表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

夜の物語

 漫画でも小説でも何でも、恋愛ものを見るのがひどく好きだった。

 幼い頃から恋に焦がれていたのかもしれない。僕の家では物心がつくずっと前から父と母が別居していて、ふたりは仲良く愛し合っているのだという、皆にとっては当たり前かもしれないことがよく分からなかったから。

 もちろん、皆には内緒にしていた。

 もし、姉の本棚に並べられていた青春の恋愛小説や少女漫画を隠れて読んでいたり、お小遣いで買った本をコソコソ引き出しの奥にしまっていたりすることが、誰かにバレでもしたら……僕は生きていけない。


 僕が初めて他人にそれを話してみようと思ったのは、中学二年生の春の頃だった。教室で明日野葵の席は僕のちょうど右斜め後ろで、まだ朝のホームルームが始まる前の時間。座っていてなんとなくぼうっとしていると、後ろで突然バサッと音がした。振り返ると明日野が鞄の中身を床にぶちまけていたのだけど、その中にツルゲーネフのはつ恋という本があった。僕らは思春期真っ盛りで、色恋沙汰に興味を持っていても全然不思議じゃなかったのだ。しかし明日野は真っ先に、その本を裏返しにして引き寄せた。きっと恥ずかしかったのだと思う。実際そのときまで僕も、彼女は世俗的なものからは遠く身を置く人だと考えていたので、内心で驚いていた。僕がそんな彼女の行動に共感を抱いたのは、言うまでもない。

 僕はどうにかして彼女と仲良くなりたいと思っていたけれど、奥手だったせいでなかなか上手くいかなかった。相談できる相手だっていない。僕は僕自身のことを彼女に伝えたいとずっと考えていたけれど、それを他人に気取られるのは嫌だった。友達の前でも、恋愛には決して興味がないように装っていたので。それに明日野自身にも、いくらか問題があるようだった。誰も明日野に近づこうとしないのだ。しかも僕の目から見れば、少なくとも一部の人にとってはどうやら無関心ではなく、彼女の一挙手一投足は常に監視されているように思える――僕もその一部になりかけていたので、決して他人のことは言えないのだが。

 僕は結局いつまでも話しかけられず月日が流れて、他と同じく彼女を監視しているうちに、どうやらこれは恋であることに気づいた。それまで経験がなくても、僕はたしかにそれが分かったのだ。ただ同時に、単に待っているだけでは報われない種類のものであることも……春が過ぎれば夏へ、夏が過ぎれば秋へと移り変わるように、自然と実るものであればどんなに良かったことか。実際には何も変わらぬまま、鮮やかに芽生えた思いの上に埃がしんしんと積もっていき、ついには全て埋もれてしまうのだ。緩やかに訪れる終わりに恐怖を覚え、時は過ぎてゆく。


 そのような空虚な気持ちにピリオドが打たれたのは、季節が夏から秋に移りゆくある日のことだった。

 深夜に僕はこっそり家を抜け出した。かねてからインドア派の僕も、いい加減外に飛び出さずにはいられなかったのだ。家の中にいると憂鬱のままに時が過ぎ、そのまま沈んでしまいそうになる。

 都会から少し離れたところにある僕の町は、深夜になるといつもしんと静まり返った。電車は通らないし、道路を走る自動車も十分に一台走るかどうか。信号は点滅していて、好きに渡ることができる。まるで幽霊のようにぼんやりと光る自動販売機に近寄れば、ジジジッと鳴る音に耳を凝らさずにはいられない。どこまでも静かで、どこまでもひとりぼっちで。僕はこの町の支配者になったような気分になった。どこにいっても自由で、きっと彼方までこの景色は続いているのだろう……

 とにかく走った。校区外に出てはいけませんと小学校のときに先生に言われて、それがいつしか張り巡らされた網のように僕の行動範囲を制限していたけれど、もはや関係なかった。僕はどこまでも走ったのだ。実際には道を出鱈目に行ったり来たりしていたから、想像したよりも遠くに出ていなかったのだけど。

 どれくらい走っただろう。僕は疲れて、知らない公園に寄った。道路に面した場所で、ちょっとした野球のミニゲームができそうなくらいの広さ。周りが木々に囲まれて、外から中の様子はあまり伺えない。少し危険を感じたけれど、体を動かしたので気が大きくなっていたのか、僕は中に入っていった。公園には誰もいなかった。真ん中にドーム基地があり、僕はそこに仰向けになって寝転んだ。一面に深い藍色の空が見えた。夜の空は黒じゃないのだ。星の輝きが少なくて、星空というには少し寂しい。それでもなかなか爽快ではあった。しばらく汗が引くまで、僕はずっとそうしていたのだ。大きく何度も深呼吸して……

