仰に謙遜してみせる。


「そんな、とんでもないっす。……ただ、俺の情報は瞬華ほどの正確さはないんじゃないかと。

 露蜂房の半分は商の者――行商という名の情報部隊ですが、今は向こうさんもこちらの状況は知りたい。つまり、この伝手ツテに重きをおいてるはずです。現に、こちらにもたらされる情報に眉唾まゆつばなものが増えてきてますから。

 何より、俺はそろそろ頭を退くことになります。今ぎりぎり頭領である俺よりも、一緒に汗を流したかしらのほう、独り立ちした知の者、商の者にしか肩入れしない奴だって居ます。注意には注意を重ねましょう」

「こちらの情報はすべて筒抜けと思って対処したほうが良い――そういう事だな」


 悌夏が頷く鴉胆の後ろに目線を移すと、その背後からそっと文官が顔を覗かせ、恭しく拱手した。


「殿、よろしいでしょうか? 朝議の時間にございます」


  *


 事は、朝議終了直前に起こった。


「――なお、瞬華の行方であるが鋭意探索の最中である。情報は上がってきているが、なにぶん瞬華のような卓越した者揃いとは言い難い。情報は精査の上で伝えることになろう。皆においては今しばらく、勝手な行動は慎むよう。

 さて、報告はこれで終わりだ。なにか質問がある者は」


 普段と変わらぬ朝議がつつがなく終了しようとしたとき、末席の方で手を挙げたものがいた。


「どうした」

「丞相、ただいま門前に使者が参っておるとのことです。なんでもけんと申す国からの使者であると……今すぐの面会を求めておりますが、ここにお通ししてもよろしいでしょうか」

何人なんにんだ、武人か?」

「いえ、文官服の男一人であるとのことです。

 重く大きな箱を携え、ひとりで馬車で参ったと……」


 悌夏は、檀上から思わず末席に位置する鴉胆の顔を探す。


「大きな箱……気になるな」

「まさか中身は瞬華殿では無いでしょうな」

「先の誘拐の手引をした者の密告では? 瞬華殿の手がかり、わかるやも知れませんぞ」


 ざわざわと口々に騒ぐ諸将文官たちの間から、鴉胆が「この様子ではお手上げっす」とばかりの手振りで示すのを見つけたとき、蒼弦が不意に悌夏を呼んだ。


「どうする、悌夏?」


 判断を委ねようとする蒼弦に、悌夏は不服そうに片眉を上げる。


「俺に聞くのか? 判断は丞相たるお前が……」

「手ほどきくらい、受けておろう」


 こんな時に無茶振りとは――顔は冷静に繕っているが蒼弦にも余裕はないと見え、悌夏は大きくため息をついた。


「……今すぐに、か」


 ――瞬。

 無意識のうちに視界に囚われの彼女の姿を探しかけ、内心悌夏は頭を抱えた。


 彼女は居ないのだ。判断は仰げない。


 彼個人としては、くだんの使者をこの場に通すべきではない気がするものの、思案に沈みかけた悌夏を、武官筆頭の位置に立つ錬暁が明瞭に呼びかける。


「通しましょう、悌夏殿」


 一言強くされ、悌夏は渋々と頷いた。


「……わかった、通してくれ」


 出てくれるな、じゃよ――不安な心を抱えたまま衛兵がゆっくりと正面扉を開くのを見守る。やがて廊下で待機していたその姿が一歩こちらに歩みだした途端、悌夏の胸に、言いようもない嫌な感覚が押し寄せた。


 ――まずい、じゃだ。


 入ってきたのは鼻持ちならない、全身で高慢さを漂わせた、小柄で痩せ型の男ひとり。その後ろ、控えの衛兵ふたりに運ばせている重そうな木箱がひとつ。形状は朮でも使われているものと同じ、くろがねかどを補強し、内容物の底抜けを防ぐ貨弊運搬用のものに思える。


 歩きぶりにも高慢さの際立つその男は蒼弦の前で嫌味なほどにうやうやしく拝跪すると、懐から書状を取り出す。

 思わせぶりに左右に首を巡らせたのち――鶴のごとく放たれた第一声に、その場の諸将たちの度肝が抜かれた。


牽都督けんととく月季げっきさまより通達である!

