役得
一方。
夢とうつつの境目で、瞬華はひととき、夢を見ていた。
烙印のように残って今も疼く、あの記憶だ。
一脚の椅子の前に、瞬華は背を向けて佇んでいた。
椅子には紫雲がもたれかかり、肘掛けに預けた腕で、顎に伸ばした薄い髭に触れている。
「じゃ、始めよう。まず入れた刺青を見せてくれ」
指示された通り夜着の帯を解くと、瞬華はするすると着物を脱いだ。
上衣と裳を床に脱ぎ捨てて椅子に背を向けると、腰の辺りを指で示す。
「……ここだ」
「全体が見えんよ。全部脱ぎな」
「……」
いらついた調子でそう言われ、芙芙は臍のあたりで結ばれた内衣の帯に手を伸ばすと、ぱさりと、足元に内衣を落とした。
右臀部の膨らみから少し上、腰のくびれを中心に、大きく繊細な筆致の芙蓉の図柄が現れた。葉はそのまま腰のくびれを左まで覆い、二本の茎は右の肩骨の下まで伸びて新たな蕾を生じ、もう一つの蕾は右二の腕に、さながらよく出来た割符のように描かれている。
背後で椅子が軋み、紫雲が静かに立ち上がる音がした。
そろそろと音を殺して数歩歩み寄ってくると、刺青を施した彼女の腰に目線を合わせるべく、恭しく膝をつく。
「まったく。線すら細いが、随分と大胆に入れたもんだな。
相当痛かったろう? 今はもっと小さくできたっていうのに」
「私は長の娘だからな。芙蓉の誇りを誰よりも重んじて何が悪いというんだ。刺青の大きさは芙蓉門への帰順の証……外界をほっつき歩くお前とは違う」
「そういう考えも一理あるが……ねえ」
「それに。そもそもこの儀式、私にはしない予定ではなかったのか」
「ま、本来ならな」
ここは何首烏の屋敷の離れ、瞬華のために宛てがわれた部屋である。
妻子の住む母屋とは違い、監視の目が比較的緩やかであるこの離れの隙を見計らって、突如としてこの儀式を開催を持ちかけた紫雲の考えを、瞬華、という呼ばれ慣れぬ符丁をつけられたばかりの少女は読みきれずにいた。
「事情がだいぶ変わっちまったろ? お前さんの今後を、紫家として考えた結果だよ」
点々と指先が刺青に触れ、芙芙の背後で紫雲が数を数えているのがわかる。
「俺は芙蓉門として教えねばならないことはしておきたいんだよ。俺だって長の娘であるお前さんに嫌な思いをさせたくはないし、お前さんだって、今俺の前に肌晒して怖くないはずがないからな」
「……なるほどな」
ふんふんと刺青各部の数を数え終わると、紫雲は答えた。
「花の数も葉の数も問題なし、合格だ。それじゃ、次はひと通り調べるよ」
その場ですっと紫雲が立ち上がる音がした。彼女の背に紫雲の服の裾が触れ、芙芙の背にわずかな緊張がはしる。
紫雲は瞬華の背後から静かに指を伸ばすと、顔から順に、身体全体をゆっくりと確かめていく。
「目、鼻、唇、耳……問題なし」
手は肩から腕へと流れ、手の指を確かめるように触れていく。
「指……爪、問題なし」
腕の内側をなぞり、脇から忍んだ手が、躊躇なく幼さの残る両の胸に触れる。
「っ……」
「胸……ま、問題なし」
紫雲の手はくびれを通り体側をなぞって、そのまま脚へと撫で下げられていく。
「足指も揃ってる。問題なし」
最後に足の内側を一番上までなぞり上げると、慣れた手つきで突き当たった箇所に触れた。
「……っ!」
困惑し腰の引けた声に、紫雲は呆れたような声で告げた。
「おい、足は肩幅だ。力は込めんな」
紫雲はこれでも芙蓉門の軍師一族、紫家の者である。
芙蓉門が誕生したときから芙蓉門の軍略と一門の医療、冠婚葬祭までを取り仕切る一族であり、芙蓉門の中では唯一外界を見ることを許された一族でもある。
