濡れ衣で国外追放された元聖女は、辺境の地で新たな幸せを守ることにしました。~私を罪人にした他の聖女が困っているそうですが、もうどうすることもできません~
清く正しく、人の幸せを愛おしく思える人間でありなさい。
私を育ててくれたお婆様が、私に残してくれた言葉だ。
ここ、バルディアム王国を魔物や魔族から守るために存在する聖女。
お婆様はその聖女の一人だった。
街を守るための結界を維持しながらも、街の人たちが困った様子を見せればすぐに助けに行き、自然と周りに人が集まってくるような、そんな人だった。
お婆様が寿命で旅立った日。
最期の瞬間を見送るために、街中の人々がお婆様に会いに来てくれた。
私も、こんな最期を迎えたいと思った。
とにかくお婆様みたいになりたくて、とにかく勉強して、聖女になるために必要な魔術を覚えて。
最年少の十三歳で聖女になれたことには驚いたけれど、それも偉大なお婆様と長く一緒にいたからだと自分を戒めた。
十五歳になったある日。
私はお婆様と同じ第一聖女に選ばれた。
国の中枢である王都を守る、もっとも責任の重い立場だ。
私は涙を流して喜んだ。
街の人たちを一瞬たりとも不安にさせないよう、皆さんと積極的に関わったり、我ながらお婆様に近い行いができていたと思う。
それから二年。
街の人たちとももっと仲良くなって、聖女として信頼してもらい始めたある日のこと。
――――私は、すべてを失うことになった。
◇◆◇
暗くかび臭い地下通路を両手を鎖で拘束されたまま歩く私は、考える。
このバルディアム王国を守るため、私は今日まで尽力してきた。
今どれだけ思い返してみても、こんな風に拘束されてしまうようなことをしでかした覚えなんて存在しない。
私の身柄を引っ張る兵士たちは、度々私に対して軽蔑の視線を送ってくる。
その目線があまりにも痛くて、息苦しい。
「……チッ、どんくさい女だ。さっさと自分の足で歩け」
「あっ」
背中を強く蹴られ、私は妙な薬品の匂いが立ち込める部屋の中へと入れられた。
両腕が縛られているせいで上手く立ち上がることができない私は、頭だけを動かして周囲を見渡す。
「ご苦労だった、兵士の諸君。下がっていいぞ」
そう言い放った男性の顔に、私は見覚えがあった。
ルドリー・ジル・バルディアム。
このバルディアム王国の第二王子であり、将来は次期国王である彼の兄を支えるための、優秀な参謀になることが予想されている男だ。
「ルドリー様……! これは一体」
「自分の罪すらも自覚していないのか、この反逆者め」
「うっ……!」
ルドリー様は、いまだ這いつくばったままの私の頭を硬い靴で踏みつける。
石の床に額をぶつけることになった私は、床の冷たさに反比例してじんわりと熱を感じ始めた。
この熱と痛みはきっと、額が切れて血が流れ出しているからだろう。
「あらあら、ルドリー様? それでは顔の確認ができませんことよ」
「おお……すまないな、それもそうだった。ほら、よくよく確認してくれたまえ」
聞き覚えのある女性の声。
それが聞こえたと思った矢先に、私は髪を鷲掴みにされて無理やり顔を持ち上げられる。
そして、やはり見知った顔と目が合った。
「シルビナ、さん……」
「ごきげんよう、ルナ第一聖女」
漆黒の黒髪を後ろで一つにまとめたつり目の女性、バルディアム王国第二聖女、シルビナは、狡猾な笑みを浮かべて私を見下す。
この国には、私を含めて四人の聖女がいる。
第一聖女が私、そして第二聖女がこのシルビナさん。
私たちはそれぞれが協力し合ってバルディアム王国を守ってきた――――そう、思っていたはずなのに。
「ふむふむ、ええ、やっぱりそうですわ! ルドリー様、この女で間違いありません」
「おお、そうかそうか。間違いがないようで安心したぞ」
わざとらしいセリフ回しの後、ルドリー様とシルビナさんは顔を合わせて笑う。
状況がいまだ呑み込めない私は、その声をただ聞いていることしかできなかった。
