三話 宵街の女達 ~2~
さて、明けて翌日。俺は眠い目をこすりながら学校に向かうべく満員電車に揺られていた。
最寄りの駅から、満員の人を乗せた今は無き第三セクターのローカル線が新岐阜駅のホームへと滑り込み、開けられた電車のドアからすし詰め状態だった人の波が溢れ出し、向かいのホームと二階のホームから溢れ出した人波に混ざり、朝の新岐阜駅は大混雑していた。
そして、一日の大半を学業と名を変えた学校という名の牢獄に繋がれようやくその呪縛から解放されたのは、東から登った太陽がかなり西に傾き沈みかける頃だった。
「おぉい!裕司ぃおめぇ最近何スカシた態度とってんだよぉヤキ入れてやっからちっとツラかせやぁ」
学校を出て、駅に向かう道すがら同級生の一団が俺を取り囲みだしたのだった。
『めんどくせぇ……やっちまうのは訳ねぇけどここじゃあまりにも学校に近すぎんだよなぁ』
心の中で一瞬思案した俺だったが状況から考えてもひと暴れしねぇと収まりつかねぇよな……こいつ等。そう判断した俺は、人気の無い場所に彼等を誘導することにしたのである。
「余裕ぶっこいてんじゃねぇぞてめぇ!」
その同級生達は口々に俺に罵声を浴びせながら殴りかかってきたのだが、昨日のヒロさんとの殴り合いからしたら、本当に訳の無い連中で、勝敗はものの二分足らずで決まり七人八人ほどの同級生達のほとんどが俺の拳の餌食になって倒れていた。
「なんだ、おめぇ等。これで終わりかよ……つまんねぇ喧嘩させんなよなぁ!」
あまりの歯ごたえの無さに、逆にイラついた俺は足下に倒れていた同級生の一人の腹に強烈な蹴りを見舞ってやり、その場は終わりにするつもりだった。
しかし、彼等の一言が湧き起こりつつあった俺の怒りの感情に一気に起爆剤をぶち込みやがった。
「クソがぁ!チビがいきがんなよ!次はぜってぇぶっ殺してやんからよぉ覚悟しとけよ」
この一言が、俺の抑えていた怒りの感情の糸を二本三本まとめて切ってくれた気がした瞬間だった。
無言で彼等との間合いを一気に詰めた俺は、先ほど俺の感情を逆なでした同級生に的を絞り、顔面右ストレートからの連続ラッシュを浴びせて留めの一撃とばかりに、右下からアッパーカウンターを叩き込んでやるのだった。その間わずか十秒足らずでその同級生は完全に意識を失い動かなくなっていた。
「……やべぇよこいつ……こんな化け物まともに相手したら……俺等ぁ本当に殺されちまうよぅ……」
意気揚々と先ほどまでの戦況を見ていた同級生の一人が、全員の中で一番の要のはずの彼がわずか十秒足らずで俺に叩き伏せられた事で、退け腰気味に言うのだった。
「てめぇ等仲間ぁ見捨てて逃げるつもりじゃねぇよなぁ?」
俺は、仲間を見捨てて逃げる算段をしていた同級生二人を見据えるように睨んで言った。
「へぇ~おめぇ等の友情なんてあってねぇようなもんなんだなぁ……けどよ、後々尾ひれがつくの面倒だからよぉおめぇ等もやっぱ見逃せねぇわぁ」
俺はそう言うと瞬時に詰めた間合いから、その二人の同級生の顔面に、気絶しない程度に右ストレートをぶち込んで言ってやった。
「今あったことは、全部忘れて、おめぇ等の大将……早く病院連れてってやれよ」
「……わ……わかった。あんたの事、学校にチクったりしねぇからこれで勘弁な」
完全に怯えきった目で、俺を見るその同級生達にため息を一つこぼした時だった。昨日、皐月さんの店に行った時何かの連絡用にと渡されたポケットベルが出しぬけに鳴るのだった。
ディスプレイを見ると、ヒロさんの携帯番号が映し出出されていた。俺はすぐにその番号に近くの公衆電話から電話をかけた。
【おぉ、裕司ぃ早速でわりぃんだけどよぉ今から皐月の店これねぇか?ちっと話してぇ事もあってな。新岐阜駅のロータリー近くで待ってる……】
ヒロさんからの電話は、一方的に用件だけを伝えて切れたのだが、こういう時のヒロさんからの連絡は、かなり深刻な相談事に結びつく場合が多いように思われ、急ぎヒロさんの携帯にメッセージを送った。
それから数分後俺は、あれから指定し直した徹明町と呼ばれる市内線の電停でヒロさんと合流するのだった。
「おぉ、悪かったな早速急に呼び出しちまってよぅ……訳は道々話すからよぉまずは乗ってくれこんな往来のど真ん中じゃあ目立っていけねぇや……日陰の人間としちゃあよ」
ヒロさんはそういうと俺を車の後部座席に乗せ、皐月さんの店に向けて走らせ始めるのだった。
「単刀直入に言うぞ、おめぇに皐月の店の用心棒を頼みてぇ……
