「家宝は寝て待て」
「『早起きは三文の徳』って言葉があるが、三文って実は百円くらいの価値しかないらしいぜ。毎朝早起きしても、一週間で七百円、一ヶ月経っても大体三千円位だ。そんだったら、毎朝三文損してでも、遅くまで寝てたいと思うけどな、俺は」
髪を茶色に染めた、若干ガラの悪そうな少年。彼は学ランを着用してはいるが、ボタンは全開である。校則違反であることは間違いない。
「達見ですね」
少年の言葉に、すぐ隣を並んで歩くセーラー服の少女は、納得したように頷いた。彼女も同じ学校の生徒なのだろうか。
「私の場合、無理して早起きをしても、眠気で日中ぼーっとしてしまいますから、むしろ『三文一両損』の可能性すらあります」
「それ多分、『三方一両損』だな。使い方間違ってるぞ」
「『寝る子は育つ』とも言いますしね」
「その通りだ」
「『果報は寝て待て』とも」
「それはまたちょっと違う」
「あれ?『家宝は寝て待て』でしたっけ」
「いや、そうじゃなくて……」
放課後。
高校からの帰り道。
時刻は夕暮れ時。遠くに見える夕陽が、空を綺麗な橙色に染める。
学ランの少年は、ぼんやりと辺りを見渡した。視界に入るのは、一面に広がる田んぼのみだ。いやしかし、本当に田んぼしかない。この町には田んぼしかないのかと思うほどに田んぼしかないのだ。
(田舎だなあ)
彼は大きく息を吸った。なんとなく、この辺りは空気が澄んでいるように感じる。いや、気のせいではないだろう。本当に空気が綺麗なのだ。
(都会暮らしはもう懲り懲りだな)
彼は生粋の都会っ子だったが、ここ数週間の生活を経て、そう思うようになっていた。
「あ、あれです。あそこが私の家です」
セーラー服は、遠くを指差した。その先には、まるでお城のような豪邸。
「おー。やっぱり大きいな。立派な家じゃないか」
「ええ。ただ掃除が大変です」
「だろうな」
「早くお掃除ロボットを買うべきだと散々言っているのですが……なかなか聞き入れてくれません」
「魔法使いがお掃除ロボット使ってたら、何かがっかりじゃないか?」
「掃除をする私の身にもなってください。がっかりでも何でもいいです。落胆するより次の策です」
「お前、ことごとく言葉の使い方間違ってるぞ」
まあ、言わんとすることは分かるが……。
少年は呟くように言った。
「まあいいです。雑用係が一人増える訳ですから」
「まあね」
「じゃあ、さっさと帰宅しましょう。結界が張ってあるとはいえ、念には念を、です」
「うむ」
少年は頷いた。
二人は早歩きで、城へと歩みを進める。
・・・・・・・・・・
時刻は一時間ほど前に遡る。
放課後。
名城坑樹なじろこうきは、のんびりと高校の周りを、あてもなく散歩していた。
「マジで田んぼしかねえな」
彼は小さく呟いた。「ど田舎」だとは聞いていたが、まさかここまでとは……。
彼は先月まで生粋の都会っ子だったのだが、親の仕事の事情もあり、この辺境の地で暮らすこととなったのだった。ちょうど中学校を卒業したタイミングでの出来事だった。
(高校に進学する時に、大体メンバーがばらばらになるから、都合が良いな)
名城は思った。つまり、仲良しグループが完成した場所に、後から編入する訳ではないので、友人関係に苦労することはないだろうと考えたのである。
が、しかし彼の目論見は大外れであった。
この辺りは人口も少なく、高校自体もあまり存在しない。その影響で、中学校のメンバーが、おおかたそのまま高校のメンバーとなるのである。
名城にとっては、まずそれが一つ目のカルチャーショックだった。都会の常識が通用しないのだ、と身に沁みて実感した。結局、名城が高校に編入した時点で、彼以外の生徒たちは、ほぼ顔見知り同士だったのだ。
ただ名城にとって幸いだったのは、彼の編入することになった「公立昼ヶ丘高校」の生徒が、「いいヤツ」ばっかりだったことだ。
「都会の人間は冷たく、田舎は暖かい」みたいな風潮に、いつも疑念を抱いていた名城だったが、実際そういうことも、無きにしも非ずなのかも知れない。彼は思った。それほどに皆、アットホームに名城を迎え入れた。仲のいい友人もすぐに出来た。
「しかし、本当に何もねえな」
名城はまた同じようなことを口にした。昼ヶ丘高校のすぐそばにある小さな山。その頂上からは、町を一望することが出来る。
彼はそこから、一面に広がる緑色の景色を見ていた。普段なら友人と下らない話をしながら帰宅するところだが、何となく今日は、彼もぼーっとしたかったのだ。
「コンビニが………いっこもねえ」
そんなことあるのか……。いや、実際そうなのだから仕方ないのだが……。生粋の都会っ子である名城にとっては、新たな環境は発見の連続であった。
しかし不思議と、元いた喧騒の街に戻りたいとは思わない。移住してきたばっかりだから、まだ全然この「昼ヶ丘市」について知らないことばかりなのだが、高校を卒業して大人になっても、ここで自分はずっと暮らしていくのだろうという妙な予感が、彼にはあった。
やはり田舎は不便は不便だろうが、しかし都会にはないものが、ここにはある気がしたのだ。
「とは言え、やっぱコンビニないのはキツイな……。自販機はやたらあるけど」
彼がそう一人呟いた瞬間だった。
背中を押された。
「え?」
声が出る。押されたというか、もう蹴飛ばされたという位の衝撃だった。
とにかく、背後から突如、莫大なエネルギーを押し付けられた。とてつもない程の力学的エネルギーが、名城の身体を吹き飛ばし、そして、
気がついたら、彼の体は宙に浮いていた。
ついさっきまで見下ろしていた景色に、放り出される。
崖。
崖から放り出される。
空中。
空転。
「———っ」
名城は、咄嗟に地面に手をつこうとするが、しかし地面などない。空回りする。
空転。
空虚。
重力を感じる。下向きの重力。
重力。
無重力。
空転。
真っ逆さまに落ちる。落ちるしかない。
落ちるしかない。
死ぬしかない。
落下。
降下。
(やばい——死ぬ)
落ちて助かる高さではない。ギリギリ生きることすら不可能だろう。
死ぬしかない。
死ぬしかない。
死ぬしかない。
死ぬしかない——
こうして、新たな環境で新たな一歩を踏み出した少年の人生は、呆気なく儚く、終わりを告げたのだった。