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ところで、魔女リンダのその後についてですが、彼女は魔力を失ってただのリンダという名前の平凡な中年のおばさんになっていました。彼女は街の辻で物乞いをしたり、また魔女であったころの知識を活用して占いをするなどして、なんとかその日その日を食べ繋いで生きるという、根無し草の生活を送っていました。けれどもエシュタオルのレーヌ姫とカンツォーネ王国のフェルナンド王子の御結婚による恩恵は、町や村にいるどんな乞食にも及んだくらいでしたから、リンダもまた浮かれ騒ぐ人々の輪に加わり、ただで美味しいものを食べたり飲んだり、楽しく歌ったり踊ったりして、一応人並みの生活をするだけの基盤を整えることができたようです。つまりどういうことかと申しますと、リンダがあまりにも調子はずれな歌声で歌を歌いますので、城下町の酒場の人々はそんなリンダを面白がり、毎晩のように彼女に向かって銀貨や銅貨をやんややんやと投げつけたと、こういったわけです。
リンダは惨めな乞食であった頃、もう死んでしまおうかなとも思いましたが、人間の心の暖かさや優しさに支えられ、今ではある人の口利きでカンツォーネの王城の小間使いとして雇い入れてもらえることにもなりました。
リンダはエシュタオルの王城をでると、すぐにカンツォーネ王国の王都を目指したわけなのですが、そのことにはふたつの大きな理由がありました。リンダはエシュタオルの王国で悪いことをたくさんしでかしていましたから、いつどこで誰に後ろ指をさされて捕えられるか知れませんでしたし、なんとかして仕事にありつくためには人口密度の高い王都が一番だろうと思われました。それともうひとつ――リンダはフェルナンド王子のことを彼女なりに心から愛していましたから、王子のいる王城のある町で暮らしたいとの思いもありました。フェルナンド王の命をお救いしたということは、いくら自業自得とはいえ、リンダにとって大変名誉に思われることでしたので、リンダは王の命をお救いしたとの誇りを胸に、今は王宮の小間使い兼洗濯女として一生懸命に働いています。
リンダは人間として様々な苦労を経験し、今ではすっかり改心していました。彼女はただひたすら大人しく高貴な人々に言いつけられたとおりにし(それがたとえどんなにつまらないことであれ)、ただひたすら黙って毎日たくさんの量の洗濯をし続けました。リンダは心の中で幸福というものを否定し、自分が幸福になれるなどとは、夢にも思っていませんでした。人間が生きるために苦労をするのは当然のことで、自分はこれまで楽をしてきたのだからその報いがいま与えられているのだと、そう考えるようになっていたのです。
ところで、王宮には下男と呼ばれる召使いが何人もいるのですが、彼らは王宮の雑用係として働いています。王宮内の暖炉にくべるための薪を割ったり、庭の樹木を剪定したり、厩舎の馬の世話をすることなどが彼らの役目でした。そしてその下男から出世して今は王城の執事となっている男に、ディックという名前の中年のおじさんがいました。このディックという男は非常に寡黙で真心のある、誠実な男で、フェルナンド王のお気に入りでした。ディックはその昔、下男として王宮に出入りを許された初めの頃、さる高貴な生まれの方と間違いを犯してしまったことがあります。ディックは自分の下男としての身分も忘れ、その貴族の女性にすっかりのぼせ上がっていましたから、その女性が名門貴族出身の男性と結婚してしまった時は、大変なショックと鬱状態に近い、非常な落ち込みとを経験しました。
失恋というものは誰にとっても悲しくつらいものですが、ディックはそれ以来すっかり女性不信に陥ってしまったのです。
ディックの父親は城下町で酒場と料亭を経営していますが、ディックの母親は酒場に出入りしていた男のひとりと駆け落ちし、真面目で口数の少ない父親と幼い自分とを捨てて出ていったのでした。ディックは美しかった母親のことと、貴族の女性のこととを重ねあわせ、もう二度と女なんか信じない、とそう固く心に決意していました。ディックはもう四十を過ぎようかという年齢に差しかかっていましたが、フェルナンド王が何度良縁を結ぼうとしても、かたくなにそれを辞退し続けていたのでした。ところが、王宮にリンダがやってくると、ディックはたちまちのうちにリンダに惹きつけられるようになっていったのです。
ディックがリンダに抱いた最初の印象は『貧しい嫁かず後家』というものでしたが、ディックは多くの召使いたちを束ねる執事の立場として、すぐにリンダに対して深い興味と関心を覚えてゆくようになりました。
リンダは言われたことはなんでもすぐに手早くこなし、仕事ぶりも真面目で、どんなに小さなことにも丁寧に、真心を込めて作業していることがディックにはよくわかりました。
ディックはリンダが若いメイドの二倍の量の仕事をこなしながらも文句ひとつ言わずにいるのを見て、次第に女性として心を惹かれるようになっていきました。それで仕事を監督するふりをしては、リンダに熱い眼差しを送っていたのですが、当のリンダはといえば、おっかない執事が自分のことを睨んで監視しているとしか思ってはいませんでした。
そしてそんなある日のこと、黄金の陽射しを一身に浴びながら、ただひたすら無心に洗濯をしているリンダに、ディックはプロポーズしました。リンダはあまりにも突然のことに驚きましたが、ディックの気持ちが嬉しくもあり、また彼がもし断られたとしたら自分はもう生きていけないだろうというような、逼迫した表情をしていたこともあって、彼のプロポーズをすぐに承諾することにしたのでした。
ディックとリンダは、今は城下町の酒場兼料亭の二階に、ディックの年老いた父親と三人で暮らしています。リンダはとても幸福でした。何故なら心の底から欲しいと思ったものが、生まれて初めて手に入ったからです。