0090 2018年(6) 市中
その日は夢を見ることもなく熟睡し、起きたのは朝の9時すぎだった。あまり広くないマンションのため、台所での笑い声が聞こえる。
起き上がって台所とつながっているリビングに出ると、姉がエプロンをかけて朝食を作っていた。
「おはよー。なんもないけど卵焼きとおひたしでいい?」
「うん、ありがとう」
「京子ちゃんと話したんだって?」
「うん」
「まだすごいきれいだよねー」
「うん?」
「まだまだ若いんだし、がんばってみたらー?」
「うーん、まあ・・」
「あれ、冗談のつもりだったけど脈あり?京子ちゃんに言ってもいい?」
けらけらと笑う姉は以前と変わらずハイテンションだ。かつてはその外見――大振りの百合のようなちょっと派手な華やかさがあった――と相まって、姉がいるあたりはいつもぱっと明るくなるようだった。だが今、かつての面影は残しながらも、すっかり細くなってしまい少し筋が浮く腕や首は、事情を知ってみると痛々しさが否めない。姉はまだ「本当の」病名を告知されていない。ストレスからくる胃潰瘍で手術の必要がある、といかにもな病名を知らせているだけだ。本当はもうあまり回復の見込みはない、緩和治療とするか、それともまだ確立しているとはいえないけど寛解例のある重粒子線を使った先端医療を試してみましょうか、という状態。
「ほら、おじさんに持っていって」
姪の詩織ちゃんがとことことお盆にのせた朝食を持ってきてくれた。ありがとうね、といって受け取ると、恥ずかしそうに台所に引っこみ、姉の足にからみついている。たしか詩織ちゃんは、もう来年には小学校に上がるんだったかな。義兄が亡くなったときはまだ1歳になるかならないかくらいだったはずだ。
最近の体調も聞いたが、「最近疲れやすくって。焼肉でも食べて力をつけるといいのかもね」程度にしか認識していないことが分かっただけだった。本当は仕事になど行かず、手術とそのあとの回復のために体力を養っておくべきような気もするのだが、「詩織の習い事の費用のために」などとのんきに言っている。
「そういえば、あの手術、大丈夫だから。また仕事を繰り合わせて時間作ってね」
「あー、ありがとー!1週間くらいだっけ?」
「まあ、そのくらい。もし伸びても、そこまで責任ないんでしょ?」
いや同僚が頼りなくて、私がやらなきゃダメなのよ、ただ今日は私がお休みだからすごく心配、などと言って笑っている。
・・だけどもちろん僕も母も、軽い手術と思わせて入院させ、ある程度の体力が戻るまでは退院させず、場合によっては仕事も辞めてもらってもいいと思っている。仕事は氷河期の中でアピールもへたくそな僕が何とかつかみとった正社員職だが、それほど高給でもなくやりがいもない。先の治験のバイトで得られたちょっと法外なくらいの臨時収入と、それと同額くらいの僕の貯金をあわせれば、手術入院費用を出しても、半年くらい、あるいはちょっとつつましく暮らせば3人家族でも1年くらいは余裕で生活できるくらいにはなる。
しばらく母も交えて世間話をした後、僕は町に出る、と告げて家を出た。
※ ※ ※
バスに乗っても構わなかったのだが、街に早くなじみたくて、あえてバスには乗らず、坂道を降りて多賀島市の中心を西から東に流れる多賀川沿いの遊歩道を歩いて街に向かう。姉の入院のことで少し事務手続きをしないといけない。
僕が高校生だった20年くらい前にこの遊歩道が整備されはじめていたのを覚えている、おりしも川が堤防を越えるという水害があったため、その対策も兼ねていたように思う。僕が大学進学で上京後、少しずつ多賀島の街並みは変わり、僕は東京に少しずつ馴染んでいった。しかし今こうして道を歩くと、中学校や高校時代には当たり前のものに思えた道沿いの建物はどこか赤茶け、ビルも少し埃っぽく、貧相にみえてしまう。道々には、新しくみえる建物は、この都市の規模には似つかわしくなく大きく思える遊戯施設や安めの衣料品量販店を除けば、ほとんどない。この街自体、ひところはバブルで夢を見た人々により華やかに再開発されたものの、やがてゆっくりと「失われた10年」(実際には20年になってしまったが)を経て年老いていったのだ。
市の中心部に向かっても、状況はあまり変わらなかった。多少新しい建物が増えたが、ただ白っぽいだけで、活気はなく行きかう人もまばらだ。ところどころの公園にはそれほどひどい服装ではないながら、おそらくは当てのない中年男が、ベンチに座っていたりする。ちょっと昔のホームレスなどとは違って、結構服装も整っているし、不潔な感じも与えないが、傍らに大きめのバッグやカートを置いていて、靴が汚れていたり、少し服がくたびれていたりする。一つの公園に複数いることもあるが、お互いに話したりしているわけではない。年代的には僕もまさに同じくらいだし、何かあれば僕も同じように社会から放り出されて途方に暮れることもあるかもしれない。ごくわずかな骰子の目の違いでたまたま立つ場所が変わったに過ぎないのだ。
市の中心部に来るが、特に思い入れのある場所がある、とかいったことはない。いや、あるにはあるのだが、妙な恥ずかしさがあっていまさら感傷に浸りに行くこともできない、といった感じだ。そのままメインストリートを抜けて、少し広い国道沿い、市立美術館や博物館、図書館などが並ぶ少し閑静な一帯を目指す。昔の城跡を改造した庭園の中にある図書館の前、城の石垣にからみついた巨木の陰に立つと、油蝉の鳴き声が響いた。病院はこの国道をさらに進んだ、港に近い外れにあるのだが、まだ時間に余裕があるので少しだけ寄り道だ。
2021/4/15) 若干、修正しました(年など)。