時限式ショートケーキ
祭りの最中の高揚感は特別だ。そして喧騒が引いた後の静けさは、心にしみいるものがある。
水津学園の寮生たちは、歓談ロビーでささやかな非日常の余韻とミルクティーの香りにひたる。こうして今年も無事に文化祭は終わった。
「紅茶同好会が主催したお茶会、面白かった。堅苦しくなくて、不思議の国のアリスをイメージした遊び心が良いわよね」
「バレエ部の白鳥の湖は見た? 黒鳥の連続回転。途中でよろけちゃったけど、みんな普通に拍手してた」
「でもみんなすごいね。私たち児童文学研究会なんて、やる気ないから適当にピーターパンの人形劇やっただけだよー」
たわいのないおしゃべり。
少女たちの口から奔放につむがれる言葉は、重要な意味も特別な主張があるわけでもない。ただ無心に、繊細な砂糖細工の花を作っていくように、辺り一面を甘ったるい花畑に変えていく。
彼女たちはそういう生き物だ。
レースのカーテンごしに、夕暮れ時の穏やかな光が遠慮がちに入りこむ。
充実した娘時代の一瞬の情景。このまま切り取って、一枚の絵にして保存しておきたいほど。
「演劇部はシンデレラ。王子さま役がステキで……」
「おーっ、ほっほっほっほっ!」
完成された絵画に、鮮紅の絵の具が炸裂する。
芸術は爆発なのである。
「その舞台のしゅっ、やっ、くっ! 主役のシンデレラがただ今帰りましたわーっ!」
のどかな少女の花園に、とんでもない異物が混入した。
「うふふふふふ……。いかがだったかしら。私の名演は!」
挑戦的な眼差しで、寮の仲間たちを見わたす少女の名は、甘王赤紗。演劇部で花型部員を務められるほどに、容姿端麗で、声が大きく、ずうずうしい虚栄心を持つ。
「たった一時間のお芝居のために、何十時間練習してきたかわかりませんわ。それだけすばらしい濃密な一時間だったということですのよ。おわかり?」
ぱっちりと大きなつり目は、プライドの高いネコそっくりだ。この場にはいないが、彼女の従者の姓は根津という。……というのはどうでも良い話。
長い髪は、頭の後ろでバレッタではさんである。
バレッタである。バレットでもベレッタでもない。銃器の類ではなく、髪をとめる装飾品だ。赤紗の気分次第で、サテンのリボンつきの可愛いものだったり、ヴィクトリア風のアンティークシルバーで上品に決めてみたり。
「シンデレラは私にとって、とても難しい役でしたわ。いけ好かない継母と義理の姉二人にいびられ続ける、さえない貧乏な娘が王子さまに見そめられ、お姫さまに大変身……。さえない貧乏な娘ですのよ? ああ、私とはまるで正反対。役作りには苦労しましたわ」
そこまでいって、赤紗はロングヘアーをパッと手で散らした。
今日は銀細工の台に、真珠とガラスビーズをあしらった、いかにも高級そうなバレッタをつけている。あまりに豪華すぎて、水津学園のシックなブレザーには違和感があった。ちょうど赤紗自身が、学園でも浮いているように。
いくら水津学園が由緒ある女子校だからといって、ここまで徹底してコテンコテンにお嬢さまらしい言動を心がけているのは、赤紗ぐらいのものである。
「舞台の上では私の独擅場でしたわ。王子役も妖精役も、演技に身が入っていないんですもの。張り合いがないったらありませんわ。私一人で舞台を盛り上げるにも、限界がありますし」
名前も与えられないエキストラ。少女Aは心の中で毒づいた。今だってアンタのみじめな独り舞台だよ。
特徴がないのが特徴です。動く背景、少女Bは達観している。人は誰しも、ほかの誰かの人生のわき役でしかない。世の中は、主役のいない群像劇。いつか赤紗も思いしらされるはずだ。
量産型少女Cが、遠慮がちに口を開いた。
「あ、甘王さん」
テーブルの上のティーカップたちは、かちゃかちゃと音を立てている。
眠りネズミが寝返りをうったわけでも、三月ウサギがはね回ったわけでもない。アリスのお茶会ではないのだから。
小鳥の群れが飛び立とうとするかのように、少女たちはそわそわと逃げる準備を始めている。
「あの……ケーキ。ケーキがあるよ」
少女の一人がおずおずと放った言葉。思いやりからではなく、厄介者を追い払うためのものだった。
「んまあっ!」
赤紗の声に、その場の全員が戦々恐々とした。
「それは素晴らしい!」
「う、うん……。寮のおばさんが買ってきてくれたの」
寮のおばさんは見た目も心も太っ腹な、おおらかな女性である。おばさんのお腹の肉のように厚い厚意により、寮生の数だけケーキが用意された。
小さくて目立たない建物だが、美味しいと評判の店がある。フランス帰りの若きパティシエが腕をふるうその店の名前は、舞踏場。
お嬢さま学園の寮生活では、そう羽目をはずすこともできない。寮の生徒たちは、まさしく牢の中のお姫さま。……実は、ラプンツェルの髪梯子のように、生徒だけがしっている極秘のルートがあるのだが。まあ、そんなものを使うのは素行不良の者だけである。とにかく表向きは、みんな自由を制限された捕らわれのお姫さまだ。
ケーキは、そんな姫君たちにささやかなお楽しみを。というおばさんの親切心だった。
用意されたケーキは、残すところあと一つになっていた。赤紗以外の分はすでに少女たちのお腹の中におさまっている。
「ふうん」
赤紗は涼しい顔のまま、片方の眉だけつり上げる。
テーブルの上には、空になった数枚の小皿。包み紙や飾りが散乱している。
食べつくされたケーキの痕跡を見つけるには、名探偵でなくても簡単なことだ。
「主役をさしおいて、みなさんでお召し上がりになったようですわね」
この女、舞台を降りてもまだ主役気分でいるのか、と少女Dはうんざりした。
「あ、あはは。甘王さんも食べなよ」
「文化祭の打ち上げのケーキなんだけど」
作り笑いを浮かべながら、一人また一人と席を立っていく。
「いらない」
赤紗はくるりと背を向ける。長い髪が、動きに合わせて弧を描く。赤いチェック模様のスカートが、ほんの少しだけ広がった。ほかの生徒に目もくれず足早に歩く姿は、ネコ科の生きものの優雅さと孤独を感じさせる。
赤紗は二階の自室へと去っていった。革靴の音がカツカツとひびく。
厄介者のネコがいなくなった一階ロビーで、再び小鳥たちのにぎわいが戻る。どのクチバシにも、つややかな毒の実がくわえられていた。
赤紗は机につっぷした。長い髪がベールのように視界をおおう。
「今日は最悪な一日でしたわ」
今日という日は、まだ数時間ほど残っているが。
あと数時間でどうなるというのだ。自分の部屋にこもりきりで。
机の上には、去年の日付のポストカード。けして上手とはいえない手描きのイラストは、小さなネズミと大きなケーキ。赤紗は大事そうに、けれど少し悲しそうにカードをながめた。
そして、大切なものをしまっておく引き出しに、そっとしまいこんだ。
寮の備えつけの机は、何代もの生徒の手をへて古びている。あまり使うことがない小さな引き出しは、開け閉めするのに手間がかかった。
