#505 氷壁
朝日も昇らない峰々に、アイスハンマーを氷に打ちながら上る音が木霊する。
斜度は30度位なんだが、岩肌全体が氷の壁に見えるぞ。
ゆっくりと確実に足場をアイゼンで確保して、左右の手に持つアイスハンマーを交互に使って上っていくんだが、下では姉貴達がハラハラした表情で俺を見ているだろう。
イオンクラフトで先行したディーが氷壁の上にアイスハーケンを深く打ってロープを落としてくれたから、それを命綱にして腰のカラビナに通している。
この場で転落しても下まで滑落はしないだろう。
本来ならばディーを頂上に残してロープを確保して貰いたいのだが、何せ冬の山中だ。いつ灰色ガトル等の獰猛な北の獣が来るか分らない。姉貴達の傍にいた方が何かと心強いからな。
100m程の氷壁を、それでも30分程で上ることが出来たから、意外とエベレストを目指せるんじゃないか? なんて考えながら、急いで周囲を調べる。
どうやら俺は岩棚の一角にいるようだ。
それ程広くはないが、俺達全員が一時の休憩は出来そうだな。
そして、更に数十mの氷壁が控えている。今度の壁はかなりきつそうだ。どう見ても60度近くありそうだぞ。まぁ、距離が短いから少しは楽かもしれないけど。
ディーが打ち込んだアイスハーケンの具合を確かめている。合計3本が2m程の距離を置いて3角形に打ち込まれていた。ハーケンの長さは50cm程あるから氷の露出面に10cm程出ているところをみると、確実にその機能を果たしているようだ。
カラビナからロープを外すと、腰に短いロープを回して、アンカーを作っているロープの一つに結びつけた。これで俺が落ちる事は無いだろう。
岩棚の端に行くと、下の姉貴達を見下ろす。
「次ぎはアルトさんだ。アイゼンを氷に打ち付けて、ロープを頼りに上って来てくれ!」
下でアルトさんが頷くのが見える。
姉貴がアルトさんのロープとカラビナの調整をして、アルトさんの肩をポンと叩いた。
教えたとおりに氷壁に対して垂直に立っているな。
足を氷に叩きつけるようにして歩いている。ロープに体重を掛けているから、俺の肩にその重みが伝わるが、あの体だからな。肩に食い込む事は無い。
そして、10分も掛からずに俺の隣に姿を現した。
岩棚の奥に歩いてカラビナからロープを外すと別のロープで俺と同じようにアンカーに短いロープを取り付けた。
「次ぎはリムちゃんだ。ゆっくりで良いぞ!」
下の姉貴達に告げる。
そんな事を繰り返して1時間程で全員が岩棚に揃った。
次ぎは、ちょっと手強いぞ。
アルトさんが携帯用のコンロを持ち出してお茶を作って皆に配る。
「氷を登のも面白いのう。」
「この道具を使うと滑らないんですね。」
アルトさんにリムちゃんはご機嫌だな。
今夜はサーシャちゃん達に自慢話を通信機で送るんだと思うけど、兵の訓練じゃ!なんてサーシャちゃんが言い出さないか心配だ。
「次ぎはちょっと手強そうね。あれを登ると山頂なのかな?」
「山頂は殆ど、広場のような場所がありません。直ぐに南に下りる事になります。斜度はそれ程でもありませんが、山頂の雪が風で南に張り出しています。」
雪庇か。ちょっと厄介だな。
「ディー、雪庇を爆裂球で爆破出来る?」
「可能ですが、こちらに被害が出るかもしれません。」
「ディーなら、イオンクラフトでホバリング状態を保てるだろう。この杖で、本来の山頂部を探って、それより南に仕掛ければ危険性は減らせるだろう。念のためにアイスハーケンをもう一つ打って俺達は体を固定する。そして姉さんに【カチート】で障壁を作ってもらえれば小さなかなり安全だ。」
「了解しました。」
ディーは俺が取り出した杖を持って山頂を目指した。
やはりイオンクラフトは便利だな。
急いでアイスハーケンをもう1本端の方に打つとロープをそれに結びつける。俺達はそのロープに腰のカラビナを通した。
姉貴が【カチート】を掛けて障壁を作ると、山頂からディーが手を振っている。
俺が準備が出来た事を大声で告げると、数秒の時間を置いて鈍い爆裂球の炸裂音が響いてきた。
パラパラと氷の破片が降ってきたが、氷壁全体が崩れるような事はなかった。
