エロノベル先生 + Valentine
期間限定版
日本人が意味を誤解している日本語の第一位は『おもむろに』だそうで。
ゆっくり、ゆるやかに、そういうおちついた仕草をあらわす言葉なのに、多くの人はこれを咄嗟に、即座にといった素早さを要求する表現だと勘違いしているらしい。
昨日テレビのバラエティー番組でやっていたことだ。
自分も勘違いしていた側なのでえらそうなことは言えないけど一つ疑問がある。
このてのアンケートは一体いつどこでどのようにおこなわれているのだろうか。
少なくとも自分はこれまでの人生でそういうものに一度も遭遇したことはない。
十七年間生きてきて、学校の成績はそこそこで、補導されたことも逮捕歴もなく、受信料だってちゃんと親が払ってるのに。
平均的な日本男児として一回くらい国民代表系のアンケートに参加させてくれたっていいじゃないか。
ちなみに五位は『役不足』で四位は『確信犯』三位は『煮詰まる』そして二位は忘れた。
そんなことを考えていると、机を挟んで俺の目の前に座っている下級生の女子が、まさしくおもむろに口を開いた。
「先輩って今、くだらないこと考えてますよね」
年上を敬う気持ちなど窓の向こうでぽつぽつと降りはじめた雪の粒ほども持ちあわせていない、そっけない口ぶりである。
読んでいた小説から顔を上げて前を見ると、後輩は手に持っている文庫本の文章を撫でるように目で追っていた。
今の言葉は俺に話しかけてきたわけではなく朗読だったのだろうか。それを訊ねるのも面倒なので、俺はおもむろに視線を小説に戻した。
俺と後輩が二人きりで補習でもしてるみたいに黙々と小説を読んでいるここは『準備室』と呼ばれている空き部屋。東棟の二階、理科室と資材室に挟まれた奇妙な空間。
広さ八畳ほどの室内は中央に大人が背伸びして寝られるくらいの長机に陣取られ、それ以外は年代物のエアコンと、くたびれたからっぽの棚が一つ、ご自由にお使いくださいといわんばかりにパイプ椅子が重ねられているだけで、他には何もない。
正直、ここが何を準備するところなのか先生たちも知らないらしい。
一年生の秋にここを見つけて、あまりにも理想的すぎる読書環境に感動を覚えた俺は使用許可を得て、放課後の居場所とした。
パイプ椅子に腰かけ、机の上に本を重ねて読書に耽る。
そんな至高のひとときに侵入者が訪れたのが今年の夏。
準備室の前に買ったばかりの文庫本の帯を落としていたらしく、それを拾ってくれた後輩の女の子。つまり今、俺の前で俺が買ったばかりの新刊を俺から奪って俺より先に読んでいるこいつが現れたのだ。
最初は明るくて礼儀正しくてよく喋る元気な子というイメージだった。
小柄でスリム。セミロングの髪に、あどけなく、でもどこか強さを持った瞳は不思議な感情を俺に植えつけた。
ただ、その感情が芽を出すことはなかった。
いつの間にかこいつもここに入り浸るようになり、その本性をあらわすようになったからだ。
明るく礼儀正しくよく喋る元気な子から、明るさと礼儀と会話と元気を取り除いたのが今のこいつだ。
あの四大要素はどこに消えたんだ。
家出したのか、トラックに跳ねられ異世界まで飛ばされてしまったのか。
言葉遣いだけは辛うじて今も丁寧だが、それもいわゆる慇懃無礼というやつにすぎない。
そういえば、こいつがここに通うようになった最初の一ヶ月くらいは生活指導の先生がよく抜き打ちでここにやってきていた。
おいお前ら、二人で何してるんだ!
というセリフを壊れたインターフォンみたいに叫びながら勢いよく扉を開けてきたものの、黙って読書しているだけの俺たちを見て、意気消沈して帰っていった。
そんなことを何度か繰り返したある日、ねえ、お前らさ、若い男女が狭い部屋で一緒にいるのにさ、なんかこう、他にすることないの? と言いながら右手の人さし指と左手の人さし指をつんつん突きあわせていた。フェンシングでもしなさい、といっているのだろうか。
もういい。その言葉を最後に生活指導の先生がここに姿を見せることはなくなった。きっと山に帰ったのだろう。
これで目の前にいるこいつを除けば俺の日常を脅かすものは消えた。そう思っていた。
甘かった。
今月はじめのことである。
あのさ、ちょっといい?
たいして親しくもないクラスメイトの男が話しかけてきた。
あのさ、いつも放課後に準備室で一緒に本読んでるかわいい子いるじゃん? お前とあの子、付き合ってるとかじゃないんだろ? だったら俺に紹介してよ。
そんなことを言われた。
待ってくれよ、俺もあの子のこと狙ってたんだけど、と別の男の声。
結果、俺は単位にすれば一ダースほどのクラスメイトから後輩を紹介してくれと頼まれた。
どうすればいいのだろう。
あいつの前にこいつらを連れていって、こちら別に仲良くもなければ名前も性格も知らないクラスメイトのみなさんで、お前の外見が気に入ってお付き合いしたいらしいんだ。まあクリスマス前だし、見栄えのいい彼女がほしいんだろう。とりあえず話しだけでも聞いてやったらどうだ?
とでも言えばいいのかな。
とても面倒だな、それは。
俺は無意識に悪気もなく、以下のようなことを口にしていた。あの子さ、女子にしか興味ないって言ってたぞ。
まじかよ、逆に興奮してきた。と一人の男が言った。
なるほど、そうきたか。だったら発情したイノシシにしか興味がないと言っていたらどう反応しただろうか。
でもまあ、そういうのならしかたないわな。でもお前、何でそんなこと知ってんだ?
その疑問に俺はこう答えていた。親戚だから、かな。
嘘を一つつけば、その嘘を補強するために別の嘘をつかなくてはならないというのは、きっとこういうことをいうのだろう。
しかしクラスメイトたちはそれで納得して去っていってくれた。
そして現在。十二月二十四日。午後五時。
またしても後輩がおもむろに口を開いた。
「そういえば先輩、かねてよりお訊ねしたいことがあったのですが、よろしいですか?」
「なんだ?」
「私がレズビアンだという情報はどこで入手されたのでしょうか?」
俺は間違った意味でおもむろに噎せた。
「驚きでした。私は自分が同性愛者だという自覚がなかったので。どこで知ったのですか? 説明書に書いてましたか? あと先輩って私の親戚だそうですね。知らなくてごめんね、親戚のお兄ちゃん」
かつてここまで冷たい『しんせきのおにいちゃん』という発音があっただろうか。
「デマを拡散するのはツイッターだけにして下さいよ」
ツイッターでもダメだろうと思ったけれど、非があるのはこっちなので何も言い返せない。
言葉に迷って彷徨う俺の視線がさっきまで読んでいた小説の一文を捉える。
「──じ、忸怩たる思いです」
自分の行動をとても恥じている、という意味だ。
「あやまるときに難しい言葉や横文字を使うのは相手の印象をさらに悪くするだけだと小学校で習いませんでしたか?」
後輩は子供にもわかるようなやさしい表現できびしく攻めてくる。
「ごめんなさい。許して下さい」
俺は素直にことの経緯を説明して、頭を下げた。
「……ふむ。話はわかりました。言いたいことはいくつもありますが、謝罪は受け入れましょう。ただし、先輩は私に二つの迷惑をかけました。レズ疑惑と親戚認定です。だから先輩はこれから私の言うことを三つきいて下さい」
「……え?」
なんで一つ増えてるの?
