0100 2018年(7) 病院
図書館の裏手は取手山というありふれた名前の小高い山で、昔は山城が築かれていたという。
この山城が市内に一番近い山の手で、現在も自然公園となっていて登山道が山頂まで続いている。上から見下ろす景色も結構人気だった。
僕の実家の団地のある丘は、多賀川をはさんだ向かいで、場所も市内からは少し離れる。それでも歩いて30~50分くらい、バスだと15~20分くらいだろうか。
昔は視力が弱い僕は少しでも視力を上げようとして、夜に家のベランダからこの取手山の方を眺めたものだ。ネオンサインの看板の中で、もっとも明るくて、見ていて面白かったのはコカ・コーラの看板だった。突然、ハイライトが切り替わったりして、今思えば単純なパターンだったとは思うが飽きさせないのだ。
結局、そんな努力を細々と続けていたにもかかわらず、僕の視力はさほど良くはならなかった(というより順調に悪化して今に至る)。一時期はコンタクトレンズも使ったが、今でも眼鏡とお友達だ。
実家の団地の、市の中心部の反対側の方向はさほど開発が進んでおらず、若干、採石場やセメント工場などが散在しているほかは、不思議なほど人家もなく、緑の山々が残されている。人家が少ないのは、とくにそのあたりに川沿いの平地が少なく、水害があったせいもあるのかもしれない。
取手山の山頂を見上げていると、ふと首の後ろがざわつく感じがあった。誰かがすぐ肩のそばにいるような気がして、思わずぱっと振り向いたが、だれもいなかった。気のせいだったのだろうか。
※ ※ ※
また30分ほど歩いて、港にほど近いところの総合病院に行き、姉の手術と入院の手はずを確認した。標準医療でもかなりの費用で、高額療養費などの制度の説明を聞き、手続きを進めることにする。
帰りはさすがにバスに乗ろうかとも思ったが、少し運動不足なのも実感していたので歩き倒す。
東京も大阪や名古屋にくらべるとずいぶん坂が多く、それに比べると多賀島の市内は平野であまり起伏はないのだが、僕の実家の団地はまさに小高い丘というか山の上にあるので、相当な運動になるのだ。
自転車で坂の下に通学していた高校生時代、僕の体力の最盛期でも、自転車にのったままで家にたどり着くことはできなかった気がする。こうして歩いても、家に帰りつくころには結構な汗だらけだ。
※ ※ ※
自宅に帰ると、電話があった、と、今日は仕事が非番の日らしい姉が言った。病院からだ、と言われたので、今行ってきたところなのにと不思議に思ったが、どうも僕が治験バイトをした病院からだったらしい。カイバラ(貝原?海原?)と名乗る女性から、という話で、おそらくは退院前に話をしたときに話した小柄な女医さんだろうかと思われた。
折り返しの連絡は不要ということなので、携帯電話の番号を伝えてしまったけどいいかな?と少し申し訳なさそうに姉は言っていたが、手間が省けたのでちょうどよかった、と言っておいた。携帯電話も治験バイト先に伝えておいた気がしたが、つながらなかったのだろうか。
「あのさ、隆くんさあ。お父さんところには行くの?」
「・・何も電話してない。行った方がいい?」
「無理に行く必要はないと思うんだけどさ、もちろん、隆くんも予定があるんだろうし。でも、あんまり調子が良くないらしくて。ほら、もう結構年だし。」
「・・・」
「一度行っておいたら?気が進まないのはよくわかるけど」
・・・そうなのだった。別居している父のところにも本当は行ってみるべきなのかもしれない。
父は昔は固い勤め人だったのだが、一時期、仕事のストレスか何かが原因で失踪してしまい(たしか僕が大学の4年生のあたりだっただろうか)、帰ってきたものの気力をすべて失ってしまったような状態で、勤め先も退職してしまい、精神状態も悪いといって別居状態になった。
その後、ある程度は持ち直し、細々と仕事もしていたようだ。それほど経済的にも余裕はないはずなのだが、本人は家に帰ってくるつもりはないらしく、下町のはずれの古いアパートにひっそりと暮らしている。
離婚はしていないが生計は別という状態で、もう年金は降りているが、ほとんど全額を母に渡し、賃貸アパートの管理人やビルの常駐のような仕事を請け、それで細々と暮らしているらしい。
別居前には、父も仕事が忙しく、平日は夜遅く帰ってきて、朝は朝食を家族とともにする感じだったが、エネルギッシュで土日はドライブなどによく連れて行ってくれたことを覚えている。たまにカッとなることを除けば、優しく立派な父だったと思う。
別居後も、とくにいさかいなどはない。ただ、なんというか本人がどこか打ちひしがれたような状態で、一緒にいるといたたまれないのだ。何か贖罪意識のようなものがあるのか、迷惑らしい迷惑はないのだが、痛烈な挫折感があるのか、生きる気力がほとんどなくなってしまっているような状態だ。
今はほとんど世捨て人のような生活で、10年ほど前、まだ毎年帰省していたころには訪れていたが、温かいお茶を出してくれるものの、(僕も無口なこともあって)話もなく、お互いに不器用に体調に気を使いあって「また何かあったら連絡してね」と言って逃げるように帰ってくるのが常だった。
母と姉はときどき連絡をとっているらしい。失踪の理由は、聞いてみても要領を得た答えは返ってこなかったが、要は仕事がうまくいかず、精神を病んだのではないか?と僕と姉は推測している。
