再会
それはいつも通りの通学路だった。
いつもと違うことといえば少しだけ早く家を出て、少し歩く速度が速かっただろうか、ついでに考え事もしていた。
「きゃっ!」
そんな日常の一コマに小さく悲鳴が上がった。
同時にとん、と胸に微かな衝撃が加わる。
「へっ?」
訳が分からず口から間の抜けた声が漏れる。
(何かにぶつかった?)
視線を下にやると、ヒマワリのように黄色い髪をした小学生くらいの女の子が倒れていた。
なるほど、ようやく状況がつかめてきた。
「ごめんね。大丈夫かい?」
女の子に手を差し出す。どうやら初火のことで頭がいっぱいだったぼくは前を歩いていたこの子に気づかずぶつかってしまったらしい。
しかし、よく見ると(袖を盛大に余らせてはいたが)この子は初火と同じデザインの制服を着ていた。
つまりは今、ぼくが小学生かと見間違えた女の子はどうやら高校生だったようだ。……というか
「えっと、日向さん?」
クラスメイトだった。
日向水萌。 友人の話では明るい性格と幼さが残る(というより普通に幼い)美少女的容姿で男子(一部の)からの人気が宗教レベルで高いらしい。それだけでなく、いつも周りには友達がいて入学三週間目にしてクラスの女子の中心的存在になっているそうだ。
あまりクラスメイトと交流しない(注:友達がいないわけではない)ぼくとは大違いだ。
「うぅ、痛ぃ」
彼女が手を取って体を起こす。
なぜだろうか、涙目の彼女を見ていると本当に小学生の子供を泣かした時のような尋常でないほどの罪悪感がする。……別に小学生を泣かしたことなんてないけど。
「ほんとにごめん? 怪我してない? 考え事しててついうっかり」
謝ると彼女はその愛らしい瞳をぼくのほうに少し向けた。
「ちょっと擦りむいちゃった…… もぅ。気を付けてよね、陽火お兄ちゃ……」
言った水萌は制服についた埃を払う手をぴたりと止め、しまったという顔をした。
「陽火お兄ちゃん?」
突然クラスメイトから馴染みのない呼び方をされ混乱する。
『お兄ちゃん』 それは本来、兄弟間や親戚、稀に近所同士の子供……の間でしか使われない筈の、決してクラスメイトに使われるような代物ではない。
「いや、今のは違うのっ! 何でもないのっ!」
水萌があわてた様子で否定にかかる。
何故だか分からず、ますます訳がわからなくなったがこのときふと、頭にある少女との記憶がよみがえった。
「ヒナ?」
過去に一人だけいた、ぼくのことを「陽火お兄ちゃん」と呼ぶ少女の名前を口に出す。
「んっ」
少女のものであるはずの名前に水萌が顔を赤らめて反応する。
「もしかして、ヒナ……なのか?」
「…………」
水萌はこくりと黙って首肯する。
「まさか、ほんとにヒナだったなんて」
脳裏に幼い日の記憶が溢れ出す。
あれは小学生の、それも低学年の頃だっただろうか。ぼくと初火が父と三人で、ここの近くの町に住んでいたときのことだ。
笑顔がまぶしいヒマワリのような女の子に出会ったのは。
「引っ越してから全く会えなかったもんな」
「そうだね……」
急に会えなくなったから寂しかったんだよ、と。
「せっかく一緒の高校になれたのに、全然気づいてくれないしさ……」
唇を尖らせ、拗ねたような口調でぼくを責める。
「ごめん、でもさ……」
ぼくが気づけなかったのも無理はないと思うんだよな。だって
「髪の毛の色変わっちゃってるし!」
黒色から黄色に近い金髪に。いくらうちの学校が染髪OKだからって……。
「えへへっ、見た目が子供っぽいってみんなに言われてたから、高校入学するときに大人っぽく見えるかなぁと思って染めてみたんだっ、似合うかなぁ?」
髪の毛をいじりつつ無邪気に笑う水萌。
「確かに似合うけどさ」
黒よりそっちのほうが子供っぽく見えるような……
「よかった、変って言われたらどうしようかと思ったよ」
「うん。それとさ誤解してて悪かったんだけど、ヒナって名前じゃなかったんだね」
水萌は少し照れたように笑いながら
「うん、日向だからヒナって呼ばれてただけだよ」
「そうだったんだ」
完全に下の名前だと思ってた。中三のときに、神戸が県名ではなく市名だと知った時と同じ種の衝撃だ。
「そうなんだよ。そういえばさ……」
少し躊躇った様子で水萌が問いかける。
「陽火……お兄ちゃんって留年したりした?」
「えっ、なんで?」
もちろんそんなことにはなっていない。
「だって、あたしと初火ちゃんは同じ学年だけど陽火お兄ちゃんは……その、初火ちゃんより年上じゃない? 双子じゃないって言ってたし」
腫れ物に触れるように言葉を選ぶ水萌。
どうやら彼女は双子でない兄妹であるところのぼくと初火が、同じ学年であることを疑問に感じているらしい。
しかしこの件には留年などではなく、ちゃんとした理由があるのだ。
「知らなかったっけ? ぼくと初火はね、年子の兄妹なんだよ」
「年子?」
首を傾げる水萌に、「うん」と首を縦に振って見せる。
「ぼくが五月生まれで、初火はその次の二月に生まれたんだ」
だから双子じゃないけど同じ学年。
「そうだったんだ… ずっと年上かと思ってた」
「うん、よく誤解されるけどね」
初火も同じ学校のため何人かに同じことを尋ねられた。
「陽火お兄ちゃん、同い年だったんだ。よかった」
ぼくが留年していないと知ってか、水萌は嬉しそうな様子をしていた。
「心配してくれてたの?」
「うん、留年してると思って正直話しかけづらかったんだ」
……そんな風に思われてたんだ。
「ちょっとショックだな」
不満を言う語調を少し荒くしてみる。
「いや、でも陽火お兄ちゃんに気をつかったというか……、誤解だったんだからいいじゃない?」
焦った様子で弁解する水萌。酷いことをしているという自覚はあるがもう少しだけ怒ったふりをして反応を見てみよう。
「いいよ、別に。要するにヒナはぼくが留年するような馬鹿だと思ったから話しかけなかったんだろ?」
気づいていたのに、話しかけてこなかったのはそういうことなんだろう? と、追い打ちをかけるように厳しく問い詰める。
もちろん彼女はそんなことで人を差別しないことは十分承知の上だ。
「そんなことないよ。陽火お兄ちゃんが気づいてくれるのを待ってただけだってば…… だから怒らないで……ね?」
ぼくが怒ったふりをするにつれ、だんだんと涙目になっていく水萌。
……やっぱり可愛いな。彼女には昔から喧嘩したときもそうだがたとえ自分が悪くなくてもすぐに謝る癖がある。
この表情が、嗜虐心をそそるというか、その……何とも言えないよね!