「慰謝料です」
「あっ、はい」
今、相手を刺激するのは得策とはいえない。
『持ってる本を全てよこせ』『それから金もおいてけ』『あとは死ね』
──という感じの三つでないことを願った。
「まず一つめです。確か先輩の今日の予定は七時までここにいて、その後は──」
「七時半からスーパーではじまる半額セールに参戦するつもりだけど」
この日のために用意されたのに選ばれることなくその価値を半分に削られてしまったケーキやチキンたちに救いの手をのべる救済活動。もはや恒例行事となっている。
「そこに私もお供させて下さい。半額セールというものに以前から興味があったので」
「別に、それくらいならかまわないけど」
思っていたより簡単な頼みごとで、内心ほっとした。
「では二つめです」
言いながら後輩はスマートフォンの操作をはじめる。同じ機種なので何をしているのかは音でわかる。アラームをセットしているのだ。
「今からちょうど一時間後に私は先輩に『ある質問』をします。先輩はその質問に必ず正直に答えて下さい」
「……はい?」
「それでは三つめです」
なぜ疑問を無視するんだ。
「先週、先輩から一冊の本をお借りしたじゃないですか」
「……えっと、どれだっけ?」
ほぼ毎日のようにこいつに本を要求されて持ってきてやっているので、該当する作品が多すぎてわからない。
「あの六〇〇〇万部の本を売った編集者さんの書かれたあれです」
ああ、あれね。予約してまで買って、本屋から出てきた瞬間に袋ごとお前にとられたあれね。あれは借りたとはいわない。強奪したという。
「あれを読んで非常に感銘を受けまして、私の中にも作家性が芽生えました」
それはよかった。写真付きでファンレターでも送れば喜ぶんじゃないか。あと本返せ。
「あの本に触発されて私も物語をしたためてみたんです。よろしければ読んでください」
後輩は自分の隣のパイプ椅子に置いていた鞄の中から原稿用紙を取りだして、それを俺に差し出した。
「うむ。拝読してしんぜよう」
受け取った原稿用紙には綺麗な手書きの文字で物語が紡がれている。
どこかの学校の放課後。
教室には先輩と後輩が二人きり。先輩は男。後輩は女。つまりシチュエーションはこの準備室とほぼ同じ。
プロじゃないから本格的なことはわからないけど、無駄な装飾もなく必要な情報だけを適切な表現で読ませてくれる後輩の文体はかなり俺好みだ。
原稿用紙の文字たちが頭の中でしっかりと絵に変換されていく。
決して目新しい要素があるわけでも独創的でもない。
それなのに、いつしか俺は、この物語に夢中になっていた。
物語はついに終盤。後輩が勇気を振り絞って先輩に想いを叫ぶ。
『せ、先輩、わ、私……私のマン○に先輩のチ○○をぶちこんで下さい──!』
「──おい!」
俺は叫んでいた。
「どうでした? 面白かったですか?」
普段は顔と声に表情を出さない後輩が、今だけはその両方に妙な自信を覗かせている。
「……まあ、面白かったよ」
ラスト直前まではな。
「含みのある言い方ですね。どうぞ遠慮なく、忌憚のない意見をお願いします」
遠慮なくと言われても、遠慮するしかないだろう、これは。
「なんていうか、おいしいカレーを食べにいこうと誘われてうなずいたら、次の瞬間、鳩尾を殴られてクロロホルムを嗅がされて意識を奪われて目を覚ましたらガンジス川に浮かんでた──みたいなのが今の俺の心境だ」
「そのセリフからわかるのは先輩に例え話の才能が皆無だってことくらいですよ?」
「ええっと、だからさあ……」
もういい。忌憚のない意見が聞きたいというのなら言ってやろう。
そもそも俺には忌憚の意味がわからないけどな。
「ラストのセリフは何なんだよ。マン○とかチ○○とか、ご丁寧に伏せ字まで使って」
「私のマンガに先輩のチクワをぶちこんで下さい──が、そんなに変ですか?」
「──へ?」
「主人公の女の子は漫画家志望です。でも食べ物を描くのが苦手です。一方の先輩は美大を目指しているので、とても写実的な描写に長けています」
ああ、確かそんな設定の話だったな。
「だったら、どうしてわざわざ伏せ字なんて使ったんだ?」
「──売れる作品は演出が違う──ですよ」
後輩は、ぐっと拳を握る。
「なにそれ」
「先輩からお借りした六〇〇〇万部の本を売った編集さんの著書に書いてありました。物語を効果的に魅せるためには、読者を見入らせるような演出をつける必要があると」
「それで伏せ字を使ったと?」
「はい。気になって思わず見入っちゃいませんか?」
「確かに見入ったけどさ、お前のやったことは演出プランとして完全に間違ってるぞ。伏せ字ってのは本来もっとこう……性的な描写にというか……」
なぜ俺は下級生の女子に向かって性的な描写について語っているのだろう。
「性的、ですか。それはつまり、こんな感じですか?」
後輩は鞄の中から原稿用紙を取りだしてペンで何かを書いて、それを俺にわたしてきた。
『せ、先輩……先輩のおちんち
途中で読むのをやめた。
「そうだよ、これだよ。むしろこういうときにこそ伏せろよ。語弊があるのは承知で言うけど、一般的には下品とされてるものに伏せ字は使うべきなの」
「わかりました。では、これならどうでしょう」
新しい原稿用紙に新しい文章を書くと、机の上をすべらせて俺の前まで届けてきた。
『せ、せ○ぱいの、おち○ち○を、私に──』
「おい、どうして『先輩』まで伏せ字にしたんだ?」
「一般的に下品とされているものは伏せろとおっしゃったのは先輩ではないですか」
後輩は俺の目をじっと見つめて言う。
「どうして俺を見ながら言うんだよ。俺は下品なのか? あと話の中の先輩って俺がモデルなの?」
「作中の先輩と先輩に関係はありませんけど、先輩は下品じゃないですか」
「どこが?」
「夜中にライトノベルのいやらしい挿絵に○ーメンをぶっかけてるところとかです」
「はあ?」
この子、突然なにを言い出すの?