そして再び私へ視線を戻したシルビナさんは、愉悦を含んだ笑みを浮かべる。
「ま、さ、か! もっとも重要な王都の守護を任されている第一聖女のあなたが、国家重要人の暗殺を計画していただなんて思いもしませんでしたわ。本当に、人は見かけによらないですわね」
「わ、私……っ! そんなことしていません!」
「言い訳は聞きたくないですわ。私、見ましたから。あなたが国外の暗殺者と取引しているところを」
でたらめだと、口が叫ぶ。
確かに国の中枢に位置するバルディアム城が襲撃されたという一件は聞いているけれど、私はそれにまったく関与していない。
「ふざけないでくださいまし……!」
それを聞いたシルビナさんは激昂し、私の髪から手を離して体を踏みつけた。
彼女の底が厚い靴によって体が圧迫され、息が詰まる。
「ほんっとに往生際の悪い人……! あなたみたいな人が第一聖女だったと思うと、腹の底から反吐が出ますわ」
「私は……本当に」
「もしもルドリー様と私が異変に気付かなければ、王も含め城中の人間が皆殺しにされていたのかもしれないのに……! ――――もういいですわ。ルドリー様」
シルビナさんがルドリー様の名を呼ぶと、彼は後ろで待機していたローブ姿の魔術師たちに目配せをする。
すると彼らは手を合わせ、ローブについていたフードを深くかぶった。
そして、魔術を発動させるための詠唱を揃って口にする。
その言葉たちに連動するかのように、私の倒れている地面に刻まれた魔法陣が輝き始めた。
「私をどうなさるおつもりなのですか……!」
「処刑――――と言いたいところですが、それでは魔物や魔族の侵入を防ぐための聖域結界が消えてしまいますので、当分の間は生きていてもらわなければ困りますわ。だからと言って国家に対する反逆を企てるような罪人を国内に置いておくわけにもいかないのは、あなたの足りない頭でも理解できますわよね? なので仕方なく、あなたにはこの国から遥か遠くの辺境の地に転移していただきます」
彼女は口角を吊り上げ、到底聖女とは思えない高笑いを上げる。
「ふふふっ……あははははははは! あなたのその如何にも『自分はいい子で純粋な女です』っていう顔が本当に憎かったの! 群がる国民どもに毎日毎日媚を売って支持率を稼いで、そのおかげで第一聖女の立ち位置を守っているのでしょう? 本当に性根の腐った卑しい女ですわ!」
「媚を売るだなんて……! 私はそんなつもりで聖女として生きてきたわけではありません! 皆さんを守るため、この国を守るために精一杯尽くしてきました!」
「その結果が国家に対する反逆? 大方、よその国から金でも積まれたのでしょう。暗殺が成功した瞬間、混乱に乗じて国外に逃げるという魂胆だったのは見抜いてますのよ? いい加減白状したらどうですの?」
本当に、心の底から何も心当たりがない。
だけど、シルビナさんとルドリー様の顔を見て、一つだけ確信できることがあった。
この一連の流れをここまで操ったのは、彼らだ。
強固な守りを誇るバルディアム王国が、相手が暗殺者だったとしても簡単に侵入を許すとは思えない。
国内から手引きした者がいるという話は、まず間違いないと言えるだろう。
それが彼らであるかどうかははっきりとは分からないけれど、もしもそのまさかなのだとしたら、何か危険な策略が巡らされている可能性が高い。
「王に……バルディアム王国国王、ガイウス・ジル・バルディアム様に謁見させてください! あの方であれば私の無実を信じてくださいます! だから――――」
「貴様のような売国奴を父上に会わせるわけがないだろうがッ! 身の程を知れっ!」
激昂しながら私の胸倉を掴み上げたルドリー様は、無理やり立たせた私の頬を拳で殴りつける。
激痛と共に再び地べたに倒れた私は、あまりにも理不尽なこの状況に思わず涙を滲ませてしまった。
(駄目……こんなところで泣いては駄目……!)
