保健室とぼくと先生
立ち上がったそのとき、木舞さんから声がかかった。
「あのさ、ようか」
その声に、ぼくは一瞬困惑する。口調が崩れ、いつものような凛とした声ではなく甘ったるいような木舞さんの声。
「えっと、どうしたんですか?」
返事をしつつ木舞さんの方に視線をやる。彼女の視線はテーブルの上の皿に固定されたままだ。
「それで、ようかの読んでいた……本の内容なんだけど、その、保健室が……舞台だったとも、聞いてるんだけど……」
「なっ……」
なんてことを知らせたんだあの古典教師は。こんな状況に置かれる側の身にもなってみろ。そしたらこんな仕打ちはできないはずだ。
「えっと、それはその……」
というか木舞さんもこれ以上この話を続けないで下さいよ!
さっきこの話は終わったんじゃないのか。
「木舞さん、ぼくは別にそういうんじゃなくて……、なんというか友達に渡されたのが、たまたま……」
「興味……あるの?」
ぼくの言い訳は木舞さんの言葉によって遮られた。
「あの、ええと……」
「ようかも……やっぱり、そういうことに……興味、あるんだよね? 保健室とかだと、意識しちゃったりするの?」
「こ、木舞さん?」
ここでようやく、ぼくは彼女の異変に気が付いた。
「そうなんだよね?」
顔を上げぼくを見つめる木舞さんの目は潤み、顔は赤みを増している。
その表情はどこか上気しているようにも……。上気? あれ、木舞さんもしかして……。
嗅覚に意識を集中させる。すると木舞さんの側から本当にかすかではあるがウィスキーの香りがした。
「もしかして」
記憶を巡らせる。巻き戻ること三十分ほど前、ケーキ屋でのことを思い出す。モンブランを二種類買った時だ。
いつものと新作のものを、木舞さんは新作とか期間限定が好きだから、そういった考慮をして一つずつ見繕った。
そしてレジで会計をしたときに店員に何か言われたような気がする。いや、確かにこう言われた。
『こちらの商品には強めのお酒が入っていますので、召し上がる際には注意してください』
……モンブランのせいで酔ったのか。
まさか木舞さんがこんなにお酒に弱かったなんて。
「ねえってば、ようか」
マズイ。このほろよい状態の木舞さんをどうすればいいのだ。
「ねえってば……」
そう言って彼女が向かい側の席から隣にすり寄ってきた。
「ちょっと、こ、木舞さん。一旦離れてくださ……」
「やだ」
落ち着かせようと距離をとろうとしたがブレザーの余っている部分をつかまれそのまま彼女の方へと引っ張られる。そして……
「えい」
……抱きつかれてしまった。
「こっ、木舞さん! は、離してください! ほら。ぼくもう、帰りますんで!」
「……帰っちゃ、いや。……昼休みにようかが来なかったから、今日はずっとさみしかったんだよ?」
そう言って頬を胸のあたりに押しつけてくる。丁度真下に木舞さんの頭があるので、彼女のマロングラッセのような甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「えっと、その、すいません」
「ひとりはさみしいんだ。授業中も放課後も、基本的にこの部屋は私ひとりだし。去年は昼休みもだった。だから今年、ようかが入ってきてくれた時は、うれしかった……」
ぼくの胸元に顔をうずめた木舞さんの声は近くでないと聞き逃してしまうほど弱々しく小さなものだ。
「……そうだったんですか」
「うん、……だから!」
木舞さんがぼくの手を握り締め、阿るように向き直る。
「今日、ようかが来なかったときは辛かったんだよ? また、一人で過ごさないといけなくなっちゃうのかなって、悲しくなったの」
……そうだったんだ。考えてみれば彼女だってまだ十六歳、高校二年生なのだ。
本来ならば、みんなと一緒に学園生活を送っていただろう。しかし、家庭の事情というやつでこの部屋にひとり、置き去りにされたのだ。
「ごめんなさい」
気付いてあげられなくて、ごめんなさい。
「うん、これからはまた昼休み来てくれる?」
「もちろんですよ。また、これからはずっと、おじゃまさせてもらいます」
笑顔を作り、木舞さんの頭を撫でる。ぼくより大きいはずの彼女が、ぼくより小さく感じた。
「ありがとう、ようか」
呟いて木舞さんはさらに体重をかける。全身を彼に預けきっている様子だ。
……あたってるんだけど。木舞さんのふくらみが、ぼくに。