「ツイッターで見ましたよ。『172ページの挿絵やべえ。勢いで食ってたラーメンぶっかけた』って」
「──ラーメン? ああ、あれか」
迂闊にも三日前、そのような行為に及んでしまい、思わずツイッターでつぶやいてしまったのは確かだ。
「きたないです。下品です。あと深夜の炭水化物は成人病への株主優待券なので控えることをおすすめします」
「忠告はありがたく受け取るけど、なんでお前、俺のツイッターのアカウント知ってるの?」
「先輩が読んでる本をエゴサーチしてたら、いかにも先輩っぽい口調の人が先輩っぽい感想を並べていたので、これはもう先輩でしかありえないなと」
世の中には自分のアカウントを平気で他人に教えられる人種がいるけれど俺には到底理解できない。だって恥ずかしいじゃないか。
つまり俺は今、とても恥ずかしい思いをしている。
「せっかくなので先輩の過去の発言も拝見しましたけど、先輩は悪い人ですね」
「えっ、なにが?」
頭の中で過去のあれこれを振り返る。法にふれるようなことはしていないはずだけど、ずっと清く正しく生きてきた自信もない。
「先輩、中学の時は演劇部に所属されてたんですね」
「ああ、そうだよ」
強引に入部させられたあげく、脇役と大道具だけの華のない三年間だった。
「先輩が中学三年のとき、二年生の女の子をニン○ンさせてるじゃないですか」
「……はい?」
「自分が気持ちよくなりたいからって力ずくで無理やり年下の女の子をニン○ンさせて、しかもそれをSNSで拡散させる。最低です」
後輩は女子特有の男子を軽蔑する視線で俺を射貫く。
「待ってくれ。本気で身に覚えがないんだけど」
「しらばくれるなら、今すぐ件の発言をリツイートしてさしあげてもいいんですよ。『次の演劇でまたニンジンにさせられそうだから、後輩の子に無理いって変わってもらった』ってやつを」
記憶が蘇る。
俺が通っていた中学の演劇部は名門でもないのにディティールへのこだわりがはんぱではなく、誰も目を向けないであろう脇役のニンジンであっても、顔を塗料で染めるなどしてクオリティーの追求に余念がなかった。当然、塗料は入念に洗っても簡単に落ちてはくれない。だから多少強引な手を使ってでも、誰かに代わってもらいたいものだったのだ。
「確かにそんなこともあったけど、まぎらわしい言い方するなよ」
「私も先輩から見れば後輩です。私もニンジンさせるつもりですか?」
後輩は胸を隠すように腕を交差させる。
「しねえよ。なんだよ、ニンジンさせるって」
無駄にカロリーを消費させる会話のせいで疲労感を覚え、あごを長机の上にのせた。
「お疲れですね」
主にお前のせいでな。
「……なんか急に自分がみじめに思えてきた。せっかくのクリスマスイブだってのに、今やってるのは半額になった食べ物を漁るための待機だぜ?」
口に出したら、もっとみじめな気持ちになった。
「もっとお金がほしいと?」
「お金はいくらでもほしいけど、そうじゃなくて。クリスマスに食べるものってのは定価で買わなきゃダメなんだよ。それで半額シールを貼られる時間には家で映画でも観ながら、それを味わってなきゃダメなんだよ」
クリスマスの半額シール。それは敗者への情けであり烙印。
「そういうものですかね──あっ、そうだ。うちのクラスにタマちゃんっているじゃないですか?」
「そんなの俺が知ってるわけないじゃないですか」
信号機は色が赤なら横断歩道をわたっちゃいけないじゃないですか、くらいの感覚でローカルな話題を振られても困る。
「タマちゃんはすごいんですよ。ダーツの日本人チャンピオンで、来年は世界大会の出場でアメリカまでいくんですよ」
一年の女子にダーツの上手い子がいるというのは聞いたことがある。
「で、そのタマ井さんかタマ子ちゃんか知らないけど──」
「タマ井でもタマ子でもありませんよ」
「じゃあ、何ていう名前なの?」
せっかくだから覚えておこう。
「実は私も知らないんです」
「なんで?」
「タマちゃんっていうのはニックネームです。本名はタマシロタマナ……だったかな? よくある感じの漢字を使った名前なんですけど読み方が少し変わってて正確に覚えてないんです」
一年も同じクラスにいて、しかもそれなりに有名人なのに名前を知らないなんてひどいやつだなと思ったけど、俺もニックネームしか知らないクラスメイトが複数いるので人のことはいえない。
「それで、そのタマちゃんが何だって?」
「タマちゃんには隣のクラスにお金持ちで美人の親友がいるんですよ。もう付き合ってるんじゃないかってくらい、いつも一緒で。百合大好き人間の先輩も見学してみては?」
「何が言いたいんだよ」
誤魔化しただけで、百合大好きは否定しない。
「そのお金持ちの親友さんとたまに高級な車で学校から帰っていくのを見て、いいなあと思わず嘆息してしまいました。先輩もお金持ちになって高級車で私を送迎して帰りにお寿司をごちそうしてください」
寿司と高級車。
ビート板みたいな胸と同様に、とても貧相な金持ちのイメージである。
「無茶言うなよ」
「だったらお寿司で送迎して帰りに高級車をごちそうしてください」
「なぜ難易度を上げるんだ」
「それから私のおっぱい、意外と大きいんですよ」
「──は?」なぜ唐突に、おっぱい?
「先ほどから先輩の強欲なまなざしが私の胸によくかき混ぜた納豆のごとくまとわりついていることには気づいてます。先輩も思春期男子なのでとやかくいうつもりはありません。だから正確な情報を提供して、先輩の妄想をはかどらせてさしあげようかと」
俺はちらりと該当箇所に目を向ける。
少年のようにすっきりとしていらっしゃる。
後輩の言葉は正確な情報というより、捏造された願望だろう。
そんなことを思っていると、後輩は膝を曲げて、俺と目を合わせてきた。
「私のおっぱいは大きいです。これは試験に出ます。いいですね?」
有無をいわさぬ気迫。
「……はい、そうですね。後でノートに書いておきます」
本日の俺は後輩に負い目があるので、ここは素直にうなずいておく。
時間を確認すると五時五十分。外はまだ少し明るい。
「先輩はもっと私に媚びを売るべきです」
今日の後輩はよく喋る。
「悪いな、媚びなら各方面に出荷して品切れ状態なんだ」
「読者に媚びない作品はかっこわるいって言ってましたよ」
「誰が? どこで?」
「六〇〇〇万部売った編集者さんが。著書の41ページで」
「悪いな、その本ならお前に取られたままで読めないんだ」
「もう一冊買えばいいじゃないですか」
「返せよ」
「時代は媚び、ですよ」
「どういうのが媚びなんだよ」
「こういうのはどうです?」
後輩が手元で何か操作している。
ほどなくして俺のスマートフォンが鳴った。
後輩からショートメッセージが届いている。目の前にいるのに。
アドレスが添付されているので、ここに飛べといいたいのだろう。
該当箇所をタップすると、短い文章が表示された。
『先輩の、おち○ち○、すごく……おっきいです』
どストレートに媚びてるな、おい。
「……いや、まあ、確かに媚びてるけどさ。なんていうか、俺はこういうのあんまり好きじゃないんだよな。俺が好きなのは読者に媚びるんじゃなくて、作中でキャラクターが自分に自信を取り戻すみたいな、そういう勇気をもらえるシーンであって」
「なるほど。では、こういうのは?」
またアドレスが送られてきた。
タップする。
おち○ち○『ぼく、すごく……おっきいです』
「なんだよ、これ!」
「キャラクターが自分に自信を取り戻すシーンです。先輩がご所望されたじゃないですか」