例え聖女の立場を追われてしまったとしても、心だけはいつまでも強く、誰かの光でありたい。
きっとこの考えは自己満足でしかないけれど、少なくとも、こんな人たちの前で弱さを見せることだけは避けたかった。
「ふんっ、まあいい。そろそろ転送しろ。一秒でも早くこの女を我が国から追い出せ」
魔術師たちの詠唱が激しくなり、連動するように足元の魔法陣の輝きも強くなる。
何とかして逃げようと思っても、これまでに振るわれた暴力のせいで視界が揺れ、まともに立ち上がることすらできない。
私がもたもたしているうちに、ルドリー様とシルビナさんは魔法陣の外に出てしまう。
途端に光はさらに激しさを増して、私の視界を覆いつくした。
「ああ、そう言えば。第一聖女のお役目は私がしっかりと引き継がせていただきますので、ご心配なく」
「っ!」
「さようなら、負け犬さん。二度と会うことがありませんように」
聖女にあるまじき歪んだ笑みを浮かべたシルビナさんの顔を最後に、私の意識は真っ白な光に塗り潰されてしまった。
「うっ……」
わずかなこそばゆさを覚え、私は意識を取り戻した。
開いた目に映った物は、鋭い金色の眼光、そして日の光に照らされて美しく輝く白い毛並み。
(夢でも見ているのでしょうか……)
巨大な白狼。
それが私を見つめる金色の目の正体だった。
どうやら私はそんな白狼のお腹に背中を預けるようにして眠っていたらしい。
「っ⁉」
寝ぼけた頭がはっきりし始めたことで、事態の異常性に気づく。
そもそも私はシルビナさんとルドリー様によって辺境の地へと転移させられた。
だからここは私のまったく知らない土地であり、どんな危険があるのかも分からない。
目の前にいるこの白狼だって、もしかすると――――。
そんな風に考えている最中、白狼はゆっくりと立ち上がる。
四つ足で立ったその姿は雄々しく、それでいて幻想的だった。
思わず私が見惚れていると、白狼は私の方へと歩み寄る。
そして顔を近づけ、大きな舌で私の頬を優しく舐めた。
驚く私をよそに、白狼は顔をぐりぐりと私に押し付ける。
(な、懐かれているのでしょうか……?)
敵意などは一切感じない。
むしろ自分の体重で私が後ろに倒れてしまわないよう、とても繊細な気遣いすら伝わってくる。
恐る恐る白狼の頬を撫でてみれば、気持ちよさそうに目を細めてくれた。
「――――可愛い」
私よりも少し背の高い狼。
それだけでも恐怖の対象とするには十分な要素なのに、すでに私はこの白狼のことを愛おしく思い始めていた。
「もしや、私を守ってくれていたのですか?」
突飛な発想を口から漏らす。
すると白狼は、「わふ」と一つ吠えた。
何だかそれが「そうだ」と言ってくれてたように聞こえて、喜びの気持ちが溢れてくる。
「ありがとうございます、もふもふの白い狼さん」
新たな出会いは素直に嬉しい。
だけど、これからどうすればいいのだろう?
まずここがどこかも分からないし、町や村があるかどうかなんて分かりっこない。
せめて人襲う魔物さえいなければ生きていくことはできるかもしれないけれど、恥ずかしながら野宿の術などは持ち合わせていなかった。
私が途方に暮れていることに気づいたのか、白狼が修道服の端を加えて引っ張る。
「ついて来いということでしょうか……?」
優しい力で私を引っ張る白狼は、目で何かを訴えていた。
このままここにいてもどうしようもないことだけは確か。
ならば自分に良くしてくれた白狼に任せて動き出した方が、いくらか状況が好転する可能性が高いだろう。
私がついて行く意思を見せると、白狼は袖から口を放して歩き始める。
歩幅が明らかに違うのに、彼? 彼女? は私に合わせるようにして歩いてくれた。
白狼の案内にしたがってやがてたどり着いたのは、森の中に広がる美しい湖。
湖の水はどこまでも透き通っていて、ひんやりと気持ちよさそうだ。
「綺麗……」
私がそう呟くと、白狼は再び私に近づいて、頬を舐めてくれた。
そしてくるりと踵を返すと、私が目覚めた森の中へと戻っていこうとする。
「えっ、あの!」
思わず呼び止めてしまった。
白狼は一度振り返り、また「わふ」と鳴く。
