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呼んで

作者: だんごむし

「私、異世界から来たんだ」

 アカリはそう言って水入れバケツに筆を投げ入れ、画板の下で胡坐をかいていた足を組み替えた。まだ陽の高い放課後の、遠くからサッカー部の掛け声が聞こえる屋上での出来事であった。

「どうしたの、急に。この前貸した本気に入ったの」

 彼女に倣ったわけではないが、乾いた自分の筆を水入れバケツに浸しながら聞き返す。ほとんど透明な水面の向こうでベージュ色をした穂先が揺蕩っている様子を見て、部活動をしなければならない残り時間をぼんやりと考えた。私の画用紙とは違いアカリのそれは随分と色が多く、絵の具が乾いていないために太陽の光に反射しててらてらと白く見える箇所もある。黒い大きな目をちらりとよそへ向けてから、彼女は「あれそこそこ面白かったね」と単純な感想を付け加えた。

「正確に言うと転生というか前世みたいな? 二週間くらい前かな、あれ、この前買ったペンどこ置いたっけって思って」

「あんたの家の話?」

「そう。でもそのペン買ってないんだよね、私は。レシートもないし」

「じゃあ買ってないんでしょ」

 義務的に時間を潰すための部活動を真面目にやるような、しっかり者の彼女が買っていないと言うのならそのペンは買っていなかったのだろう。他の物を買いに行って忘れるだとか、店で見かけただけだとか、買ったように勘違いしただけだと結論付けるための理由はいくらでも考えついた。すっかり描く気を失ったわたしは画板を身体の横に投げ出して、両足も投げ出して、派手な色のジャージの裾が屋上の床に垂れる様子を眺めている。

「買ってないかなぁ、ペンだけならそれでいいんだけど、その時から色々思い出してきて」

「思い出す?」

「真っ白な丸い家のベランダに座って家族とお菓子を食べたとか、友達とスクーターで遠出したときのこととか」

 わたしは夢でも見たのではないかと反論しそうになり、そのとき偶然彼女の膝の上に広がる風景画を見た。薄い空色を背景にまだらに浮かぶ雲とぼんやりとした灰色の校舎、幾つかの塊としてしか認識できないぼやけた街路樹と、いっそ大きな穴のようにも見える眩しいほどの橙色をしたグラウンドが広がる絵だ。中央に影が落ちているのは、あれは、彼女が動いたせいでよく見えなかったけれど人のかたちをしているようにも思えた。

「それ、引っ越してくる前の話じゃないの」

 ざぁ、と血の気が引くような心地だった。テニス部だと思う、壁にボールが叩きつけられる音がやけに鋭く聞こえる。わたしはアカリとスクーターで出かけたことなんてないし、丸い家なんてもっと知らない。彼女の家は、彼女の風景画と同じでパッとしないコンクリートの壁に窓がいくつも口を開いたマンションの片隅にあるはずだ。彼女が小学校にあがる時に越してきてからずっと。

「え、だって、わたしと出かけるときはいつも電車──」

「こういうことを沢山、もう沢山思い出して、昨日は車に轢かれたところまで思い、だして」

 画用紙は乾ききっていた。腕まくりをしたジャージの袖から二本の白い腕が伸びていて、それは画板の端を掴んで滑るばかりで筆も絵の具も手に取ろうとはしなかった。普段は傷にならないよう気を遣っているはずの唇を軽く噛み、繰り返し歯を立てるアカリは、わたしが見たことのない恐ろしい顔をしている。零れんばかりの大きな黒目がわたしを捉え、彼女は囁くように笑う。

「今日、お母さんと喧嘩した。他人のくせにって、私、つい怒鳴っちゃって」

「え」

「それに、最近はね、朝起こしに来てくれた母さんの顔ばっかり思い出すの。私は知らない人なのに懐かしくて」

「ち……調子悪いなら保健室行った方がいいよ」

 ひた、と両手を床につけて彼女はこちらに身を乗り出してくる。その拍子に画板が音をたてて落ち、クリップで留められた画用紙は風に煽られて大きな折り目が付いてしまった。描かれた橙色のグラウンドと黒い人のかたちの染みが微かに見えただけであとはアカリから目が離せなくなる。

「ヒカリ。向こうでの、ワタシの名前」

「……なにそれ。さっきから変だよ、変だって! あんたどうしちゃったの」

「変でしょ。変だよね」

 口の端に不自然な皺を作って、目元を歪めて、それでも見慣れた彼女のえくぼがその存在を微かに主張した。老婆のようとまでは言わないけれど、隈ができた涙袋と微かに血が滲む唇が彼女をずっと年老いて見せる。疲れる人生を二回も体験したひとのようなくすんだ頬は、なるほど、どこか青白い。

「ね、私のこと、名前で呼んで。そしたら大丈夫だから」

「……」

「呼んで」

「──アカリ」

 チャイムが鳴って、アカリはそのまますっと離れていった。思い出したように画板を引き寄せると床と擦れたボール紙はザリザリと不快な音をたてる。そして、わたしの好きな見慣れた微笑みを浮かべた彼女は少しだけ身体を傾け、確かに「ありがとう」と言ったのだった。

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