 最初は心地よかった風も、しばらくすると肌寒くなっていった。そのときの僕の服装はTシャツに短パンというもので、季節遅れになろうとしていた。このままずっと寝転んでいると風邪を引いてしまうことだろう。公園の時計を見れば時刻は午前二時。高揚感はとっくに落ち着いて、気持ちは早く帰りたがっている。

 そのときだった。アイツがやってきたのは。

 僕が体を起こしたとき、そいつは公園の入り口にいた。こちらに向けて一歩一歩近づいてくる全身藍色のシルエットは、まるで夜が歩いているかのようだ……

 そいつを目にした瞬間、僕の体は硬直した。視界の中で大きくなっていくそれを、瞬きもせず見つめていた。

 恐怖だけではない。僕は直感的に、そいつが明日野であることに気がついたのだ。

「おい」

 だが聞こえてきたのは、明らかに明日野とは違う声だった。力強く、ドスがきいていて……少なくとも、僕の想像上で奏でている明日野の声では全く無い。しかも同時に僕の胸ぐらを掴んだ腕の力は、片手で体をジャイアントスイングみたいに振り回されてしまいそうだ。

 コイツに逆らってはいけないのだ……

「ここで何をしている?」

 たまたまランニングしているとここにたどり着いたのだ、と僕は正直に答えた。夜(僕はシルエットのことをそう呼んだ)は納得せず、持ち上げて僕を思い切りドーム基地の外壁に叩きつけた。衝撃で体がバラバラになりそうだった。痛い、苦しい、息ができない……

 目から堰を切ったように涙が溢れた。死を予感したのだ。コイツがひとたび首をキュッと捻れば、僕は死んでしまう。蛇口でも捻るように……

「お前は葵に何をしようとしている?」

 僕は必死に命乞いをした。本当にただランニングしていただけであること、明日野のことは何が何だかよくわからないこと。夜は納得せず何度も僕を壁に叩きつけた。叩きつけられるたびに体がゴムまりのように跳ねて、洗濯し終わった後のタオルみたいにバサバサとやられて……何もかも白状するしかなかった。明日野に淡い恋心を抱いていること、勇気がなく、普段じっと眺めているだけしかできないこと……

 気づけば僕は、ボロ雑巾のようにドーム基地のてっぺんに打ち捨てられていた。完膚なきまでに打ちのめされた僕を、夜は品定めするような目で見下している。

「葵のことが好き? お前が?」

 夜のギョロリとした目が僕を覗き込む。僕は必死にこくこくと頷くしかなかった。

「俺は葵を傷つける奴を許さない」

 夜が両手で僕の首を絞めた。

 死ぬ――死ぬ!!

「お前は何故葵が好きなんだ?」

 根本の一言を、僕は叫んだのだ。


 次の日。果たして僕はどれほど眠れたのか眠れなかったのか。

 重い頭を抱えて半分夢見心地で学校に行った。昨日の出来事が信じられなかったのだ。自分がランニングに出たことも、夜に会ったことも。ただし僕の右斜め後ろに明日野が座ったとき、僕は反射的に思い切り体を遠ざけてしまった。体は昨夜の出来事を覚えていたのだ……自分を殺そうとした人物が背後にいる恐怖と言ったら!

 僕は春以来、初めて一度も明日野のほうを見ようとしなかった。しかし予期していたのだけど、その態度はやはり夜の気に食わないものであったらしい。

 夜中、夜が僕の家を襲撃しにきた。

 ガンガンガン! と激しく二階の僕の部屋のガラス窓が叩かれ、慌てて窓を開けると夜が僕の首根っこをしょっぴいて顔を外に出させた。

「葵を傷つける奴は許さないと言ったはずだが」

 僕はそのときも情けなく必死に命乞いをした。夜はそのときは深く追求しようとはせず、代わりに自分についてこいと言う。僕に逆らうという選択肢はない。

 夜は自転車に乗ってここまでやってきたらしく、僕も家族にバレないように車庫からこっそり自分の自転車を出して、昨日の公園に行った。昨日と同じく公園には誰もいなかった。僕らはドーム基地の近くに自転車を置いた。夜がドーム基地のてっぺんにさっと駆け上がり、ワイルドに胡座をかいて座る。続いて手招きして僕を呼び寄せたので、僕も恐る恐るドーム基地のてっぺんに上がったのだった。