するとその体は光輝き、一つの球体となって森の中へと消えていってしまった。
精霊――――。
そんな言葉が頭を過ぎる。
人前には滅多に姿を現わさない、大いなる自然の力を持つ存在。
生物というよりは現象に近いらしく、詳しいことはいまだに解明されていない。
もしもあの白狼が精霊だったとしたら、私は相当貴重な経験をしたということになる。
「ほう、あのハティがこうも簡単に懐くとはな。貴様、只者ではないと見える」
突然湖の方から声がして、思わず振り返る。
そこには端正な顔立ちをした黒髪長髪の男性が立っていた。
――――何故か上半身裸の状態で。
「は……裸……⁉」
湖面が揺れているおかげで下半身の状態は見えないけれど、上半身だけでも男性と密接にかかわる機会がなかった私には刺激が強い。
「ああ、悪い悪い。この距離で話していても気が散ってしまうな」
「い、いや、そういうことではなく――――」
男性は私の言葉が終わる前に、陸へと歩を進める。
陸に近づけば近づくほど当然湖も浅くなるため、徐々に彼の全身が見え始め――――。
「……あれ?」
「何を呆けている。我の姿がどこかおかしいか?」
おかしいと言えばおかしい。
さっきまで裸だったはずなのに、陸地に立つ彼は衣服を身に纏っていた。
確か東の国に伝わる"キモノ"という服がこんな形をしていたと思う。
「その格好からして貴様、聖職者だな? 何故こんな辺鄙な場所にいる」
「あ……えっと、バルディアム王国にて第一聖女を担当させていただいておりました、ルナと申します」
「ほう、またずいぶん離れたところから来たものだな。礼儀として我も名を伝えたいのだが……そうだな、クロと呼ぶがいい。我に明確な名はないが故、一種のあだ名でしかないが」
「クロ様、ですね」
「うむ。それで、何故貴様はこんな場所に一人でいる? それに怪我までして……聖女と言うからには、国からは重宝されているはずではないか」
「それが……複雑な事情がございまして」
「よい、話してみろ」
不思議と横柄な態度が似合う方だった。
私は指図されるがままに、どうしてここに来てしまったのかという経緯を話し始める。
王国の第二王子と、第二聖女に裏切られたということ。
濡れ衣で処刑は免れたものの、国から遥か離れた土地へ転移させられてしまったこと。
おそらく、もう二度とバルディアム王国には帰れないということ。
「……胸糞が悪くなる話だ。貴様は何も悪くないではないか」
いつの間にか、クロ様の顔は不機嫌そうに歪んでいた。
「森の中で目覚めてから、あの白い狼さんに案内していただいてここまで来たのですが……その、ここは一体どこなのでしょうか?」
「ここはバルディアム王国から相当かけ離れた辺境の地だ。バルディアム王国の領土からは馬車で丸二ヵ月ほどかかる位置にある。少なくとも、人間の足では到底たどり着けんな」
心の中にずっしりと響く事実だった。
戻ったところで弁明することすらできないのは分かっているけれど、街の皆さんにもう会えないというのは心の底から苦しく思う。
「これからどうするつもりだ?」
「近くに人が住める場所があるのなら、そこでお仕事を探してしばらく滞在させていただきたく思うのですが……この近辺にそういった場所はありますか?」
「あることにはあるが……このままでは、そこに貴様を案内することはできないな」
それはどうしてかと問いかけようとしたその瞬間、クロ様の肉体に異変が起きた。
骨や肉が肥大化し、見上げなければならなくなるほどに大きくなる。
そして皮膚には爬虫類のような鱗が浮かび上がり、人であったはずの彼は別の生物へと姿を変えた。
「ドラ、ゴン……?」
伝説の生物、竜へと変身を遂げたクロ様は、遥か高みから私へ向けて視線を落とす。
蛇に睨まれた蛙ならぬ竜に睨まれた人間。
一歩たりとも動けなくなってしまうほどの威圧感が、全身に浴びせられる。
「我はこの地を守る竜神。この地に住まう者たちは皆、等しく我が家族。よそ者である貴様が善人か悪人か分からない以上、家族に近づけるわけにはいかん」
クロ様は、私を試している。
どうすればいいのだろう? どうすれば信用してもらえるのだろう?