芙芙が今調べられているのはその医療の一部である『成人の儀式』と称される行為だ。天崖郷防衛のために「快」を禁じた芙蓉門では血統を厳しく管理し、かつ、子を確実に増やす必要があったため、脈々とこうした儀式が受け継がれ、芙蓉門で生きる者の人生に不可欠な儀式として組み込まれていたのである。
彼の言葉におとなしく従い、指示通りに脚を肩幅に広げると、紫雲の指がそこを検分しにかかる。事務的に調べてはいるが異様な感覚に、芙芙の腰が図らずも引けかけた。
「……待っ、紫雲……」
「変な声出すんじゃない。芙蓉の女は皆同じ道通ってんだ。少しは耐えろ」
「す……済まない」
気をそらすように真正面を睨む。紫雲は引き続き事務的にそこを探ると、いつもの調子で芙芙に語りかけた。
「はい、終わり。正しいものが正しい位置にちゃんと納まってる。これなら何の問題も無いだろう」
「……良かった、ありがとう」
ほっと胸を撫で下ろした顔で床に落ちた衣服を拾い集める瞬華に、紫雲は微笑む。
「おめでとう、お前さんは全て正常、そして健康だ。あとは、少し教えなきゃならないことが何点か。ま、大したことじゃない、さっさとこなしてしまおうか」
意識が混濁していると、頭の遠いところで気付いている。
紫雲は既に死んでいる。
自らが殺し、埋葬したのだから覚えている。
だから今、眼前で嗤う男の顔が紫雲であるわけがない。
慣れは消えない。
だから瞬華はこの仕打ちにも正気を保てる。
触れてくる全ての手をあの死せる男と思えば良いのだから。
調査は終わり、彼女に再び湯が与えられたとき、瞬華は虚ろな瞳で、静かに湯の中に座り込んでいた。
*
「あんたの身体にあんな模様があったなんてねぇ。人間、わからないもんだ」
艶やかな濡れ髪を華やかな形にまとめ、上質な衣に着替えさせられた瞬華は、良姜とともに彼の自室へと通されていた。
「湯を与えておきながら、髪を濡らすな、とは――おかしいと思っていたが、こんな目的があったとは」
「間者なら多少経験あると思ってたけど、違うんだ? あれは『役得』ってやつだよ、どこでもしてることさ」
怒りに似た声音でそう牽制するも、良姜は素っ気ない反応を返す。
「あんたは温経の牡丹さまなんだよ? あの蒼弦ですら認めた、この世で一番の美女だ。あんたの姿を待ち望んでる人間はこの世にごまんと居る。そんな人間にとっちゃ、囚われのあんたを調べ尽くすなんて、人生でそうそう巡り合うことのないご褒美なんだよ」
「そこまで御大層な存在に見えているのか、私は。
私など沼地の芙蓉と変わらない。泥の中に身を沈め、水面に顔を出しているだけだ」
「ずいぶんとまた、かっこいい事を」
良姜は瞬華の腹部に腕をまわすと、瞬華をゆっくりと引き寄せる。
「そういえば、あんたの腰の彫りものも芙蓉だったね。もしかして自分を重ねてる? 俺、そういうの嫌いじゃない」
馴れ馴れしく腰に滑らせようとする良姜の手を払う。それでも尽きぬ興味を向けられ、迷惑そうに背後の男を睨みつける瞬華は、憧れに輝く視線を向けたままの良姜に問いかけた。
「で? ここは、どこなんだ」
「満山紅。小国牽の隠れ里」
隠れ里。妙にもったいぶった言い方に、瞬華が臆面もなく突っ込んだ。
「どうやらここも後宮のようだな」
「いや、違うよ。この里自体は普通の村さ。でもここに住むのは全員、若くて綺麗な娘とその父母に決まってる、ってだけの話で――」
「後宮だな」
「娘については牽の君主、延曲さまだけが自由に手を付けることが出来る。例えるなら――」
「ああ表現が違ったか。ここは後宮村だ」
「そうだね、正解」
敢えて噛み合わせない会話にも、良姜は微笑みを崩さない。
「しかし、自ら小国とくさす割に随分と贅沢をする君主なのだな。小国規模であれば、君主ひとりに妻数人で手一杯だろうに」
