『お兄ちゃん』
「…………」
初火は何度か目を瞬いた後、ぼくの目を見据えて薄い唇を開いた。
「うん、そうだね……。あのね、お兄……兄さ」
「お兄ちゃんでいい」
ぼくはとりあえず、初火の言葉を遮って、この話し合いに於いて一番言いたいことを一番最初に伝えた。
初火は驚いた表情でぼくを見つめたまま動かない。しかし構わずに続ける。
「ぼくは初火に、お兄ちゃんって呼ばれたい」
兄さんじゃ、ダメなのだ。長い間、初火からそう呼ばれていたのだ。今更、変えて欲しくなどないのだ。
ぼくの気持ちは、とどのつまり初火の『お兄ちゃん』でありたいのだ。
『兄』や『兄さん』ではなく、『お兄ちゃん』
いったい、そこにどんな違いがあるのかと問われれば、ぼくはこう答える。真面目な顔でこう答える。
「その方が、ぼくが初火のお兄ちゃんだって感じられるんだ」
その方が、繋がりを、強く感じられるんだ。
だから、ぼくはこの一か月間、『兄さん』と呼ばれていた一か月の間、初火との繋がりを彼女の方から一方的に否定されていたようにさえ感じていたのだ。
地獄のような、悪夢みたいな日々だった。この世で唯一無二の存在である彼女との絆が否定されてしまったような日々だった。
死んでしまった方がマシとさえ思えた。そのときに、自分はこんなにもさびしがり屋で孤独な人間なんだと初めて実感した。
この一か月は、さびしさを紛らわせるために必死だった。
保健室に入り浸って、木舞さんとの絆を深めたり。変態だが面白かったので、臨視とつるんだり。用もないのに、かなみさんの部屋に行って話したりもした。
でもダメだった。さびしさは日増しに募る一方だった。
そのときに、水萌に『お兄ちゃん』と呼ばれたのだ。動揺してしまった。
そのせいで、今朝のような悲しい事件が起こり、初火を傷つけることになった。
放課後の木舞さんのは……まあ、あれだが。
「……初火?」
見ると初火は下を向いたまま震えていた。
「おにぃ……ちゃん」
小さな声だったがはっきりとそう呼ばれた。
一か月にわたる暗く沈んだ日々は今日、この瞬間に完全に幕を閉じた。
ぼくは初火へと手を伸ばす。
「……やっぱり、お兄ちゃんだよね。わたしもそう呼びたかった」
初火は顔を下げたまま、ぼくの胸へと抱きついてきた。ぼくは包み込むように両手を彼女の背へと回す。
すると甘酸っぱいストロベリーの香りがぼくの鼻腔をくすぐった。
こんなに近くでこの香りを嗅いだのはしばらくぶりで、本当に懐かしく感じた。




