-002-
僕にとって、人というものは、とても怖いものだ。
いつから、じゃない。いつのまにか、生きているうちに、自然と。
僕は彼らを無条件に怖いものだと認めていた。
その理由は多くある。
僕を見て怒るから。
勝手に怯えるから。
理由もなく僕に乱暴するから。
けれど、彼女は人でありながら、傷を負った僕に手当てをしてくれる。怒鳴らないで声をかけてくれる。気遣ってくれる。あたたかさを、教えてくれる。
そんな彼女は僕に名前をくれた。
人はみんな僕のことを『バケモノ』と呼ぶものだから、てっきり彼女も『バケモノ』と呼ぶとばかり思っていたのだけれど、
「きみって、なんだかどんくさそう」
彼女は笑顔で言った。
「これから、きみのことを『ドン助』って呼ぶね」
ドン助。
僕はこの名前を一発で気にいった。
彼女は、僕の怪我が治るまで、一生懸命になって世話をしてくれた。
優しくしてくれた。
僕にはそれがわからない。
この世界には、僕にはわからないことがたくさんある。
人でありながら、僕を『バケモノ』と呼ばない彼女。
彼女と同じ人でありながら、僕を『バケモノ』といじめる人たち。
それは、彼女がまだ幼いから、という理由ではないと思う。僕を痛めつけた人たちの中には、彼女と同じくらいの子供だっていた。大人に混じって僕に乱暴をする――僕にとってみれば、人のカタチをしているものは、すべからく僕に危害を加える生き物だった。
彼女はその範疇から逸脱する。
僕は、彼女のような人を見るのは初めてだった。
だから、僕が彼女のことを大好きになるのに、そんなに時間を必要とはしなかった。
「だいぶ良くなったね、ドン助。でも、まだあんまり動きまわっちゃダメだよ?」
傷が開いちゃうかもだからね、と彼女は人差し指を立てて僕に言う。
洞窟の外はまだ夏を残していた。澄んだ朝の空気が心地良い。それは風となって洞窟の奥にまで運ばれてくる。僕たちがこの洞窟に住むようになってしばらくの時間が流れていた。
もうすぐ夏が終わり、秋が来る。僕の毛も幾分濃くなって冬の支度を始めている。
冬を前に動けるようになったのは幸いだった。寒くなってしまうと、森の中とはいえ食べ物が尽きる。その前に食べ物を溜めこんでおかなければならない。
久しぶりの外だったけれど、僕がやることと言えばもっぱら食べ物を探すこと。それ以外にやることなんて思いつかない。長く洞窟に籠っていたおかげで、僕のお腹はぺこぺこだった。彼女がキノコや木の実を持ってきてくれてはいたけれど、満腹になるには程遠い。
夏の終わりは、食べ応えのある大きな魚が川を昇り始める時期だ。川には水があって、水の中には魚がいる。
僕はとりあえずと川を探した。
そんな僕を、彼女はついて回る。
ときおり僕の頭に編んだ花冠を乗せたり、毛や尻尾を引っ張ったりといたずらをする。
彼女はまだ幼くて、とても元気だ。
彼女を背中に乗せ、森の中を進む。
やがて水の流れる音が聞こえ、川が見えてくる。
僕は大きな岩の上から水の中を覗きこむ。
まだ時期が早いのか、大きな魚は見当たらない。
「てい!」
と、彼女の掛声とともに僕のお尻が押された。
バランスを崩した僕の身体は、川の中へ落ちる。
「あはは、ドン助ずぶ濡れ!」
なんてひどいことをするんだ。
僕はお返しに、身体を振って彼女に水飛沫をかける。
「む、やったなドン助!」
彼女はわざわざ川に飛び込んで僕に水をかける。
その行為になんの意味があるのか、僕にはわからない。けれど、彼女と水のかけっこをしている時間は、これまで僕が生きてきた中で、一番と言えるくらい楽しい時間だった。
陽が傾き、少し肌寒くなってきた。
濡れネズミとなった僕たちは、陽が落ちる前に洞窟へと戻った。
今日の晩御飯は久しぶりの魚だ。彼女は枯れ葉や乾いた枝を集め、火を起こして暖を取る。寝そべる僕にもたれかかるように、彼女は僕に背中をあずける。
夜は冷え込む。
彼女は僕のふところに潜り込んで、猫のように背中を丸めて、こんなことを言う。
「えへへ、ドン助あったかい」
僕の毛が、まさかこんなところで役に立つとは思わなかった。
きっと僕の毛皮は、こうして彼女をあたためるためにあった。
そんな風に思った。
彼女の匂いに包まれて、深くて優しい眠りへと落ちる。
そうだ、僕はこんな風に誰かと過ごすことを、心から望んでいたんだ。
そんな風に思った。