0070 2018年(5) 再会
2時間ほどして榊さんは仕事(母の入浴介助と掃除、数食分の食事の下準備らしい)を終え、居間で所在なく新聞などを読んでいた僕にお茶をもってきてくれた。自分にもごく少しの食事をよそって、僕の向かい側に座り、話しかけてきた。
「隆ちゃん、久しぶりだね。どのくらいお休みなの?」
「1週間くらいかな。・・・別にやることもないし、しばらく家にいて片付けや掃除でも手伝うよ」
貯めていた有休をまとめて取得したので、まだまだそのつもりなら滞在できるけれど、郷里の友人との縁も切れているので何もやることもないだろう。
「そう・・。誰かと会ったりしないの?」
「特には。あんまり連絡取ってないしね」
その後、同級生の現況などについて情報交換した。榊さんは5年ほど前まで東京で結婚して仕事をしていたが、3年ほどして離婚し、多賀島に戻ってきて、家庭教師などで何人かに教え、また介護関係の資格を取ってそちらの仕事も少しだけ請けているらしい。もっとも本格的な介護職というわけではなく、僕の母のところともう1件だけ、基本的には顔見知りで、しかもある程度は自活できることを前提に、ごく補助的に週3で入ることにしているらしい。うちの母のところが週2回、その別件のところが週1回だそうだ。大変じゃない?と聞くと、「お手伝いさん」だから、と言って笑い、一人では手に負えない(負えなくなった)場合には、施設等や本格的な在宅介護サービスにつないでいくことにしているのだ、と教えてくれた。家庭教師も介護関係も、どちらも事業所等には所属せず個人で働いているとのこと。
「隆ちゃん、小母様のところにいるの?」
そう聞かれ(榊さんは僕の母のことを『小母様』と呼ぶのが常だった)、そうだと答える。
「じゃあしばらくは、来るのが楽しみだよ」
そう言って笑った。口を結んでいると学生だったときとあまり変わらないように思える端正な顔は、そのようにくしゃりと笑うと少し崩れ、目じりにも少し皺が浮かんだが、同時にかつてはほとんど感じられなかった、柔らかい包容力と慕わしげな暖かさが輻射熱のように伝わってくるような感覚に戸惑いを覚え、また榊さんの、襟と袖に白いラインの入った半袖の濃紺のポロシャツから覗く白い首元と腕へと、いやらしくまとわりついてしまいそうな目線を必死に逸らして少し冷めた番茶を啜り、きまり悪く「そうだね」と当たりさわりなく返したのだった。
※ ※ ※
その後、榊さんと僕は、数人の共通の知り合いの近況の話などをしたが、僕はなんだか必要以上に心の動きに強くブレーキをかけてしまい、あえていえば少しそっけないというか、上の空だったかもしれない。小一時間ほどして、榊さんは、そろそろ帰らなきゃ、と言った。
「隆、暗いから送っていきなさいね」
母がキリッとした声で言った。榊さんは固辞したが、僕もせっかくだから、と言って靴を履いて一緒に出た。
「夜になると結構暗いね」
僕は思いつくままにそう口にのぼせた。団地の廊下の蛍光灯は少し薄暗く、ところどころついていないところもあった。榊さんはそうね、といって微笑んで見せたが、何か別のことを考えているようにも思えた。僕は邪魔しないように少し先を歩き、会話もないままに同じ棟の違う階段の榊さんの戸口についた。榊さんの両親は今では亡くなっていると聞き、榊さんは一人で住んでいるはずで、廊下に面した面格子付きの窓は暗かったが、扉上の照明灯はついていた。
「あのさ、隆ちゃん」
別れの挨拶をしようとしているときに、榊さんがやっと声をかけた。
「さっき言ったことだけどさ、よかったら今度、どこかお買い物にでも行ってお話ししない?」
僕は意表を突かれてとっさに言葉がでなかったが、また柔らかい笑みを浮かべて榊さんは言葉を重ねた。
「隆ちゃん忙しかったんでしょう?多賀島もいろいろできて変わってるところもあるし、私もまだ行ってみたことがないところもあるの」
僕がここ数年、仕事漬けになって帰郷できなかったのは確かだ。学窓をともにしたクラスメイトなどのこともときどき気になる程度で、帰郷しても家族以外に会うつもりもなく、ありていにいえば帰郷しても大して思うところもなく、だらだらと時間をつぶして帰京することになるかな、と思っていた。だが、榊さんの言葉をきいていて、急に「帰ってきた」という感じ、もっといえば、「居ていいんだ」というような不思議な安堵と喜びを感じて、言葉に詰まりながら答えた。
「もちろん、もちろんいいよ、行こうよ!今度相談しようね」
榊さんは、ありがとう楽しみにしてるね、じゃあねバイバイ、と言って少しはにかんだように笑って見せ、手を軽く振りながら扉を閉めた。僕はどこか言い忘れた大事なことがあるような感覚を覚えながら、閉まった扉を見つめ、そして来た道を歩き始めたのだった。
※ ※ ※
家に帰ると、母がちゃぶ台でお茶を前にしてぼんやりと座っていた。僕の少年時代のころに見た母と全く同じ場所だが、かつては休んでいるときでも定規をいれたようにきれいに伸びていた背は少し丸まり、かつては黒々としていた髪も白くなり、頭頂部も少し薄くなっている。母は僕をみて、「送ってきたね?」と問いかけた。
「京ちゃんとこも大変だったそうだがね。・・」
「こっちに帰ってきた頃?」
「そうよ、ほら、結婚した相手がたちのよくない男だったらしくて、しばらくは家に帰れなかったりしたのよ。写真映りはいい男だったみたいだけれどね、外面ばっかりで」
「・・・」
「あんたは前も京ちゃんとはあまり話さんかったね。」
「クラスも同じになったことなかったし。でもお姉さんがいたときは一緒には遊んでたよ。」
「それはほんとの昔だがね。ほら、お姉さんが中学校に上がってから後よ。・・今日は確か遅かねえ。長うなりなさい(寝て休みなさい)」
それ以上は特に何も言いたてることもなく、母は伸びをして言った。
「じゃあね、前の部屋に布団敷いてもらったから。もう寝とっていいよ」
布団を敷くのも榊さんにやってもらったのかな。それは僕がやるべきだったんじゃないか。と少しきまり悪く思いながらもおやすみを言い、僕も入浴し、歯磨きなどをして高校時代の自室に戻った。4畳半の狭い部屋にきちんと、皺もほとんどよらないくらいにきれいに布団が敷いてある。寝具を延べた人の性格が表れているようだ。
部屋の障子紙は少し日焼けしていたし、おそらく物置代わりに使っていたのだろう、部屋の隅には使っていないであろうカセットテープ用のラジカセやテープ類などの雑多なものや、よくわからない書類などが積まれていたが、まぎれもなく僕の部屋だった。
寝る前にここに残してある本でも読もうかと思っていたが、思っていたより疲れていたのだろうか。軽く無地の青いタオルケットを体にかけて横たわると、瞼が熱く感じられ、そのまま寝入ってしまったのだった。
2021/4/8)若干、修正しました(年など)。