その動作で、本立てに立てかけておいていた日記帳がかたむいた。豪華な装丁の日記帳だ。赤紗の日常がつづられている。これを書くのはいつもの日課だが、今日はその気にはなれなかった。赤紗は閉ざされた日記帳をぐいと押しやる。
さっさと日付が変わってしまえば良い。そう念じながら、赤紗は腹立たしげに時計をにらみつけた。
しかし時間は早くすぎ去ったりはしなかった。
時間は平等に訪れる。
次の一秒には、ぽっくりあの世にいきそうな瀕死の老人にも。
大人になんてなりたくない子供たちにも。
十二時の鐘が鳴るまでの、魔法をかけられたシンデレラにだって。
「そして冷蔵庫の中で放置されたショートケーキにも」
驚いて振り向けば、人影。
白、赤、ピンク。その三色でことたりる。
白い髪は二本のゆるやかな三つ編みにまとめられ、露出した肩を優しくなでていた。
粉砂糖のようなまつ毛にふち取られた瞳は、息をのむほどに赤い。
身にまとっているのは大きなセーターが一枚。ワンピース代りなのだろう。アクセントに、赤いリボンがえり周りやそでを彩る。短いすそから伸びるのは、はしたなくあらわになった太もも。それを少しでも隠そうと、桃色のオーバーニーソクッスと真っ赤なロングブーツが、むなしい努力にはげんでいた。
「ふひひっ、視線がくすぐったいぜ。そうジロジロながめ回すなよ」
人間離れした容姿とは裏腹に、軽い口調が飛んできた。
「まあ、女が俺に見とれちまうのも仕方がねえことだ」
可愛らしいチョーカーが巻かれたノドから出された声は、ハスキーでセクシーで、ボーイッシュな……。いや、ボーイッシュというより、この声はどう考えても……。
「だ、男性っ!」
赤紗が思い切りのけぞる。演劇部だけあって、いちいち良いリアクションだ。
「な、なななな、なぜ男の方が私の部屋ににににっ!」
現実離れした幻想的な美貌によって、これまでマヒしていた赤紗の脳が、じょじょに我に返っていく。
「きゃーっ、きゃーっ! なんということですの! バレたら退学決定ですわ! 寮に男の方が侵入したなんて!」
ロングヘアーをふり乱し、赤紗は頭をかかえた。
「い、いえ、この場合、性別は関係ありませんわ。どう考えても、男女平等に危ない人に決まってますもの! ふ、不審者ーっ! 曲者ーっ!」
「さわいで良いのか? バレたら退学なんだろ?」
パニックにおちいっている赤紗とは対照的に、きゅんきゅんキュートな怪人物は落ち着きはらった様子だ。おどしでも皮肉でもなく、いたってあっけらかんとした口ぶりでそうたずねる。首をかしげると、三つ編みがゆれた。
「う、うう……」
赤紗はうなった。
裕福な名家に産まれたのだ。いつか、とんでもないトラブルに巻きこまれる覚悟はしてあった。このような非常時に備えて、赤紗は高度なシミュレーションを繰り返してきたのだ。
そう、たとえば下校中。黒いスーツに身を包んだナゾの美青年に誘拐されるとか。
いきなり異世界に召喚されてしまう。行き先の異世界は、たいてい中世ヨーロッパ風。たまに和風ファンタジーや古代文明風にもなる。
それから、ガスマスクと迷彩服装備の凶悪テロリストが、学校を占領。みがき上げた運動神経と冷静な判断力、ばつぐんの機転で悪人たちを退治する赤紗。最後はみんなから感謝される人気者ヒーローエンドでも良いし、あえて活躍をしられずに終わる渋いエンディングも美しくも悲しいではないか。妄想の結果がどうなるかは赤紗の気分次第だ。
何度も繰り返してきたそのシミュレーションは、まったく役に立たなかったわけだが。
部屋に突然、こんな女装美少年が出没するパターンは想定していない。
「非常識きわまりない! こんなの想像してませんわ! いったい何が目的ですの?」
「俺の目的?」
色素のうすい桃色のくちびるが、ふっと動いた。微笑を浮かべたのだと認識するのに、時間がかかってしまった。あまりにも魅力的な一瞬だったので。
「そりゃあ、アンタにショートケーキを喰わせるためさ」
あまりにもくだらない要求に、赤紗は肩の力が抜けていくのがわかった。
「……ショートケーキ、ですって?」
「いかにも! ケーキたるもの、人間に美味しくいただかれることが最高の喜び! 産まれた意味であり、存在意義だ!」
ものすごく異議をはさみたい赤紗をよそに、怪人は陽気にターンをしてポーズを決めた。
何気ない動きだったが、ふわりと甘い香りが室内に広がった。
甘いものが好きなら、きっと誰でもそわそわしてしまう。少女の心をときめかせ、いかつい野郎どもの顔すらほころばせる魅惑の香り。
「俺の名はエラン。まさに王道! 至高の嗜好品! ストロベリーショートケーキの化身だぞっ☆」
ご丁寧にも、語尾の☆に合わせて銀色のアラザンがパチンと飛んだ。あのお菓子の上によく乗っている、正体不明の銀色のツブツブである。
あれはこうして生産されるのかと、赤紗は半ば感心したようにうなってしまった。しかし、床のどこを見わたしてみても、落ちたアラザンが見つからない。これなら部屋も散らからないし、食べものを捨てたことにもならない。なんて都合の良いステキな魔法だろう。
「人知をこえる、高度な技術ですわね」
「おい。そういう地味な仕組みなんざ、どうだって良いだろ」
いつの間にか、赤紗のとなりにエランがしゃがみこんでいた。心なしか、声のトーンが落ちている。
「なんで虫メガネを装備して、じっとりねっとり床なんて観察してるんだ。目の前にもっと不思議で、注目すべきものがあるだろうが!」
「はあ」
気の抜けた返事。
改めて、エランのことをじっとりねっとり観察する。
確かにエランの出で立ちは、ショートケーキの精霊にふさわしい。この格好でガトーショコラの精霊だの、モンブランの妖精だのいいはろうものなら、誰もがツッコまざるを得ないだろう。
しかし、そのツッコミは無用である。
エランは正真正銘の本物だ。本物の変態でも、本物のバカでもない。本物のショートケーキの精霊だ。今もこうして、ふよふよ宙に浮かんでいる。まさしく浮世離れした存在だ。家や学校で浮いているだけの赤紗とは次元が違う。
一流の人形職人の作品に魂がこもったとしても、そう不思議ではない。ならば、こだわりのイチゴ農家が育てた果実を使い、パティシエが手がけたストロベリーショートケーキに命が宿ることも充分起こりえることだ。
赤紗の脳は、無理やりそう結論づけた。
「で、なんで女装してますの?」
「んっへへ! サービス! 女の子への。最近はこういうのが受けてるんだろ? 俺は、女の子がだぁい好き! 女の子も俺が好き! だったら良いな! んふふふふ☆」
どこでそんな知識を得たのやら。
ショートケーキの精霊は、無邪気100%の笑顔で、ぴょんぴょんしながら跳ね回っている。一切の重さを感じさせない軽やかさで。
見とれたりしないよう、赤紗はぷいと顔をそむけた。気高く華やかで美しいのは、自分一人で充分だ。
「私の好みじゃありませんわ」
「おや。そいつは残念だ」
エランがふり返った。三つ編みがふわりとゆれる。
「ケーキってのは、少女の良き友なんだぜ」