現役高校生のおめぇに、無理言ってるのは百も承知の上だ。何とか……引き受けてくれねぇか?無論、おめぇの都合に合わせてもらって構わねぇからよぅ」
ヒロさんの舎弟が運転する車の後部座席。ヒロさんはそう言って俺に頭を下げた。
「ヒロさん、頭ぁ上げてよ……俺なんかでよかったら一も二もなく引き受けるよ。この状況でもし断ったら運転席の舎弟さんに殺されそうだしぃ」
俺は、とにかく張り詰めた空気感というやつがどうにも苦手なのである。
「ちっと勘弁して下さいよぅそんな事したら、俺が兄ぃに殺されちゃいますって。俺、これでも兄ぃの組の舎弟頭なんで……」
長身痩躯の短髪に黒一色のスーツを着た男が逆に戯けて言ったが、ルームミラー越しに俺を見る彼の目は明らかに笑ってはいなかった。
「……兄さん、あんたぁ本物の極道だな……いずれ、近いうちにケリぃ着けようや。あんたもその方がすっきりするんじゃねぇのかい?ヒロさん、皐月さんの店の用心棒の件……返事すんなぁ彼とのケリぃ着いてからでもいいかな?」
車のルームミラー越しに、俺を見据える彼、日向栄二。彼との視線が切れないまま、静かに俺はヒロさんに言った。
「……ったくしょうがねぇなぁ俺の兄弟は一旦火ぃ着いちまったらとまんねぇからな……時間と場所はまた、追って連絡する……裕司ぃ今日は、悪かったな……また、連絡する」
ヒロさんは、重厚感のある低音ボイスでそう言って、皐月さんの店の少し手前で俺は車を降ろされた。
「ヒロさん……彼の事大事にしてやんなよ……そうそういねぇよ…… そこまで兄貴分想いの舎弟さんはよぅ」
車を降りた直後、俺は二人を振り向かないままでそう言うと、また、先ほど来た道を駅に向かって歩き出すのだった。
そして、一週間後の土曜日の昼下がり。俺はある場所に向かい岐阜の劇場通りと言われるメインストリートを歩いていた。
そして、着いた先はヒロさんの運営するプライベートボクシングジムだった。
「ヒロさん……リング用意してくれたなぁうれしいけどよぅ兄さんそれで納得したのかよ?」
ボクシングのリングで、正規の試合ルールで闘える。俺にして見れば夢のような好条件だったが、そこで相手にするのは俺以上に経験の無い彼だった。
「こりゃあこいつからの提案でな。てめぇを一人の俠客と認めてくれた。おめぇの恩義に報いてぇらしいからよぅ……裕司ぃ構わねぇから思う存分に暴れてくれぇ!」
リング中央に立ったヒロさんのその言葉と同時に、中央に設置されたゴングが打ち鳴らされるのだった。
結果は無論、少ない経験知ではあるが、経験者の俺と完全未経験者の彼とでは勝敗の行方は歴然としていたのだが、最後の最後に両者が放ったボディブローがクロスカウンターとして決まり、俺と彼はほぼ同時にリング中央にしゃがみ込み結果はドローに終わるのだった。
「……お……俺のくだらねぇプライド打ち砕いていただき、ありがとうございましたぁ!裕司さんこれからもよろしく頼んます」
リング中央から立ち上がり、リング下に降りたとき、彼、日向栄二はその切れた唇でそう言うと、俺に改めて握手を求めてくるのだった。
「俺の方こそ、よろしく頼んます……栄二さん」
俺はそう言うと彼の差し出した手を強く握り返すのだった。
「……栄二ぃこれでわかったかよ。俺がこいつを兄弟と認めた訳がよ……」
固く友情の握手を交わす俺と彼に、ヒロさんが話しかけてきた。
「すんませんしたぁ兄ぃてめぇのわがまま聞き届けてくださり感謝申し上げます」
栄二さんはそう言って話しかけてきたヒロさんに深く頭を下げるのだった。
「ヒロさん……約束どおりに皐月さんの店の用心棒。引き受けさせてもらいます」
俺もまた、そう言ってヒロさんと栄二さんに深く頭を下げるのだった。
「……裕司さん……俺のパンチの当たりどころ、悪かったッスか?改まってそんなんするのやめてくださいよぅ……」
俺が改まってそんな仕草をとるものだから、ヒロさんと栄二さんの会話が止まり、栄二さんがバツの悪そうに戯けて言った。
「ったくよぉ……おめぇ等二人お似合いだな……栄二ぃ裕司はおめぇのもう一人の兄貴分だぁ……とにかくまぁなんだぁ俺の兄弟は頭に血ぃ登っちまうとよぉ抑え効かなくなっちまうからよぅ。おめぇは裕司の兄弟の世話役だ……よろしく頼んだぜ」
俺の改まった発言に、固まった表情を見せていたヒロさんと栄二さんだったが、ヒロさんの砕けた発言で、俺も含む三人に再び笑いが戻るのだった。
「兄ぃ、そろそろ姐さんの店にスタッフ達が出勤してくる時間ッスよ」