「その件、やっぱ気になる? 延曲さまはまだ奥方が居られないんだ。それにあの方は世間を知らない女、質素な美人――そういった手合いを可愛がるのが大好きなんだ。あんたが目に止まった意味も、解かろうってものだろ?」
「私もその対象、というわけか。
しかし――どうしてお前、私の存在を知っている」
問うと同時に、良姜が首筋に唇を押し当ててくる。
「それ、俺に聞いちゃうの? なかなか面白い女だ。じゃあ逆に聞こうか。どうして俺は、あんたを見つけたと思うか」
「……どうして、だと?」
聞き返す瞬華の反応が意外だったのか、背後から楽しげな声がした。
「あんたさあ、自分の国で行方知れずになったこと……あったよね?」
一時、あの頃の記憶が蘇り、瞬華は目を瞠った。
「……まさか、あの時から?」
「そう、あの時から」
あの時。
それは今から半年ほど前の――今は『何首烏の乱』と名のついた事件の只中の出来事。
「あんたが行方知れずになってた時、朮ん中は大騒ぎだったんだぜ? あんたはほとんど知らなかったかもしれないけど」
良姜は微笑んだまま、そのからくりを、ゆっくりと明かし始めた。
*
半年ほど前。
上官でありながら己の仇――朮の軍師、何首烏への復讐に燃えていた彼女は、何首烏の計を潰すべく単独で行動を起こそうと、悌夏に力を貸しつつも自らの計の遂行のために動いていた。しかし軍師を想う間者の謡華――この者は現在は何首烏の側女となっている――に、半ば看破される形で反撃を食らった。
命からがら逃げおおせた瞬華は、幸いにも錬暁に拾われ、彼の屋敷で傷の回復と記憶の統合をはかることになった。期間としては季節がひとつ過ぎるくらい、およそ三ヶ月ほどを、錬暁の屋敷で過ごしている。
「その時ちょうど、俺は海金砂で販路を広げるべく湖の部族達と交渉をしていてね。
けど話がまとまりかけた頃、情報網が突如として寸断された。話によれば朮の捜索隊が大挙して来襲……聞けばあの柄の悪い『歩く暴威』とやらが、露蜂房の行商たちを不審者だと言って一人残らず狩尽くしてくれちゃって。
でも、それで分かったんだよ、朮で何か大きなことが起きてる、とね」
良姜は言を継ぐ。
「急遽追加で状況を探らせたら、どうやら行方不明なのは仙女のような美女らしいと出た。
で、見つけたんだ。錬暁さんとこで休んでる美女の姿をさ。
錬暁さんところは、若くて綺麗な侍女たちを上官の羅布麻のところに皆取られてるってのに、あんただけは別だった。
上官にもやれない、見せられない。
とすれば、普通は触れることすら憚られる、やんごとなき方と思っちゃうのは、まあ普通のことだ。
幸い今年、露蜂房は頭領を決めなおす年に来てた。露蜂房へ札を投じに行く鴉胆の下っ端を捕まえて、ちょっと不満を持ってる奴を引き抜いて、都の状況を調べつくした。
そのときの都は誰も何もあんたのことは言わなかった。でも、人知れず皆あんたを探しに出かけてた。表に出ないが人気は高い……はっきり言ってこれだけで商機は十分――これを好機と見た俺は、あらかたコトが片付いたところで、金儲けに利用させてもらったってわけ」
「全てお前の掌の上か」
「ああ。もう色々稼がせてもらったよ。
髪飾りに、耳飾りに、服。あれ、あんたを釣る為に、全部俺が仕掛けたものだ。あんた一人のために、どれだけの金が動いたか……買わせるための仕掛けは色々考えさせてもらったよ。
予想以上の大商いに立ち会えて、感動もひとしおだった」
自慢げに話す戦果に軟派な響きがないことに気づき、瞬華は良姜の素性を掴むべく、ためらいなく一歩を踏み込んだ。
「お前、商人の出か」
「いや。俺は露蜂房の根無し草だよ。俺の親父は大商人だったみたいだけど……どうやらちゃんと血は継いでたみたいでね」
