#508 此処が故郷
アクトラス山脈とダリル山脈の隘路を過ぎて約20日、俺達は眠り姫になった姉貴をソリに乗せてひたすら東に向かう。
そして、ようやく眼下に凍ったリオン湖を望む事ができた。
「帰ってこれたのじゃ。明日は我が家で休めるぞ。」
リオン湖を見ながらアルトさんが小さく呟く。
確かに帰って来た。だが、姉貴はまだ帰ってこない。
それが頭を過ぎるのか、アルトさんとリムちゃんの横顔は複雑な表情をしている。
「そんな顔をしないで、素直に帰って来たことを喜べば良いと思うよ。残念ながら姉貴はまだ帰ってこないけど、それは魂と呼ぶべきものが旅に出ているからであって、姉貴はちゃんとソリにいるんだからね。」
「じゃがのう…、やはり一緒に喜べ無い事は残念じゃ。」
「お兄さんは、心配じゃないんですか?」
「それは一緒だよ。でもね。姉貴はすぐに帰ると約束してくれた。最も、姉貴の『すぐ』が俺達の『すぐ』はちょっと違うようだね。そして、意外と方向音痴だから帰る途中で迷ってるかも知れない。だけど間違いなく帰ってくる。俺との約束を姉貴は一度も破らなかった。」
まぁ、確かに…と2人が納得してくれたみたいだ。
雪洞を掘ってソリをそのまま中に入れる。そのソリの周りで俺達は横になり、ディーは雪洞の入口で俺達の安眠を守ってくれる。
次の日の朝早く、俺達は森の小道をネウサナトラム村の北門に向かって歩き始めた。
村人が雪レイム狩りをするために歩くのだろう。小道の雪は硬く踏み固められている。
「まだ雪が深くないの。ほれ、このぐらいじゃ!」
アルトさんが小道を離れて雪原を飛び跳ねている。
まだ積雪は30cm位だな。年を越せば直ぐに1mにはなるだろう。
北門の門番さんに声を掛けると俺達を見て驚いてたが、直ぐに扉を開いてくれた。
北門の広場も村の通りも雪で埋まっている。
俺達はソリを引いて通りを歩き、林のところで石像に鍵を使う。
ズズー…という感じで林に小道ができた。まだ雪は積もっていないけれど、気にせずにソリを引いて家に向かう。
家に着くなり、ディーとアルトさん達が猛ダッシュで家に飛び込んでいく。
そんな彼女達を尻目に、幾重にも毛布に包まれた姉貴をソリから抱き起こして家に向かう。
「客間のベッドが使えるぞ。」
俺の目の前で扉を開けながら、アルトさんが教えてくれた。
「ありがとう。」
そう言って、リビングを通り暖炉近くの客間へと姉貴を抱いて行く。
2つあるベッドの片側の布団が開いていたので、直ぐに姉貴をベッドに下して布団を掛けてあげる。
ゆっくりだけど規則正しい寝息をしているから大丈夫だろう。
リビングに戻ると、リムちゃんが暖炉に火を焚いている。ディーはポットを持って井戸に向かったようだ。
「ようやく帰って来たな。アルトさん、山荘のアテーナイ様に顛末を報告して欲しい。ディーは今夜の食材を調達して欲しい。良い物がなければ、食堂に頼んでも良いよ。俺は、ギルドに報告だ。リムちゃんは姉貴の傍にいてくれ。」
俺達はリムちゃんと姉貴を家に残して、それぞれの方向に歩き出す。
ディーは南門の方に出来た雑貨屋に行くみたいだな。
東門に向かって歩いて行くと、右側にギルドの建物がある。
扉を開けて、カウンターに向かうと、ルーミーちゃんが大きな目を見開いて俺を見ている。
「帰って来たよ。俺と姉貴、アルトさんにリムちゃん、それにディーの5人だ。」
「お帰りなさい。皆、心配してたんですよ。」
「ありがとう。今度はしばらく村にいるよ。閑な時には遊びに来てくれ。アルトさん達も喜ぶからね。」
「お土産話を聞きに行きます。今は、ギルドも閑なんですよ。」