「所望してねえよ。なんでおち○ち○が喋ってんだよ」
「フィクションにつっこみを入れるのは無粋かと」
「限度があるわ。しかもこれじゃただの自画自賛だろ。そうじゃなくて俺が読みたいのは、お互いを認めあった熱い友情というかそういう──わかるだろ?」
「わかります。こうですね」
アドレス到着。
タップ。
おち○ち○「せんぱい、すごく……おいしいです」
「おち○ち○に喰われてるじゃねえか!」
「お互いを認めあった熱い友情ですよね」
「一方的に喰われてるだけじゃねえかよ」
「さっきから先輩は与えらたものに文句を言ってるだけのみっともない人に成り下がっているとお気づきですか?」
「お前こそ、どこでこんなの見つけてくるんだよ」
もはや尊敬の念すら沸き上がってくる。
「あと、ここが重要なことなんですけど、六〇〇〇万部の編集者さんが言ってる媚びというのは時代の最先端に自分を最適化した上で常に読者に新しい物語を提供することであって、安易な言葉や展開でごまかすことではないので、あしからず」
「……だったらここまでのやりとりは、なんだったんだよ」
俺は肩をおとす。
後輩は微かに笑った。
「──あっ」
手をすべらせたのか、後輩がスマートフォンを床に落とした。
長机の下に潜り込んで拾おうとしている。
そろそろ読書に戻りたいので、しばらく静かにしてくれると助かるのだが。
「ねえ先輩」
やけに近くから後輩の声がする。
「ここですよ、ここ」
声のする方角──下を向くと、右膝と左膝の間に後輩の顔があった。
椅子から転げ落ちそうになるのを、なんとか耐える。
「そこで何やってんだよ、お前」
「さっきからイジワルしてすみません」
一応、からかってるという自覚はあったんだな。
「さぞやいろいろと溜まっていることでしょう。お詫びといっては何ですが、先輩──」
「なんだ?」
「これから、フェラしてあげますよ」
「…………はい?」
「フェラしてあげますよ、先輩」
「えっと……それは、いったい、どういう?」
「フェラはフェラです。フェラ○○ですよ。わかってるくせに聞き返すのはどうしてですか?」
「いや、だって、俺たちまだ高校生というか、その──」
「高校生だからフェラしちゃダメなんて法律はありませんよ」
「そういうことを言ってるんじゃなくてだな──」
「少しくらい音をたてても誰も気づきはしません。それにきっとすぐに口の中はあの白くてトロトロしたものでいっぱいになります」
そう言うと後輩はおもむろにおもむろに、つまり、ゆっくりゆっくりと口を開けていく。
まだ乳歯なのかと思えるくらい白くて小さな歯。摘みたての桃みたいにみずみずしい舌。
口の中って、こんなに目を奪われるほど綺麗だったのか。あるいはこいつが特別なのか。
「最初はあの匂いも味も苦手だった。でも今はその逆。すぐに飲み込まないで、じっくり舌の上で味わうのが好き」
チュロスなら挿し込める程度に、後輩は口を開く。
「あの、その……本気で、する、つもりなのか?」
「ジョークでもかまいませんが、この体勢は腰に負担がかかるので早めのご決断を」
俺はパイプ椅子に腰かけ、その前で後輩は跪くような姿勢でいる。
「そ、それじゃあ……よ、よろしくお願いします」
理性が何かに負けた。
「わかりました。では先輩」
「な、なに?」
「えっと、口に咥えるところを見られたくないので、できれば上を向いていてもらえませんか」
後輩はうつむいて、頬を紅らめている。
「あ、はい。わかりました」
俺はアッパーを食らったみたいに天井を見上げた。電灯がまぶしい。
「では、失礼します」
そう言うと、後輩はごそごそと何かをはじめた。
ピューっと、どこか懐かしい音が準備室に響いた。いい音色だ。
その後、三十秒ほど、静寂があたりを支配した。
「終わりましたよ、先輩」
何かが終わったらしい。何が?
天井を見つめていた頭を下げて、後輩の顔を見る。口に何か咥えてる。
小さな小さなドーナツみたいな、中央に穴の開いた白い何か。
「それは?」
後輩はその白くて小さい何かを飲み込んで、机の下から出てきて立ち上がる。
「だからフェラですよ、フェラ」
「フェラっていう飴か何かなのか?」
「飴じゃなくてラムネですよ。フエラムネですからね。先輩ご存知じゃないんですか? コリス株式会社が生み出した、誕生から四十年以上、今もなお駄菓子業界のトップランナーであるこのフエラムネを」
食べたことはないけど聞いたことはある。
というか、なぜフエラムネをフェラと略すんだ。いくら自分に胸がないからって、お菓子からもムネを奪うだなんて、鬼の所業だろう。
「フエラムネの音色で先輩のストレスを少しでも緩和してさしあげようと思ったんですけど、効果はありましたか? それとも先輩……もしかして私には想像もつかない何か他のことを期待されていたとか?」
後輩はとてもわざとらしく、首をかしげてみせる。
俺は道徳的な物語が好きだ。
イタズラばかりする子供はクリスマスにプレゼントをもらえないし、邪な人間は地獄に落ちる。
つまり今夜、後輩の枕元にどれだけ立派なくつしたが吊るされてあろうとも、サンタさんはそれをスルーするし、仮に俺がどこかでトラックに轢かれたら、あの世で魑魅魍魎たちにあられもないことをされてしまうだろう。
「さて、先輩」
「なんだよ」
俺はパイプ椅子に座っている。後輩は目の前で起立している。俺の視線の先は後輩の胸の少し下。俺はただ前を向いているだけ。
「そろそろ時間です」
言い終わるのと同時に、シンプルな電子音が鳴った。
スマートフォンのアラームだ。
一時間後、俺に何か質問をすると後輩は言った。
その一時間後がやってきた。
面倒だな、という感情を込めて俺は後輩を見た。
そこで一度、息がとまる。
後輩の少女が、冷徹さを感じるほど真剣な瞳をしていたからだ。
「質問の前に少し話を聞いてください」
俺は、うなずくしかなかった。
「例えば今日、お昼にこの準備室にきてからこれまでのことが全て私の書いた小説だとします。すると、私は作家にはなれないんです」
「どういうことだ?」
これまでの後輩からの摩訶不思議な言動の中でも、今のは群を抜いている。
「先輩からお借りした六〇〇〇万部の編集者さんの本の140ページに作家としてやってはいけない三つのこと、という項目があります。私はその三つを全て破ってしまいました」
「…………」
そろそろ本気であの本をもう一冊注文するべきか検討したほうがいいのかもしれない。
「では先輩に問題です。先輩を売れっ子編集者だとします。先輩の担当している、やさしいしにがみの出てくる小説がヒットしてアニメにもなりました。ある日、一人の女の子から編集部に電話がかかってきます。その女の子がこう言いました。もうあの小説が読めない──と」
「どうして?」
「やさしいしにがみの物語です。やさしくてもしにがみです。つまり死を取り扱った作品です。つまり誰かが必ず死にます。物語を読み進めていくうちに、小さな女の子でも気づいてしまったのです。このまま読んでいくと自分の好きなあのキャラクターが物語から退場してしまうと」
「……なるほど」
「では売れっ子編集者の先輩。あなたの担当している作品の純粋な読者が悲しんでいます。あなたは彼女にどんな言葉をかけますか?」
「だったらもう読まなければいいんじゃないかな」
「──え?」