「どちらかといえば、悪友では?」
赤紗の脳裏に、甘いもの好きな寮のおばさんの顔が思い浮かんだ。ふくよかなあのボディはまるでブ……。いや、世話になっている人のことをけなすのはやめよう、と頭に思い描いた動物の姿をかき消す。
「悪友ね。んじゃそういうことで」
納得されてしまった。
顔には出さなかったが、赤紗は大いに動揺した。
言葉のかけ合いで悪友なんていってみたが、それがどんなものなのかまったく想像がつかない。まず、スタンダードな友さえいないのだ。……取り巻きはいたが。かつて。
それなのに、いきなり頭に悪のついた友ができるなんて。これでは、あまりにも変則的ではないか。代々続く名誉ある甘王の家の長子である自分が、奇妙な友だちを持つなど許されるのだろうか。これでは不良である。
しかも、異性だ。不純である。
そのうえ、ケーキだ。人間ですらない。孤独である。
「なー、おい」
そんなことを赤紗が真剣に思い悩んでいると、悩みの種の方から考えごとを邪魔してきた。
赤紗はキッとにらみつける。
「その呼び方は不愉快ですわ! 良いこと? 覚えておきなさい! 私の名前は甘王赤紗。水津学園中等部三年生、演劇部所属。容姿端麗、文武両道、品行方正! 立てば芍薬、座ればボタン、歩く姿は百合の花。燦然と輝く、孤高のスタールビーですのよ! おーっ、ほっほっほっほっほっ!」
完璧だ。一度もつっかえることもなく。少しも恥ずかしがることもなく。甘王赤紗は堂々といってのけた。滑舌も声量も申し分ない。演劇部の花型だけはある。最後の高笑いのための肺活量まで、綿密に計算されている。
赤紗はこんな演技を心から楽しんでいる。
「それ、もしかして暗記してるのか?」
「おーっ、ほっほっほっ! 当然ですわ! 自己紹介は大切ですのよ。自分のことをよくしってもらう機会ですもの」
さすがに高笑いとともにこんな口上をのべるのは、学園内などくだけた場だけだ。TPOはわきまえている。甘王の家にいる時など、赤紗は借りてきたネコになる。赤紗にとっては、家よりもまだ寮の方がくつろげる場所だ。
「そんじゃ、赤紗。本題に入ろうか、とっても美味しいショートケーキについてだ」
なれなれしく乙女のわき腹をつつこうとする指をぺしりと叩いてやった。無礼者にふさわしい、当然の処罰である。
「おやめなさい」
「なー。なんで食べてくれないのー? なんでー」
だらしない口調に反して、わき腹をねらう指はあくまでも俊敏だった。並みの娘なら、とっくにそのぷにぷに具合をあばかれているところだ。
だが、甘王赤紗は違う!
彼女はエレガントな淑女である。そんな無様な姿はさらさない。洗練された素早い手さばきで、エランの指をぺちぺちと撃墜していく。
無我夢中。
はたから見れば、ネコジャラシで遊ぶ飼い主とネコそっくりだということには、まったく気がついていない。
「あー、もう! しつっこいですわねっ」
ぷんと怒ってどこかにいってしまうところも、お座敷育ちのおネコさまである。
「おっ、ご機嫌ななめだな。甘いものを食べろ。気分が晴れるぜ」
魔法のように、エランが白い箱をどこからともなく取り出した。実際魔法なのだが。
中身が何か、魔法が使えなくても赤紗にはわかる。ショートケーキだ。赤紗は顔をそむけた。
エランの視線が、一瞬だけ壁の時計にそそがれる。
「そうだ! 俺はサービス精神旺盛なんだな。トッピングを増やしてやろう! 何が良い? 今なら、なんとホイップクリームかけ放題! 砂糖菓子の人形もつけちゃうぞ☆ それとも、イチゴ増量の方が嬉しいか?」
「どれもお断りですわ」
赤紗の意志は変わらない。
自称少女の友は、しばらく思案してから口を開いた。
「ダイエット中か?」
「違います!」
華奢で色白なお菓子の精霊が憎たらしい。思わずこぶしをにぎってしまう赤紗だった。ぐっとこらえる。
赤紗がそうしている間、エランはエランであれこれ考えていたらしい。
「よし、ケーキを食べたら、オマケに紙風船をやろう」
「いりませんわよ!」
「それじゃ、このぬり絵セット。俺の直筆な。味があるだろ? ハンドメイドのぬくもりって奴?」
「こんな適当な紙に、ボールペンがのたくっただけの複雑怪奇な図をぬり絵といいはる気ですの? お絵かき好きの幼稚園児ですら、ブーイングものですわよ!」
「ふむ。お嬢さまの気を引くのは苦労するねえ」
エランは肩をすくめた。華奢な肩は、少しだけ骨ばっている。折れそうな危うさを感じさせる、細く繊細な骨だった。
「仕方がない! こうなりゃ平等にじゃんけんで決めるしかないな。俺が勝ったら、こっちのいうことをきいてもらうぞ。アンタが勝ったら、この美味しいショートケーキを食べて良い。この条件でどうだ?」
「ああ、それなら公平に……、なってませんわよね!」
二人の交渉はどこまでも平行線。話し合いの進展がないまま、時計の針はどんどん進んでいく。
「本っ当にワガママな奴だな!」
交渉の手札をすべて使いつくしたエランが、見えないカードを床に叩きつけた。
「おーっ、ほほほほほっ! あなたの提案は低レベルすぎましてよ!」
赤紗は高らかに笑い声を上げながら、床にぶちまけられた見えないカードをぐりぐりと踏むマネをした。
両者の視線がぶつかる。
「どうしてそこまで喰いたがらないんだ!」
「なぜそれほど食べさせようとしますの!」
二人が叫んだのは、まったく同時。
イチゴ色の瞳が、赤紗に向けられている。閉ざされたくちびるは、何も責め立てはしなかったけれど、疑問符を雄弁につむいでいた。
「……食べても美味しくないからですわ」
苦々しい顔で、赤紗は気持ちを吐き出した。すでに口の中は、苦い思いでいっぱいなっている。
「美味しくないに、決まってますもの」
「そうかよ」
エランは目をふせた。落ちこんでいることは、誰の目にも明らかだった。だがエランの顔には、さらに微妙な心情も隠れている。赤紗は気づいた。何度も打ちのめされ、敗北になれ親しんだ者だけがしっている表情だ。
「そんなに嫌いなら、仕方がないよな。わりぃ、邪魔しちまったな」
ぱっと顔つきが変化する。さっきまでの沈痛な面持ちなど、一切感じさせない軽薄な笑み。
名演だ。と赤紗は、心の中で拍手する。
「あらあら。どういう風の吹き回しですこと? あんなにしつこかったくせに、やけに素直に引きさがるじゃありませんの」
まだエランを舞台から退場させる気はしない。赤紗にケーキを食べさせるため、現れた不思議な精霊。この非日常と、もっと共演していたい。
「んん……。まあ、よくあること、だから」
返ってきたのは、なんとも歯切れの悪いセリフ。作り笑いでぼそぼそと。
こんな小さな声では、一番後列の客席まで届きはしないだろう。
赤紗の心にも、届かない。
「おーっ、ほほほほほほ! それではなんにもわかりませんわー!」
あえて挑発。
あんな気がかりな表情だけ見せておいて、理由もいわずに去っていくなど許さない。逃がす気はない。
悪役を演じても良いから、エランのことがしりたい。