 じゅつの者どもよ、しかと聞くがよい!

 温経の牡丹は我が牽の手中にある。牡丹は我がけんの新たなる領地、海金砂かいきんしゃへの友誼ゆうぎしるしとして我が牽より下賜かしされることとなる。牡丹が海金砂に到着したならば、もう二度とその美貌を拝むこともなくなろう。

 お渡りは来たる晩夏の候! 

 取り戻したくば、軍を率い追って来るがよい!」


 朗々と口上を述べ上げるなか、諸将たちが早くも苛つきと怒りをあらわにし始める。


「あの部族にやるだと?」

「ふざけるでないわ! この泥棒めが!」


 諸将が口々に罵詈雑言を並べ立てるなか、悌夏はひとり、いぶかりながらも高慢な訪問者に問いかけた。


「お前、牽のなにがしだ」

「私は軍師代理として参った柏子仁はくしじんと申す者。文官にございます」


 名乗られるが会った記憶はない。悌夏も初めて見る顔だ。


「軍師代理がここで宣戦布告とは、礼儀を欠くにも程があろう!」

「大体なんだ? 丞相に向かってあの口の聞き方は! 牽とはどこの田舎なのだ!」


 ――知っている。この者が礼儀を欠くには理由がある。だからこそそういう口を聞くのだ。


 非難轟々で文官を罵る声に負けじと、悌夏は箱に目を止める素振りをすると、牽の文官に尋ねる。


「柏子仁と言ったな。お前の持参した、その箱は何だ」


 訊く悌夏に、柏子仁と名乗った文官は鼻下から口脇へと流れる長い髭をしごいた。


「よくぞ、お聞き下さいましたな。これは瞬華殿を捕らえた報酬にございます」

「報酬?」

「はい。朮のお歴々の中に、温経の牡丹殿を見事捕らえた方がいらっしゃいました。我が方の板書きに見合うお働きでしたゆえ、こうして持参いたしました次第で」


 柏子仁の言葉に流されるように、謁見の間の空気がにわかにでた疑念の色に染まった。


「何?」

「誰だ、それは――」

「誘拐の手助けをした者がこの中にいると?」


 悌夏は思わず蒼弦のほうに振り返った。

 玉座に掛ける蒼弦の顔が明らかに強張っている。


 ――こいつ、んだか。


 一体誰だ、とざわつく諸将たちに柏子仁はにやりと嗤うと、蒼弦の前に進み出て恭しく拱手する。再び立ち上がると、懐から二つ目の書状を取り出し、朗々《ろうろう》と口上を述べ上げた。


「牽都督、月季さまより、じゅつ丞相じょうしょう蒼弦せいげん殿へ!

 温経の牡丹、こと瞬華殿を見事後宮へと捕らえた貴君のその働き、実に鮮やかである! ここに報酬として銭一万枚、牽より謹んで進呈――」


 ごっ、と鈍い音がし、言葉はそこで途切れた。

 諸将たちが中央に目を向け直す。

 しかし殴られ、痛みに悶絶する柏子仁より、彼を殴った者のほうに、諸将たちは釘付けになった。


 ざわめく謁見の間、その中央。

 錬暁が鬼の形相で、謁見の間に転がる柏子仁を見下ろしていたからである。

  *

「武官殿、これは、なんと野蛮な……」

しがたい」


 頬を押さえたまま抗議しかけた柏子仁の批判などとうに聞く耳などなく、一言呟いて馬乗りになると、錬暁は倒れたままの柏子仁をさらに二、三発殴りつけた。


 周囲は一時茫然とその光景を眺めていたものの、次第に起こった事の大きさに再びざわめき始める。

 やがてひとりの武官が走り寄り、振り上げた錬暁の腕をはしと掴んだ。


「錬暁殿、お辞めください!」

「度しがたい……度しがたい!」


 その表情は明らかに、我を忘れた憤怒ふんぬのそれだ。

 人ひとり殺しかねない眼力を放たれ、びくりと体を硬直させた武官を片手で突き飛ばし、錬暁は更に容赦なく拳を振り下ろす。


「ひぇ」とか「おぶっ」という、悲鳴とも肉を打つともとれる音を響かせながら柏子仁は殴られ続ける。鼻は折れ、唇は切れ、石床に血の玉が飛ぶ。血にまみれた、歯とおぼしき薄黄色い切片が足下に転がり、先ほど突き飛ばされた武官が切羽詰まった顔で再度、彼を止めた。


