プロローグ
「行ってきます」
その妹の声は感情を押し潰したように平坦で、しかし瞳に映る彼女の姿はどこか悲しげにも見えた。
ぎいと、玄関の扉が二人の心に壁を造るかのように閉まる。ぼくが取り残された玄関には、妹のストロベリーのような甘酸っぱい匂いだけが残っていた。
「…………」
妹の初火がぼくに、明坂陽火にこのような冷たい態度で接するようになったのは最近のことだ。
中学卒業まではよくなついていたのに卒業してからはなぜか、掌を返したようにぼくに対して距離を置いて接している。性格も少し暗くなったように感じられる。
今日でかれこれ一か月以上経つだろうか。
高校生活にはすっかり慣れたが、初火のこの態度には未だに慣れない。
「……どうしたんだろう、初火」
これが反抗期なのだろうか……
こんな事態は十余年生きてきて初めてのことなので、どう対処したものかと当惑する。
(どうすればいいんだ……?)
「おはようございます、陽火さま」
玄関を見つめたまま立ち尽くして思案していると後ろから声をかけられた。
「あぁ、かなみさん。おはようございます」
不知火かなみ。彼女はぼくら兄妹が中学生のときから、この明坂家にメイドとして住み込みで勤めている。というのもうちの父親が転勤の多い職業で、それにうんざりしたぼくと初火が中学校入学を機に、昔なじみのこの町で落ち着きたいと頼んだ。
しかし父の転勤だけは避けようがないことは理解していたので、兄妹二人きりでの生活でも構わないと提案を出した。
その結果父は、二人だけでは何かと大変だろうしなにより心配だということで知り合いのツテを使ってメイドを寄越してくれた。
それがかなみさんだったのだ。
「どうかされましたか?」
つぶらな彼女の瞳が物憂げに覗き込んできた。
彼女は近視なのだがメガネやコンタクトの類が苦手らしくつけていない。そのため会話していると自然と顔の距離が近くなるのだ。
これもいつまでたっても慣れないんだよな……
「いえ、なんでもないですよ」
優しい花の香りにドキドキしつつ、困ったような笑みで気を使わせないよう適当に返事をする。
「そうですか」
すると、かなみさんは微笑んで
「悩み事でしたらおっしゃってくださいね。わたくしにできることなら何でもさせていただきますので」
とだけ言って黒く艶やかな髪をなびかせキッチンへと戻っていった。
「さすがに初火のことって気付いてるよな」
やっぱり、三年近く家族同然に暮らしてきた彼女に隠し事はできないな、などと考えつつ朝食をとるためにリビングへと向かった。
かなみさんが作ってくれた朝食をのんびり食べていると、ふと昨日養護教諭にされた頼まれ事を思い出す。
(初火のことで頭がいっぱいだったから忘れてたけど、そういえば今日は保健委員の仕事があるんだっけ)
時計を見ると針は七時三十分を指していた。
「少し急がないとな……」
委員会の仕事は三十分ほどかかるだろうから八時前には学校に着いておきたいところだ。
学校まではぼくの足でで二十分ほどかかる。
残りのコーヒーを一気に煽って食器を流し台に置く。
「いってきます」
制服のブレザーに袖を通しつつ、かなみさんに声をかける。
「はい、いってらっしゃいませ」
学校指定のカバンを肩にかけ玄関を出る。
「――さま」
「?」
その時、玄関の内側からかなみさんの声が聞こえたような気がした。なんて言ったのかは聞こえなかったが確認するほどのことではないだろう。
ぼくは早足で門扉を通りぬける。
青い空はところどころに雲を散らしていてやわらかい日差しは心地よく平和そのものだった。