「まあ座れ」

 夜は昨日よりも横柄だった。

 僕も同じように座ると夜は身を乗り出し、

「昨日の続きを教えろ」と言う。

「愛が欲しい、とはどういうことだ?」

 恥ずかしさで茹で上がってしまいそうだった。

 それは昨日僕が叫んだ言葉だ。命乞いの最後の、ボロボロと涙を零し、鼻水を垂れ流しながら……その言葉を叫んだ瞬間、夜は首を絞める手を緩めたのだ。欠けていたピースがカチリとはまり、迷宮が崩れるのをやめたように。

 僕がなかなか口を開かずまごついていると、夜は言った。

「黙っていたら承知しないぞ」

 僕は全て白状するしかなかった。

「明日野がその、ツルゲーネフのはつ恋を読んでいたから……」

「ツルゲーネフ? はつ恋?」

 夜が首を捻る。

 僕はボソボソと呟くように、

「明日野の鞄の中身が床に散らばって、一番に、恥ずかしそうに、それをさっと手元に引き寄せたから……」

 言っている最中に僕は、目の前の人物が明日野であるということを思い出した。僕は意中の人に告白をしているのだ! ああ、なんて恥ずかしい!

 しかし明日野は、夜は頬杖をついて、まるで他人事のようにニヤニヤしながら僕の告白を聞いていた。明らかに楽しんでいる。これ以上の辱めはないと思って、でも止められなくて……

「僕は輝くような恋がしたいんだ! 小説の登場人物のように、詩の登場人物のように……とてつもなく、見ただろう? 恋に心奪われて、他のことが手につかなくなる。駄目になって堕ちてゆく、その鮮明さを!」

 夜はずっとニヤニヤしている。世にも珍しく面白い動物を見るかのように。僕は、僕は顔を真っ赤にして、だけど心地良さがあったのだ。僕は告白している、今まで誰にも言えなかったことを口にしている、それも初恋の人に――

 まさか露出狂が快感を覚えるのは、このような心境だったからか! なんと夢見心地で……

「明日野となら、きっとそれができる。明日野は輝くような心を持っているんだ!」

 ついに僕は心の丈を全部ぶちまけた。夜はしばらくじっと見つめたままニヤニヤを止めなかった。そして、

「それで、相手がお前なのか?」

 夜の一言は、そんな沸いた僕の頭を冷まさせるには充分だった。

 へなへなへな、と精神を直立させていた一本の花が萎れて、地に塗れる様の情けないこと。

 なんという恥辱、なんという恥知らず……

「こんなヘナチョコの、お前が?」

 夜が人差し指でおでこをつん、と突つく。それだけで視界は回転し、地面へ真っ逆さまに落ちる――

 錯覚にとりつかれて足掻く僕を、彼は評する。

「ヘナチョコという理由で殺したくなる奴は、生まれて初めてだ」

 殺ス……

 物騒な言葉にびくりとして僕は顔を上げた。しかし視線の先で笑う夜からは、全く殺気は感じられなかった。本当にこれでもかというくらい、夜は無邪気に笑っていたのだ。

「おい、ヘナチョコ。お前みたいなやつに葵はとても任せられないな」

 心にずしっと重石がのしかかる。先ほども言ったけれど、夜は明日野なのだ。夜に否定されるということは、明日野に否定されるということで……

 しかしどうやら追試ありの不合格だったようだ。

「毎日ここに来い。鍛えてやる」

 それから夜と僕の特訓の日々が始まったのだ。


「ほら! あと五週あるぞ! へばるな! 走れ!」

 特訓を始める前から分かっていたことだけど、やっぱり夜は鬼だった。

 公園内を十周に、腹筋、腕立て伏せ、背筋、スクワット。基礎鍛錬のフルコースだ。その後正拳突きを何度もやらされる。締めは再びランニング。

「背筋を伸ばせ!」

 普段よく運動している人なら楽勝のメニューかもしれないけど、インドア派の僕には地獄だった……実は中学一年生のときにサッカー部に入部したけど、練習のきつさに音を上げて辞めてしまったことがある。僕は根本的に運動に向いていない体なんだと。しかしそんな弱音を、夜が許してくれるはずもない。

「お前、本当にだらしないのな」

 ついには締めのランニングを完走できず、途中のベンチにぶっ倒れる。死にかけのゴキブリのように喘ぐ僕の口に、さっとストローが突っ込まれた。瞬時にして広がる甘さ……夜はどうやら水筒にスポーツドリンクを入れて、自宅から持ってきているらしかった。

 これは明日野が普段使っている水筒?