「現実と物語の唯一の違いは、たぶん、物語からはいつでも離れることができるということで、もしこれ以上その作品を読むことで自分が傷つきそうになったら、迷わず離れたらいいと思う。それで時間が経ってそのときのことをふと思い出したりしたら、また読んでくれたらいいんじゃないかな。思っていたほどつらい展開じゃなかったり、実はどんでん返しでハッピーエンドだったり、やっぱり悲しかったり、もう興味がなくなっててどうでもよかったり──」
後輩は静かに俺の言葉に耳をかたむけている。
「小説に限らず、映画でも料理でも表現ってのは全部、それを受け取ってくれた人の内面との対話みたいな部分があって、受け取ってくれた人がそれと出会ってどんな選択をしたかってのが重要で、極端な話、よほどタチの悪いデマでもない限り、悪口を言われることだって成功の一つというか」
とりとめのない話をしているという自覚はある。ただ、口がとまらない。
「ああ、でもこれって小さい女の子に向けて言わなきゃダメなんだよな。ええっと、そうだな、あっ、俺が実際にそういう現場に遭遇したらたぶんこう言うと思う──そんなに好きになってくれてありがとう──って」
「……先輩がそこまでお喋りとは思いませんでした」
後輩は少しあきれている。
「すまん」
「いえいえ、私は感動しているんですよ。見事な演説でした」
相変わらず声に感情はこもっていないが、ぱちぱちと小さく手を叩いてくれた。
「でも今のはあまりにも作家的すぎます。それでは六〇〇〇万部を売る編集者にはなれません」
「別にいいよ。俺は楽しむのが好きなだけだから、作家にも編集者にもなれなくて──」
「──ダメです」
後輩は俺の言葉を遮った。そして顔の動きを封じた。
俺の左の頬に後輩の右手。俺の右の頬に後輩の左手。
状況をより詳しく説明すると、椅子に座っている俺の顔を、立っている後輩が両手で挟んできた。今のところ、それ以上の進展は特にない。
「あったかいですね、先輩の顔。もしかして先輩ってお湯でできてるんじゃないですか?」
そういうお前はミルクと砂糖でできてるんじゃないのかっていうくらい、後輩から漂ってくる香りは優しくて甘い。
「それでは先輩、質問です。正直にお答え下さい」
俺は少しだけ身構えて、息をのむ。
後輩は言う。
「──先輩は嬉しすぎて泣いたことはありますか?」
一体、どんな質問が飛びだしてくるのかと思った。
どうしてそんなことを聞いてくるんだ、こいつは。
「……いや、別にないけど」
「そうですか」
特に喜んだ様子も悲しんだ様子も見えない。
「先輩、私がこの世で一番嫌いな言葉は『あきらめなければ、いつかきっと夢はかなう』です」
「なぜ?」
「あきらめないなんて誰にでも簡単にできるからです。タバコを吸いながら禁煙をあきらめないことだって可能です。あれは無責任な卑怯者の言葉です。街で遭遇したら交番に駆け込みますよ」
名言ですら通報の対象になるとは、世知辛い世の中になっちまったな。
「それなら、お前が一番好きな言葉は何だ?」
「そんなの決まってます」
後輩は俺の顔を手で挟んだまま、自分の顔を少し近づけてくる。
「──『だったら私でいいじゃないですか』──ですよ」
「……実は俺、名言にはあまり詳しくないんだ。それはいつどこで誰が言った言葉なんだ?」
「これは私が自分の夢をかなえるときに使う予定の言葉です」
「……ずいぶん準備がいいな」
後輩はおもむろに俺の顔を挟んでいた手を放した。
「話が前後しますが実は私、以前、自分にとっての大きな願いをかなえたことがあるんです」
「それは、おめでとう」
「まだ若かったせいで、私は大きな勘違いをしていました。その願いさえかなえることができたら、私は嬉しくて泣いてしまうんじゃないかって。でもあこがれの世界で私を待ち構えていたのは、とても大きな孤独でした」
「…………」
「しかし、それからほどなくして私はある出会いをします。その出会いとは、私の願いを見つけてくれた人との出会いです。その日、私は嬉しすぎて涙を流しました。それで気づいたんです。願いの本質とは、それをかなえることではなくて、それでつながることなんだって」
「一体、何なんだよ。お前のかなえた願いってのは」
後輩はいたずらっぽく笑みをこぼして、人さし指を自分のくちびるにあてた。
『ひみつです』と言いたいのだろう。
「ねえ先輩。ライトノベル作家になってくださいよ。それで六〇〇〇万部の編集者さんに会って、こう言ってください」
「なんて?」
「著者近影で着ていたあのアバンギャルドなセーターはどこで買ったんですか──って」
「……仮に作家になれたとしても、そのセリフを言った瞬間に、俺の作家生命はエンディングを迎えることになると思うぞ」
「大丈夫。あきらめなければ夢はかないますよ」
「お前、さっきから言ってることがむちゃくちゃだぞ」
緊張したりあきれたりの連続で体内にもぞもぞしたものがたまっていたのか、それを一気に吐き出すように、くしゃみが出た。
「冷えますか?」
「いや、そうじゃないけど」
「……ちょっと外の風にあたってきます。帰りに給湯室によって、あったかいカルピスでも作ってきてあげますよ」
「ありがと。でもなんか、すっごいうっすいの持ってこられそうだな」
「とんでもない。ちゃんと原液だけで提供しますよ」
「それはそれで、いやがらせすぎるだろ」
脱力したあとで、俺はしばらくぶりに読書に戻る。
「ところで先輩、今日ずっと読んでるその本ですけど、面白いですか?」
「うん、面白いよ。密かに人気声優やってるヒロインが片思いをしている幼なじみの主人公に自分を好きになってもらおうとあれこれアピールするんだけど、主人公がマヌケすぎて全然気づかなくて、ヒロインの行動もどんどん過激になっていくのがいいよね」
「内容は知ってます。私もそれ読みましたから」
「そうだよな。お前は俺が買った本を俺から奪って俺より先に読むのが特技だもんな」
「……先輩。先輩がライトノベル作家になれるかどうかは未知数ですが、先輩には間違いなくライトノベルの主人公になれる素質があります」
「え? それはどういう──」
文庫本から顔を上げると、俺に向かって伸びてくる後輩の手が見えた。
「ここ、ゴミがついてます。優しいからとってさしあげますよ」
そう言って、俺の眉毛の端をつまんで、強く毟った。
「──っ!」
説明の必要はないと思うが、とても痛い。
後輩は何食わぬ顔で出入り口まですたすた歩いていくと、扉のまえで振り返った。
「ねえ先輩」
「なんだよ」
「ばーーか」
つまらなそうな顔でつまらなそうにつぶやいて、後輩は準備室から出ていった。
何なんだよ、あいつは。
俺は眉毛を毟られたあたりを優しく撫でた。平安時代の人みたいになってたらどうしよう。
ため息を一つこぼすと、俺も外の空気にあたりたくなったので席を立つ。
扉の前までくると、開いたままの後輩の鞄の中身が見えた。
あの六〇〇〇万部さんの著書の表紙が確認できる。
「なんだ、持ってきてたのか」
返してもらとうと、誘拐された我が子を鞄の中から助けてやったが、女の子の鞄の中にあったものを本人の承諾もなしに取り出すのは紳士のマナーとしてどうなのかと俺の良心が諭してきた。
「…………」
理不尽な気もするけれど、本は鞄に戻すことにする。
そのとき、本に挟まれていたと思しき一枚の紙が床に落ちた。
拾ってみると、そこにはこんな文字が並んでいた。
『○○ぱい、大○○です』
「…………」
少し考えて、閃く。
『おっぱい、大きいです』だな。
謎を解き明かした達成感を胸に、本を鞄に戻してから俺は準備室の扉を開いた。
『エロノベル先生』完
参考文献
『面白ければなんでもあり 発行累計6000万部 ──とある編集の仕事目録』
