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文学好き女子はこんな風に口説かれたい

作者: 榛李梓

 居酒屋。

 時刻は二十時半を回ったところ。

 少なくなったロックの梅酒を一口飲んでから、石井香菜は周りを見回した。

 今日は退職する同僚の送別会だ。飲み放題付き二時間のコースは、料理も一通り出揃って、宴の終わりが近づいてきた雰囲気を漂わせている。

 他の社員たちは最初の席から移動して、気の合う者同士で会話に花を咲かせている。先ほどまで香菜の左隣で美容について熱心に語っていた先輩の藤井智花も、上司に酒を注ぎに立った後は仲の良い隣の課の女性社員のところで盛り上がっている。

 香菜は、同僚たちと普通に会話はするものの本来あまり社交的な性格ではないので、なんとなく最初の席から動かずにいた。


「何か頼みますか?」

 右隣に座る岸田光稀がメニューを差し出す。

「あ、ありがとうございます。うーん、お茶にしようかな」

 ちょうどグラスを下げに来た店員を呼び止めようとすると、岸田が先に声をかけて自分の飲み物と一緒に注文してくれた。

「ありがとうございます」

「いえ。あの、敬語じゃなくていいですよ。俺の方が年下ですし」

 隣の課の岸田はたしか香菜よりも1、2歳下だが、数か月前に中途で入った香菜にとっては先輩になるので、いつも敬語で話していた。

「私、年とか関係なく、あんまりよく知らない人には敬語なので、気にしないでください。慣れてきたらタメ口になるかもしれません」

 隣の課といっても業務で関わることはほとんどないし、この飲み会中も、二人とも大体聞き役に回っていて会話はなかった。

「そうですか。実は、石井さんと話してみたかったんです。うちの会社、年が近い人ってあんまりいないから」


 それから二人で社員食堂のおすすめメニューだとか、最近見た映画だとか、他愛もない話をした。香菜が所在なさげにしているのを気遣ってくれたのかもしれない。

「休みの日とかって、何してるんですか?」

 ビールのグラスを片手に岸田が問う。

「本を読んだりしてます。インドア派なんですよー」

「俺も本好きですよ。どんな本読むんですか?」

「ミステリとかが多いですね。あとは、近代文学も好きです」

 人に自分の好きな本を話すのは難しい。相手が本好きでもそうでなくても、具体的な書名を出そうとすると、選択に困る。

「漱石とか、芥川とかですか? へー、特にこれっていう作品あります?」

 来た。難しい質問だ。

「川端康成の『舞踊靴』っていう短編がすっごく好きなんですけど、わかんないですよね?」

 香菜は面倒になって、どうせ岸田にはわからないだろうと高をくくって答えた。岸田は「へー」と曖昧な相槌をうってビールを口に運んだ。

「……じゃあ、今度靴をプレゼントさせてもらえませんか」

 数秒の間をおいて、岸田が言った。

 驚いて隣の岸田を見る。眼鏡の奥の表情は読めない。

 岸田は『舞踊靴』を知っているのか。靴をプレゼントと言っているのだから、知っているのだろう。冗談? だとしたらこちらも軽く返すべきか。それとも。

 彼の真意がわからない。いったいどういうつもりで言っているのか。


「そろそろお開きだってー。石井ちゃんは二次会行く?」

 どう答えたらよいものか逡巡していると、戻ってきた藤井が空気を読まず割り込んできた。かなり酔っているらしい。

「すみません、今日は帰ります」

 店を出て、一緒に行こうと腕を引っ張る藤井をなんとか宥めてみんなに挨拶を済ませた。岸田も二次会には参加せず帰るようだ。香菜とは反対の方向へ歩いていく。


 結局帰るまで岸田とは話さないままだった。

 駅までの道のりを歩きながら、頭の中で岸田の言葉を繰り返し思い出しす。

 火照った頬に、夜風が心地よかった。

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― 新着の感想 ―
[一言] すいません、私は『舞踊靴』って知りません。靴を送るっていうところが内容と合致していて、驚いたんですか?だとしたら中々にくい台詞ですね。確かに文学少女なら気に掛かりそうです。 でもあれって口説…
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