姉貴が【カチート】を解除すると、山頂からディーが新たなロープを持って下りてくる。
「雪庇の除去が完了です。小さな雪崩が発生していますが、直ぐしたの森で停止しました。」
「下の森まではどれ位あるんだ?」
「1kmといった所です。最初の100m程は急斜面ですが、その下はなだらかで傾斜角は20度もありません。」
俺達が用意したロープは100mが2本、20mと30mが1本ずつだ。
山頂から下ろしてきたロープが長尺の最後だから、此処まで上ってきたロープを使って山頂から下りなくてはならないな。そして、少しロープを継ぎ足す事が必要だ。ディーの持っている30mを継ぎ足して南斜面を下りるのに使えば良いだろう。
「ちょっと段取りが面倒だ。俺が先行して尾根に向かう。俺は尾根で待機するが、皆は登ったらそのまま今度は南に下りる事になる。傾斜がきついから、足場をしっかりと作ってくれ。そして姉さん今度は先行だ。先に南斜面で皆をまとめてくれ。」
「良いわ。周囲の安全を確保しておく。」
「では、私が一旦尾根にハーケンを打ってロープを南に下ろします。」
俺達が話している間に、ロープを繋いでいたようだ。肩にロープを担いでディーが尾根を目指して上っていった。
「この杭みたいなものはどうするのじゃ?」
「最後に俺が回収するよ。また使う機会があるかもしれないからね。」
こんな装備を最初から作っておけば、グライトの谷を冬に上る事も容易に出来たろう。まぁ、まさかあんな依頼があの季節に舞い込むとは思わなかったけどな。
村に着いたら、セリウスさん達に使い方を教えてやろう。また同じような依頼があるとも限らないからな。
ディーが戻ってきたところで、俺が先行する。
アイスハンマーを今度は左手だけで使い、もう片手はロープを握る。
ガツガツとアイゼンの爪を氷に打ち付けて3点支持でゆっくりと上っていく。
尾根の雪庇が20m程の範囲で崩れている。南斜面を見ると、なるほどちょっとした雪崩だな。氷の斜面の下に崩れた雪崩の跡が森で止まっている。
「へ~、これでダリル山脈の尾根を越えた事になるのね。」
何時の間にか姉貴が、俺の残したアイスハンマーを使って氷壁を上ってきたようだ。
「雪崩の跡の上部で皆を待っていて。」
「あそこね。森から距離があるし、見通しも良さそうね。」
カラビナのロープを南斜面に垂らした方に変えると、アイスハンマーを使って器用に斜面を下りていく。
俺より慣れているぞ。どこでそんな訓練をしたんだろう?
海兵隊の訓練は姉貴と別行動の時が結構あったけど、その時かな。
下で手を振る姉貴に片手を上げて応える。そして、アルトさんに上ってくるように合図を出した。
ロープをしっかり握って氷壁をアルトさんが上ってきた。
上ってきたところで、腰のカラビナのロープを換えてあげる。
「ちょっと斜度がきついから慎重にね。」
「分っておる。大丈夫じゃ。それに転べばそれだけ早く下に着けるぞ。」
そんな事を言って尾根の向うに姿を消した。
何か不安だけど、南斜面を覗き込むとゆっくり氷壁を下るアルトさんの姿が見えた。
リムちゃんが次に続く。
最後はディーがアイスハーケンを回収して俺の所に上がってきた。
「マスターの番ですよ。マスターが下に着いたらハーケンとロープを回収して後を追います。」
「分った。じゃあ、後を頼むよ。」
そう言って、ロープを掴んで一気に斜面を駆け下りる。
ロープを腰に着けてるとはいえ、俺の姿を見たリムちゃん達が口に手を当てて驚いてるようだ。
垂直降下訓練はだいぶやらされたからな。これ位の斜度なら問題ないぞ。
「そんな下り方があるのじゃな。最初は吃驚したぞ。」
下に着いた俺にアルトさんが駆け寄ってきて呟いた。
「昔、崖を下りる訓練を繰り返してたんだ。その応用だよ。」
「ふむ。戦闘工兵には無理じゃが、特殊戦に特化した部隊には有効じゃな。後で、サーシャに教えてやろう。」
何か、歩兵部隊が苦労しそうだな。
そんな所に、ディーが空から下りてきた。
「ハーケンを回収しました。ロープと共にバッグの中です。」
「良し、先に行こう!」
姉貴達の所に行くと、姉貴とリムちゃんが森を睨んでいる。
何か見つけたのかな?