だって彼が一瞬だけ見せたあの表情は、赤紗が一番嫌いな自分の表情によく似ていた。
「退散なさるのはご自由ですけど、大事なことをお忘れじゃなくて? 私はあなたの質問に答えたのに、あなたは返答なさってませんわよ。不公平では?」
腕組みをして仁王立ち。エランから見た時の顔の角度も考えて、ベストポジションに位置をとる。
できるだけイジワルそうに、高慢そうに見えるよう。
「なぜそれほど、私にケーキを食べさせようとしましたの?」
エランは力なく笑った。
「ケーキの精霊が、ケーキをすすめるのは当然だろ? 深い理由なんて、ない」
そんな言葉でごまかす。
影のある表情はごまかせない。
「あーら、そうでしたの? 私、てっきりカン違いしてしまいましたわ。どうしてもケーキを食べさせなくてはいけない、深いわけでもあるのかと」
そうでもなければ、ケーキの精霊なんてものが、人間の前に登場するはずがない。
「食べない奴には関係ない」
そういわれては、赤紗は何もいえなくなる。
「赤紗も食べないんだろ?」
「それは……」
今まで赤紗はとても個人的な理由で意地をはっていた。
けれど、エランの事情を聞いたら気が変わるかもしれないではないか。
そう伝えたかったのに、赤紗の口は上手に回らない。
芝居でのセリフを覚えるのは得意だ。社交の場での上辺だけのやり取りも、甘王の家に産まれた者の務めとして、身につけている。
しかし、目の前の相手はどうにもしゃべりづらい。
認めたくない自分の一部と、対峙している錯覚におちいる。
舞台の上と違って、いうべき言葉が見つからない。
そうこうしている間に。
赤紗の部屋の時計が。
寮のロビーにおかれた柱時計が。
隣の部屋の少女Aの枕元にある目覚まし時計が。
水津学園の敷地内にある、鐘をそなえた時計台が。
一斉に十二時の時を告げた。
それを待っていたかのように。
床から。壁から。天井から。
ぽん、ぽん、と静かな音を立てながら、破滅のしらせが噴き出した。
「ゆ、雪?」
ふわふわとしたものが、部屋中に舞っている。深呼吸すれば、空気といっしょに吸いこんでしまいそうだ。
指先で触れてみる。冷たくはない。羽毛か、綿毛の一種だろうか。
「赤紗。触らない方が良いぜ」
エランは驚いた様子もない。ただ何もかもあきらめきった顔で、投げやりに警告を発した。
「そりゃあカビだ」
「いひゃあっ!」
赤紗は右手をぶんぶんふって、左手で口と鼻をおおう。
「な、なんでこんな不衛生なものが私の部屋に!」
半分涙目になって動揺する赤紗の耳に、こそりと忍びこんだのは甘美な声。
「十二時の鐘が、ぼぉんぼぉんと鳴りました。食事の時間です。七人の妖精は大喜びで、フォークを手にしました」
幼児に絵本を朗読するような声。
赤紗の見ている目の前で、微細な粒子が寄り集まって、一人の少女を構築した。
「なんて素晴らしいご馳走なのでしょう。王さまの晩餐会に出したって、ちっとも恥ずかしくはありません」
その姿、なんとも華美で退廃的。
黒いレースがふんだんについた、紫色のドレスを着こなしている。いわゆるゴシックロリータ。繊細なレースがやけに印象的だ。じっとながめていると、レースがうごめく錯覚におちいる。黒い菌糸が伸び縮みするように。
ボリュームのある巻き髪は、とても奇妙。灰色とも水色ともつかない髪色に、黒や濃紺の点がビーズのように散る。斑点の正体は判別できない。しかし、これだけはいえる。
まるでカビのようだと。
「シネレア……」
「お知り合いですの?」
エランの表情から察するに、友好的な相手ではなさそうだ。
「ノックもしないで勝手に入ってくるなんて、マナーのなってないこと」
その上、部屋中にカビをまき散らすのだから、マナー以前の問題である。
部屋を元通りキレイにするには、どれだけ丹念に掃除しなくてはならないか。赤紗は一瞬頭を悩ませたが、すぐに目の前の少女の挙動に集中をする。
じっと見ていると不安になるが、目を放すのも危なく思えた。
「ワタクシは、灰カビ姫のシネレア」
片膝を折り曲げ、スカートのすそをつまみ上げ、丁寧なごあいさつ。
針金の骨を持った人形を思わせる動きだった。
「と、少女は礼儀正しく名乗りました、とさ」
ふざけたいい回しを自分自身で気に入っているのか、シネレアは何度も短い笑いをもらす。
そのたびに、彼女の顔がくちゃっとゆがむ。
「十二時の鐘が鳴りました。そうです。灰カビ姫は、ずっとこの時がくるのを待っていたのです」
黒いレースの手袋。
シネレアは、エランの方へと腕を伸ばす。
「可哀想なエラン。可愛いケーキなのに。美味しいケーキなのに。誰からも選ばれず、誰にも食べられなかった。人間はとても残酷。女の子なら、なお冷酷。ありあまる、食べもの。食べもの。美味しいものは、いくらでもあるのです」
シネレアは大きく口を開けた。
「食べもの、食べかけ、食べきれず、食べ残し。でも大丈夫。灰カビ姫と七人の妖精たちが全部食べてしまうのだから」
部屋にただようカビがざわめいた。これが彼女のいう七人の妖精。
灰カビ姫のシネレアは、うっとりと舌を出し、エランを見つめた。
むせかえるほどのカビの臭いに、赤紗はのまれそうになる。
寮のおばさんが用意したケーキは、数種類のカットケーキだった。
洋菓子店、舞踏場のケーキが、少女たちに食べられるのを待っている。
ブルーベリーとラズベリーを冠した、カシス風味のムース。
季節のフルーツタルトは、つや出しの果実で誘惑。
白鳥の形に焼き上げられたシュークリーム。
ベイクドチーズは、香ばしさで手招き。
少女たちは次々と、舞踏場のケーキを選んでいった。
ある少女はモンブラン。
別の少女はミルクレープ。
和風趣味のあの子は抹茶シフォン。というように。
なお、飾りのミントはことごとく不評。ほとんどの少女が、こんなものいらない、とケーキから除去した。
少女たちから蛇蝎のごとく嫌われたミントの葉は、ケーキの紙箱の隅にたまっている。パセリのように。
そうしてすてられたミントが香る箱の中、最後の最後まで残ったのが、まったくシンプルで面白みのない、ありふれたストロベリーショートケーキ。
「これはいつものことでした。いつもエランが残るのです」
「……べらべらとうるせえ奴だな」
しかし本当のことだった。
舞踏場でもっとも人気のないケーキ。
それはイチゴのショートケーキだった。
味に問題があるわけではない。
だが、独創的で華やかなケーキが次々に登場するケーキ屋で、イチゴのショートケーキはあまりにもインパクトに欠けていた。
ショートケーキはある意味完成された存在だ。
客の頭の中に、だいたいショートケーキとはこういうものだという設計図が構築されてしまっている。
定番の王道であるだけに、パティシエも思い切った工夫がしづらい。
毎日作られては、かなりの分が廃棄されていく。
その繰り返し。
それでも店先におかれている理由は、ただ定番だから、というだけのこと。
