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フェルナンド王子がエシュタオル王国に到着して三日目の朝、王子は国の来賓として朝から豪華なごちそうを食べ、王さまや王妃さまやエシュタオルの三人の王子さまたちと歓談なさっておいででした。そしてフェルナンド王子の姉君がお妃として嫁いだ第一王子から狩猟の誘いを受けると、側近の従者たちの中に豚娘も混ぜて、彼女と一緒に森の中でも逍遥しようと、そんな気にフェルナンド王子はなったのでした。といいますのは、フェルナンド王子は狩猟がもうあまり好きではなくなっておりましたので、どこか適当なところで三人の王子たちと別れ、豚娘とふたりきりで木洩れ日あふれる自然の中を歩き楽しみたいと、そう思っていたからです。
フェルナンド王子はその昔(といっても今からほんの二三年ほど前まで)、狩猟や鷹狩りの大好きな青年でしたが、ある日ふと、子うさぎのたくさん待つ巣の中へ帰ろうとしている母親うさぎを射止めてしまったところから、狩猟というものをはなはだ野蛮な行為として憎むようにすらなったのでした。それで第一王子のアルフレッドと第二王子のルークフリード、第三王子のエルベルトとは広い森の中を別々のルートをとることにして、最後に森の入口で再び落ち合うことにしようと、そういうことにしたのです。フェルナンド王子は三人の王子たちが競って森の中へと姿を消すのを見届けると、自分は弓矢や矢筒などを側近の従者たちに預け、豚娘とふたり、森の中へとゆっくりと馬を歩かせてゆきました。そしてフェルナンド王子と豚娘が薄暗い森の木立ちの間を馬に乗って進んでゆくと、やがて光の燦々と輝く、ちょっとした森の広場へと到着したのでした。
フェルナンド王子はここなら良かろうと思い、馬を降りると、豚娘が馬から降りるのを手伝ってあげることにしました。そして樵が残していった切り株に、豚娘と向かいあって腰を降ろすと、こう話を切りだしたのです。
「僕の可愛い豚娘よ、ようく僕の話を聞いておくれ。僕は正直いってレーヌ姫のことがあまり好きではない。だが、カンツォーネの次代の王としての責任を果たすため、彼女とは嫌でも結婚しなければならない。そこで、是非折りいって君に頼みがあるのだが、僕はすっかり君のことが気にいってしまったので、是非とも僕付きの側近のひとりになってもらいたいのだが。こう言ってはなんだけれど、君はあまり器量も良くないし、レーヌ姫にもいじめられてばかりいる……そうだね?」
豚娘の落ち窪んだ小さな瞳から、ぽろりと透明な涙が零れ落ちました。豚娘はフェルナンド王子のあまりにも優しい心遣いに胸を打たれ、唇が震えて声もでないほどでした。
「僕の可愛い豚娘よ、泣かないでおくれ。もしも君が僕の申し出に首を縦に振ってくれるというのなら、僕は君のためになんでもしてあげよう。ただそのかわりに君は僕の悩みごとを聞いたり、僕がチェスをしたい時にその相手になってくれるだけでいいんだ。君も王宮に出入りする人間なら、一国の王の責務というものがどういったものか、大体想像がつくだろう?僕には王としての激務をこなすかたわら、どうしても安らぎというものが必要なんだよ。僕は君を絶対に悪いようにはしないし、どんな苦しみや恥かしさからもきっと君を守ってみせる。僕は王さまや王妃さまやレーヌ姫に、君を側近として預かりたいと願いでるつもりだ……君は僕のこの申し出を承知してくれるね?」
美貌の王子にここまで言ってもらいながら、一体誰が首を横に振ったりできるでしょう!豚娘は涙があとからあとからぽろぽろと零れ落ちるのを止められませんでした。きっと今の豚娘の気持ちは、レーヌ姫が正式なプロポーズの言葉を王子から受ける時よりも、ずっと幸福なものであったのに違いありません。
ああ、なんて可哀相な豚娘!彼女がもしフェルナンド王子と元のままの姿で普通にお見合いしていたとしたらどんなにか……いいえ、こんなことをいってみたところで、今さらはじまりませんね。お話を先へと進めることに致しましょう。
ところで、レーヌ姫は自分の部屋でこのふたりのこういったやりとりをずっと水晶玉に映して見ていたのですが、自分が豚娘に敗北したということがわかるなり、一気に逆上してしまいました。そこでレーヌ姫は、今フェルナンド王子と豚娘のいる森の広場よりずっと向こうにある、川の上流でニジマス捕りに勤しんでいた大熊に、こう命令を下したのです。
