「万が一、億が一」
「まあ本当のことをマジで説明しますと、私は魔法使いなのです」
「はあ」
「まあ百聞は一見に如かずです。見ていて下さい」
珍しく正しい日本語を喋った後、伊月は木登りを始めた。
そばに生えていた大木を器用に器用に登っていく。彼女が余りにも臆せず登っていくので、名城の方が見ていて怖くなった。
「おい、気をつけろよ。落ちたらどうすんだ。怪我するぞ」
「だいじょーぶでーーす」
気の抜けた声が返ってくる。名城は溜息をついた。
(何がどうなってるんだ、全く)
名城はすぐそばにあった切株に座った。季節は春の筈だが、少し寒い。乱立した木の葉で、空はほとんど見えなかった。
それなりに高い位置まで辿り着くと、伊月は「おーい」と名城に手を振る。本当に危なっかしい。
「じゃ、見ていて下さいー」
「何を?」
と、名城が聞き返したのと同時だった。
伊月はその場から、勢いよく飛び降りた。
さながら空を飛ぶ小鳥のように。
空を飛べない少女は、空を舞った。
「——————!」
名城の口から、声にならない声が出る。思わず立ち上がり、前のめりになる。
が。
名城の心配をよそに、伊月は
「ふわふわ」と
そんな形容詞が似合う動作で、ゆっくりと地面に着地した。
まるで、見えないパラシュートを付けているかのように。
ゆっくりとゆっくりと、下に落ちる。
「と、まあこんな感じです」
伊月は。
伊月緑子は平然とした様子で、名城の方に歩いていく。名城は呆然とする他なかった。
「『反重力』——私の得意とする魔法です。重力加速度を操る術ですね。おんなじ要領で、落ちてきた名城さんを助けました。落下速度をゆっくりゆっくりにして、こう、抱えるようにキャッチしたのです」
「なるほど……」
「ええ」
(いや、何がなるほどなんだ)
名城は頭を振る。
意味が分からない。
魔法?
魔法か………。
「あそこの森——名城さんが落っこってきた森には、結構美味しいキノコが生えてるんですよ。今日の晩御飯のためにキノコを採りに来たら、突然空から名城さんが落っこちて来たのです。
だからもし私が『今日の夕飯は出前でいいや』だなんて思っていたら、名城さん今頃死んでますからね。感謝して下さい。まあ田舎すぎて出前なんて来ないんですけど」
「なるほど。じゃあ要約すると、結局俺が助かったのは、この辺りが出前すら来ない辺境の地であることと、あとはお前の魔法のおかげってことか」
「その通りです。簡潔でいいですね。模範解答です」
「それは、えっと、つまり、あー、どういうことだ」
「え、何が分からないですか?逆に」
「いや………」
名城はまた切株に座った。彼はもう随分と疲れているようだ。大きく溜息をついた。
「まあいいやそれで。そういうことにしとこう」
「ええ。そういうことにしといて下さい。実際そういうことですから。ほらホームズも言ってたじゃないですか。『どれだけあり得なそうな結論でも、それ以外になければもうそれしかない』みたいな」
「大雑把すぎるだろ」
「それでですね」
「ん」
「お願いがあります」
「お願い?」
名城は顔を上げ、伊月の方を見る。
伊月のその表情は、割と真剣である。
「その、私の魔法のことを、絶対に口外しないで欲しいのです。私の『反重力』のことを、誰にも言わないで欲しいのです」
伊月は真剣な表情のまま、真剣な口調で言った。
「色々理由はあるのですが……とにかく、この『魔法』のことが人様に知られると、ちょっとまずいのです」
「まあ……そりゃそうだろうな」
「え、分かりますか?」
「いや分からん。詳しい事情なんて知らないけど、まあ、お前のその能力は隠しておいた方が良いとは思う」
「ええ」
特段『魔法』とやらに詳しい訳ではない名城だが、しかしその存在が世に出た時に、どうなるかくらいは容易に想像がついた。『面倒になる』どころで済まないのは確実だ。
「名城さん気絶してましたからね。本当はさっさと逃げようと思ったんですよ。ただすぐに思い当たってしまいましたから」
「何に?」
「『名城さん、もしかして誰かに突き落とされたんじゃないか』ってことです」
「ふうむ。だから逃げずに、あの場に居てくれたのか。ありがたいことだ」
「そうですよ。感謝して下さい。でもそしたら、魔法のことがバレるのは間違いないよなーと思って、何とか誤魔化せないかとも思ったんですが、まあ無理でしたね」
「そりゃ無理だろ。っていうか、そう。それだよ。それについてなんだが」
(つまりは、俺を突き落とした人間がいるってことだ。俺を殺そうとした人間がいる——そういうことだ)
彼は思い出す。あの時、間違いなく背を押された。
何者かに、突き落とされた。
それは何故か?
無論、自分のことを殺すためだ。
(俺の死を望む人間がいたからだ)
「だとすれば、俺の命を救った人間がお前だとバレたらお前も危ない。そういやお前、大丈夫か?俺をキャッチする瞬間とか、見られたりしてないか?」
「それについては大丈夫です。私が居た森は結界が張られてますから」
「結界?」
「ええ。あそこの森は、実は私の家系の私有地なのです」
「あ、そうなんだ」
「ええ。それで、そこには色々、まあ普通の人間が食べてはいけない植物とかが育てられているのです。
魔術を使って育てられた植物とか」
「ふむ」
「それらが一般の人間に発見されないよう結界が一帯に張られているので、私の姿が見られたということは無いと思います」
「結界って、バリアみたいなもん?」
「ええ。結界外の人間からは、『見えてるけど見えてない』状態になります」
「なんじゃそりゃ」
「例えば名城さんが無くし物を探しているとき、『なんだ、目の前にあったじゃん!』ってことないですか?」
「ある」
「そんな感じになります。視界に入っているのに、見えないのです」
「へえ……」
「だから、私の姿が犯人に見られたという可能性は万が一にも、億が一にもありません」
「あそう」
伊月の説明は、名城には正直よく分からなかったが、まあ伊月がそう言うならばそうなのだろうと、名城は判断した。
「だからとにかく考えるべきは、名城さんの安全についてですね。どうすれば名城さんが二度と狙われずにすむのか」
「うーむ」
(俺を突き落とした理由が突発的、無差別的なものではない限り———俺が生きていると犯人に伝われば、また同じことが繰り返される危険は大いにある。もちろん、この後警察に今日のことを通報するつもりだが、だからもう安全かと言われれば、そんなこともないだろう。また俺が殺されかける可能性は依然としてある。
その時に、今日のようにまた運良く命が助かるとは限らないのだ。普通に死ぬかも知れない。普通に殺されてしまうだろう。
つまり……)
結論はすぐに出た。
「まあ、引っ越すしかないだろ」「提案があります」
「え?」「はい?」
名城が口を開いたのと全く同時に伊月が喋り出したので、お互い何と言ったのか分からなかった。
「えっと、名城さんからどうぞ」
「いや、引っ越すしかないだろって言った。それしかなくない?」
「あ、それについて提案があるんですけど」
「何?」
「名城さん、私と一緒に暮らしましょう」
「は?」