「この森は少し危険みたいよ。さっき、灰色ガトルの群れがチラリと見せたわ。」
「やはり、獣は南側に移動していたんだな。とは言っても、雪の斜面は危険だぞ。」
「灰色ガトルであれば1kmの範囲で探知出来ます。襲撃に備えながら進めば良いでしょう。夜は【カチート】で対処出来ます。」
「それしか無さそうじゃ。グルカと弓を装備しておけば不意を疲れても反撃は出来るじゃろう。」
アルトさんはそう言ってるけど、問題は俺達の動きが普段と比べて数段に鈍くなっている事だ。
分厚い防寒服は灰色ガトルの牙には少しは役に立つかも知れないが、スノーシューを履いた足では素早く切り込む事が出来ない。
接近戦に持ち込まれないように対処するしかないか…。
姉貴にショットガンを渡して、弾丸を渡しておく。
俺はkar98のスコープを外して肩に掛けた。弾丸を10発程ポケットに入れた。
アルトさん達はバッグからクロスボーを取り出してボルトケースを装備ベルトに取り付けた。3本程爆裂ボルトが雑じっているけど、あれを発射したらどうなるのかな? 雪崩には気をつけないとな。
ディーは戦闘用ぶーメランを長剣の反対側に取り付けている。何かあればディーが頼りだ。
「準備は出来た? 俺が先頭で森の中を東に進む。ディー、何かあれば知らせてくれ。その場で戦闘態勢に移る。」
そう言って、杖で雪の状態を確認しながら森の中に入っていった。
森はだいぶ雪が深い。北風が頭上を逃げるように吹くから、風も少ない。
スノーシューを履いても30cm程足が雪に埋まる。
おかげで【アクセラ】で身体機能を上げても俺達の進む速度は1時間に2kmがやっとだ。
昼になった所で昼食を取る。
スノーシューで周辺を踏み固めて、アルトさんが取り出した携帯用コンロに火を作る。燃え上がった所で炭を入れればお湯を沸かすのは簡単だ。難点は焚火のように皆で温まる事が出来ない事だな。
それでも、薄いパンをコンロで炙って暖かいお茶で食べると少しは体が温まる。
「昼食後に2時間程歩くぞ。それから適当な場所を見つけて天幕を張る。」
「日程は遅れてるの?」
「現在の遅れは2日程です。このまま進めば10日以上遅れると思います。」
10日の遅れはそれ程問題ではない。俺達は残り一月以上の食料を持っているし、予備の携帯食料だって3日分がある。
どちらかと言うと、村で帰りを待っている連中の方が心配しそうだな。
4時前に太い立木の傍に天幕を張った。直ぐにアルトさん達が中に入り込む。
今は-8℃位だが、これからどんどん気温が下がっていく。焚き火で暖を取れるまで中に入っていた方が良いだろう。
残った俺達は天幕の周りをスノーシューで踏み固め、焚火台を取り出して焚火を作った。
三脚の鉤にポットを姉貴が吊り下げる。
ディーと一緒に夕食のスープの準備をしている間に、ロープを天幕の周囲に張り巡らせる。
簡単な柵だが、無いよりは良い。
そして襲ってくる方向が一方向なら対処もし易くなる。
イオンクラフトのシートを使って簡単な風除けを作り終えた頃に、夕食の準備が終ったようだ。
少しスープを煮込むと姉貴が言ったので、ディーの入れてくれたお茶を飲みながら一服を始めた。
「これで、私達の役目は殆ど終わりね。」
「あぁ、後は村でのんびりとハンター稼業をすれば良い。哲也達も来年には戻ってくるから、色々と面白くなりそうだ。」
「東の方にも言って見たいよね。」
「哲也の送ってくれた画像を見ると、かなり危険だぞ。キメラの勢揃いって感じだったよな。」
「それよ! あのインドの大河にいたウナギモドキは是非見たいわ。」
だけど暑そうだぞ。あいつ等には問題がなくとも俺達にはちょっとな。哲也の土産話で満足して欲しいものだ。
そんな話をしていると、アルトさん達が天幕から出て来た。
「やはり外は寒いのう。」
そんな事を言いながら風除けの所に2人で座る。確かにそこは焚火の熱がシートで反射するのか少し暖かいのだ。
周辺に獣がいないことを確認して俺達の食事が始まる。
何時ものようなスープとパンだが、焚火を囲んで談笑しながら食べるだけで美味しく感じられるな。