 そんな下らない考えが、頭を巡っては消えていく。

「こんな弱い奴には葵を任せられないな」

「ちょっ、ちょっと待って……」

 息も絶え絶えに僕は言う。

「早く愛の力ってやつを見せてくれよ、ヘナチョコ野郎」

 僕がぶっ倒れているベンチの空いている場所に夜が座り、そう口にして微笑む。

 特訓は毎日続いた。だいたい午後十一時半ぐらいに家を出て、午前一時過ぎに終わる。休日平日関係なく毎日行われていたけれど、少し寝溜めをしていれば次の日に響くほどではなかった。というより夜に体を動かすのが次第に楽しくなってきて、特訓がないと何だか調子が出なかったのだ。公園に人がいることはほとんどなかったけれど、たまに人がいるときは、夜は図ったように公園に来なかった。そういうときは仕方なくひとりで特訓したけれど、夜がいないとなんとなく寂しかった。

 いつの間にか僕は夜のことを気に入っていたのだ。明日野とは別の人物として。

「お前さ、その恥ずかしい思考をどうやって手に入れたんだ?」

 不意に夜がそんなことを聞いてくることがあった。

 夜はいつまでも、あの日の告白のことを馬鹿にしてきたのだ! しかもそれでいて、興味があることを隠さなかった。まるで無邪気な子供のように……小学生がませた質問を先生に投げかけることがあるけれど、あれと似た感じだ。

「僕は小さい頃から恋愛小説とか少女漫画が好きで……」

 僕は恥かしながらも語り、夜はいつも僕が言うことを馬鹿にした。余すところなくだ。頭がお花畑だとか、子供っぽいとか、恥ずかしいヤツだとか、同じクラスのヤツに馬鹿にされないのかだとか……

「本当に大丈夫かお前ー?」

 言うたびに赤面して、言うんじゃなかったと後悔して、しかし僕はどうしても夜に喋るのを止めることができなかったのだ。もしかして羞恥に興奮する性癖があるのだろうか……だが世の人よ、この世にこれ以上のものがあろうか。好きなことを好きなだけ言えることに、勝る快感が! しかも僕は夜を通じて、僕の心を、僕の考えが好きな人に届くことを切に願って……そのような汚い考えを持つほどに、僕は酔っていた。

 僕は相変わらず日中は、明日野に話しかけることすらできなかったのだ。それでいて夜は、彼女の分身たる夜にこれでもかというぐらい思いを語って……

 学校では、僕はひとりになっていた。クラスメイトと喧嘩をしてしまったのだ。最初は明日野と付き合っているのかと聞かれたけど、後にそれは夜のことを言っているのが分かった。はっきりと言われたのだ。アイツとは関わらないほうがいいと。飛び出す罵詈雑言に僕はカッとなり、初めて人を殴った。まさか僕がそのような人間になってしまうとは……しかし不思議と後悔はなく、むしろ清々しい気さえした。僕はその日も夜に会った。夜は明らかに落ち込んでいた。夜の記憶が明日野に伝わるかはついにわからなかったけれど、その逆はあったのだ。

「そんなに落ち込まなくていいのに」

「落ち込んでなんかない! 生意気だぞ、ヘナチョコの分際で!」

 だけど夜の落ち込みようは深刻で、その日ばかりは僕と夜で役割が変わったようだった。僕は元気にエイエイと公園を走り回り、夜はドーム基地のてっぺんで物憂げに虚空を見つめている。一体何を考えているのだろうか。何を見て、何を感じているのか……

 夜は一体どういう存在なのだろう?