『豚娘を殺して、その骨の髄までをしゃぶりつくしてしまえ!』と――。
さあ、大変です!物凄い勢いで大きな熊が森の中を駆け抜けて、フェルナンド王子と豚娘に向かって突進してきました。
熊は四つん這いになってずっと藪や林の中を駆けてきたのですが、ふたりのいる広場までやってくると、二本足で立ち上がり、豚娘めがけて鋭い爪で襲いかかってきました。フェルナンド王子は大切な豚娘を守るため、腰帯に帯刀している剣を鞘から抜き放ち、熊の脇腹にその鋼の刃を深く突き刺しました――ところが、こんなことくらいで熊はへこたれたりはしません。逆にますます獰猛になって、今度は標的をフェルナンド王子に変えてしまいました。
「豚娘!早く逃げるんだ!」
フェルナンド王子は熊の攻撃を巧みにかわしてはいますが、熊の懐に飛び込んでゆくことは至難の技でしたし、どうにも反撃のしようがありません。防戦一方です。レーヌ姫は水晶玉を見つめながら狼狽しましたが、もはやどうしても熊の野性を制御することができませんでした。そしてとうとう――フェルナンド王子が切り株のひとつに躓いて、転倒してしまったのです。もはや万事休す――豚娘は恐ろしい光景を避けるために、両の掌で顔を覆い隠しました。
ところがその時、フェルナンド王子は勇敢にも熊との相打ちを狙って剣の先を熊の心臓めがけて貫きとおしましたので、大熊はフェルナンド王子の上に、その重い体をどっさりとのっけてきたのでした。
フェルナンド王子は自分の血と熊の返り血とを全身に浴びて、紅色に染め抜かれていました。フェルナンド王子にはもう、重い熊の体をよけるほどの力すらも残されてはいません。豚娘は腰が抜けてその場からなかなか起き上がれませんでしたが、それでもなんとか震える足を奮い立たせて王子のところまでいき、二百キロ以上はあるであろう熊の巨体をようやくの思いで脇へよけ、自分も血まみれになりながら王子の体を助け起こしました。
「王子!フェルナンド王子!」
豚娘は泣きながら王子の名前を呼び続けましたが、応答はありません(瞼すらぴくりとも動きませんでした)。
「誰か!誰か助けてください!」
豚娘の声は、あたりの森に虚しいこだまとなって響き渡っただけでした。二頭の馬はとっくの昔に驚き嘶いて逃げ去っていましたから、豚娘は意を決すると、王子の七十キロはあるであろう剣術によって鍛え抜かれた筋骨逞しい体を、背中に背負うことにしました。けれどもやはりか弱い女性には、そんなことは到底無理です。それでも豚娘はなんとか王子の体を森の入口にいる従者たちのところまで運ばなくてはなりませんでした。豚娘が森の中を元来た道を走っていって、従者たちを呼んできたほうが早かったかもしれませんが、その間に王子の身に何かあったとしたらと思うと、豚娘はやはり自分がなんとかするしかないのだという気持ちになりました。それで王子の体を力いっぱい引っ張り、引き摺れるところまで引き摺ってゆきました――するとその時、王子の意識が微かに戻ってきたようなのです!豚娘は今度こそと思い、王子に自分の背中に掴まるようにと促しました。王子もまともに意識のある時だったら、きっと女性の背中に身を委ねたりはしなかったでしょうが、何分意識が朦朧としておりましたので、豚娘に促されるがままに、彼女の背中に素直に身を委ねました。
――これも愛のなせる業なのでしょうか。豚娘がまだレーヌ姫であった頃、彼女はナイフとフォーク以上に重いものなど何ひとつ持ったことはありません。けれども今、彼女は愛する人を血まみれになりながら背負い、薄暗い森の小道をふらふらになりながら一歩一歩踏みしめるように歩いていました。毛穴という毛穴から汗が吹き出、熊のどろっとした血の、なんとも嫌な生臭い匂いまでしています。けれども豚娘は一国の王女としても、この愛しい人の命をなんとかして助けねばなりませんでした。カンツォーネ王国には世継ぎの王子がフェルナンド王子しかいないのです。ここでもし王子が命でも落とすようなことになったとしたら、せっかく両国間で百年続いた戦争が終結したばかりだというのに、同じ血の歴史が繰り返されることにもなりかねません。幸い、フェルナンド王子の馬と豚娘の馬とが森の入口の従者たちに異変を知らせてくれていましたから、豚娘がもう駄目だと思って膝を着いた時、従者たちのやってくる馬の蹄の音が轟いてきたのです!
