#173 策略
アクトラス山脈の頂きに輝く雪は次第に下に下りてきているように見える。冷たい井戸水で顔を洗って、ふと見上げた山々の姿は昨日とだいぶ違った見える。
麓にも紅葉が広がってきたし、この村を取り囲む自然が一番華やいだ季節なのかもしれない。
そんな自然とは裏腹に、モスレム王国には暗雲が立ち込めている。このまま何も起こらずに晴れてくれればいいのだけれど、そうはいかないようだ。
そんな事を考えながら朝の一服を楽しんでると、姉貴が「おはよう!」って家から出てきた。
井戸端を姉貴に譲って家に戻ると、ディーが朝食を用意してくれていた。
直ぐに、朝食のスープが配られると、姉貴が外から帰ってくる。
「「頂きます!」」を言って、柔らかく焼いた黒パンを齧る。
「皆、どうしてるかな?」
姉貴がスープにスプーンを入れながら呟いた。
「まだ、3日しか経ってないよ。嬢ちゃんずはマケトマムについて一休みだと思うし、イゾルデさんは多分まだ王宮だと思う。」
「セリウスさん達も行ったきりだよね。御后様は連絡が無いのは何もないことじゃ。って言ってるけど…。」
「携帯みたいな通話手段が無いからね。ギルド間では魔石を使って通信が出来るみたいだけど、それはギルドの独占みたいだ。」
後千年もしたら携帯電話位出来そうな気もするけど、この世界に科学という概念が無いみたいだから、もっと遅くなる可能性の方が高いような気がする。
そんな事を考えながら食事を終えると、少し早いような気もするが、ギルドへ3人で出かけた。3日毎に集まる。それが俺達の決め事だ。
通りには、南の森へ薪を取りに出かける村人位しか人影は無い。
もう少しすると、西区画の拡張の土工事を請け負った村人達が大勢通るはずだ。
ギルドの扉を開けて、シャロンさんに挨拶すると依頼掲示板の依頼書を見る。数枚の依頼書は何れも薬草類の採取依頼だ。溜まらない限り、ルクセムくんの仕事に取って置こうと思う。
テーブルに座ると、姉貴がシャロンさんからお茶を貰ってきた。
「依頼はあったの?」
「ルクセムくん向けだね。溜まってしまったら手伝ってもいいかも。今は2人に任せておけばいいと思うよ。」
そんな話をしているとキャサリンさんとルクセムくんがやってきた。
早速掲示板に足を運んで依頼書を1枚剥がしてシャロンさんの所にもって行く。ベタンっと大きな印を押して貰うと、俺達の方にやってきた。
「お久しぶりです。その後、変化はありましたか?」
「今の所は無いよ。でも、依頼はなるべく南でこなした方がいいと思う。今日は皆が集まるから少しは情報が分かるかも知れない。」
「今日の依頼も、南で採取できます。北に向かう時はお知らせしますね。」
そう言って、2人はギルドを出て行った。
入替りに御后様がギルドにやってきた。早速俺達のテーブルに来て、俺の隣に座った。
「早いのう。そうじゃ、アルト達じゃが、無事マケトマムに着いたそうじゃ。アン達と2つ目の砦を作るそうじゃ。イゾルデは王都におる。サーミストが盗賊退治ならばと兵隊を20人出してくれる事になった。到着次第、イゾルデの部隊100人と共にカイナル村へと向う手筈じゃ。カイナル村への屯田兵50家族は既にカイナル村におる。ぎりぎりで何とか間に合いそうじゃ。」
カイナル村は川辺の村だ。西への出口である砦を守っている限り、モスレムへの進軍は不可能だろう。イザとなれば橋を落とす事も出来る。上流部はリザル族が見張っているから、山側に大きく迂回しても直ぐに知る事が出来る。そして季節は冬になる。迂回ルートは閉ざされるだろう。
問題は東だ。新興国の国王がどのような人物かは流石のトリスタンさんでさえも詳細を知ることは出来ないだろう。
王族として兄を助ける事をあえて拒み、新興国を作るだけの策謀と財力を持つという事は、王子であれば可能なのだろうか…。優れたバックを持っているとしか思えない。