著者・三木一馬
出版社KADOKAWA
番外編『とある夏の日のできごと』
「あの、失礼します」
「ん? どうしたの?」
「あの、その、外にこれが落ちてたんですけど……文庫本の帯」
「──あっ、それ俺のだ。わざわざありがとう」
「いえ、どういたしまして」
「読みながら歩いてたんで、落としたの気づかなかったよ」
「……あの、面白いですか、その本」
「うん、なかなか面白いよ」
「ありがとうございます!」
「はい?」
「あ、いえ、なんでもないです──と、ところで、どうしてその本を買おうと思ったんですか?」
「別に深い理由はないけど、出版社のホームページであらすじ見たら面白そうだったし、作者さん高校生みたいだから同世代を応援したい気持ちもあったというか、まあ単純に新人さんの作品はできるだけ買うことにしてるんだ」
「…………」
「どうかした?」
「あっ、いえ、なんでもないです……あの、もしお邪魔じゃなかったら、読んでるところを見せてもらっててもいいですか?」
「え?」
「いえ、違うんです、そうじゃなくて、えっと、その──わ、私もここで本を読んでいてもいいですか?」
「……まあ、ここ俺の部屋じゃないからご自由に」
「ありがとうございます。えっと、私は一年なんですけど、たぶん、先輩さんですよね?」
「うん、俺、二年だからそうなるね」
「よろしくお願いします──せんぱい」
およそ二ヶ月後。
二月十四日
日本で最も罪深い企業の名前を教えて進ぜよう。
その名は『モロゾフ』
いかにも悪の組織然とした響きのあるこの神戸のお菓子メーカーが一九三六年に提案した『バレンタインにチョコを贈ろうキャンペーン』のせいで、世界的にみても極めて珍しい日本の奇祭、二月十四日のチョコ騒ぎがはじまったとされている。
もっとも、モロゾフは最有力な説の一つで、ネットで詳しく調べてみるとバレンタインにチョコを広めたのは森永説からソニー説まで幅広く存在するのだけれど、真実はどうあれ現実として国内で一年間に製造されるチョコレート総量の約二割がたった一日のために投入されていることに変わりはない。
これが何を意味するのか?
そう、たくさんあまるのだ。
当然、お店としては在庫を抱えたくはない。どうにかして売りきるしかない。つまり、最終手段として半額シールを貼るほかないのだ。
そこで彼女は立ち上がる。
『十八時四十分になりました、最終下校時刻です。生徒のみなさんはすみやかに、ゆっくりと帰宅してください』
校内放送がスピーカーから流れてくる。
すみやかにゆっくりとはどういう状態なのか、何度聞いても腑に落ちない。
「さあ先輩」机を挟んで読書をしていた後輩の少女が丁寧に文庫本を閉じて、パイプ椅子から立ち上がる。「半額の時間ですよ」
雪の結晶みたいに目を輝かせている。
消灯して施錠して、準備室から職員室に向かい、鍵を返す。
下駄箱で靴に履き替え、先生たちに挨拶をして校門を出る。
後輩は両手を広げ、駆け足で小さな円をいくつも描くような軌道で前に進んでいく。急いでいきたいけれど、早く着きすぎるとまだ半額セールがはじまっていない。そんな心理のあらわれかもしれない。そしてこれがかの有名な、すみやかでゆっくりとした移動というやつなのかもしれない。
昨年のクリスマスイブにお総菜の半額セールに連れていって以来、彼女は半額の魅力にとりつかれてしまった。
後輩曰く、あの赤と黄色のシールを見ると特に必要のないものでも思わず買ってしまいたくなるのだという。
確かにクリスマスイブのあの日、後輩はあれもこれもとケーキにサラダに七面鳥、ピザ、寿司、刺身、カツカレー、はては駅弁までカゴに入れ、そのまま俺の家まで持ってきて、一口ずつ食べたあとで、もうおなかいっぱいですと言って、全て俺におしつけてきた。
翌日、俺の腹はサンタさんの袋みたいにふくらんでいた。
きっと世界中のサンタクロースの何パーセントかだって袋の中身はおもちゃではなく、後輩からおしつけられた幕の内弁当やいなり寿司セットが詰まっているに違いない。
「ねえ先輩」
俺の前にいた後輩が立ち止まって、振り向く。
「なんだ?」
「私からのチョコ、ほしいですか?」くすっと微笑みながら、そんなことを訊いてくる。
「──は?」
「だって、誰からももらってませんよね?」
「……そうだけど、妹──じゃなかった、姉貴がくれるだろ、毎年もらってるし。今日はあっちの親の用事でいないけど、明日帰ってきたら、たぶん」
「ふうん」
なにその、家族からもらったものはカウントに入りませんよ的なあわれみの瞳は。
「じゃんけんぽん!」
一切の前置きなくそう言い放って、手を出してきた。
つられて俺も相手と同じ動きで応じる。
俺はグー。後輩はパー。
負けた。
「あー残念。先輩が勝ったら、たらふくチョコをさしあげようと思ってたのに」
こいつのことだ。仮に俺が勝った場合は、ただじゃんけんをしただけですよ? 勝てばチョコをもらえると思ったんですか? というか先輩、そんなにチョコほしかったんですか? 必死ですね──とか言って煽ってくるに決まっている。チョコを賭けてもいい。
俺はグー。後輩はパー。
少女の手のひらに違和感を覚える。
「今日は手袋してないんだな」
純白のふかふかした、見るからにあたたかそうな手袋をいつもしていたはずだけど。
「え? ああ、あれですか。木にひっかかってやぶれちゃったんですよ」
「そうか」お気に入りだって、言ってたような。「それは残念だったな」
「ちょうど新しいの買おうと思ってたんで、ちょうどよかったですよ」
そう言って、手をコートのポケットに入れた。
嘘が下手だな、こいつ。
「……先輩って」
「うん?」
「けっこう私のこと、見てくれてますよね」
「そうか?」
俺の問いには答えず、後輩はどこか嬉しそうに歩きはじめる。
「なんだか今日は、少しあったかいですね」
夜空を見上げて、白い吐息とともに、そんな言葉をもらす後輩。
上はコート。下は短いスカート。
脚は寒くないんだろうか。
デパート地下一階、製菓コーナーでは後夜祭ともいうべき賑やかな後始末が開催されていた。
ここは夜二十時に閉店するため、十九時になると売れ残った惣菜やクリスマスケーキみたいな、その日を過ぎれば大幅に価値を削られる食品には、迷わず半額シールが貼られる。
誰かのためにラッピングされたチョコレートたちに事務的に赤と黄色のマーブル模様の記が付与されていく。あれがついているだけで表示価格の半分の値段で商品を購入できるのだから、ある種の魔法陣といっていいのかもしれない。
現場では老若男女が入り乱れて、我先にとチョコを奪いあっている。
誰かのためではない。己のためだけに、人々は砂糖たっぷりのカカオマス製品を求めているのだ。甘くておいしいからね。
在庫にまだ余裕はうかがえるものの、お客さまたちの表情にはそれがない。
必死の形相でカゴにチョコを詰めている。
奪いあえば足りなくなるけど、譲りあえば余る。ふと、そんな名言を思い出したけれど、だからどうした、ここは戦場だ。ギブミーチョコレートと叫びながら手を伸ばす勇気のない者には敗北あるのみなのだ。
ところで在庫に余裕があると言ったかもしれないが、あれは嘘だ。
数秒目を離した隙に、もうほとんど残っていない。
「これ、買えるのか?」
俺の心配を余所に、後輩は余裕の笑みを湛えている。
「先輩は半額セールの本質をご存知ですか?」
残念ながら、ご存知ではない。というかこいつ、約一ヶ月前に俺から半額セールを教わったばかりのくせに、なんでちょっと偉そうなの?