ヒロさんのプライベートボクシングジムを出た俺達三人は皐月さんの店に向かおう頃、俺とヒロさんの前をガードするように歩く栄二さんが時計を見て言った。
「遅かったやないのぅ……みぃんなとぉにそろぅて待っててんやでぇ」
俺達が店へと入ると、開口一番に皐月さんがそう言って拗ねた振りをして笑った。
「おぉお、待たして悪かったな皐月ぃ……俺の兄弟は色々あってよぉ……けど、この店の用心棒の件は快く引き受けてくれたぜ……みんなに早速紹介してやれやぁ」
店の中ほどに設けられたフロアスペースに通された俺達三人。ヒロさんがそう言って俺と栄二さんをフロアのさらに中央部分へとおしやるのだった。
「兄ぃ、姐さん。ここは自分が……こちらぁ自分のもう一人の兄ぃで里中裕司さんです。今回は裕司兄ぃの世話役として自分もお世話になります。何とぞよろしくおねがい申し上げます!」
店のフロア中央部分へとおしやられた、俺と栄二さんの二人。ただ頭を下げる事しかできないでいる俺に変わって栄二さんが挨拶の向上を述べてくれるのだった。
この後、俺に紹介された英美さん、麻奈美さん智恵子さんの三人がこの店の立ち上げ当初からのスタッフだった。
「ウチもこんなぁと一緒にこの店立ち上げて大分になるんじゃがぁよそ者のウチ等ぁでもえぇ事あるんじゃね。こがいかわえぇこぉが用心棒してくれるんじゃったら、ウチ等ぁもちぃい と気合入れてきばらにやいかんがいねぇ」
俺が、一通り三人の名前を把握したころ三人の中で、麻奈美さんの次くらいに長身の英美さんという女性が広島弁訛りに言った。
三人が三人それぞれに、何らかの闇を抱えているのは初対面でも薄々はわかっていた。
しかし、この英美さんが抱える闇は後の二人とは別格なもので、かなり壮絶なもののように初対面でもこれだけは、はっきりとわかった。
案の定、彼女は昔覚せい剤中毒者の過去をもっていたのだった。
しかし、それはあくまでも過去の事で、今の彼女は健全そのものだった。
「ウチはぁこの岐阜に流れてきて二度ばっかし命ぃ救われたんよぅ……一度目ぇは皐月におぅて一緒に店ぇ立ち上げるん手伝ぅてほしぃ言われて、してぇ二度目ぇは誰じゃおもう?あんたじゃ……あんときぃこんなぁウチにゆうたじゃろ?俺はシャブ中は嫌いじゃあゆうて、ウチあの一言でぶちはっきりと目ぇ覚めたんよぅ生まれてこの方ぁあがぁ真剣にウチんこと叱り飛ばしてくれたんあんただけやったから……ぶち……嬉しかったぁ感謝しよるでぇ……ほんま……ありがとうなぁ」
俺が、皐月さんの店に入るようになって数週間後、組の方が忙しくなり俺の送迎が厳しくなりつつあった頃、俺の送迎をかって出てくれた英美さんが、駅までの道中問わず語らずに言って泣いた事があった。
一方では、ヒロさんが若頭を勤めて属している初代飛炎会が代代わりの節目を迎え、組織内部では派閥が大きく二つに割れようとしていたのだった。
先代会長の加齢による引退に伴い、次期会長に選ばれたのは先代会長からの信頼も厚かった木下正明という人物だったのだが、この木下正明という人物、時に道化を演じる癖があり、この時の幹部会でもほとんど指示を出さずただ黙って上座に座るだけだったのである。
この世界では至極当然の事なのだが、こうなると態度を急変させるのが先代の力で野心を抑えつけられていた幹部組員達である。
そして、その反対派閥の筆頭格と目されていた一人の男、氷上龍二という人物が全ての絵図を根底から覆そうと画策していたのである。
そんな彼が、最初に目を付けたのが何と同じ会派の皐月さんの店だった。どこで嗅ぎつけてきたのか奴は英美さんが元薬物依存者だった事を調べてきており、彼女に執拗なまでに覚せい剤の購入を進めるのだった。
「氷上さんここでそんなシロ物さばかれちゃあ困りますよ……あんたぁここが誰のシマかわかってそんな物さばいてんのか?そんな物買う奴はこの店にゃあもういねぇよ……騒ぎがでかくならねぇうちに帰った方があんたのためだと、俺は思いますがね」
「なんだぁ!まぁたてめぇか?訳のわからねぇカタギのガキは黙ってろやぁこいつぁ立派な商談だぁ……おめぇこそ、知らん顔してた方が無難だぜ!」
奴はそう言うと、事もあろうか店内で光り物と呼ばれる匕首を抜いて俺を威嚇してきやがったから、たまったものじゃねぇ。
一時騒然となった店内だったが、騒ぎを感づき駆けつけてくれたヒロさんと栄二さんによってその場は何とか収まるのだった。
しかし、その場はおとなしくつまみ出された奴だったが、奴が本当に牙を剥いたのはその翌日だった。