そして、新興国であればこそ国境を可能な限り大きくしたいはずだ。泉の森をどれだけ切り崩せるかが荒地の開墾を左右すると言っていいだろう。森には水がある。それが彼らの侵攻理由になろう。
「アン姫達は本当に大丈夫でしょうか?」
御后様が姉貴の顔を見る。その顔は何時もの柔らかな年上の女性の顔ではなかった。
厳しい、能面のような表情を殺した顔を俺達に向ける。
「かなり、問題がある。かろうじて屯田兵500を送る事が出来たが、相手の兵力がまるで分からん。場合によっては本国が派兵をするやも知れぬ。…サーミストはアンが東に向うと聞いて、1000人の部隊を送ろうと言って来た。有難い申し出じゃが、受けるわけには行かぬ。現時点では侵略を受けてはおらぬ。20人ならさほど問題とはならぬが、1000人となれば他国からはモスレムとサーミストの軍事同盟と映るじゃろう。更なる緊張を招きかねん。現在はモスレム国境を目の前にして待機中じゃ。」
「マケルト王国から、スマトル王国の様子は判らないんですか?」
「トリスタンが懸命にしておるよ。商人も一枚噛んでおる。例の綿の種で怨みがあるようじゃからな。」
今度は少し微笑んで御后様が姉貴に応えた。
そう言えば、かなり怒ってたな。こんな所で仕返しするつもりなのかな。
「そこでじゃ、ノーランドへ派遣したニードルの内容によっては、雪に閉ざされる冬の間、婿殿にマケトマムに行って貰いたい。ここには、我の警護として王都より高レベルの近衛兵を派遣させる。セリウス達と一緒であれば早々遅れを取るとも思えん。」
アクトラスとネウサナトラムが雪に閉ざされる期間という訳だな。
今が11月だから来年の4月迄の5ヶ月間か…。その期間で東の守りを万全にしろって言外に言ってる気がするぞ。
ガタンっと音がしてギルドの扉が開く。セリウスさんとミケランさんが探索から帰ってきたようだ。
「ご苦労じゃった。」
御后様の言葉にセリウスさんは軽く頭を下げて俺達の対面に座った。
「今のところ、不審な獣はおりません。西の沼地が見える大きな岩でリザル族の戦士と出会いました。彼らの探索にも不審な獣は見ていないとの事です。」
セリウスさんはシャロンさんからお茶を受取って一口飲んだ。
ミケランさんはホールを走り回っているミクとミトを追い駆けてる。
「西のリザル族と連携が取れた事は重畳の限りじゃ。今日はゆっくり休むが良い。そして明日以降もよしなにな。」
御后様の言葉にセリウスさんは頭を下げると、席を立った。シャロンさんに何事か指示をしてミケランさん達と共にギルドを後にした。
しばらくして、アンドレイさん達とガラムナさん達が連立ってギルドを訪れた。
御后様への報告はどちらも異常なしだった。
御后様は彼らの報告を丁寧に聞くと、それそれに労い言葉をかける。
彼らがギルドを引き上げると、御后様が軽く吐息をついた。
「どうやら、まだ入り込んでいないようじゃな。じゃが、まだ分からん。しばらくは彼らに監視を続けて貰う事になるじゃろう。…さて、帰ろうかの。所で先ほどの話じゃが…よろしくな。」
そう言うと御后様は帰って行った。
「あれって、俺達にマケトマムに行けって事かな?」
「御后様は北の脅威は見せ掛けだと判断してるみたいね。カイナル村の大きな川は1000人の兵隊に匹敵するわ。少ない兵で守るには十分なのよ。でも東はそんな要害は無いわ。アイアスさん達が率いる亀兵隊100人に屯田兵が500人。ハンターが10人程度でしょう。最悪で5000対600になるかも知れない…。」
「5000だとモスレムの全兵力だよ。そんなに出せるとは思えないけど。」
「人間は最大でも2000に届かないでしょうね。でも、彼らには獣使いがいるから…。」
なるほど、獣を調達すればいいわけだ。獣で蹂躙した後を人間がここは俺達の土地だと宣言する訳だな。
「後はニードルの調査結果次第って事だよね。」
「私も、御后様と同じ考えだわ。北の脅威は敵の策だと思う。でもね、その策って誰の策なんだろうね。私はそっちが気になるのよね。」