「こんど街に出たときに寄ってみるよ」と姉には答える。
昨日は忘れていたが、墓参りに行く必要があるかもしれない。
夏になると田舎では法要シーズンなのだが、多賀島はそこそこ都会だし、母もあまり法要に子供たちを連れて行きたがらなかった(母の姉が早くに亡くなり、いとこたちとあまりつながりが続かなかったこと、母の弟たちも他県で就職して家を建ててしまっていることが原因なのだろう)。
父の実家は隣県で、これも父の失踪以来、ときおり季節の挨拶を交わす程度になってしまっている。
多賀島の僕の実家には仏壇もないので、行くとしたら雄武田の市営墓地になるだろう。
墓のある場所は墓所でも蚊が多くて進んでいきたい場所でもないが、一度は行っておくべきかもしれない。しかし、墓参りについて口を開こうとしたとき、姉がはがきをひらひらと振りながら渡してきた。
「あと、ほら後藤先生から暑中見舞い来てたよ。もういいのにと思ったりしたけど」
「後藤先生?」 何年のときの担任だっただろうか。
「ほら、あの保健室の先生!隆君がなんかいたずらしてたら、偶然助かったってことあったじゃない?」
「?いたずらで助けた?」
そういう想像なんかはしたことがある。中学校で授業を受けてるときに誰もがするような想像だ。
突然テロリストが学校を占拠して生徒や教員を撃ち殺しまくる、偶然逃れた自分が反撃して警官隊や自衛隊が来るまで持ちこたえる、みたいな。アメリカの反共宣伝映画にありそうだよね。
そんな想像を姉に話していたんだとすれば黒歴史にほかならないじゃないか。いやそれ嘘、冗談だから。痛すぎるなんてもんじゃない。
しかし姉は、平然と容赦なく続けた。
「ほら昔、新聞にも載ったじゃない!『お手柄小学生、養護教師を救う』みたいな記事!」
「学級新聞の嘘記事でしょ?」
昔、『多賀スポ』っていって嘘新聞作ってたんだけど、多分それに書いた冗談記事の勘違いだよ。全く恥ずかしい。ちょっと小賢しい小学生の書きそうなもので、書いているときは楽しかった。
「はれぶた」の亜流みたいな記事、結構受けが良かった気がする。
あと「豚鳴峠」という連載ホラー話も女子たちからキャーキャー怖がられたな。いやそれはともかく、実際に学校の先生を助けたなんて、そんな中二病というか小五病満載の話、他所で言ってたりしないだろうな・・。
「ほら、そこに切り抜きあるはず。お父さんも喜んでたんだよ?」
ぎょっとして姉の指さすテレビボードの棚(合板だが、結構重厚な濃茶のテレビボードで、詩織ちゃんの運動会写真や家族写真、姉の高校総体のときのバドミントンの入賞トロフィーとか並んでる)に、確かに3センチ四方の小さくて黄ばんでいる「人命救ったお手柄小学生」なる新聞記事の切り抜きがあった。
・・多賀島市明野台で1988年5月20日、校舎屋上から誤って転落した養護教員○○さん(24)が、小学生の機転で、マットレスで受け止められ事なきを得たという事件があった。明野台小4年の◇◇君(10)は、偶然屋上にいた○○さんを目撃、体調不良の様子をみてとっさに近くのマットレスを下に引き出した。直後にめまいのため誤って屋上から転落した○○さんは、幸いにもこのマットレスのおかげで、軽い打撲にとどまった・・
いや、そんなことはないはずだ。小学生にそんなことができるはずないじゃないか。
そんな劇的なことがあれば、僕だって覚えているはず。
いや、そんな事件もあったか。数日前に夢で見たあれか?だとしたら、なぜ僕はそんな事件を覚えてなかったのか?・・すっかり忘れてたのを、今、思い出したのか?
「どうしたの!」
気が付くとしゃがみ込んでいて、姉がタオルを必死に顔に押し付けようとしていた。
頭の中、目の裏あたりに激痛が走る。タオルが赤かった。鼻血?
「救急車呼ぶよ!」
大丈夫大丈夫、疲れただけだから、と手で払って笑いを無理に浮かべて立ち上がった。
姉はまだ脳卒中がどうのこうの、と言い立てているが、もう激痛は去って、軽い頭痛がするだけになっている。
それより確かめないといけないことがある。こんなことがあった?
・・・いや、あったんだ。そうだ、思い出した。新聞記者さんの簡単な取材があったんだっけ。
親から不思議がられて、いや本当は偶然というか、いたずらみたいなもので、気分が悪くなって養護の先生の所に行ったけどいなかった、それでトイレから帰るときにちょっと外の体育の授業が気になって外に出て上をみてみたら、先生がいた、すごく危なっかしかった、みたいなことを言った覚えもある。
消防士さんかだれかに不思議がられたのも覚えている。こんな重いものよく動かせたね、本当に火事場の馬鹿力ってあるんだ、って言ってた気がする。
表彰とかはなかったけど、校長先生か誰かに部屋に呼ばれて、個別に褒めてもらったな。
姉はまだすごく心配そうで何か言っていたけど、睡眠不足のときにときどきあるから心配しないで、少し昼寝したら治るから、と言って安心させて、自室に戻る。
本当に一度見てもらった方がいいのかもしれないな。そう思いながら、僕は手がかりを求めて卒業文集やアルバムをひっくり返してみるのだった。
2021/4/15)若干、修正しました(年など)。




