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ところで、こちらはカンツォーネ王国、第一王子のフェルナンド殿下の揺られている馬車です。
フェルナンド王子は、自分の王国の王都を出発した時からとても憂鬱でした――今の王子はまさに憂鬱の化身といっても過言ではなかったでしょう。何故なら王子と恋仲にあった侍女のヴァージニアが、身分違いの恋を苦に、断崖から身を投げて自殺してしまったばかりだったからです。けれども両国間の今の微妙な国交状態からいって、縁談の日にちを先延ばしにしたりすることはあまり得策とはいえません。王子はしぶしぶながら王城を出発し、エシュタオルの王城まで三日の道程をヴァージニアのことばかりを考えて過ごしました。
(ああ、我が愛しのヴァージニア……きみは何ゆえに自殺なんかしたんだい?谷底の川の流れは、さぞかし冷たかったろうね。せめておまえの遺体が見つかるまでは、僕は王城にとどまっていたかったのだが)
フェルナンド王子は、時々涙さえ零して、風光明媚な土地の景色を眺めやっていましたが、わたしはここでフェルナンド王子とヴァージニアの間柄に関して、公正な意見をみなさんに述べておきたいと思います。まず、ヴァージニアが何故自殺したかということですが、ヴァージニアが自殺した直接の原因はフェルナンド王子にあったといって過言でないと、わたしはそのように思います。ヴァージニアは身分の低い侍女であって、まさかフェルナンド王子と結婚できるなどとは夢にも思ってはいませんでした。フェルナンド王子が隣国の第一王女であるレーヌ姫とお見合いすると聞いた時も、彼女はショックを受けながらも、こうなることはあらかじめわかっていたことと、王子の前で涙を見せるようなことさえしませんでした。ところがフェルナンド王子は、王子のことをなんとか諦めようとしているヴァージニアに向かって、こんなことを言ったのです。
「ねえ、ヴァージニア。僕はきみを愛しているけれども、カンツォーネ王国の第一王子として、隣国の王女と結婚しなければならないんだ。僕のこのつらい気持ち、きみならわかってくれるだろう?僕はエシュタオルのレーヌ姫と結婚しなければならないけれども、それはしょせん愛のない政略結婚なんだ。僕はきみを愛している。だからこれからも……」
ヴァージニアはフェルナンド王子の言葉を最後まで聞かずに走りだすと、王城の背後を天然の外壁のようにとり囲んでいる崖の頂きから、真っ逆さまに身を投げて自殺しました。
――こうみなさんにお伝えしても、フェルナンド王子のどこが悪かったのか、みなさんにはさっぱりわからないかもしれませんね。けれどもそれが女心というものなのです。だってこれからフェルナンド王子は類い稀なる美姫と結婚しようというのですから、そのあとのヴァージニアの立場は、一体どんなものになるとみなさんは思いますか?いくら政略結婚とはいえ、この世のものとも思えぬ美貌の王女に、フェルナンド王子が心を奪われぬわけがない、ヴァージニアはそう思いました。しかも王子は自分の言葉を、一国の王子としての最終的な決定事項としてヴァージニアに伝えたのでした。
フェルナンド王子は英邁な頭脳と美貌とで知られた、国民にも非常に人気のある王子ではありましたが、小さな頃から周囲の人間に甘やかされて育ったお坊ちゃまでもありましたので、人の心の微妙な揺れ動きといったようなものには極めて鈍い人だったのです。
まあ嘆き悲しんでいるフェルナンド王子のことをこれ以上責めるのも可哀相ですから、ヴァージニアの話はこのくらいでやめることにしておきましょう。
さて、悲嘆に暮れるフェルナンド王子の目に、エシュタオルの王城の、立派な尖塔の連なりがいくつも見えてきました――城下町の人々は、類い稀なる美貌の持ち主と誉れ高い、フェルナンド王子のお姿をひと目拝見しようと、街道の縁に押すな押すなと詰めかけてきています。エシュタオル軍の正装に身を包んだ兵士たちが護衛にあたっているとはいえ、王子は馬車の窓をぴったりと閉めきり、気さくに親しみを込めて手を振るエシュタオル城下の人々を無視し続けました。やがてフェルナンド王子の無視することのできない人物――レーヌ姫に化けた魔女リンダが馬に乗ってやってくるまで。
