#339 人間チェス
王都の朝の静寂を数発の炸裂音が破る。
慌てて飛び起きたけど、これも職業病なのかな。今日から始まる練兵場での準決勝の合図だと気が付いた時には、装備一式を身に着けていたぞ。
姉貴とアルトさんは爆睡中だから、俺の慌てふためいた姿は見られなかった筈だ。
装備を外して、部屋を出ると通りに出て一服を楽しむ。
貴族街は静かだが大通りの方は人が出ているみたいだ。こんなに早く何処に行くのかと思いながらリビングに入る。
「お早いですね。」
そう言いながら、タニィさんがお茶を運んでくれた。
「あの音で起きちゃいましたよ。…でも、姉貴達はまだ寝てます。」
「あれですね。私も驚きました。」
そう言って、にこりと笑いながら、部屋を出て行く。
入れ違いに嬢ちゃん達が入って来た。ディーも一緒だ。残りは姉貴達だが…何時まで寝てるのだろうか。
そんな事を考えてると、眠そうな顔をして姉貴達が起きて来た。
早速朝食を取って、人間チェスの準備を始める。
何んと、人間チェスは駒そのものを人間が代行する。
キングはセリウスさんとダリオンさんが勤めるが、クイーンは俺とディーが担当だ。
ルークは機動バリスタを使うと言ってるし、ビショップは4つの神殿から若い神官見習いに頼んだようだ。
そして、ナイトはアルトさんの部隊から出す事になっているが、アルトさん本人もどうやら出場するみたいだ。
リムちゃんは出場者への冷たい飲み物を届けるために、小型の荷車を付けたガルパスで出場するみたいだ。
姉貴は、ロイヤルボックスの解説員に指名されている。
人間チェスの開催は3日間。団体、個人の準決勝が2日間に渡って行われる。3位決定戦もこの中に入るようだ。
そして最終日には団体と個人の決勝戦が行われる。
俺達は出番が来るまで王宮内で待機となる。
姉貴だけがTシャツに短パンと涼しげなのに対して、俺達は完全防備だ。歩くだけで汗だくになってきた。
「明日は、控え室で着替えるのじゃ。」
サーシャちゃんの言葉に俺達4人が頷いた。
「アキト、悪いな…屋台を貸してもらって。」
後ろから声を掛けてきたのは、王都に『元祖うどん2号店』を開店したグルトさん達だった。
「今日から俺達も出番ですから、よろしくお願いします。」
アイスキャンディーの需要は結構高い事が分った。
それならと、グルトさんに声を掛けると喜んで引き受けてくれた。
製法も教えてあるから、これからは夏に営業できると喜んでくれたし、夏は暑いうどんの需要が少ないからね。冷やしうどんを始めたらしいが、冬場程の数が出ないと嘆いていた。
グルトさんから貰ったアイスキャンディーを齧りながら歩くと、少しは暑さを和らげられる。
「じゃが、良かったのか?…タダで渡したようなものだぞ。」
「ちゃんと代金は貰うつもりだよ。代金は営業期間中は神殿の孤児院に順番にアイスキャンディーを配ってくれって言ってある。各神殿で養っている孤児達は2、30人だから、それ程負担にはならないだろうし、孤児達も嬉しいよね。」
アルトさんの疑問に答えると、中々考えたのうって呟いていた。
グルトさんの事だ。きちんと約束を果たしてくれるだろう。
昨日まではあれほど賑わっていた王宮前広場だが、何故かしら今日も人混みに溢れている。
王宮への入口に行くとその理由が分った。
大型の掲示板に、チェスの駒が配置できるようにしてある。ここに集まった連中は、どうやら練兵場に入れない人達って事になるな。
周辺の屋台で食べ物を買い入れ、ここで自称名人達の解説を聞きながら食べるのも楽しいに違いない。
王宮内に入り控え室に行くと、教室位の部屋に人が集まっていた。
氷柱が沢山部屋に立っていて、部屋の温度を下げているから外よりはだいぶ過ごし易い。
「ここは過ごし易いが錬兵場は暑いぞ。今の内に涼んでおいた方が良い。」
先客のセリウスさんの言葉に俺達5人が頷いた。