ショーケースの隅に追いやられ、誰にも買われることのなかったショートケーキは、ついに人の口に入ることはなく。
「哀れなエランをお相手するのは、灰カビ姫のこのワタクシ。今宵も。今宵も。いつもと変わらず。二人の踊りは続きます」
ここで、急にシネレアが噴き出した。汚らしい音を立てて。
この笑い方で美貌も台なしだ。大人しくだまっていれば、妖しげな魅力があるのに。
「いいえ。今日だけは、いつもとほんの少し違っていました。ずっと続いた二人の踊りは、今宵限りでおしまいです」
今宵限りとはどういう意味かと、赤紗はいぶかしげにシネレアを観察する。
エランの方は、その意味をしっている。身にしみてわかっていた。
「舞踏場のパティシエは、イチゴのショートケーキを作るのを今日……いいえ、昨日限りでやめることを決心したのです」
寮のおばさんが何気なく買ってきたショートケーキ。
それがエランにとって、最後で唯一の希望だった。
明日からは、舞踏場にはもうエランの場所はない。
売れゆき不振のストロベリーショートケーキの代りに、イチゴを使った別のケーキがそのポジションをうめることだろう。
ミルフィーユ。ロールケーキ。タルト。パイ。どれも美味しそうだ。
「人間の前に姿をさらしてまで懇願したのに、結局食べてはもらえなかったのね。みじめな王子さま。浅ましい努力。むなしい奮闘」
「私、お腹が空いてしまいましたわ」
ぱしっと音を立てて、赤紗がエランの手をとった。
エランの手は色白で、しっとりとなめらかで、少しだけ体温が低い。
エランは顔を上げない。赤紗の手を振り払いこそしなかったが、にぎり返しもしなかった。
シネレアは大きな音を立てて噴き出した。
「しかし、もう手遅れなのです。夜中の十二時の鐘が、エランにかかっていた魔法を解いてしまいました」
「魔法?」
「呪符のことだ」
エランが短く答えたが、疑問は解決しない。赤紗がとまどっていると、そんなこともしらないのかといいたげに、無愛想にエランが補足した。
「見たことねえのか? 箱にはってあるはずだ」
はて。そんな怪しいケーキの箱が存在するのだろうか。赤紗は首をかしげる。
「日付とか、本日中にお召し上がりください、ってまじないの言葉が記してある呪符だ」
「それって、賞味期限のシールですわよね」
「俺たちにとっちゃ呪符なんだよ!」
呪符だそうだ。
「その効力がある内は、シネレアの餌食になることはない。そういう盟約をしめした魔法だ。もっとも、時と場合によっては、呪符の守りが破られることもある。高温多湿な場所に放置された時とか。特に、梅雨時や夏場はどうしてもな……」
「やっぱり賞味期限シール以外の何ものでもないのでは?」
「呪符だっていったら呪符なんだよ!」
威勢良く怒鳴ったエランだが、すぐに顔を曇らせる。
「呪符の効果は、ケーキが作られた当日まで。日付が変われば、魔法は解けちまう。十二時の鐘はもう鳴った」
ケーキの箱は宙に浮いている。
「だから、エランはワタクシのもの」
宙に浮かぶ箱に、シネレアが手を伸ばす。
彼女の黒いレースの手袋が、急激に成長して襲いかかる。
「ぅぐッ?」
菌糸のネットは箱に触れる直前で、はじかれるように停止した。
赤紗には何が起きたのかわからなかったが、これは二人の精霊たちにとっても予想外の事態だったらしい。
「くっ、憎らしい……! なんということでしょう。忌々しい芳香が、灰カビ姫の邪魔をしました」
「何、まだ箱に結界が……? そうか! 冥王に愛されし乙女の草か!」
「すみませんが、人間界の言葉で話してくださる?」
「はあ……。これだからお嬢さま育ちは、世間しらずでいけねえな」
あからさまに見下したエランの視線。
赤紗はハリセンで引っぱたきたくなる衝動を抑えた。
「よくケーキの上に乗ってる緑の葉っぱだよ」
「ミントのことですの?」
「そう、それ」
ミント。色々な品種があるが、主流なのはペパーミントとスペアミント。清涼感のある強い香りを持つハーブだ。
エランがいう通り、ケーキやアイスクリームといったデザート類の彩りにもよく使われる。
水津学園の寮生たちのほとんどは、このミントをケーキから取り除いて箱に放置していた。
ミントのあつかいは、皿の上のパセリ、刺身の下のツマに等しい。食べる人は食べるかもしれないけど、別に無理に食べなくても良いよね……、というポジション。
ともあれ、箱の中に残されたミントの葉は強い香りを放ち続け、シネレアの腐敗の手を退けたのだ。
「ああ、うん……、わかりますわ。お弁当にシソや梅干しを入れておくと、傷みにくいですものね……」
人間の赤紗は、ケーキとカビの精霊たちのシリアスなノリから取り残され、低めのテンションでぽつんとツッコむしかない。
「けれども。けれども。灰カビ姫が勝つのは時間の問題でした。いかに、ハデスの寵愛を受けたニンフの草といえども、いずれは枯れ果て香りも失せることでしょう」
シネレアの黒手袋が、しゅるしゅると元の長さに戻っていく。
ケーキの箱は、エランのそばで浮いている。
「だからといって、今すぐ箱を開け、浅はかな人間の女の子がケーキを食べようとしてもムダなこと。箱を開けると同時に、薬草の香りも散り散りに。その刹那! 灰カビ姫と七人の妖精が、死にかけの王子を奪いに参ります」
シネレアの言葉が事実なら、エランの最後のショートケーキはカビの餌食になる未来しかない。
赤紗は頭を働かせる。
その一、箱を開けずにケーキだけ食べてしまう。無理だ。どんな手品を使えというのだ。
その二、灰カビ姫を倒す。相手は普通の少女ではない。部屋中にカビをわかし、菌糸を操る精霊だ。赤紗の運動神経は良い方だが、ケンカや暴力には無縁の生活である。真っ向から戦いを挑んで、良い結果になるとは思えない。
その三……。
「考えても手遅れです。十二時の鐘は鳴り、魔法が一つ解けました。少しだけ残っている、薬草の魔法も時間とともに弱っていきます。あきらめましょう、愚かな娘」
シネレアはねちゃりと笑う。
「崖っぷちに立たされた。この窮地を挽回できれば助かる。今が土壇場。そんなことを思っているのでしょうか。もしそうなら、とんだ浅はか! すでに崖から落ちました。時間の重みは降りつもり、刑場では首がはねられたのです。ケーキは女の子に食べてもらえない。女の子はケーキを食べられない。どちらもみじめな敗北者に終わるのです。こぼれた水は戻せない。われた卵は直せない。すぎた日付は返せない」
そう。昔からそういわれている。物語の王さまにだって不可能なこと。
勝利が確定している者の尊大さで、シネレアは楽しそうに敗れた者たちをあざ笑う。
「ふっ……」
片方の手をエランの肩におきながら、赤紗は髪をかき上げた。
「栄えある勝者を称するには、あなたの笑い方は、まったくふさわしくありませんのね。良いでしょう。この甘王赤紗が、手本を見せてさしあげますわ」
赤紗は灰カビ姫のうつろな目を見すえて、高らかにいい放った。
「おーっ、ほっほっ……んぐっ、ぐぇえ!」