乗馬服姿のレーヌ姫がゆっくりと白馬を闊歩させてやってくると、エシュタオルの城下町の人々はみな驚いて、不審げにざわめきはじめました。そしてフェルナンド王子が何ごとかと馬車の窓を開けた時、そこには肖像画で見たのと同じ美女、レーヌ姫の姿があったというわけです。
フェルナンド王子は従者のひとりに馬を止めるよう命じました。そして馬車から一頭馬を切り離させると、その栗毛の馬に乗ってレーヌ姫と並んで王城へと進んでいったのです。
ラッパを吹き鳴らす予定であった軍の隊長たちはみな、驚きのあまりラッパを吹き鳴らすのを忘れてしまったくらいでした。まさにそれは息を飲む光景でした ――白馬に跨る美女と栗毛の馬に乗る美貌の王子――もっとも、その後ろからねずみ色のフードを目深に被った、醜い豚娘がついてこなければ、ふたりはもっと絵になったことでしょうが……。
といっても、フェルナンド王子はレーヌ姫の美貌にひと目で心を奪われたとか、そういうわけではありません。フェルナンド王子はただ、レーヌ姫のことを優しくおしとやかなお姫さまとだけ聞いておりましたので、このあまりにお転婆なふるまいを「面白い」と思っただけだったのです。そこでフェルナンド王子はレーヌ姫のことをひとつ試してやろうという気になりました――果たして彼女は本当に噂に伝え聞いたとおりの優しくおしとやかで機知に富んだ美姫なのかどうか――フェルナンド王子はヴァージニアを失ったことに対する憂さ晴らしとして、まずは小手調べにレーヌ姫のおつむのほうを調べてやれと思いました。といいますのも、フェルナンド王子にはふたりの姉姫さまがいらっしゃったのですが、ふたりとも容姿が美しく従順だけれども、少々頭のほうがか弱いタイプの女性でしたので、レーヌ姫もそうに違いないと、王子は前々から怪しんでいたからです(しかもふたりとも美しく機知に富んだという触れ込みで、サイオニアとエシュタオル王国の王子のもとへと嫁いでゆきました)。
フェルナンド王子はレーヌ姫と挨拶を交わし、天気の話やエシュタオルの城下町の賑わいのことなど、差し障りのない世間話を社交儀礼的に交わしたあとで――突然、こんな謎かけをしました。
「『食らうものから食べものが出、強いものから甘いものが出た』
さて、これは一体なんのことでしょうか?美しく、機知に富んだあなたになら、きっとすぐにおわかりのことでしょう」
魔女リンダは謎々が大好きな魔女でしたが、何分、魔女は聖書など読みはしませんので、フェルナンド王子がなんのことを言っているのか、さっぱりちんぷんかんぷんでした。ふたりのあとにほんの少し距離を置いて馬に歩を踏ませていた本物のレーヌ姫は、自分がその答えを口にできないことをとても残念に思いました――そしてそのうずうずとした思いが堪えきれなくなると、自分に化けた魔女リンダが「まあ、わたくしわかりませんわ」などと気どって答えているそのすぐ横へと近付いていったのでした。
「『蜜蜂よりも甘いものは何か。雄獅子よりも強いものは何か』
王子さまはきっと、士師記の十二番目の士師、サムソンの婚礼の宴でのことを申しておられるのでありましょう」
フェルナンド王子もレーヌ姫に化けた魔女リンダも驚きましたが、醜い小娘は王子の質問に答えだけを述べますと、再び後ろのほうへと下がってゆきました。フェルナンド王子はその娘の声があまりにも美しく、可愛らしかったので、どんな顔をしているのだろうと興味を持ち、灰色のフードを目深に被っている娘の馬のそばへといってみることにしました。
「やあ、君はいったい……」
フェルナンド王子の声はそこで止まりました。王子が娘の顔を覗き込むようにして見てみると、そこには王子がかつて見たこともないほどの、豚そっくりの顔がありました。
おそらくは娘の声を聞いたあとでなければ、王子には彼女が男か女かもわからなかったことでしょう。
レーヌ姫に化けた魔女リンダは、王子が本物のレーヌ姫に近付いたことを腹立たしく思い、醜い小娘にこう厳しい口調で言いつけました。
