-003-
ある日、僕は彼女と同じ匂いのする女性に出会った。
バッタリと、という言い方をすると少し変になるのだけれど。
僕はその女性の匂いから、彼女だと勘違いをしてしまって――てっきり、「なるほど、今日は追いかけっこをして遊ぶんだな、ようし……」なんて勘違いを重ねてしまった結果――逃げ場のないところまで追いつめて初めて、彼女じゃない別人だということに気がついた。
僕はびっくりした。
それが人間の、大人の女性だったからだ。
追いかけ回された女性は腰をへたらせ、心底僕に怯えている風。
勘違いとはいえ、女性を怖がらせてしまったことは事実だ。僕は申し訳なくなる。
「やめて、助けて、殺さないで……」
と、拒絶するように手をバタバタさせる女性。
勘違いしないでほしいのだけれど、僕は人に危害を加えたことは一度だってない。
けれど、不思議だった。
なんでこの女性は彼女と同じ匂いがするのだろう?
僕は女性の首元に鼻をやり、クンクンと臭いを嗅いでみる。
すると女性は勝手におびえて、勝手にバッタリと倒れてしまった。
「…………」
鼻で頬をツンツンしてみる。
反応はない。
顔をぺろっと舐めてみる。
やっぱり反応はない。
気絶してるみたいだ。
……別に乱暴しようなんて、これっぽっちも思ってないのに。
まあ、人というのは、だいたいにおいてこんな具合だから、僕も今更それを寂しく思ったりすることはない。それよりも、この匂いだ。ちゃんと嗅いでみても、この女性からは彼女と同じ匂いがする。
どういうことだろう?
まさか僕の鼻がおかしくなったのか?
ともあれ。
僕はこの女性を、彼女のところへ持っていくことにした。
「もう! どこいってたの、ドン助――」
と、彼女はため息まじりに言う。
僕が口にくわえた女性に気付いて、急に顔をこわばらせた。
「それ……もしかして、人……?」
血の気を引かせて、真っ青になっている。
彼女にまで勘違いされたら、流石の僕も傷つく。だから、女性に一切の危害を加えていないことを見せるために、彼女の前に女性を仰向けになるよう、置いた。
乱暴なんてしてないんだからね――との意味合いの乗せてみたつもりだったのだけれど、しかし、そんな僕の期待とは裏腹に、彼女の表情はより色を失っていく。
「……返してきて」
その言葉の意味がよく理解出来なくて、僕は首を傾げた。
「ドン助! それをもとの場所に返してきて! 早く!」
彼女の怒鳴り声に、僕はビクっとなる。
僕は言われるまま走り出した。
怒っていた。
彼女は間違いなく怒っていた。
あんなに怒っている彼女を見るのは初めてだった。
もしかしたら嫌われたのかもしれない――そう思うと、僕はとても苦しい気持ちになった。こんなのを拾ってくるんじゃなかった。なんで村から外れたあんなところを歩いてるんだ。こいつのせいで、僕は彼女に怒られた。
僕はそんな八当たりをしながら、彼女の言うとおり、拾った場所へと女性を戻した。
戻ってみても、彼女の機嫌は悪かった。
不機嫌は夜まで続いた。
お月さまが光って、虫たちもそろそろ鳴き疲れてくる時間。
いつもならとっくに寝ているその時間だけれど、なかなか寝付くことができない。僕を抱いて寝てくれる彼女も、今日はそっぽを向いて寝てしまっている。
昼間に見た、驚いたような、悲しそうな……そんな彼女の顔が、目蓋から消えない。
僕は、なにか悪いことをしてしまったのだろうか……。
「ドン助、起きてる?」
僕はドキッとした。
起きていたのか。
返事をしたい気持ちはあったのだけれど、変な罪悪感が機会を奪ってしまった。
僕は臆病者なのだ。
「昼間は、怒鳴ったりしてごめん」
僕は寝たふりをする。
しばらくの間のあと、彼女は呟くように言う。
「……ヒトミゴクウっていってね」
初めて聞く言葉だった。
それがなにを意味しているのか、僕にはわからない。
彼女は続ける。
「食べ物が採れなくなっちゃたら皆が困るから……だから毎年、わたしみたいな女の子を、山の神様にイケニエとして捧げるの。そのイケニエに選ばれた女の子は、手と足を縛られて山の中に埋められる。イケニエに選ばれるのはとても名誉なことだって、みんなが言ってた。わたしには、よくわからないんだけどね」
少し難しい話。
彼女にもわからないことが、僕にわかるはずもない。
「本当はあのとき、わたしは死ななくちゃいけなかった。でも……埋められる寸前で、お母さんが縄を解いてくれて……『逃げて』って……」
声が震えている。
「ねえ、ドン助……わたし、どこに逃げればいいんだろうね? 村には帰れないし、行く場所なんて……もう、どこにもないのに……」
僕は胸がきゅうと締め付けられる思いをした。
きっと彼女は辛いんだろう。
苦しいんだろう。
とても、悲しいんだろう。
なにか声をかけてあげたかった。
僕がそばにいるよ。
絶対に離れてなんかやるもんか。
色んな言葉が頭の中を駆け巡ったけれど、でも、声に出す勇気は僕にはなかった。