「ここは戦場です。戦場で勝つために必要なのは武器ではなく情報です」
「なるほど」
一理あるのかもしれない。だけど俺たちはここにチョコを買いにきただけだよな?
「私はすでにこの戦いに勝利しています。だけど少し時間が必要です。よろしければ他のフロアで時間を潰してきてください。三十分後に戦果をお見せしますよ」
自信たっぷりに宣言するので、お言葉にあまえて上の階の書店、ギフトコーナー、ゲームコーナーをぶらぶらして戻ってくると、後輩の手には、ほどよくふくらんだビニール袋が握られていた。
半透明だから、それとなく中身が確認できる。バリエーション豊かなチョコレートがいくつか収められていた。欲望に支配された下品な買い占めではなく、必要なものを的確に手に入れたといった様子だ。
「本当に買えたんだな。でも、どうやって?」
「内通者の協力を仰ぎました」
「どうも、スパイです」
後輩の背後から、ひょこっと小柄な少女があらわれる。
うちの学校の制服。察するに後輩のクラスメイトだろう。
はじめましてなのは間違いないのに、既視感があるのはどうしてだろう。
「ここでバイトしてる、同じクラスのタマちゃんです」と後輩が紹介した。
「ああ、あのダーツの上手い──ええと、珠城さんだよね?」
既視感の理由がわかった。ネットニュースで見たことあるんだ。ダーツワールドチャンピオンの史上最年少記録更新をほぼ確実視されているとか。
「アルバイトさんに優先的に用意されてる半額チョコの枠があって、タマちゃんのそれを譲ってもらったんです」
「いいの? そんなことしてもらって。珠城さんのぶんは?」
「だってタマちゃんは御暁さんがいつもチョコ作ってくれてるから、ね?」
知らない名前が出てきた。
「そうなの」珠城さんはうなだれて、後輩の肩に額をのせる。「芹がすっかりチョコ作りにハマっちゃって、すごくおいしいんだけど、それで最近、体重が……」
喜びと悲しみの混ざりあった、ビターチョコのようなつぶやき。
「あ、でも」ぴょんっと珠城さんは顔をあげる。「この先輩さんがそうなんだよね?」
「うん?」俺の話になったぞ。
珠城さんは後輩の耳に口を近づけて、ここまでは聞こえない絶妙な声量で愉快そうに何か語りかけている。
耳からタバスコでも流されているのか、後輩の顔が見る見る赤くなっていく。
後輩は珠城さんと向きあって、肩たたきみたいに、ぽかぽか叩きだした。攻撃されているのに珠城さんは笑っている。
「も、もういきましょう先輩。ありがとう、タマちゃん!」
しっかりとお礼は言いつつも、逃げるように後輩は店を出た。
なんだか、珍しいものを見られた気がした。
「いやあ、実家のような安心感ですねえ」
コートを羽織らせた椅子の背もたれに背中をあずけて、伸びをしながら後輩は言う。
「まあ実際、俺の実家だからな」
クリスマスイブのとき以来、二度目の訪問だというのに、このくつろぎっぷりはただ者ではない。
後輩はテーブルの上に広げた戦利品のパッケージの中から適当なものを一つ選んで開封してみせた。
葡萄の粒みたいなチョコレートがいくつか並んでいる。トリュフと呼ばれるタイプのものだ。
それを後輩は節分の豆でも食うみたいに次々と口に入れ、一瞬で平らげてしまう。
二箱目、今度はサイコロ状のチョコ。上にのっている金箔が高級感を演出している。
その見映えに対するコメントなども特になく、ぺろりと飲み込む。
「先輩」
「なんだ?」
「あったかいお茶が飲みたいです」
「……ああ」
後輩は板チョコを肴に俺の淹れた緑茶を味わっている。
「やっぱり日本人はお茶ですよねえ」などと、しみじみこぼす。
だったらチョコじゃなくて餡子でもなめてろよ、という言葉が今にももれそうだ。
テーブルの上に広がっていく解かれたラッピングの紙と空き箱。
ここが家ではなく、いつもの準備室なら。
今日がバレンタインではなく平日だったなら。
俺にもよこせと躊躇なく奪えるのだが、バレンタインデーに女子にチョコを要求するという行為には強い抵抗を覚えてしまう。
そんな俺の純情など知る由もない後輩は、チョコレート専用の掃除機みたいに次から次へとチョコを吸い込み、そこそこの量があったはずなのに、残されたのは小さな箱が一つだけ。細い棒状のスナックにチョコレートがコーティングされている、おやつとして定番のあれだ。ラッピングもされていないので、最早イベント感もない。
その箱を手にした後輩は、なぜか固まっている。
「どうした?」
「せんぱい」
いつになく、真剣な顔。
「……どうした?」
「ウイスキーボンボンってご存知ですか?」
「酒の入ってるやつだよな?」
後輩はうなずく。
「私、あれを少しでも食べると、めちゃくちゃ酔っちゃうんですよ」
「……それで?」ものすごく、いやな予感がする。
「どうやら先ほど食べた中のいくつかに、少なからずそれが混じってたみたいです」
「……それで?」
「……せんぱい」せつない表情。
「……なんだ?」
「……せんぱい」今にも泣きそうで。
「……どうした」
「……せんぱい」後輩は。「せ、せんぱいが五人いるう!」けたけた笑い出した。
「……勘弁してくれ」
「先輩! 先輩っていつから忍者になったんですかあ?」
「いつからもなってねえよ。あとそれは俺じゃなくて炊飯器だ」
「冗談れすよ先輩、ノリ悪いれすね……うわあ、先輩のまぶたってこんなに伸びるんれすねえ」
言いながら後輩は冷蔵庫の扉を開けたり閉めたりする。
今、こいつの瞳にはどんな俺が映っているのだろうか。
「ねえ先輩」
「なんだ」
ピンっと敬礼をして後輩は「私、先輩のお部屋、見たいです!」と発言した。
俺は上官のように「却下だ」と切り捨てる。
「ええー! いいじゃないですか。今日はバレンタインデーですよ?」
おもちゃを買ってとだだをこねる三歳児のような独特の動き。
「お前の中でバレンタインの定義ってどうなってんだよ」
「いじわるするならいいですよ。自分で探しますから」
といって、ふらつきながらキッチンから出ていこうとする。
「わかったよ。連れていってやるから、頼むからそんな状態でうちを荒らさないでくれ」