王子付きの従者たちは血相を変えて、豚娘のことなど跳ね飛ばし、フェルナンド王子のことを助けようとしました。すぐにエシュタオルの三人の王子に向けて使いが飛ばされ、また王城のほうにも早馬が飛ばされました。
王城からはレーヌ姫の命によってすでに医師の乗った箱馬車が送られてきていましたから、フェルナンド王子は従者たちの思った以上に早く、医師の手当てを受けることができました。
フェルナンド王子は朦朧とした意識の中で、何度もうわ言で豚娘の名前を呼びましたから、彼女がずっとフェルナンド王子の看護に当たることになりました。豚娘は三日三晩、ほとんど眠ることなくフェルナンド王子の額の氷嚢をとりかえたり、また王子の体の全身をくまなく清拭したり、医師が包帯をとりかえたり傷口に軟膏を塗るのを手伝ったりしました。また何もすることがない時にはただひたすら王子の右の手や左の手を握りしめ、神さまに必死にお祈りしました。『どうか神さま、フェルナンド王子の体の傷をお癒しください。また王子の意識を目覚めさせてください。そのためならわたしは本当になんでもします』と――。そして実際に豚娘はなんでもしなければならないと、切実にそう感じていました。人の祈りというものは時として、行動としても現されなければならないものなのです。それで豚娘は涙ながらにある決心をし、自分に化けたレーヌ姫のところへと、あるお願いをしにいくことにしたのでした。
豚娘が天蓋つきの真鍮のベッドのある寝室へ入っていくと、レーヌ姫は憔悴しきった顔をしていて、豚娘はこの顔がかつての自分の顔であったとは、とても信じられないくらいでした。
レーヌ姫は実際のところ、後悔と痛恨の思いに打ちのめされていました。彼女は彼女なりにフェルナンド王子のことを愛していたからです。
豚娘はベッドに腰かけている、疲れきった顔の女の足許に身を投げだすと、床に額をこすりつけんばかりにして、懇願しました。
「どうかお願い!フェルナンド王子のことを助けてあげて!あなただったら彼の命を助けることができるはずよ!このまま目が覚めなかったら、きっと近いうちに王子は息をお引きとりになられるだろうとお医者さまが今朝おっしゃったのよ。もしもあなたがフェルナンド王子の命を助けてくれるのなら、わたし、あなたのためになんでもするわ!一生あなたのために奴隷の身となってもかまわない!一生、この豚の顔のままだってかまわないわ!だから、だからどうかお願い…… 王子の命を助けてあげて。そのためならわたし、本当になんでも……あなたのためになんでもします……」
豚娘の顔は涙のためにしわくちゃになり、見るもみっともない顔をしていました。レーヌ姫は豚娘のあまりにみっともない歪んだ顔に不愉快になり、吐き捨てるように意地悪くこう言い放ちました。
「なんでもするだって!?本当に一生その豚みたいな顔のままでもかまわないっていうのかい!?本当に、二目と見られぬひどい顔だっていうのに、それでかまわないっていうんだね!?じゃあ約束したよ。あたしは王子の命をこれからいって助けてあげようとも。ああ、自分から進んでそうするとも。そのかわり、おまえは一生その醜くてみっともない、豚そっくりの顔のままなんだからね!?本当にそれでいいのかい!?」
「……わかりました」と、豚娘は惨めな哀れっぽい声で、レーヌ姫に返事をしました。そしてレーヌ姫が「準備があるからさっさと出ておいき!」と金切り声で叫んだので、言われたとおりに部屋を出て、とぼとぼと廊下を歩いていったのでした。