「ごめんなさい、陽火お兄ちゃん。嫌な気分にさせちゃって…」
自分の制服の裾をつかんで謝罪する彼女を見ていると、さすがに気が咎めてきた。
そろそろ許してあげないとかわいそうだ。
「大丈夫、怒ってないよヒナ。からかっただけ」
謝罪の意味を込めて彼女の頭を撫でる。
「うん、ん、うっ」
目を潤ませ、肩を震わす水萌。……あれ、やばい。泣かせちゃった?
「ごめんってば。 冗談だよ、ヒナをからかっただけ」
そういって水萌の目尻に溜まった涙をぬぐう。
「うっ、んっ……ごめん」
いや、悪かったのはぼくの方なんだけれど。
「別にヒナは悪くないんだから、謝らなくてもいいんだよ?」
むしろ謝らなくてはいけないのはぼくの方だ。
「ぅん、ごめ……なさぃ」
消え入りそうな声で何度も謝罪の言葉を口にする水萌。愛らしい瞳からは拭ったそばから涙が溢れてくる。
「えっと、泣かないで! ぼくが悪かったんだってば!」
小学生風の女の子をいじめて泣かせた男子高校生の姿がそこにはあった。
……ぼくだけど。
「まずいな」
水萌は一度泣き出したらなかなか泣き止んでくれない。さらに泣きながら謝ってくるので凄く酷いことをしている気分になる。
いや、実際酷いことをしたのだけど。
「仕方ないな」
こんな通学路でやるのには少し抵抗があるのだけれど、水萌に泣き止んでもらうにはもうコレしかない。
「ヒナ、顔を上げて」
そう言うと彼女は下げていた視線を陽火へと向けた。
「……んっ」
水萌の口から小さく吐息が漏れた。ギュッと彼女の小さな身体を抱く。泣き止ませるための奥の手。昔のままならきっと落ち着いてくれるはずだ。
「陽火…お兄ちゃん?」
「ごめんね、酷いことしちゃって。……でもヒナが可愛くて、だからついからかいたくなったんだ」
そう小さな子供に言い聞かせるように耳元で囁き、彼女の背中をトントンと叩いて落ち着かせる。
ただでさえ小さな背中は泣いているせいか余計に小さく感じた。
「うー、陽火お兄ちゃんの意地悪……」
陽火の胸の下あたりに顔をうずめたままの水萌が呟く。どうやら泣き止んできてくれたようだ。
しかし、ここで彼女の機嫌をとることを忘れてはいけない。
放っておくと後々、遺恨を残すことになる。
「じゃあ、酷いことしちゃったお詫びにヒナのいうことをなんでも聞いてあげよう」
「ほんとに! 何でもいいの?」
即座に水萌が顔を上げ反応する。さっきまで涙を浮かべていた瞳は、らんらんとした輝きを取り戻していた。
現金なヤツめ。
「ぼくに出来ることだったたら、なんでもね」
つまり、世界征服とかは無しで。
「えっとね……」
顎に指を当てて呻きながら考える水萌。見ていると思わず微笑んでしまうほど、その姿は無邪気で愛らしい。いとうつくしうていたり。
「それじゃあ、あたしのこと『ヒナ』じゃなくて下の名前で…『水萌』って呼んで?」
「えっ? そんなんでいいの?」
てっきり、何か奢ってくらいは言われると思ったのに。
「いいの、これで」
白色の頬に朱を交えて頷く。子供っぽい口調だがこちらを見つめる視線からは強い意志が感じられる。
「分かったよ。 でもなんで、ヒナじゃダメなんだ?」
『ヒナ』の方が彼女らしさが出ていていいのに。
「なんていうか、あたし達もう高校生だしさ。あだ名じゃなくて、ちゃんと名前で呼んでほしいの」
ふむ、そういうものなのか。けっこう気に入ってたのに…… まあ本人がそういうならいいか。
「じゃあ水萌、改めてよろしくね」
「うん!」
先ほどのことなど一切忘れたのだろう満開の笑顔で応える水萌。こういうところも子供っぽいな。
「そろそろ行かなきゃ、一緒に行こうか」
ぼくが誘うと水萌は、もう一度笑顔で首を大きく縦に振った。
四月最後のやわらかい風が、学校へと向かう二人の背中を優しく押した。