-001-
僕はなにもわからない。
僕は自分のことについて、ほとんどと言っていいくらい、なにも知らない。
けれど僕は、自分の名前が『バケモノ』だということは知っている。
それは村の人たちが僕のほうを指差し、
「バケモノ、バケモノ!」
と叫ぶからだ。
村の人たちは、その手に棒や鍬、鎌などを持って、僕に襲いかかってくる。
なぜか?
理由はわからない。
とにかく、僕はそれが怖くてたまらなかった。
一度目は殺されそうになって、二度目は本当に殺されかけた。
三度目はないと思って、僕は人の村に近づくのをやめた。
『バケモノ』は村に入っちゃいけないんだ。
誰に教えられたわけじゃないけれど、僕はそれを自然と理解した。
僕は彼らじゃない、誰かを求めて山の中を彷徨った。
けれど、村の人たちはそれを良しとはしなかった。
彼らは僕のことを探し始めた。
バケモノ、バケモノと勝手につけた名前を叫び、草木を分けて、虱を潰すように。
僕は逃げた。
今度こそ殺されると思った。痛いのは、もうごめんだった。
夜の森、山の中を僕は走っている。
虫たちの歌声に耳を貸している暇はない。代わりに耳を打つのは、罵声と怒声と自分の荒い息づかい――僕は、歩み寄ろうと思った彼らから、必死に逃げていた。
なぜ逃げなきゃいけないのか……なぜ彼らは僕に乱暴ばかりするのか……。
やっぱり、僕にはよくわからない。
誰かが叫んだ。
「こっちにいたぞ!」
声が近づいてくる。
どこに逃げればいいのか、それすらも判然としない。
とにかく、僕の頭は、彼らから逃げることでいっぱいだ。
「逃がすな、追い詰めろ!」
「殺せ、殺せ!」
心臓がバクバクとうなり、全身に冷たい嫌な汗がにじむ。
後ろには無数の松明が光っている。炎は怖い。まるで彼らの怒りが、その眦が、僕をどこまでも睨みつけているようで。いったい何人いるのだろう? そんな大勢で、そこまでして僕をいじめたいのか。
逃げて、逃げて、そして、追いこまれた。
僕は掴まった。
木の棒が僕の頭を叩きつけ、鋭い鉄の刃が肩を貫く。
耐えがたい激しい痛みに、僕は大声で叫んだ。
痛い、痛いよ!
僕はわるいことなんてしてない。
君たちに痛い思いをさせようなんて、これっぽっちも思ってない。
だから、やめて、お願いだから。
やめて、やめて……っ!
そうやって、何度も何度も叫び続けた。
「……こいつ、まだ生きてやがる!」
「とっととくたばれ!」
けれど、僕の声は彼らには届かない。
わかっていたことだ。
声を上げれば、彼らはやめるどころか、顔を真っ赤に、さらに攻撃の手を強めてくる。
逃げるしかないんだ。
彼らとは交われない。
それは僕が、彼らとは違う『バケモノ』だから?
……わからない。
僕はただ、彼らのように、誰かと一緒に暮らしてみたかった。
それだけなのに。
「あっ、クソ! 待てッ!」
僕は彼らを振り払い、ボロボロになりながらも、どうにか逃げた。
森の奥へ。もっともっと奥底へ。彼らのいない、どこか安全な場所を求めてさまよう。
腕が痛い。
足が思うように動かない。
目が霞む。
視界が赤くぼやける。
……僕は、いったい、どこを歩いているんだろう?
……ここは、どこなのだろう?
……僕は、どこにいるんだろう?
ふと、綺麗な星空が見えた。
夏の夜空。ちょうど季節なのだろう、数えきれないほどの星が光の尾を引いて流れていく。
僕はそのあまりの美しさに見惚れた。
次の瞬間、空が遠くなった。
僕の意識は、そこでぷっつりと途切れる。
……全身が泥に浸かったような、重たい感覚があった。
どうしようもない倦怠感、無気力な意識が目を覚ます。
「……、……」
気がつくと、僕は地の底に横たわっていた。
水の音が聞こえる。
横に目をやると、川があった。
上を見ると、崖の奥に空が見えた。
……どうやら、僕は谷底に落ちたらしい。
濃い血の匂いがする。
腕を動かそうにも、刺し貫かれた肩から下に力が伝わらず、激痛が走るばかりで動けそうにない。足も同じだった。いつもと違う方向に曲がったその片足が、僕のものだと理解するのに、少しばかりの時間を要した。
動けない。
動けない。
身動きの取れない僕に構わず、時間だけがただ過ぎ去っていく。
……あれ?
……もしかして、ずっとこのまま……?
僕はしばらく呆然として、やがて妙な感覚に襲われた。
まるでぽっかりと開いた穴……真っ黒い闇に吸い込まれるような、僕が僕でなくなってしまうような、変な感覚。
怖い、という気持ちはある。
恐ろしい、という気持ちもある。
けれど、それよりももっと深い、胸をぎゅっと強く締め付けられる、耐えがたい、とてもとても不安な気持ち。それが僕の心をきゅうくつにさせる。村の人たちに襲われたとき、殺されそうになったときの感覚に少し似ている。けれど、ここまでじゃなかった。
息が詰まる。
そのくせ、胸だけはドクドクとうねっている。
震えるこの手は、身体は、あのときとはまた違う理由で震えている。
僕は、このよくわからない感覚に強い恐怖を覚えた。
冷たくなっていく体温が、その恐怖をより強固なものにする。
「……、……っ」
僕は痛む腕を、それでも空に向って伸ばした。
けれど星空は、手が届きそうなくらい近いのに、どうしようもなく遠かった。
やがて、僕の腕は力なく倒れる。
まぶたが重くなる。
目を閉じたら、もう、戻ってこれない気がした。
嫌だと思った。
本当に嫌だと思った。
そんな思いとは裏腹に、まぶたは静かに落ちていく。
僕は暗闇に呑まれた。
「バケモノ、バケモノ……」
村人の声が木霊する。
「逃がすな、追い詰めろ……殺せ……」
……もし、僕が彼らと同じ人のカタチをしていたら……。
……僕は、彼らのように、誰かと一緒に暮らすことが出来ただろうか……。
「…………」
冷たい……。
とても冷たい闇が、僕のすぐそばにあった。
冷たい……冷たい……。
ふと、頬にあたたかさを感じた。
「……大丈夫?」
声が聞こえた。
目を開くと、人がいた。
恐ろしい手が僕の頬に伸びていた。それにおどろいた僕は、咄嗟にその手を振り払う。
「やっ……」
と、怯えるように手を引っ込める彼女。それは人の、まだ幼い、女の子だった。
しかし、幼いとはいっても、彼女だって人のカタチをしている。
人のカタチは、どうしたって僕の恐怖を駆り立てる。
僕は、グルル……と精一杯の力をこめて威嚇をした。
けれど、
「……なにも怖がらなくていいよ」
彼女は恐る恐る、それでも僕に向って手を伸ばしてきた。
「怖がらないで」
と、同じ言葉を繰り返す。まるで自分に言い聞かせるように。
僕は、このときの彼女の震える手を、忘れることは絶対にない。
「わたしは……きみを助けたい……助けたいの」
そして、彼女の震える声も、同じように。