そう言って掲示板を指差した。なるほど、2枚しか依頼書が無いぞ。
「雪レイムなら俺達はいらないな。」
「あの2枚、実はフェイズ草なんです。真冬ですからグライトの谷は氷の壁です。誰も受けてはくれません。あの2枚は王都からの依頼書です。他の地方も当たっているようなんですが、アキトさん、何とかなりませんか?」
「グライトの氷壁からフェイズ草を取ったのは何年前だったかな。一度俺と姉貴で真冬に取った事がある。そうだな、まだ期間があれば他のハンターにも氷壁の上り方を教えるか。
今、村にいるハンターは?」
「スロット夫妻にお兄ちゃん達のパーティ、それにアンディ夫妻とセリウスさん一家です。」
「皆、他の依頼は受けていないんだよね。」
「はい。お兄ちゃん達は会社で働いてます。アンディさんもこの頃は会社務めですね。あまりハンターの仕事を受けていません。セリウスさんは子供達に文字を教えてるみたいです。」
皆、閑そうだな。何時役に立つかは分らないけど、基本的な事を覚えておくだけでも役立つだろう。
「明日まではゆっくり休みたい。明後日に氷壁の上り方を教えると伝えてくれないかな。朝食後にギルドに集合ということで、そうだな、2泊3日の工程になる。食料の準備も各自って事で良いだろう。」
「分りました。でも、氷の崖を上るんですよ?」
「大丈夫。道具とその使い方が分れば何とかなる時もある。それを教えるんだ。勿論、難しければディーに取ってきて貰うよ。」
そう言ってギルドから家に戻る。
林の小道はうっすらと雪が積もってきた。明日には皆で雪掻きをしなくちゃならないだろう。
「ただいま!」
そう言いながらリビングに入ると、テーブルにはアテーナイ様が座っていた。
「大変な旅じゃったな。して、ミズキの容態はあれで問題ないのじゃな?」
「帰ると言った以上、姉貴は帰ります。」
「なら良い。…しかし厳冬期のダリル山脈を越えてくるとはのう…。我には想像も出来ぬ。」
「釘の沢山ついた金具をブーツに付けるのじゃ。それでガツガツとやって氷に足場を作りながらロープで上るのじゃ。」
「おもしろそうじゃのう。我もやってみたいのう。」
そう言いながら俺を見詰める。
近場で教えろ、という事かな。
「さっき、ギルドでフェイズ草の依頼書を見付けました。王都から流れてきた依頼らしいですけど、この村でフェイズ草が採れるのはグライトの谷の北斜面。この季節では全面が氷に覆われています。採取と同時に、氷壁の上り方を教えようと思っていますから参加します?」
「依頼をこなす為に氷壁の上り方を教えると言うのじゃな? それは参加せずには行かぬな。後は誰が来るのじゃ?」
「セリウスさんの家族とルクセム君のパーティを誘ってみようと思っています。」
「ネコ族の身軽さに若者達が何処まで近付けるか楽しむじゃのう。それで何時やるのじゃ?」
「明後日の朝にギルドに集合という事で。一応2泊3日の予定です。」
「了解じゃ、明日の朝に次女を2人回す。ミズキの世話が要るじゃろう。」
アテーナイ様の申し出に、有難く礼を言う。
アテーナイ様はのんびりとパイプを咥えて微笑んだ。
「よいよい。ミズキには世話になっておる。それぐらい容易い事じゃ。」
トントンと扉が叩かれ、リムちゃんが対応に飛んでいく。
誰だろう? 俺達が帰ってきて、まだ間が無いぞ。
「無事帰って来たな。冬の山脈を越えるなぞ正気の沙汰とは思えん。だが、ちゃんと帰ってきてくれて嬉しいぞ。」
「これで、チラが食べられるにゃ。」
「「お帰り。お兄ちゃん!」」
「どうやら帰ってきました。どうぞ、席に着いてください。」