そんな話をして俺達も家に帰る。でもその前に雑貨屋で爆裂球を手に入れた。手に入る時に確保しておかないと、この後どんな戦いが俺達を待っているか判らないからだ。
家に戻ると、早速準備に取り掛かる。
基本は全て持って行く事になるけど、食料と銃の弾薬は確保しておく必要がある。増えるのは極僅かだけど、毎日少しずつ貯めこんどけば出かける時には十分な量になるだろう。姉貴もグレネードの弾丸を増やすようだし、俺にもパイナップルを1個渡してくれた。
「問題は、数よね。マリエッティの時でさえ1000を越えた獣を使ってるのよ。本格的な侵攻を図った時にどれ位使うか、想像出来ないわ。…御后様は5000と言ってるけど、あまり当てに出来ないと思うの。」
「カンガルーと大トカゲなら結構やりやすいよ。カンガルーを倒して大トカゲが群がった所を爆裂球で倒せばいいんだ。」
「そんな組み合わせで来るかしら…。獣使いもそれ程バカでは無いはずよ。前の時は空からの夜襲を気付かれないために、獣だったら何だって良かったのよ。でも、今度は違うと思うな。」
「東の荒地ってタグの巣があったよね。まさか、タグを使ってくるとか…。」
「それも考え難いわ。タグって虫よね。獣使いは聞いたけど、虫使いって聞いて無いもの。」
となると、比較的集めやすくて、それなりに脅威となる獣って事になるのかな。でも国が代わると獣の種類も異なるのがこの世界だ。俺達がまだ見ない獣ってことも十分にありえる。
予備知識として御后様に聞いておいた方がいいだろう。ハンターを長くやってたみたいだから意外と詳しいかもしれない。
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そんな日が10日も続いたろうか。御后様が俺達の家を訪ねてきた。
ディーが俺の対面に御后様を案内する。
「ニードルの報告を受けたのですね。」
姉貴の問いに御后様が頷いた。
「ノーランド王国は兵を動かしておらん。そして、軍の獣使いは全て王都の兵舎におるようじゃ。ということは…。」
「この冬は大掛かりな侵攻が無い。ということですね。」
「そうじゃ。後は電撃戦じゃが、西は川で止められる。しかし、東はどうにもできんじゃろう。トリスタンからの連絡ではスマトル本国からの増援は2000だそうじゃ。それに傭兵が1500。後は獣じゃな。じゃが、元々の遊牧民の反攻に備える為に全軍を西に向わせる事は出来ぬじゃろう。最低1000は手元に置く事になる。我等の国境に押し寄せる兵は2500じゃ。そして、獣の数はこの2倍と見れば良いじゃろう。」
合計7500って事になる。国境の守備兵力は約600人。10倍以上の数だ。
戦争は数だって誰かが言ってたけど、少数精鋭で対処できるレベルでは無いぞ。
「もし、一戦が開始されたら、増援を期待出来るんですよね。」
「王宮から1000。そしてサーミストから1000が5日で駆けつける。何としても5日持ちこたえよ。場合によっては一旦砦を放棄してマケトマムの村に篭るのも良いじゃろう。お前達が王都に来ぬ訳は判っておるつもりじゃ。じゃが、新たな国造りにモスレムの民が巻き込まれるのは忍びない。このような策を要して国境を侵すような奴等じゃ。ミズキ、砦の指揮を一時でよい、執ってくれぬか。」
姉貴はしばらく考えていた。俺が傍らでタバコを1本吸い終えた時、じっと御后様の顔を見ていた姉貴が小さく頷いた。
それを見た御后様は銀の短剣を懐から出すと姉貴の前に置いた。
「我が故郷、エントラムズ王国の紋章が鞘に刻んである。ジュリーにこれを見せよ。さすれば全てがお前の指揮下に入る。機材、資金全ては王家が提供する。その指揮により亡くなった者については王家が責任をもって保障する。」
さりげなく短剣を覗いてみると、短剣の柄と鞘が金色の髪で編んだ紐で結ばれてる。これって、例の短剣なのか?
「明日、出発します。」
「我の馬車を用意させる。一気にマケトマムに走るのじゃ。良いな。」
そう言って、御后様は帰って行った。