シネレアのせいで、部屋にはカビの胞子が無数にただよっている。
灰カビ姫のシネレアは平然としゃべっているが、普通の人間なら静かに慎重に話さなければ、せきこんでしまう。
ましてや、赤紗得意の高笑いなどすれば、この結果。
「ごほっ、ごほっ……! す、すみませんけれど、背中をさすってくださるかしら?」
青白い顔でエランに助けを求める。
「……アホな奴」
介護人のエランを引き連れ、赤紗はよろよろと窓辺にむかう。
出窓を開け放つ。新鮮な空気を吸う。
これでようやく、室内の惨状がマシになった。カーテンが夜風にあおられ、ふくらむ。
今後の展望も、マシになれば良いのだが。
そんなことを思いながら、赤紗は夜に飛びこんだ。そばにいたエランも道連れに。
「なっ……! バカッ!」
エランは突然の行為に対応できるはずもなく。
重力は何にも邪魔されず、二人を大地に引き寄せる。
寮の壁面には少女の髪のように、いくつものロープがたれている。
ずっと昔に、ある先輩がいた。
名前も性格も伝わっていない。
彼女についてわかっているのは、長い髪をしていたことと、救命ロープを悪用し、寮生だけの秘密のルートを開発した功績だけ。
彼女が残した自由への道は、代々の寮生によって、大人たちの目から巧妙に隠され管理されている。
自分がそんなものを使うことになるとは、今日まで思ってもみなかった赤紗だが。
だいたい、生徒たちはロープを頼りながら、もっとゆっくりと登り下りをするのだ。
こんな風に滑降するのは、危険な選択だった。
ロープをつかんだ右手が、摩擦で焼けこすれた痛みとか。
着地の時の、足の骨にひびく衝撃とか。
エランはちゃんとケーキの箱を持ってきたかとか。
スカートが乱れてしまって、はしたないとか。
赤紗の頭を諸々の思考がかけ抜ける。
それらはすぐに消し飛んだ。
頭上に広がる、不吉な気配を察したから。
見上げた情景は、生理的な嫌悪をわき起こらせるものだった。
不気味な点描が、窓から地上をのぞきこんでいる。
黒い粒子がうごめく。
室内の蛍光灯と、街灯の双方から光を受け、奇妙な陰影を作り出す。
ふくれ上がった胞子の群体は、注意深く何かを探すように宙にとどまっている。
何を探してるのかなど、わかりきったことだ。
赤紗の片腕はエランとつながっている。
そこから、じんわりとした恐怖が伝わってきた。
空いた方の片手は、まだロープでこすれた熱を持っている。
痛みを無視して、慎重に地面を探る。
目だけは用心深く窓辺へ向たまま。
探しものを先に見つけたのは、シネレアではなく赤紗だった。
それはただの小石。
裏庭に、いくらでも転がっている石ころ。
それを遠くへと投げすてる。
放った小石は、離れたしげみに落下した。
音のした地点へ、黒い粒子が殺到する。
続いて、勝ちほこったシネレアの声。
彼女も裏庭へと降り立ったようだ。
しげみが一気に朽ちていき、しゅうしゅうと耳ざわりな音を立てる。まるで植物の断末魔。
「ああ、哀れ。逃げたウサギは、ガクガクふるえて音を立て、ついに見つかっ……」
シネレアのお話はそこでとぎれた。
彼女が枯らしたしげみには、誰の姿もないのだから。
その間に、赤紗とエランは逃げ去っていた。
「……邪魔な女。エランと踊るのはワタクシなのに。ああ。ああ。お腹が空いた。逃げたりするから、追わなきゃならない。バカな娘。本当にバカな娘。きっとしらないのです」
くちゃっと、その顔がゆがんだ。
「魔法の切れたケーキは、灰カビ姫に食べられる。命を落とした体も、灰カビ姫は食べられる」
赤紗はフェンスに開けられた抜け穴を探していた。
素行のよろしくない生徒が、壁のロープと合わせて使う脱走手段。
ウワサとしてはしっているが、具体的な場所は不明だ。
お上品な赤紗には縁のない知識だった。
こんな頑健な鉄の檻に抜け穴を作るとは。
自由を求める少女の情熱には驚かされる。
自分もその一人でありながら、赤紗はふうと感嘆とあきれ混じりの息をついた。
そびえ立つ豪華な鉄細工のフェンス。
ふわふわ浮けるエランに持ち上げてもらえれば楽なのだが、試してみても無理だった。
よじ登って乗り越えるのは、なおさら不可能な話。
抜け穴があるなら、フェンスにそって植えられている灌木の根元が怪しい、と赤紗はにらんでいる。
というより、そこしかありえない。
問題は、どこの木の影に隠れているか。
「ちょっと。エランも探してくださる?」
ケーキの箱をかかえながら、うつむいている相棒を小声で叱りつける。
「こんなことしてもムダだ。時間は進むだけだ、戻らない」
「なら一刻一秒もムダにしないことですわね」
赤紗は再び夜目をこらしはじめた。
地面に膝をついて、虫がいるかもしれない木々の葉をかきわける。
「今さら……っ」
「そうね。バカな意地をはった代償は高くつきましたわ。普通の人なら、とても支払えないでしょうけど。この私を見くびってはいけませんことよ。ドバーンと豪勢に福耳をそろえて、一括現金払いにしてさしあげますわ! おーっ……」
高笑いをする前に、人差し指でとめられた。
「笑うな。シネレアに聞きつけられたら厄介だろ」
こうして捜索の人手は二倍に増えた。
「赤紗! あったぞ」
エランの見つけた抜け穴は、明らかに人為的に開けられたものだ。
人気のない裏道に続いている。
「今から通り抜けますけど、絶対に後からのぞかないでくださいね……って、いない!」
「早く抜けろよ。シネレアが追ってくるだろ」
ケーキの箱ともども、穴の向こうにいるのは見なれた姿。
彼は精霊だ。自分一人でなら飛べる。
「……ずるい」
小声でぼやく。
人間の身である赤紗は、地道に穴をくぐった。
木の枝が髪を引っぱる。
赤いチェックのスカートは土で汚れてしまった。
途中でつっかえることなく、問題なく胸もお尻も通過。
最後に脚を引き抜く。
同時に、赤紗に鋭い痛みが走った。
そのまま道ばたにへたりこむ。
「私としたことが、ウカツでしたわ。かなりざっくりいきましたわね」
強引にこじ開けられた金属は鋭利にとがり、不注意な逃亡者の太ももを引き裂いた。
赤は強烈な色だ。うす暗い夜の中でもわかる、濃密な深い色。
あふれ出た赤の滴が、アスファルトにぽたりぽたりと沈みこむ。
「赤紗は部屋に戻れ」
街灯の下、エランが立っていた。
「大人にみっちり叱られようと、玄関から普通に帰れ。そんで、手当てしてもらえ。冒険はこれでおしまいだ」
照らし出されても、エランに影がないことに赤沙は気づく。
彼が人間でないからなのか、半分死にかけているせいなのかはわからない。
「まったく、悔しいですわね」
赤紗のブレザーの胸ポケットには、ハンカチが入っている。
絹でできていて、大き目サイズ。色は白い。
それを奇術師よりも鮮やかに、しゅっと華麗に取り出した。
そしてあくまでも上品にハンカチを噛むと、両手を使って力いっぱい噛みちぎる。
突然のその行為は、朽ちゆく死を覚悟したショートケーキの精霊ですらたじろがせた。
お嬢さまがハンカチを噛みちぎった!