彼から放たれる威圧感のせいで、思考が曇り始めている自覚がある。
(何か……何か言わないと)
弱々しくなった思考を何とか回転させ、私は口を開く。
「わ、私は! 怪しい者ではありませんっ!」
「…………は?」
「私は至って真面目な聖女です! 先代の聖女であるお婆様から常に誠実であるよう育てられました! だ、だから……皆様に危害を加えるようなことは絶対にありません!」
私にできることは、誠心誠意言葉を尽くすことだけだった。
「私がしてしまった悪事と言えば、小さい頃に人参を残してしまった程度で――――あ、あれ?」
精一杯の私の訴えを、クロ様は唖然とした表情で聞いていた。
何か的外れなことを言ってしまったのかと不安になる私をよそに、彼は大口を開けて笑い始める。
「……くっ、くははははは! 聖女と言えば冗談すら言えない馬鹿に真面目なつまらん者ばかりだと思っていたが、貴様は中々愉快ではないか!」
「え? え?」
クロ様は体を縮ませて人間の姿へと戻ると、私に身を寄せて目をジッと見つめてきた。
彼の目は透き通った青色で、こうして見つめ合うだけで吸い込まれてしまうような錯覚すら覚える。
「くははっ、悪かったな、試すような真似をして。実のところ、元々大して疑っていたわけではない。森の長である大精霊ハティが気に入った時点で、貴様が善人であることは分かっていたのだ」
「で、では……何故試すような真似を……?」
「物事は我自身で確かめなければ気が済まない質でな……もし貴様が本当に善人なのであれば、それこそ村に近づけたくなかったのだ」
彼が言っていることがチグハグすぎて、私の頭は混乱を深める。
しかし村に近づけたくないと語った彼の顔はこれまでの態度とは大きく違い、えらく真剣だった。
何か事情があることを察することができる程度には――――。
「教えていただけないでしょうか? 何故人里に近づいてはならないのかを」
「……疫病だ」
「疫病?」
「咳と高熱で苦しむ村人が続出してな。現在も日に日に病人が増えている。それに、つい先日年老いた男がこの病で死んだ」
「っ!」
「まあ、体力的な問題だったのだろうな。しかしこのまま原因が分からなければ、死人は増える一方だろう。いくら屋外とは言え、精霊が住まう森にいた方が些かマシだと思えるほどの惨状ということだ」
クロ様は、心の底から悔しげに表情を歪めた。
「この湖は村人たちの生活用水を担っている。原因があるとすればここだと思って来てみたはいいが……何一つとして異常はなかった」
彼の言っていることは正しい。
湖からは何の邪気も感じないし、むしろ神聖さすら覚えるほどに強い力を感じる。
きっと竜神という名の神様の恩恵を受けているからだ。
私としても、原因がここにあるとは思えない。
「少々酷なことを言うようだが、大きな街がある方向であれば案内してやろう。我は領域の関係で付き添うことはできないが……運が良ければ数日で街にたどり着くはずだ」
「―――いえ」
「ん?」
「私をその村まで連れて行ってくれませんか?」
とっさに口から飛び出した要求を聞いて、クロ様は訝しげな視線を私へと向けた。
「正気か? 貴様も苦しんで死ぬことになるかもしれんぞ?」
「私は咎人と呼ばれようと、人々を守る聖女であることには変わりありません。苦しんでいる人がいるのであれば、私はその人の力になりたい」
聖女になるために、病や傷を治す光の魔術の勉強を積み重ねた。
王都で暮らしている間も、そうした知識は病で苦しむ方を助けるために何度も役に立ってくれている。
例えここがバルディアム王国でなくとも、そこで人が苦しんでいるのであれば――――。
(……困っている人には手を差し伸べる。そうですよね、お婆様)
どんな逆境に追いやられたとしても、絶望している場合じゃない。
悲しんでいる場合じゃない。
後悔している場合じゃない。
私は聖母とすら呼ばれたお婆様の孫。
誰かのために生きることこそ、私の道。
「……私が、皆さんを救います」
信じてもらうために、私は強い声色でそう口にした。
呆気に取られた様子だったクロ様は、次第にその表情を笑顔へと変える。
「くくく……くははは! 面白い。やはり貴様は面白い女だ。自分が人から裏切られたばかりだというのに、まだ人のために生きようと言うのか!」
ひとしきり笑ったクロ様は、最後に大きく息を吐く。
「はぁ……我の数少ない親切心を無下にしたことはあまりにも愚かと言うほかないが……いいだろう。見ず知らずの貴様の気概を買ってやる」