「しかし、俺達は少しは動けますが、セリウスさんはキングですから殆ど動けませんよ。大丈夫ですか?」
「何、向うも同じだ。たまに冷水を掛けてくれるそうだ。兜は暑いが、日光を直接浴びるよりはマシだろう。」
相変わらず前向きな考え方だな。
手には手拭いのような布を持っている。俺達も鎧の下に用意しといたけど、終ったら汗を搾れるような気がするぞ。
冷たい飲み物を貰って飲んでいると、遠くから炸裂音が聞えて来た。
「時間です。錬兵場にいらしてください。」
控え室の扉が開き、近衛兵が顔を出して俺達に出番を告げる。
「さて、出陣じゃ。各々方ぬかるでないぞ!」
アルトさんの、どっかで聞いた事があるような言葉で俺達は席を立つと、錬兵場に足を運ぶ。
「じゃぁ、頑張ってね!」
姉貴が俺達に手を振ると、途中から列を離れる。ロイヤル席の王族相手に解説を頼まれてたからな。
だけど、姉貴のチェスは定石を無視してる。撹乱させといて最後に一気に摘むのが姉貴の流儀だ。そんな姉貴が他人のチェスを解説をするというのだから、人生何が起きるか判らないもんだな。
錬兵場の扉を開いたとたん、ウオオォォーっと言う大歓声に包まれた。
数千人の観客が俺達に声援を送り、あるいは拍手を繰り返す。
ただ、チェスの駒に見立てた人物を駒の配置に合わせて移動させるだけなのだが、それが目新しく観客には思えるらしい。
錬兵場の入場券はタダなんだけど、それを求める者が余りにも大勢だった為に、籤引きで決めたらしい。それも、試合毎の入れ替えだ。
俺達がカナトールで戦っていた時、このモスレムの王都でも試合の入場券を求めて激しい戦いが繰り広げられたとグルトさんが言っていた。
ダフ屋行為もあったらしく、聞くところでは単独の優勝戦の入場券は銀貨を積んで手に入れた者もいたらしい。
近衛兵の指示で俺達は中央に進んで行く。
ナイトやクイーンの俺達にはガルパスが用意されている。久しぶりにバジュラに乗ると、アルトさん、それに騎兵隊強襲部隊の中隊長2人の4亀で錬兵場を薙刀片手に疾走する。
初めて亀兵隊の姿とその機動力を見た会場は、それだけで興奮の坩堝と化した。
歓声が鳴り止まない中を中央の大きなチェス盤の桝目にバジュラを進める。
アルトさんが手を振ると、それだけで興奮した観客が錬兵場に落ちてるぞ。
近衛兵が回収しているけど、大丈夫かな?…ちょっと心配になってきた。
そして、いよいよ差し手が現れた。
着飾った姿はハレの衣装だな。ひょっとして、この日の為に作ったとか…。
差し手2人が中央で互いに握手をすると、ロイヤルボックスに近づいて行った。
新国王のトリスタンさんが立ち上がると、あれ程騒いでいた観客が水を打ったように静かになる。
「ここに第1回人間チェスの開催を宣言する。」
短く宣言すると、近衛兵が捧げ持った采配を持ってロイヤルボックスの下まで歩くと、ボックスの下にたたずんだ、差し手に采配を手渡した。
ゆっくりと差し手は自軍後方の壇上に設えられた席に着く。
つかつかと通信兵が現れ差し手の後ろで信号筒を発射する。それは20m程上昇すると錬兵場に大きな炸裂音と共に火球を作った。
差し手が椅子から立ち上がり采配をパサっと振ると棋譜を告げる。
「d3!」
ポーン役の歩兵が1人前進した。
いよいよ人間チェスが開始されたのだ。
中盤戦になると盤面が少し寂しくなるな。
アルトさんも先程クイーンで参戦しているディーの手で討取られた。
ディーが羽根を使って盤面を滑りながらブーメランでアルトさんに打ちかかると、オオォー!っと観客席にどよめきが走ったけど、まぁ劇みたいなものだからね。
ただ、すごすごと退場するよりは見る方も楽しいだろう。
俺達の差し手はキングを入城させて敵の追撃を遅らせた。
だが、この位置だと…俺達の攻撃を凌いだ後に、敵の反撃が始まるぞ?