裂いたハンカチで傷口を縛りながら、赤紗はこともなげにいう。
「こういう時、淑女ならハンカチを噛みちぎるものです」
純白のハンカチは、降参の白旗を象徴する。
お嬢さまは悔しい時にそれを噛む。
屈辱を受けた時。己の無力さを痛感した時。
悔しさの形は人それぞれだが、とにかくお嬢さまはハンカチを噛む。
敗北の色を自らの力で噛みちぎる。
それはプライドの高い彼女たちの、あまりにも高潔な不屈の意志の証明にほかならない。
「さ。いきましょう」
応急処置を済ませると、赤紗は立ち上がった。
シネレアは血の臭いに引きつけられた。
体から離れた血は、死の一部だ。シネレアの糧。灰カビ姫の食事。
彼女はとても腹をすかせていた。
いつも楽しみにしていた十二時のケーキにはありつけず、あちこち探し回ったせいでノドは乾く。
「あの女はここを通った。間違いありません。血を残しておいたせいで、追手に見つかってしまいました」
アスファルトの上で乾きかけた血をシネレアの指がなでる。
近くを探せば、別の赤いシミがあるかもしれない。
それをつけていけば追跡は楽になる。楽になるが……。
今はひどく飢えていた。
シネレアは、指を口の中にふくんだ。
ほんの少しだけ、空腹がまぎれる。
しかし、満たすにはまだまだ足りない。
食欲を抑えきれなくなったシネレアは、赤紗が地面に残していった血の一滴一滴を意地汚くむさぼった。
赤紗はあせっていた。
駅前に向かったものの、終電はとうに出てしまっていた。
タクシーを拾おうにも、深夜にボロボロの制服姿で出歩く少女を乗せる運転手はいなかった。
目的地はわかっている。
時間制限がなければ、赤紗は自力でそこまで歩いていっただろう。
だが、今は時間がない。
「乗りものがねえのか?」
赤紗がうなづくと、エランはふらふらと歩いていった。
意図はわからないが、赤紗も続く。
ついたのは架線下。
明らかに長い時放置された自転車が、ずらりと並ぶ。
確かに乗りものが、より取り見取りだが……。
エランが大声を出した。
「人間に打ち捨てられたお前ら! もう一度全力疾走するチャンスを持ってきたぞ!」
時の中でサビついていくだけだった者たちが、その声に目を覚ます。
あちらこちらで壊れたベルがか細く鳴り、からからと後輪が空回りする。力のない音だった。
「……ダメだ。コイツら、弱気になってやがる。もう走れる気がしないとさ。自信も意地もなくしちまったんだ」
エランはしばらく考えこんだ。自転車にやる気をとり戻させるには、どうすれば良いか。
「サドルにはこの尻が乗るぞー」
現物を示すため、赤紗のスカートを片手でつまんで見せた。
「恩しらず女」
「最低」
「乱暴者」
「品性下劣」
こんなやり取りが何度続いただろうか。
不機嫌な少女を乗せて、古い自転車は猛スピードでかっ飛ばしていた。
自転車として産まれたからには、こうして人を乗せて走ることこそが最大の喜びだ。
ひかえめな白いレースで飾られた少女の下着などは関係ない。
がっちりとスカートでガードされて残念だとか、そんなことは少しも思っていない。
エランは、後部の荷台にちょこんと腰かけている。重さも空気抵抗もない。
前傾姿勢になってハンドルにしがみついている赤紗とは、違う法則が働いている。精霊なのだから当然だ。
「……」
こんなに赤紗の近くにいても、エランは叩きつける風圧も地球の重力も感じていない。赤紗の体温もわからない。
そのことを残念だと思うなんて、自分でも意外だった。
風でかき乱される赤紗の髪を見る。銀色のバレッタが、暴れる髪を必死で抑えつけていた。
シネレアは手の甲でよだれをぬぐった。
恥ずかしげもなく、紫色のゴシックロリータ服になすりつける。彼女のドレスは、ところどころに灰色の模様ができていた。
食事に夢中になって遅れた分をとり戻さなくてはならない。
シネレアは身軽だ。無数のカビの胞子が本体。
その気になれば、風と同じ速さで移動することだってできる。
いち早く危険を察したのはエランだった。
貪欲が落ちてくる。
進行方向に突如として、漆黒の柱が出現した。
意志を持つボロ自転車は、ギリギリで奇襲をかわす。
赤紗は、遠心力で振り落とされそうになるのを必死でこらえた。
車輪が目まぐるしく回転する。
そのままスピードを落とさず、自転車は逃げる。
それだけの速度で逃げているのに、シネレアの追撃は振り切れない。
自転車は、もうこれ以上のスピードを出せない。
後ろを見れば、モノクロの点描が全ての景色をのみこんでいく光景が広がっている。
運命に負けた者を喰らう影。黒手袋のレースが、途方もなく追ってくる。
「腐敗してしまいなさい!」
二人を捕えようと広がった手。
その手につかまれる寸前に、エランはとっさに赤紗のバレッタを取り外し、シネレアに投げつけていた。
予想外だった。いきなりこんなものが飛んでくるとは。
ガラクタに埋もれ、シネレアは銀の髪飾りをにぎり潰した。
道路沿いのさびれた自販機。そばにあるクズカゴには、たくさんの空き缶がつまっている。
思わぬ反撃のせいで、派手に転倒したものだ。普通の人間なら、死んでいるところ。
顔にかかったジュースのごった煮をぺろりと舐めた。良い味だ。
シネレアは死にはしなかった。
彼女は灰カビ姫。腐敗をもたらす魔物。
衝撃で霧散していった胞子に、集合の合図を送る。
すぐに体勢を立て直せる。
ふと違和感に襲われる。
体の一部が引っぱられていく感覚。
「……ぇあ?」
クズカゴにつめこまれていたのは、空き缶だけではない。
人間が飲み残していった中身も、缶と同じぐらい大量にあった。
激突の際に、腐った汁が飛び散った。シネレアの体にも、滴るほどにふりかかっている。
悪臭を放つ茶色の液体は、のろのろと流れ、近くの側溝へと流れこんでいる。
普通の人間なら非常に不快な思いをするだけで、どうってことはない。
だが、シネレアは灰カビ姫。不浄の魔物。
無数の胞子で形作られたその体は、流れる水には抗えない。
「ああぁ……!」
足の先から汚水の流れに巻きこまれる。
クズカゴにすがりつく。
シネレアの体が、どんどん暗い地下へと消えていく。
腐敗の姫を名乗る者には、なんともふさわしい墓場だった。
「ここですわ!」
赤紗とエランがたどりついたのは、小さな飛行場。
オレンジ色の大きな照明が辺り一面を染め上げる。夜だというのに、ここだけが永遠の黄昏時。
「よ。ご苦労だったな。助かったぜ」
エランが親指を立てると、無人の自転車はハンドルをくいっと曲げて答えた。
赤紗は迷うことなく進んでいった。
いくべき場所はわかっている。
この日の真夜中に、甘王の自家用機が飛び立つ。
赤紗にその報せが届いたのは、昨日の朝。文化祭当日の電話で聞いたのだ。
その時は、心を打ち砕かれた。
だが今は、吉報にも思える。
「根津!」
幼いころから親しんだ、お抱え運転手の名を呼んだ。
とても成人とは思えない小さな背丈が、滑走路に立っている。
その傍らには、着飾った三人の人影。
「赤紗お嬢さま! どうしてきてくれたですか!」
あまりにも驚いたせいで、パイロットの帽子がずり落ちた。帽子をかぶり直すのももどかしいのか、そのままかけ寄ってくる。
「赤紗お嬢さま、赤紗お嬢さま、赤紗お嬢さまっ! ごべんなさいぃいいい!」
子供のように泣きだす根津。
泣き虫な従者を赤紗は軽く抱いてなだめる。
どう見ても小学生男子だが、れっきとした大人の女性。甘王家に仕える運転手だ。