クロ様は再び竜の体へと変化すると、その巨大な手を私に差し伸べた。
「乗れ。空から行く方が一番速い」
「えっ……その、よろしいのですか? 竜神様の背に乗るなど……」
「我が乗れと言っているのだ。いいも悪いもあるか」
私はしばしクロ様の顔と手を見比べた後、恐る恐る彼の手に膝を乗せる。
縮こまるようにして手の上で正座している私を見て、クロ様はまた笑った。
「では行くぞ。我が背中に人を乗せることなど滅多にあるものじゃない。例え近いうちに死んだとしても、決してこの経験を忘れるでないぞ」
「……はいっ」
クロ様は前傾姿勢となり、背中に私を乗せる。
そして一度巨大な翼を動かせば、私を乗せたクロ様の体は宙へと浮かび上がった。
「比較的ゆっくり飛んでやるが、ちゃんとしがみついておけよ」
「はい!」
木々が、雲が、すごい速さで流れていく。
すべてを失った今日、私は初めて、空を飛んだ。
◇◆◇
「ふふふ、あははははは! まさかこーんなに上手くいくなんて!」
ルナが転送された直後の部屋で、シルビナは歓喜の声を上げる。
「すべてはルドリー様のおかげですわ! これでようやく私は第一聖女の立場を手に入れることができます!」
「ふっ、喜ぶのはまだ早いぞ。ここからはあの父上を上手く言いくるめなければならないんだからな。ルナのような馬鹿女とは訳が違う」
「分かっていますわ。……でも、本当にあの女は馬鹿すぎますわね。まさかこうして生かされたことすらも我々の策略だとは思ってもいないでしょうし」
彼女らの策略とは、こういうものである。
最初に暗殺者を国に招き入れたのは、ルナの予想通りルドリーとシルビナだ。
彼らはわざわざ金で雇った優秀な暗殺者たちを城に侵入させ、わざと暗殺を失敗させた。
そして国家重要人の暗殺を防いだ英雄として、まずルドリーは周囲からの評価を得る。
すべては次期国王と言われている兄を超え、自分が王となるために。
そしてシルビナは、暗殺者とルナを濡れ衣によって結び付け、第一聖女という立場の強奪を目指した。
彼女を処刑しなかったのは、シルビナの口が言った通り結界が壊れてしまうという事情も確かにあるものの、本命は別にある。
暗殺者と関係を築いているルナが生きていれば、今後国内で暗殺事件が起きたとしても、すべては彼女がバルディアム王国に復讐するために行ったということにできるのだ。
「まったくだ。精々気楽に生きてもらって、いずれ兄上と父上の暗殺が完了した時にすべての罪を背負ってもらうことにしよう」
「ええ、処刑はその時にゆっくりとできますものね」
二人は抱き合い、顔を見合わせる。
「ただ……一番の問題は兄上だな。奴は勘が鋭い上にルナをえらく気に入っている」
「あの子のことは暗殺者に助け出されて国外に逃亡したということにするんでしたよね? あの方のことですから、下手すれば後を追っていってしまうのでは?」
「安心しろ。そのために遥か彼方の辺境へと転送したのだ。転移魔法陣を使わない限り、どれだけ速い馬車を使っても二ヵ月以上はかかる。次期国王として期待されている兄が、そんな長い期間国を留守にするわけにはいかないだろう」
「ならば何を恐れているんですの?」
「だから言っただろう、兄上は勘が鋭いと。もしこの一件でルナの濡れ衣を疑い、身の回りの警戒を強めるようなことがあれば、最終的な暗殺計画が難しくなる」
先ほどまでの愉悦に塗れた表情を真剣なものへと変えたルドリー。
そんな彼に身を寄せ、シルビナは耳元でささやく。
「相手が男である以上は、私にお任せくださいませ」
「何……?」
「片手間で骨抜きにしてみせますわ。あの子を気に入っていたとしても、私を前にすれば思い知るはずです。あんな芋臭い女より、私の方が魅力的だって」
「くくくっ……ああ、まったくその通りだ。いいだろう、兄上の懐柔はお前に任せよう。警戒心すらもドロドロに溶かしてしまえ」
「ふふふ、仰せのままに」
すべてが順調だと思い込む彼らは、二人だけでほくそ笑む。
しかし、彼らは知らない。知ろうとすらしていない。
ルナという若き少女が、なぜその歳で第一聖女にまで選ばれたのかを。
彼女がどれだけの仕事をこなしていたのかを、この時はまだ、知る由もないのだ。
顔のいい男に「お前、面白れぇ女だな」って言わせたくて書きました。それだけです。
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