一線
「木舞さん、とりあえず……ちょっと、離れてくれませんかね?」
理性がつらい。
「いやだ。離れたりしたら、ようか帰っちゃうんでしょ?」
「帰らないですから、ちょっとでいいんで離れてください」
本当に夢みたいにやわらかいから服の上からでも十分に分かってしまうのだ。丁度良い大きさのアレが。
「なんでそんなに離れてほしいの? 私が……嫌いなの?」
……そんな不安そうな表情をしないでほしい。すごく可愛いのだけど。
「木舞さんのこと嫌いなはずないじゃないですか。でも……」
「でも?」
正直に言ってしまえばいいか。理性にゆとりを持たせてやりたいし。
「その、あたってるんです」
「…………」
なにが、とは言わなかったが木舞さんは察したらしい。顔をさらに赤らめた。恐らく、ぼくもだろう。自分でわかるほどに顔があつい。
そっと、木舞さんは熱くなった身をぼくから少しだけ離し、そして潤んだ瞳でじっと見つめてくる。
「………………」
木舞さんにじっと見つめられて目が離せない。どうすればいいのだ。目を離したら負けなような気がするし、かといってずっとこのままでいるわけにもいかないし。木舞さん、何にも喋ろうとしてくれないし……。
「………………」
百歩譲って見つめられるのはいいが、上目遣いというのはつらいものがある。さっきから酷使しすぎてぼくの理性はもはや砂上の楼閣よりもろくなっている。
つまり瓦解寸前なのである。
「…………ぁ、」
ついに耐えきれなくなって口を開いた。
このままではマズイと思ってのことだったのだが裏目に出た……のかもしれない。
「ぃぃ……ょ?」
ぼくが漏らした声に応えるように発せられたこの木舞さんの一言によって、ぎりぎりのところで保たれていたバランスが、理性という名の楼閣が、音を立てて崩れ去った。
「木舞さん」
彼女の名前を呼ぶ。
「よぅか」
彼女に名前を呼ばれる。
首を倒し彼女に顔を近づける。
近づくにつれより鮮明になっていく木舞さんの表情。
顔のどの部分をとっても、神に愛されているとしか思えない――
長いまつげは、あやしいまでの魅力を持ち。
潤んだ瞳は、心を奪われるほどの魔力を孕み。
きれいに通った鼻筋は、大人びた色香をほこり。
憂いを帯びた目元は、少女のように赤く愛らしく。
きめの細かい肌は、雪原を思わせるほど白く美しく。
胸元に垂れた亜麻色の髪は、生糸のようになめらかで。
近づくにつれて香る匂いは、蕩れるほどに優しい甘さで。
サクラを思わせる薄赤な唇は、半開きのままで濡れている。
近づくと花を閉じるように、きゅっと目を瞑り口をすぼめた。
「――木舞さん」
木舞さんはいいと言ったけど、こんなことしていいはずがないのだ。そんなことは分かっている。
分かっている。でも、するなと言われるとしてみたくなるように。してはいけないという言葉は否応なしに人を惹きつける。
目の前には、ぼくを受け入れてくれる女性が居る。
しかし、その人は同い年ではあるが教師という立場で、ぼくは生徒だ。さらに彼女は酩酊していると言ってもいい状態である。
こんな状況で手を出すなんて、まともな判断ができていないかもしれない彼女に手を出すなんて……。
だけど、そんな思考とは関係なく、ぼくの顔はゆっくりと確実に彼女へ向かっていく。
もし、ここでキスをしてしまったら、それだけではすまなくなるだろうな。
放課後、日はとっぷりと暮れ、暗がりの校舎に人気はない。部活をしていた生徒たちも下校時刻が迫っているために撤収し始める頃合いだ。
このタイミングで保健室にやってくる者はいないだろう。
……保健室にはぼくらが二人きり。丁度、臨視に借りた本の内容がこれに似たシチュエーションだったな。
ぼんやりとそんなことを思い出す思考回路は蕩けてまともに働いてはくれない。
「――んぅ」
お互いの吐息が混じり合う距離まで来た。するとくすぐったそうに、木舞さんが身を捩りのどを鳴らした。
その普段からは考えられない彼女の挙動があまりにも愛らしく、ぼくの体を熱くさせる。
(なんだか、ぼくまで酔っちゃっているみたいだな。……そうだ、ぼくも酔っているのだ。酒にではなく状況に、木舞さんの色香に)
唇が重なり合うまで、あと数センチ。もうここまで来ると、しちゃいけないとか完全に思考の外だ。
申し訳程度に残っていた理性に別れを告げる。何十分かしたら、戻っておいで。
二人の距離の単位がセンチからミリに変わる。