相手の長考が始まった隙にリムちゃんが盤面に残った者達に冷たい水を配ってくれた。
観客も次の一手を見守る者、周囲の者と議論を重ねる者等様々だ。
姉貴もロイヤルボックに持ち込んだ小型の掲示板に駒を落として状況の解説を頑張っている。
『私ならこう動かしますけど、この場合はこのように動くのではないかと…』
そんな解説が聞えてくるようだ。
さぞかし、王宮前広場の自称名人達は激論を戦わせているだろう。その、さも自分が正しいと思って相手を貶しながら解説する姿は、見ているだけで楽しいのかも知れない。
長考を終えて差し手が采配を振り棋譜を読み上げる。
俺は斜めに移動してディーを正面に捉えた。俺の斜め後ろには魔道師のビショップがいる。
敵の差し手の采配でディーが俺に滑るように近づきブーメランで打ちかかる。それを薙刀で弾き返すと、弾かれた力を利用して体を回転させると再び俺に打ちかかる。
俺の首筋でピタリと止まったブーメランをチラリと横目で見ると、大げさにバジュラの上に倒れこんだ。
バジュラが静かに盤面歩いて去っていく。
チェス盤を出たところで起き上がると盤面に目を向ける。そこには魔道師が【メル】をディーの頭上高いところで炸裂させた。
それを合図にディーが盤面を去る。
数手の応酬があった後、俺達の差し手が采配を傍に控えていた近衛兵に手渡した。
そして立ち上がると相手に深々と頭を下げる。
負けを認めたようだ。
錬兵場に大歓声が巻き上がる。
姉貴は、何故負けたのかを解説しているみたいだ。10手近く先を読んで駒を動かしているから、中には負けたと判断する理由が判らない者もいるだろう。
上級者の勝負は最後まで行なわずに終るから、俺達にはちょっと判りかねるけどね。
次の試合は昼食の後になる。
俺達は控え室に引き揚げると、早速鎧を脱ぐ。アルトさんはリムちゃんを連れて直ぐに部屋を出て行った。たぶんお風呂に入ってくるんだろうな。俺達も順番で入れるように手配してくれていた。
「次は時期をずらすように進言しよう。鎧は暑くてかなわん。」
ダリオンさんが呟くと、俺を含めた全員が頷いた。
「相手を攻撃する時と、やられた時の演技も大事ですね。やはりそれらしく見えるようにしないといけません。」
「それは、そうだが…俺達は全員真剣だ。余り演技にこだわって相手に怪我を負わさぬように注意しろよ。クオーク様が【サフロナ】使いを待機させていると言っていたが、お前達にそれ位の技量がある事を俺は信じているぞ!」
セリウスさんが誰かの話を受取って全員に注意する。
その時、扉が開いてグルトさんがやって来た。
「ここにいたんだな。許可は貰ってる。暑い時はこれが一番だ!」
そう言ってアイスキャンディーを配ってくれた。そしてさっさと帰っていく。
俺達はがりがりと齧り始める。
「ほう…こんな物も王都にはあるんだな。」
感心している歩兵もいる。
確かに火照った体にはありがたい差し入れだ。
後の試合を考えると少し気が滅入るけど、これで皆のやる気が出ると良いんだけどね。