なるほど――こいつの正体は山賊だったか。
心の隅に書き留めておきながら、瞬華は罠の仕掛けに話を進めた。
「あの看板は一体、誰が置いた?」
「ああ、あれ? 筆癖は一人だったから驚いたでしょ」
再び軟派な響きが戻ってくる――ここから先は、彼ひとりの力以外に、誰かが関わっているように瞬華には聞こえる。
「あれは、ある程度暇の確保できる協力者に書き溜めてもらったのさ。
で、夜市の最終日、店を畳んだ露天商の皆さんに手伝ってもらったんだ、一人三枚くらいね。
あの日の露天商は半分以上が露蜂房の行商だった。夜市なら都のどこをうろついてても気になどされない。看板かけ終わり次第、順次お帰り願ったってわけ」
「だから都の民の誰もが驚いていたのか」
「流民らにそんなことはできないし、させられないんだよね。あれらは金で容易に転ぶ、情報が漏れるのはこちらも避けたかったし。
あれらは、単なる足止めさ。騒ぎになって、誰かに見つけてもらう……用途としてはそこだけ。板には既に、そう書いてあるしね。
ただ金額的には、これが一番高くついた」
「私が公の場から隠されるまで、すべて仕組んでいそうな口ぶりだな」
いや、おそらくそうに違いない。瞬華は思った。
これが調虎離山の計――標的を不利な地へ追い立てる攻戦計のひとつ――とすれば、条件は着々と整っていることになる。
こいつに知恵を与えた者は誰だ?
心中で訝る美女の背を、良姜は甘い囁きで包み込む。
「だって、蒼弦すら認める美女なんだよ? あんたは。
自邸の庭で泣いてるのに、放っておく男なんて居ない。なにか理由をつけて他人の目に触れない場所に引き入れるでしょ。都で騒動を起こせば行き着くところは後宮、あの場所しかないからね」
やはり――計か。
「だが、後宮の存在は知られていても、お前はどうやってその位置を知り得たんだ? 朮の国内でも限られた者しか、その位置を知るものは居ないというのに」
そう、真の問題はそこだ。
回答を急かすような反応に気づいたのか、良姜は敢えてゆっくりと、楽しげに囁きかけた。
「そこはまあ、最後に話してあげるよ。
あんたは、間者だ。そして護衛という仕事もあった。当然、後宮から縄抜けを考えるわけだ。
後宮から出るには方法は二つ。命を絶って本当に屍になるか、食を絶って宿下がりとなるか。
あんたは後者の絶食作戦を取ることにするわけだ。宿下がりさえすれば、主のところへ逃げ帰ることはすぐにできるから。
だが、蒼弦は――いや、蒼弦もあんたを一度入れた後宮からだすわけにはいかない事情があった。なんせ、前例があるからな。
概ね、困ったふりして、あんたの主を呼んだ。
そしてあんたの見舞いと称して刃渡りでも仕掛けたんでしょ。『余計なことをすればお互い悪い結果になるぞ』ってね。
だけど、それは裏目に出る。
あの蒼弦ともあろうお方が、あんたの機嫌を取るためだけに、悌夏を連れて後宮に入っちまった。後は、もう解るよね」
「調虎離山、順手牽羊。鴉胆の部下は同時にお前の手であり目――私を追い込んだ上、味方面して攫いに来たわけだ。
後宮からの解放となるなら私が断わらないこともすべて織り込み済み……そこまで筒抜けであるなら、今更帰してくれなどと言っても無駄に終わるな」
「ま、いいんじゃない? 俺は金が稼げるならそれでいいし、この拐かしはあんたにも利があるさ。
黙ってここに居てくれるなら、俺も手荒い真似はしない。こういう時はお互い利用しあうのがいい。気持ちよーく、ね」
「言うことを聞かせる手段とは、手荒い真似だけではないからな」
「話の解る女だ。俺、ほんとに好きになっちゃうかも」
良姜はそういうと瞬華の手をとり、その手の甲に口づけた。




