好きだと言えない2
『好きだと言えない』の続編です。
「あれ。深澤、おまえ、煙草やめたの」
向かいに掛けて、アイリッシュ・ウィスキーのグラスを傾ける友人が、隆之にそう尋ねた。
友人から差し出された煙草を、今しがた、隆之が断ったためだった。
大学時代の同窓に連れてこられた先は、ホテルのバー・ラウンジだった。彼の好きな銘柄のアイリッシュ・ウィスキーが揃えてあるというので、ホテルのバーなど柄ではないと思いながらも隆之は付き合った。じっさい、この友人に誘われずとも、ひとりで飲むつもりでいたからだ。
「ああ、やめたよ。その話、前もしたぞ」
友人にそう返して、深澤隆之は、背の高いグラスに入ったビールを喉に流し入れた。
「そうだったか?」
ウィスキーのグラスを置いて、今度は煙草を指の端に持ちながら不思議そうに首を傾げる友人に、おそらく苦々しく見える笑みを隆之は浮かべた。
友人が、隆之の煙草をやめたことを覚えていないからではない。
やめた理由をこの友人が知れば、間違いなくからかわれるであろうことを経験上、知っているからに過ぎない。
――――早織が、煙草の匂いが嫌いだから。
やめた理由を、隆之はそう心の内で表した。だがそれは正確ではなかった。
高校時代からの友人の市井早織は、煙草の匂いを嫌いだと表現したことはなかった。
“気に入っている服に匂いが移ると少し気になるけど、洗えばとれるし、ほとんど気にしないよ”
いつだったか彼女は、首を少し傾けて微笑んでそう言っていたからだ。
だから苦々しく笑ったのは、早織を理由にして、自分の本当の思惑を隠そうとしていたと、今さらながらに気づいたからだった。
――――結局は、早織によく思われたかったからだ。ぜんぜん、早織のためなんかじゃない。
彼女は、隆之が告げた理由に対して、ありがとうと言ったのだ。
“隆之君、たばこ吸わないの?”
“早織、好きじゃないだろ”
“えっ? わたしが? そんなこと、構わなくていいよ”
“早織とはよく会うだろ? これを機に禁煙するのもいいかと思って”
“あんまり我慢するのも、身体によくないよ、きっと。でも、ありがとう隆之君”
そう言って首を少し傾けた彼女をつつむ、その空気ごと、体温ごと、奪ってしまいたいと思った。
隆之は、そのとき早織に礼を言われ、彼女の笑顔をつくったことに安心した気分だった。けれどそれは、早織が自分の打算に気づいていないことからくる一時的な救いに過ぎなかった。
安心したのは、そのためだった。
自分の気持ちを隠すための、情けない言い訳だった。
それでも何度、言ってしまおうとしたことか。
彼女の耳に、首筋に、肩に、隣に歩くとき、ときおりかするやわらかな腕に、自分の両手で、触れることができたならば――――。
「早織……」
「さおり?」
思わず、名を口に出していたらしかった。目の前の友人が、とたんに、にやにやと笑った。
「なんだよ、それ、彼女の名前?」
しまった、と思ったときには遅かったが、なるべく無関心を装って隆之は言った。
「どうでもいいだろ」
「酒飲んで、女の子の名前出すなんてなぁ。おまえ、よっぽどだな」
相変わらず、にやにやと笑ったまま彼の友人は言った。
――――ああ、よっぽどだよ。
なかば自棄になって、隆之は思った。
「おまえさぁ。恋愛で悩むなんて、馬鹿馬鹿しいと思わないの」
「悩んでねえ」
「さっさと行動して、ふられるなり、別れるなりすれば? おまえ、普段そんな感じだったっけ?」
「うるせぇよ、関係ないだろ」
すでに言外に、恋愛のことで悩んでいると認めていることに隆之は気づかないまま、ビールを煽った。
さらに彼の友人は、隆之の想い人との関係がうまくいかないことを前提で話していることにも、彼は思い至っていなかった。
それは友人が発した言葉の最後が、隆之の胸にいやに引っ掛かりを覚えさせたからだった。
「俺の普段って、どんなのだよ……」
つぶやきはしかし、友人へと届いてしまったようだ。
「淡白っていうわけでもなかったと思うけど、なんていうの。今はすがってるように見えるなぁ」
「弱くなることだって、たまにはあるだろ」
「そんなに悩むタイプに見えなかったよ、昔は。なんか意外だよな」
「俺は、バカってことか」
「別に短絡的って言ってるわけじゃねぇぞ。話を戻すけど、恋愛沙汰で悩んでるとしか思えない顔してるよ、おまえ。昔は、気軽に思ってる風だったのにな」
以前の隆之は、恋愛に対して気軽に考えているようすだった、と彼の友人は言いたいのだろう。話がいつのまにか、自分の恋愛事情を明かす方向になっていたことに、隆之は今さらながらに至った。
「知るかよ」
恋愛のことで話をしているわけではないと、議論を蒸し返す気はもはや失せて投げやりに隆之はそう言った。