 愚かにも僕は、そのとき初めてそのような考えに至った。

 夜は一体何のために? 何のために……

 そのとき突然、空から雨が落ちてきた。ゲリラ豪雨だ。

「やばい、ドームの中に避難だ!」

 夜の物憂げな表情はあっという間に消えて、僕もそんなことを気にしていられなくなった。降り注ぐ大粒の雨があっという間に視界を奪って。大雨の日に傘を差さず外に出たことがある人であれば、そのときの心地が分かるだろう。まるで雪山の中で遭難したような気分になるのだ。

「ヘナチョコ! 早く来い!」

 僕がドームにくり抜かれた穴のそばまで行くと、夜は僕の腕を掴み、ぐっと中に引っ張った。勢い余って夜にしなだれかかる僕の体。

「馬鹿、重いっ。早くどけ!」

 僕は慌てて体を起こして、それから夜と少し間隔を開けて座った。ドームの中は広く、あと一人は入れるぐらいの余裕がある。

「たくっ、すごい雨だなあ……」

 夜は体育座りで上半身を屈めて、穴のむこうに覗く景色を見つめた。目を凝らさずとも見える幾億の雨粒の線、ザァァッと滝のように流れる音。もしこれが一時間も降り続けば、辺りはちょっとした洪水になるのではないだろうか……僕らが雨に当たっていたのは長くても数秒かそこらのはずなのに、服は余すところなく水浸しだ。夜は髪をかきあげて雫を飛ばし、不機嫌そうな表情をする。

 ふとこちらを向いた夜と、目が合ってしまった。目を逸らすべきなのに、どうしても逸らすことができない。

 一体僕はどこで思い違いをしたのか。夜は明日野だったのだ。そんなこと最初から分かっていたじゃないか。それなのに僕はこうして傍にいて、雨に濡れた夜の姿を見るまで、それが意味することを理解できないなんて。

 ――夜の全身に服が張り付いて、薄闇に女性的なシルエットを浮かび上がらせている。ぷくりと膨らんだ胸の張り、指先でそっとなぞりたくなる流線、線の細さ……何よりなぜ、公園のオレンジ色の弱々しい蛍光灯の明かりがほとんど届かない、しかも雨により拡散された中で、どうしてこのようにはっきりと明日野の顔を知覚できるのだろう。完全に明日野だ。夜はやはり夜だったけれど、完全に明日野でもあったのだ。

「どうした?」

 夜が明日野の顔で口にする。

「もしかして興奮しているのか?」

 身を乗り出してくる体。しなだれかかったときの柔らかい感触を思い出してしまう。

 妖しく歪む口元に目を奪われているうちに、瞳は艶かしい輝きを帯びていって……

「お前は恥ずかしいだけじゃなく、変態なんだな」

 夜が冗談めかしく言って、さっと身を離す。

 僕がショックを受けているうちに外はすっかり雨が上がった。一足早く外に出た夜は、天の川のようにきらきらしている。

「おい、そこらじゅう水浸しだぞ。この景色をネタに、何か恥ずかしいことを語ってみせてくれよ」

 僕は思い浮かんだことを口にした。水滴の輝き、デコレーションされた世界のなんと綺麗なこと。夜はやっぱり、余すところなく僕のことを馬鹿にした。

 僕は間違いなく、これまでの人生で最大の幸福に包まれていた。この世に住む多くの人が一度は望むように、永遠にこの状況が続くことを願った。もちろん、永遠なんてあるわけないことは分かっていたけれど……終わりは突然、意外と早く訪れた。

 まだ一年どころか、一つの季節も越していないのに。

 秋から冬に変わるとき。Tシャツ一枚だった僕はとっくのむかしにパーカーを羽織り、あまり動かない夜は厚手のセーターを着ていた。公園の木々は常緑樹ばかりだからそれほど景色は変わらなかったけれど、それでも公園にまで行く道にある街路樹の禿げた姿や、寂しさだけでなく明らかに冷気を運んでくる風。町全体が活動を弱めていくさまを、そこかしこに感じることができた。

 僕はいつものように、家から公園に向かって出かけた。今となってはこれも特訓の一つだって毎日走っていたのだけど、その日は全く走れなかった。何故なら僕が玄関を出たブロック塀の先で、夜が縮こまって地面に座り込んでいたからだ。

 夜はひどく怯えていた。

 夜はそこに何かを隠しているかのように、胸元にきつく両腕を抱え込んでいた。夜は自転車で来ていて、どうにかして自転車を押そうとしていたけど倒してしまったから、仕方なく僕が自転車を押した。そうしてふたりでトボトボといつもの公園に向かったのだ。

 夜の背中は弱々しく丸まって……言うまでもなく、僕が夜のそのような姿を見たのはこのときが初めてだった。一体何があったの? と問いかけてみても返事をしない。胸騒ぎは大きくなっていくばかりだったけど、どうしようもないのだという思いが強く胸を貫いていた。起きてしまったことは、もうどうしようもないのだ。