やって来たのはセリウスさん一家だ。ミク達もだいぶ大きくなったな。もうすぐ弟か妹が出来るんだからしっかりしなくちゃな。
「ミズキの姿が見えぬが?」
ディーからお茶のカップを受け取りながらセリウスさんが聞いて来た。
「実は…。」
簡単に経緯を説明する。
「そうか。呪いの類では無さそうだな。」
「我も最初に聞きし時、それを疑ったのじゃが…、少し違うようじゃ。」
「でも、寝てるだけなら、挨拶してくるにゃ。」
そう言って、立ち上がったミケランさんをリムちゃんが客間に連れて行く。
「我も一度顔を見たのじゃが、変わりない何時ものミズキじゃった。深い睡眠状態に入って、呼吸や脈までも少なくなっておる。」
「衰弱していくとは…。」
「衰弱を抑えるために体の機能を低下させておる。まるで冬眠状態じゃな。あのままなら春を迎えても大丈夫じゃろう。全く前例の無い状態じゃよ。」
「魂を肉体から強制的に引き離す呪いがあると聞いた事があります。最初、リムから聞いた時にすぐにそれを疑いました。しかし…。」
「魂の無い肉体は急速に劣化する。体の自制が効かぬ故の事じゃ。じゃが、ミズキは自らの代謝機能を極力まで減らしておる。全く不思議な話じゃ。」
「となれば、やはりアキトの言う通り、ミズキの魂は旅に出たと。」
「そう信ぜざる得まい。婿殿は何時も通り、全く心配しておらぬ。空元気と言う訳では無さそうじゃ。」
「まぁ、信じられないのは分ります。それ程、姉貴が帰るまでには時間が掛からないと思いますよ。リオン湖で待っていろと言っていましたからね。」
「全く、答えてくれないにゃ。深く寝てるにゃ。」
そう言って、ミケランさんが帰って来た。
「まぁ、余り問い掛けるのもな。悪い夢を見ると聞くぞ。」
アテーナイ様が軽くミケランさんに注意してくれた。
「ところで、セリウス。婿殿が面白い技を教えてくれるそうじゃ。」
「どんな技だ?」
「昔、グラントの谷の氷壁でフェイズ草を採った話をしましたね。ギルドに2つフェイズ草採取の依頼があったんです。氷壁を上る道具の使い方を教えながら、フェイズ草の採取をしようと考えてます。」
「道具があれば氷壁を登れると昔、言っていたな。俺も参加する。ミトにはまだ無理だが、観ている分にはかまわんだろう。」
「行って来るにゃ。たぶん3日は掛かるにゃ。その間のミズキの世話は私がするにゃ。」
「アテーナイ様が侍女を回してくれると言ってましたが、ミケランさんもいてくれるなら安心です。」
久しぶりに合った仲間とは話が尽きない。
ディーとすっかり主婦になったミケランさんがスープを作り始めたのを見て、俺はセリウスさんを誘って氷上に向かいチラ釣を始めた。
アルトさん達はミクちゃん達と一緒に、暖炉の前でのんびりとスゴロクをしているに違いない。
「姉があんな状態で、寂しくはないのか?」
掛かったチラを笊に入れながらセリウスさんが聞いて来た。
「寂しい事は確かです。でも姉貴は何時でも俺と一緒です。すぐに帰ってきますよ。」
俺の答えに、そうか…と呟き、肩をガシっと叩かれた。
その行為におれが頷くと、更にバシバシっと肩を叩く。
空元気を見破られたか?
ある意味俺の兄貴役でもあるセリウスさんは、俺の心情を理解してくれたみたいだ。
リムちゃん達の前では元気でいないとな。
だが、セリウスさんの前なら、少しは寂しそうな表情を見せてもかまわないだろう。
姉さん。俺は此処にいるよ。…早く帰ってきてくれ!
果たして俺の思念の叫びが姉さんに聞こえたか。この世界の外側に出かけたんだろうけど、浦島太郎にはならないでくれよ。