「おやめください! 死んでしまいます!」


 血まみれの拳を力で押さえられると、錬暁は蒼弦を、有無を言わさぬ視線でぎりと見据えた。


わたくしに許可を」


 請われ、蒼弦はふと残忍な笑みを浮かべた。


「殺すなよ」

「はっ」


 頷くと、武官の手をゆうに振り切り、再び拳で痛めつける。

 その数、五、六発であっただろうか。

 蒼弦は玉座の背もたれに身を預けたまま、もはや立ち上がる力を失った柏子仁をゆらりと見下ろした。


「その足で故国に伝えるがいい。この屈辱は必ず果たす。滅ぼしてでも女を奪い返すとな。……皆、準備を急げ」


 その言葉に、錬暁の目がらんと輝いた。


いくさだ!」

「おおおお!!」


 あけに染まった拳を突き上げ錬暁がえた刹那、謁見の間に揃った文官までもが呼応し拳を突き上げたことに、悌夏はひとり複雑な表情を浮かべた。


「……まずいな」


 朮は挑発に乗った。否、乗せられた。

 これほどに効果的な煽動を悌夏は知らない。

 この国の諸将を浮足立たせるなど、そうそうできるものではなく、牽という小国の背後から誰が糸を引いているのか、考えすら及ばない。


 だが、悌夏にはその時はっきりとえた。

 熱に浮かされ、踊らされ、挙句に足を掬われる朮軍の姿が。


 ――瞬、無事でいろ。


 怒りの空気が空間に満ちるなか、悌夏はひとり冷めた頭で彼女の無事を祈っていた。


  *


「殿。夜分遅く申し訳ございません。

 どうしても、お話したきことがあり、お目通り願いました」


 その日の晩。

 宵闇に沈む謁見の間、ぽつんと灯明がともる一角に歩み寄る錬暁が静かに声を放つと、闇から浮かび上がるように蒼弦が姿を現した。


「先鋒の、名乗りだな」


 両肩にかけた羽織をなおすと、錬暁は照れたような笑みを浮かべた。


「……分かっておいででしたか」

「その一番槍を見ればな」


 灯明越しに、軽く包帯を巻いた拳を指差すと、錬暁もその手を組み合わせ、拝跪の礼をとる。


「瞬華殿は、軍の支えにございます。あの方をなくしてしまっては、我が軍の士気にも関わりましょう。

 どうかこの局面、この猛将に……先鋒をお任せ頂きたく」

「ふむ、しっかり務めよ」

「……はっ」


 拒むこともなく、採用の返事を与えた蒼弦は、早々に立ち上がりきびすを返しかけた錬暁の背に向かい、こう声を掛けていた。


「時に、錬暁。なぜお前は、こちらに執務室を持たぬのだ。ひとつくらい拠点を増やしたとて、お前に損などあるはずが無かろう」


 羅布麻に与えた領地に私邸を構え、毎朝遠路はるばる馬に乗り登城してくる錬暁の姿は、朮の朝の風景としてすっかり馴染み、その姿に疑問を持つ者はいなくなった。


 華美を好み派手に暴れ回るあるじ羅布麻に隠れ、文字どおり羅布麻の影として生きている彼の私生活は、武功はあってもそのほとんどは蒼弦に把握できないものとなっていた。


 だからこそ、というべきなのか。

 蒼弦は知りたくなったのだ。

 本当にあれはただの僥倖だったのか、と。


 先の何首烏の乱の際、傷ついた瞬華は錬暁の私邸に匿われていた。蒼弦の目も耳も届かぬ彼の私邸は彼女が潜伏するに最適の場所で、彼の得た僥倖ぎょうこうにしては出来過ぎた話だと思っていた。