 僕らはふたり並んで歩き続けて、しかしついに公園にたどり着くことはできなかった。そこに行くまでに通る橋の上で、夜が立ち止まってしまったのだ。ときどき自動車が横の道路を通り過ぎるぐらいで、人通りはない。欄干の外、空よりも黒く怪しく光る川が、コンクリートを流すような重さで音もなく一方向に流れている。

 夜は初めてそのときヘナチョコではなく、僕の名前を呼んだ。そして震えながら、左腕をそっと差し出してきたのだ。

 僕は思わず自転車を倒してしまった。

 左手首に包帯が乱雑に巻かれている。黒い血のような染みが大量にこびりついて……

「葵が手首を切ったんだ」

 震える声で夜は言った。

「どうしてだ? もう葵を傷つける奴は誰もいないはずなのに!」

 その叫び声は悲鳴のようだった。どうして、ではなく助けを求めているように僕には聞こえたのだ。

 助けを求めているのは夜なのか? 明日野なのか?

「俺は葵を守るために生まれたんだ」

 夜は僕に向けて秘密を語った。

「葵はむかしから人付き合いが下手で、小学二年生の頃から虐めを受けるようになって、手首を切った。泣いていたよ。どうして悪くもないのに、自分を傷つけなければいけないんだ?!」

 感情を露わにした夜は、僕の胸ぐらを鷲掴み引き寄せて、

「自分で自分を傷つけることがどれだけ惨めなのか、奴らにはわからないんだ。だから俺が生まれた。俺は惨めさの化身なんだ」

 痛々しい手首だけでなく、胸元やもう片方の手も血で汚れていた。

 それら全てを見せつけて、夜は笑う。

「葵を傷つけようとする奴は、全部排除してやったよ。葵に迷惑がかからないように、工夫を凝らしてね……そして俺は目標を達成した。誰も葵を傷つけなくなったんだ、俺を恐れて。俺は葵を守ったんだ!」

 しかしすぐに笑顔は消えて、

「だけど葵の心は荒んでいくばかりだった。笑顔なんて全く見たことがない。枯れていくんだよ……どうすれば止められるんだ? 葵を壊していくのは傷つけることではなく……」

 夜は泣きそうな顔で、もう一度僕のことを見た。

「大胆に手首を切って、じっと浴槽につけて……包帯でぐるぐる巻きにして、血が止まるまで震えながら考え込んだよ。俺じゃ駄目なんだ。悪意を排除するだけじゃ葵を救えない」

 僕は夜が言うことを必死で理解しようとしていた。しかしそのとき僕が恐れていたのは全く別のことだったのだ。

 話が急すぎて、追いきれない。ただ確実に起きることは――

「なあヘナチョコ、お前葵のことが好きなんだろ? 救ってやってくれよ」

「嫌だ」と僕は言った。

 夜の顔が歪む。

「……なんだ? 何を言っているんだお前」

 夜が豹変していく。

 ああ、なんて怖さだ。

 充満する殺気は、それだけで人を食い殺してしまいそうだ……

 答え方を間違えると、僕は死ぬ。

「僕は明日野を救いたくない」

 だが僕はそれ以外言うことができなかったのだ。夜の望みにNOを突きつける。ただそれだけのことしか。

「ふざけるな!」

 夜が僕の首を両手で掴み、宙吊りにする。苦しい、息ができない。

「お前はどうして……どうして……!」

 どのように脅されても、屈服するわけにはいかなかった。瞳で睨んでやる。僕の意思はNOで揺らがないことを、夜に叩きつけてやるのだ。

 どうだ、僕はお前との特訓で鋼の心を手に入れたんだ。絶対に屈しないぞ!

「どうして……どうして……」

 夜は泣いていた。僕も泣いていた。

 どうして僕らはこんなにも涙を流さないといけないのか。

 遠のいてゆく意識の中、僕は思った。

 どうしようもない。夜はもう自分に存在意義を見出せなくなっている。僕が明日野を救おうと救うまいと、夜は消えてしまうのだ。

「夜、夜……!」

 ああ、なんということ。人は受け入れるために涙を流さないといけないなんて。(了)

北日本に出したけど、二次で落とされた作品(´・_・`)


あるサイトで「怪談」と「幻の恋人」という二つのお題があったので、それを元に書きました。

あと、当時読んで衝撃を受けた、ユゴーの自伝も。

そう、私はユゴーの詩のような作品が書きたかったのだ。


いま思えば最初がかなり酷い気がするな。よく一次通ったな(´・_・`)

最後は気に入っているけどね。


まだやれるはずだ、ぼかあ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