その運転技術は高く、自動車はもちろん、乳母車から自家用ジェットまで安全的確に操作する。
「約束守れなくてごめんなさい。いっしょにお祝いする約束でしたのに、急にお仕事が入ってしまって……。臆病な根津はそれを断らなかったです。自分可愛さで、赤紗お嬢さまの誕生日パーティをドタキャンしたです……」
赤紗の十五歳の誕生日。それは昨日のこと。文化祭と重なった日。
親しい従者との、ささやかな祝いが中止となった報せが届いた日。
赤紗の継母と二人の義理の妹が、運転手の根津に無理な注文をした日。
「恥ずかしい。どこの野良イヌかと思えば、身内だとは」
高級婦人服でたるんだ体を隠した継母が、悪意だけは隠すことなくぶつけてくる。
「嫌だわ、お姉さま。いったいどんな大冒険をしてきたのかしら?」
「私たち、さっきまでホテルのレストランにいたの」
二人の姉妹は顔を見合わせて笑った。
「私たちの新しい家に、厄介者がいないことを喜ぶパーティよ」
赤紗の誕生日に、義理の家族はそんな祝宴をあげていた。これから三人は海外へ出かけるつもりだ。行き先はハワイだとか。
運転手の根津には急の仕事が与えられ、以前から申請していた休暇を取り消された。
根津は文化祭にきて、その後赤紗といっしょにこじんまりとした誕生日祝いをする予定だったのに。
エランは不思議だった。あの赤紗が、こうまでいわれてなぜだまっているのか。
根津はよくしっていた。あの赤紗が、本当はどれだけ繊細でガラスのようにもろい心を持っているかを。
芝居がかって見えるほどに高飛車なのは、実際に赤紗が演技をしているからだ。
偽の家族につらくあたられるごとに、虚栄のガラスは輝きを増していった。
しかし、この冷たい家庭の中では、赤紗は借りてきたネコになってしまう。
臆病な根津が覚悟を決めた。
ネズミのようにちっぽけな自分でも、お嬢さまを守らなくては。
だって、赤紗があの三人に立ち向かえるはずがない。
「赤紗。私たちはこれから出かけるんです。いったい、何をしにきたのやら」
「不相応にふんぞり返っている輩に、抗議しにきましたの」
この場の誰よりもボロボロの姿をしながら、この場の誰よりも偉そうな態度で、甘王赤紗は居丈高にいい放った。
「良いこと? 根津は昨日、私とすごす予定でしたのよ。ずっと前から、きちんと取り交わされた約束でした。それを仮初めの立場を良いことに、当日になって無茶な要求をのませた成り上がり者がいると連絡がありましたの。私、ハッキリさせるためにここまで出向いてさしあげましたわ」
元々は虚栄の演技だった。
みじめな敗者のごまかしだった。
だが、今は違う。
敗北者を喰らう灰カビ姫。あの魔物を振り切った者が、今さら何に怖気づく必要がある。
「まったく不当ですわ。あなたたちの突然の思いつきで、前々から決められていた私の誕生祝いを台なしにして良いはずがない」
「……いいえ、それでも壊してやったわ。踏みにじってやった。お前の十五歳の誕生日は、もうすぎてしまった。今さらお前が何をしたって、とり戻せやしない」
「それじゃあなたたちにはずいぶん重い罰が必要ですわね。この甘王赤紗の、とても貴重な一日に泥を塗ったのですから。代償は高くつきましてよ。失われた一日というのは」
その重みはよくわかる。
自分にとっての、エランにとっての一日を取り戻すため、赤紗はここまでやってきた。
ずいぶん苦労したものだ。
「本来なら、あなたたちがどれだけ猛省しようとも取り返しのつかない事態になるところでしたわ。でも……」
赤紗は自家用機を見て、満足げにほほ笑んだ。
「丁度良い。これで帳消しにしてさしあげますわ」
最大五人までの客を乗せられる空間に、座っているのは二人だけ。
根津はパイロットとして、快適な空の旅を提供してくれている。
「おーっ、ほっほっほっほっ! やってやりましたわ! 地球は青くて広くて丸いんですのよ」
日本とハワイの時差はマイナス十九時間。日付変更線を越えれば、そこは前日となる。
しかし、無断で寮を抜け出しての逃亡劇。赤紗は後で代償を払うことになるはずだ。
「シネレアを追い払ったんだから、わざわざ手のかかることしなくたって良かったんじゃねえのか? あのまま日本でケーキの箱を開けてさ」
「あら、それじゃダメですわ」
「んん?」
「それでは誕生日にイチゴのショートケーキを食べたことにはなりませんもの」
誕生日ケーキになる。ケーキとして生を受けた者なら、誰しもが憧れる役目。
「いや、待て! でも……、その……。俺なんかで」
エランは落ち着きなく自分の髪をいじっている。
長い間、不遇の身だったのだ。人間に食べられず、捨てられていく毎日。
いきなりの大任に、動揺が隠せない。
「それに……」
エランは客室内を見わたした。
自家用機なので、ジャンボジェットのように大きいわけではない。
それでも、ゆったりとした座席と、こだわりを感じさせる内装は、所有者の富を誇示していた。
赤紗はくつろいでいる様子だが、エランはとても落ち着いてはいられない。
「俺は場違いっていうか。赤紗の誕生日ケーキなら、小さなショートケーキじゃなくて、もっとこうアホみたいにどデカい、特注のケーキとかが似合うような……」
エランが歯切れ悪く言葉をつらねていると、フォークをにぎってスタンバイしている赤紗から、じとっとした視線で貫かれた。
「私に食べられるのが不服ですの?」
「そうじゃない! 人間の誕生日ケーキになるんだぞ? どんなケーキだって舞い上がるさ。常識だろ?」
「ごめんあそばせ。あいにく、ケーキ界の常識にはうといもので」
「だから……。嫌いなケーキを同情心から食べてもらうのは、気が咎めるって話で……」
エランが赤紗の顔をうかがうと、ネコに似た目がきょとんと瞬きしていた。
「私、イチゴのショートケーキが一等の好物でしてよ。王道こそ良いんじゃありませんの」
この世の真理を告げるぐらい明確に、赤紗はそういった。
「何? だって、おかしいだろ! 食べたくないって、あんだけ意地張ってたのはどこの誰だってんだよ!」
「おーっ、ほほほほほっ! なぁんておバカさんなのかしら!」
盛大な高笑いを終えると、赤紗は自然なほほ笑みを浮かべた。
「あの時点では、人生史上最悪の誕生日でしたもの」
根津との約束をふいにされ、誰からも祝福されることなく、一人ですごす誕生日。
寮のおばさんが用意したケーキを自分のためのものだとカン違いして、よりいっそうみじめさがつのった。
自分の産まれた日など、他人は気にかけない。それどころか、わざと踏みにじる者さえいる。
「そんな屈辱的な日に、大好物を食べるわけにはいきませんもの。せっかくのケーキなのに、砂利の味がしますわよ」
赤紗はやれやれという風に、首を横にふった。
「事情をしって、なんとしてでもあなたのケーキを食べたいと思ったのは、同情ではなく共感ですわ。私たち、似た者同士でなくて?」
そういって、片手をすっと上げた。頭の高さまで上げられた手の平は、エランの手が触れるのを待っていた。
「違いねえ」
ぱしっと軽快な音を立てて、タッチした。
そのまま、どちらともなく手を取り合う。
「イチゴのショートケーキの精霊さん。私の誕生日を祝ってくださるかしら?」
「ああ。光栄な役目だね」
互いに笑い合う。
「トッピングのサービスはいるか?」
「いただくわ。名前入りのチョコレートのプレートをくださいな」