あきらめて、手を引いて、階段をのぼっていく。
「心配しないでください。どん引きするような内容の同人誌とか隠してあっても見なかったことにしますから。今日はバレンタインですからね」
そんなものはないし、とりあえずこいつのバレンタインの定義を教えてほしかった。
「とうちゃくー!」
部屋の扉を開けるなり、声を上げて、俺のベッドにダイブする。
「うわー、先輩の匂い匂い」
カーペットを掃除するときに使うあのコロコロしてるやつみたいに、ベッドの上で回転する後輩。
「暴れるなよ、それにお前さあ、その、スカートはいてるんだからさあ……」
「別に見たければお好きなだけどうぞ。短パンはいてますし」
スカートの裾をにぎって、そこを上げたり下げたりしはじめる。
「だからさあ……」
つづける言葉が思い浮かばず、俺は手で目を覆う。
「ところで先輩」寝転がった体勢で、俺のほうに顔を向けてくる。
「なんだ?」
「酔った女の子を部屋のベッドに押し倒すなんて、とんでもないクズ野郎ですね」
にやにやしながら、そんなことをおっしゃってくる。
とんでもない、いいがかりだ。
全部お前が自主的にやったことだろう。
俺が今やりたいことを力づくで実行していいなら、お前を外に投げ出してバケツ一杯の水を頭からかぶせて酔いを覚ますことだ。
「えっちな本とかないんですか?」
部屋の本棚を見ながら、後輩が訊いてくる。
「ねえよ」
本当はあるけど、それはパソコンの中だ。『数学Ⅰ』というフォルダにしまってある。
5ギガぶんほど。普通だろ?
「あ──!」
本日一番の絶叫。
「今度はなんだよ」
「お宝発見!」
ベッドから飛び降りて、後輩は本棚に直行する。
頭をフル回転させて、そこに収めているものを思い出す。大半はライトノベルでいかがわしいものはない──はず。
「出たばっかりの新刊買ってくれてる、嬉しー! サインしちゃお」
買ったばかりの新刊を抜き出すと、机の上にあった油性ペンのキャップを外し、そこに何やら書き込もうとしている。
「さすがにそれはやめてくれよ」
後輩の手から小説を奪還する。
「えー、どうしてじゃまするんですかあ?」不服そうに口を尖らせてくる。
「お前こそ、何の権利があるんだよ」
「ありますよ。あと五年くらいしたら、めちゃくちゃレアになってますよ?」
意味がわからない。見た目以上に酔っ払ってるみたいだ。
後輩のスカートから着信音が響く。
ポケットからスマートフォンを取り出し、表示された相手を確認すると「あ、パパだ」と言って耳にあてて、通話をはじめる。
いくつか言葉を交わして通話を終えると「父が車で近くにいるみたいなので、今日はここでお暇します」と告げた。
どうして親父さんに居場所が知れているのか訊くと、位置情報を共有しているとのことだった。
そうだよな。年頃の娘さんだもんな。ウイスキーボンボンで酔っ払って男子の部屋で暴れてたと知ったら、どんな顔をするだろうか。
最後に残されたあの小さな一箱くらいは残してくれるのではないかと期待したものの、容赦なく回収され、後輩は帰っていった。
彼女が残したのは、ラッピングの紙や空き箱といった、宴の残骸だけ。
それを片づけて、とぼとぼと部屋に戻る。
もういっそ寝てしまおうとか目を向けたベッドの上に見慣れないかたちを見つける。
ピンクのハート型。
手のひらより、少し大きめのサイズ。
思わず、笑みがこぼれる。
あいつはこういうところ、あるよな。
ベッドに腰をおろすと、後輩の匂いが鼻孔をついてきた。さっきずっとここで寝転んでいたせいだろう。
マーキングされてるみたいだ。
ハート型のパッケージにはこれみよがしに半額シールが貼られている。
『半額』が『義理』に見えてしかたないけど、この際どうでもいい。
ラッピングをほどいて、蓋を開くと、当然そこにはハート型のチョコレート。
こういう露骨なデザインは却って売れ残りやすいのかもしれない。
一口かじってみる。
「──うん?」
なんだか、思ってたのと味が違う。
あまりおいしくない──違う。おいしくないわけじゃない。
安物──という感じもしない。むしろ、高価な材料を使っている気さえする。
素材の質と作り手の技量が釣りあってないとでもいえばいいのか、全体的に不器用。
だけど一生懸命というか、想いみたいなものはとても伝わってくる。
どこのメーカーなのか調べてみようとしたけれど、それを表記したものを見つけることはできなかった。
なんとも不思議な気持ちで俺は、この不思議なチョコレートを味わっていた。
部屋に戻った少女は、コートも脱がずにそのままベッドに倒れ込む。
今日一日の反省。
少しやりすぎたかもしれない。もっとできることはあったかもしれない。
──ちゃんと、食べてくれただろうか?
思いはまとまらず、じたばたと、バタ足みたいに暴れる脚。
ふと、腿のあたりに違和感を覚えたのはそのときだった。
なぜか、すうっとする。
スカートの上から該当箇所を撫でてみる。
指先に予測した感触がない。
音が聞こえるほどの強い動悸。
どうやら、今日、自分は、短パンを、はいて、なかった。
つまりあのとき──。
それ以上は考えるのが恥ずかしすぎて、コートで頭を覆って、めいっぱい叫ぶ。
そこで二回目の違和感。
コートのポケットに、覚えのないふくらみがあった。
何か入ってる。
取り出すと、紙袋。当然、知らない。
開けて中から出てきたのは、純白の手袋だった。
数日前、自分の不注意で破損させてしまたものと同じデザイン。
『Happy Valentine』というメッセージカードもついていた。
感情と表情が、しばらく停止する。
それからまたコートで頭を覆って、めいっぱい叫ぶ。今度は嬉しすぎて。
体の中のいろんなものを全てはき出したような爽快感。
肩で息をしているけれど、気持ちいい。
ようやくおちついて、一言もらす。
「卒業するまではがまんしようと思ってたのに、もう既成事実、つくっちゃおうかな」
新しい手袋をつけた両手を顔にあてると、素材にはない成分のぬくもりを感じ、少女は眠り包まれる。
coming soon