「我が主は、今も変わらず羅布麻殿でございます。主の興味を惹かぬものには、私も興味を持てませぬゆえ」

「ほう」


 相変わらず口の堅い男だと蒼弦は思った。

 絶妙な間で放たれたあの一撃は、あの高慢な文官だけに向けられたものではないだろう。彼の中には蒼弦自らを含め、もっとただしたい者がいるはずだが――別段顔色を変える風もなくそう答えるところをみると、敢えてそこには触れぬ気らしい。


「羅布麻、か。久しく見ぬな。大事はないか?」

「はい、羅布麻殿は……」


 口を開きかけた錬暁の言葉がはたと止まり、蒼弦はふと、猛将と知られる男の顔を見た。


 錬暁はそのとき、ひどく珍しい顔をしていた。


 言葉が出てこない――そんな焦りの表情。

 頭ではわかっているのだろう。今ここで羅布麻を庇わねばならないのだが、繕うだけで良いにも関わらず、彼の頭の中はまるで不貞寝ふてねでもしているかのように、言の葉のひとつも紡いではくれない。真っ白なままなのだ、と。


「どうした、錬暁」

「いえ、あの……」


 しどろもどろと言葉を探す至高の武人に、蒼弦は微笑んだ。


「もうよい。大方お前の働きに胡座あぐらでもかいておるのだろう」


 それがえぐるような指摘だったのか、錬暁の身体が弾かれたようにびくりと動いた。


「な……何のことでしょう」


 それは謙遜か、それとも既に彼は新たな主を見つけたか。

 ちらちらと揺れる灯明越しに、蒼弦は少しだけ勿体をつけた。


「いや、なんという事はない。お前にも、来るべき時が来たのだと思うてな。悌夏の例を見ておろう? あれでは愛想を尽かして出て行ったようなものよ」


 切り出され、錬暁はその細い目を白黒させた。


「……まさか、誘拐に応じたと?」

「それ以外にあるまい」

「まさか、そのような……」

「そのまさかが起きたのだ、錬暁よ」


 この国に属すると決めたならば、その場で戦うことも、逃げることも出来ている。しかしあっさりと朮を捨て他国にかどわかされたのは、未だ亡国の間者としての生を捨てきれぬ瞬華が、悌夏への不満を鬱積させていたからではないのか。


「優れた従者は、時にその主を堕落だらくさせる。

 世は広い。例え少数であろうが、我が軍より優れた者たちがいないとも限らん。今後あの身体は取り戻せたとして、心まで戻るか……余程の武勇なければ、

彼女をぎょせぬのではないか――あの事件以来、つとにそう思っておる」

「お言葉ですが、殿……」

えにしの糸ははかなきものぞ、錬暁」


 錬暁の言葉を遮るように、蒼弦は告げた。


「お前の執務室へやを用意する。住むも寝るも、好きに使うがよい」

「……殿」

「さて時間だ。わしはそろそろ休む」


 話は終わりと一方的に告げると、錬暁はその場で軽く拱手した。


「私のためにお手間を……ありがとうございました」


 去りかけた蒼弦は、灯明から数歩離れた闇の中、ふと足を止めた。

「錬暁。おぬし、この後は旅籠はたごか」

「は、はい。いていれば、ですが……」


 謙虚に過ぎる回答に、蒼弦はやれやれと闇を仰いだ。

 この乱世、堕落するのは容認出来ても、こうも清廉せいれんに過ぎるのは、将としていささかの問題を孕む。いざ守るものを手にしたとき、こういった人間は国をないがしろにする。

 しかし逆に清廉なればこそ、響く手がある。


凡将ぼんしょうが城で惰眠だみんを貪っておるのに、至高の武人は粗末な宿とな……。

 錬暁。この後、武官のむねに立ち寄れ。棟の衛兵には伝えてある」


 蒼弦の背後で、はっと息を呑む音が聞こえた。


「丞相……ご厚意、誠に痛み入ります」


 ――これで、この男の苦労も身に付くか。

 清廉であることを認められた、その嬉しさに震える声に、闇の中で蒼弦はふっと笑うと、今一度だけ背後の猛将を振り返った。


「わしは常に、優れた者の助けとなる。それだけのことよ」

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