「しっしっ。あっちへ行っておいで、この豚娘め!フェルナンド王子のお目汚しをするんじゃないよ!」
「申し訳、ございません……」
醜い小娘は消えいるような声でそう謝り、王子に頭を下げると、馬を降りました。そしてその場所はちょうど王宮の厩舎が近くにある広場でもありましたので、フェルナンド王子もレーヌ姫もそこで馬を降りたのでした。
「豚娘!馬を厩舎へ入れておいで!もし一頭でも逃がしたりしたら、ただじゃおかないからね!」
レーヌ姫はわざと自分の乗っていた白い馬の尻を叩きましたので、馬は新緑の芝が綺麗に刈り込まれた広場の中を駆け抜けて、どこかへ走り去ってしまいました。
「さあ、早速つかまえた!」
フェルナンド王子は、豚そっくりの小娘があまりにも可哀相になり、あとから来た自分の従者にレーヌ姫の白い愛馬を探して捕まえるようにと命じました。レーヌ姫は王子が豚娘を庇うのをみて、見るからに面白くなさそうな顔をしましたが、フェルナンド王子はそんなレーヌ姫の意地悪な態度を見かねて、豚娘にこう問いかけました。
「豚娘だなんて、あまりにもひどい呼び名じゃないか。きっと君にも本当の名前があるはずだ。それを僕に教えてくれないかい?」
豚娘は王子のあまりの優しさに、まごついてしまいました。それでとっさに偽の名前を思いつこうとしてみたのですが、自分に相応しい呼び名がどんな響きをもっているものなのかが、やはりわかりません。美しい王子さまに、醜い顔のわりには可愛らしい名前だなんて、そんなふうに思われたくはありませんでしたから。
すると、レーヌ姫がまた意地悪く吐き捨てるようにこう怒鳴りました。
「豚娘は生まれつき豚そっくりだったから、両親から豚娘と名付けられたのさ!その醜い小娘に豚娘以外の名前なんてありはしないんだよ!」
醜い小娘は王子の栗毛の馬と、自分の馬の手綱を震える手でぎゅっと握りしめると、二頭の馬をただ黙って厩舎へ連れていこうとしました。
フェルナンド王子はこの時、豚娘が目深に被っているフードの中から涙を零しているのを見逃しはしませんでしたが、彼女になんと声をかけてやったらいいものかが、やはりわかりませんでした。
そしてレーヌ姫のことを、なんという思いやりも優しさのかけらもない、粗野で乱暴な娘だろうと、そう思ったのでした。
本物のレーヌ姫は、大人しく、とても行儀のよい二頭の優しい馬を厩舎の中へ連れていくと、馬糞くさい馬屋の中で、藁の中に顔をうずめて泣き続けました。そして彼女が随分と長いこと泣き叫んでいると、そこに例の衣装係のふたりの侍女が現れて、豚娘のことを両脇からがっしりと掴んだのでした。ふたりは有無を言わせず、豚娘をレーヌ姫の衣装部屋へと連れていきました。
「どういうことなの……?」
豚娘はかつての自分の豪華な衣装の数々を前に、泣きながらふたりの侍女に訊ねました。
「さあ……わたくしどもはあなたさまにとびきりの晴れ着を着せて大広間へと連れていくようにおおせつかっただけですから。レーヌ姫さまはどれでもあなたのお好きな衣装を着てくださってかまわないとおっしゃっておいででした。さあ、どちらの御衣裳をお召しなさいますか?」
豚娘はかつての自分の華やかなドレスの中から、一番地味で目立たないものを選ぶことにしました――豚娘には、自分に化けている魔女リンダが自分のことを物笑いの種にしようとしていることが、よくわかっていましたから。
けれどもふたりの衣装係の侍女は、豚娘の選んだドレスでなしに、白い絹の布地にピンクの薔薇をいくつもあしらったドレスを豚娘に着せようとしました。ふたりは明らかに面白がっていました。
「あら、これはこれで可愛いといえないこともないんじゃないかしら?」
「そうね。ほら、頭にピンクの薔薇のコサージュなんかもつけて……と」
豚娘は鏡の中の自分のあまりにもアンバランスな姿かげんに、泣きだしたいほど惨めな気持ちでいっぱいでしたが、それでもかつての召使いたちに文句を言い立てたりはしませんでした。
かくして豚娘は大広間へと連れてゆかれ、集まった王侯貴族たちのいい物笑いの種になったというわけです。