「それだけ入れ込んでるんだろ。人間って変わるもんなんだなぁ」
「放っとけよ」
さっきから自分の返答は中学生のそれのようだと苦々しく思いながら、隆之はまた杯を煽った。
◆◆◇◇◆◆
隆之はふらふらと、早織の住むアパートに来ていた。空気の澄んだ夜空は突き抜けていて、背広だけでは夜気はもう身震いするほどの冷たさだった。
早織は隆之の家の最寄り駅から二つ離れた場所に住んでいた。就職してからずっと、互いにそれは変わっていなかった。
就職してから三年くらいは、近隣に住む高校時代の陸上部の仲間と、隆之や早織の部屋をつかってよく集まっていた。
早織は仲間の話の輪に積極的に加わるということは少なく、皆から一歩下がった位置で、それでも満足そうに話を聞いている姿が多かった。
隆之が、高校や大学時代の早織の印象と少し違うことに気づいたのは、たぶん、部屋でそうやって仲間内で集まるようになってからだった。
隆之は何気なくそんな早織に目がいくようになり、いつの間にか、仲間が盛り上がるその横で、早織と小さく会話する瞬間がとても心地よいものになっていた。
“隆之君と、こんな風にしゃべってるなんて、高校生のときから考えたら、なんか不思議だね”
そう言って、安心したように首を少し傾けて微笑む早織の姿が、隆之の目の奥で揺らめいた。
隆之はドアの横の壁に腕をついて、額をそこに預けた。
「頼む、早織。俺を好きになってくれ」
口に出した瞬間、馬鹿馬鹿しくて笑った。
“恋愛でそんなに悩むなんて、馬鹿馬鹿しくないの”
そう言った友人の言葉が思い出された。好きだの一言も言えない自分は、くだらなく、情けないと思う。
けれど、情けないほど、早織のことを諦めきれない。
自分は、以前の自分とは変わったらしい。それは早織が、変わったからだ。早織の印象は、大学を卒業してから、隆之のなかで驚くほど鮮明になった。高校や大学時代の彼女のほうが、いまよりも数段、はきはきとしていたはずなのに。
自分は、早織によって変わった。
早織が、自分を変えた。
隆之は、いつしか拳を握っていた。
「隆之君?」
額を腕に預けたままの隆之の背後で、驚いたような早織の声がした。
「――――早織」
「どうしたの、こんな遅くに」
前下がりのセミロングの髪に、二重の瞳が優しい印象を与える表情の彼の想い人が、立っていた。
直近に会ったときにも身につけていた水色のショールの下には、今日は、紺色で膝上の裾のタイトなコートを着ていた。
そこから、裾の広がるやや短い濃い茶色のプリーツスカートがのぞいている。黒いストッキングをはいたすらりとした足が収まる黒い靴は、足首でストラップを留めるものだった。
「早織、ごめん。この間は、ごめん」
そう言って、隆之は早織に向かって頭を下げた。
「隆之君、あのとき、なにか話があるんじゃなかったの」
頭を下げたままの隆之に、早織のどこか緊張を帯びているような、それでいて心配を濃くにじませたような声が落ちてきた。
「早織、おまえさ、優しすぎるよ」
隆之は拳を握った。早織はこんなときでも、早織らしいと思った。
彼女の今日のような普段の服装は、隆之が先ほどまで友人といたホテルのバーのような雰囲気のなかにあったとしても、なんら遜色はないだろう。
けれど彼女が好む場所は、肩肘の張らない小料理屋だったり、落ち着いた居酒屋だったりした。
まるで早織の醸し出す空気そのままだ。いまの気まずいといえる状況であってさえ、早織をつつむ空気はやわらかい。
ふわり、と早織の身をつつむショールが、冷たい風に揺れたのがわかった。
「隆之君……?」
「許せんのか? いきなり、許可もとらずにあんなことした奴をさ」
「びっくりしたけど、でも、隆之君は悩んでることがあるんだと思って」
「悩んでることがあったら、ああするのか? 悩んでたら、ああしても許されんのか?」
隆之は、ますます拳を握り締めた。
早織に謝りに、ここへ来たなど、口実だった。ただ、彼女の顔が見たくて、彼女に会いたくて彼は来てしまっただけだった。
「隆之君、だいじょうぶ?」
早織の声に、隆之は顔をあげた。
彼女は心配そうに、少し首を傾けて、隆之を見ていた。
「隆之君。許すって言ったら、話してくれる?」
そう言った彼女は、なぜか悲しげだった。
その彼女の表情を見たとき、隆之は、自分の顔が泣きそうにゆがんだのがわかった。
冷たい風は、無音で早織のショールを揺らした。
手の平で顔をおおった。そのまま、彼女の名を呼んだ。
「早織……」
泣きたいくらい、彼女が好きだ。
だから言えない。どうして言えるだろう。
こんなにも好きな彼女を、どうやって失えばいいかわからない。
好きだから、言えない。
好きだと言えない。