私とした事が…
こうして恥ずかしげもなく、このヒロインの子に立ち塞がった後、まずは頰を引っ叩いて挨拶代わりの目覚まし、倒れたら蹴りで『早く起きろ』のモーニングコール。そんな仕打ちを受けた彼女は、すぐに言葉が口から生まれなくなるでしょう。その代わりに、音のない嘆きが水線となって彼女の頬を濡らし、顎の先から冷たい記憶の滴のように絶え間なく地面へと落ち続ける。彼女の頬を伝うのは、単なる涙ではない。それは今まで受けてきた、酷い仕打ちが刻まれた魂のひびから溢れ出る絶望。学園という最後の依代に淡い希望を抱く彼女。そんな彼女を奈落へと引きずり落とす一手を、私自ら下す。退屈という名の器を快楽で満たす為だけに。でも現実は無情よ。既に惨劇を味わい、精神を保つのもやっとな涙を流す彼女の後頭部を踏みつけ、今どき痛々しい芸術的な高笑いを、何故か持っている扇子と共に披露する。彼女はこの先ずっと味わう絶望を脳裏に焼きつかせながら、涙を拭うしかできない。それが本来のシナリオ。のはず。
なのに私は……無駄に脳のシワに残ってしまっている記憶のせいで……。驚くべき記憶力よね。おかげで、『忘れたいこと』を忘れる方法だけ、完全に忘れてしまったわ。ああ、でもそれはみんな同じか。ともかく、記憶から投げ掛ける、この子の純粋な心と言葉と共に癒されてしまった。まるで助けを求める、愛らしい、捨てられた子犬。自分が誰で、相手が何者かも分からない。なのに毛で覆われた目元で必死に訴えかけ、抑えきれない尻尾の喜びで夢中にさせてくる。例えが天に届かなかったのなら、ほっとけない弟妹か後輩かしら。とにかく、癒しとの無縁期間がギネス級だった私は不覚にも癒されてしまった……。その事実だけは紛れもなく変わらない……。
この子のバックストーリーを知っていたから? それともこの、不測の事態こそ、私という魂への罰そのものなの?
集う生徒達からのヒソヒソ話が聞こえてくる。墓まで持っていく秘密なんて、この世には存在しないのよ。特に悪役耳を持っている私の前では。
見て、意地悪なアデレイル様が新しい玩具を見つけたみたい。
しーっ、聞こえちゃうよ。アデレイル様は黒魔術で魔女の耳を縫い付けているのよ。
あなただって言ってるじゃない!
しーっ、声が大きいって。
柔い刃ね。私の健康を案じてくれるありがたい栄養剤だわ。
バトンはないけどバトンタッチを受けた私。この体の令嬢が今まで一体何をしてきたか、細部までは知らない。大凡程度のみ。
記憶が戻ってから、善人ぶるなんて面倒な事はしなかった。今まで通り、記憶ある無しに拘らず、私は私のままでいただけ。それが楽な生き方だったから。
目の前のこれに会うまでは……。目を細め、ヒロインを凝視する。
あ、あの……軽々しく挨拶してしまい。ごめんなさい……。彼女の表情は、光を失った夜空のように暗くなり、それは言葉にならない叫びで包まれているかのようだった。唇は力なくひらき、吐息は震え、空気に溶けていってしまっている。でも彼女の瞳には僅かな希望を求める灯火が…。その灯火が私の酷く、醜く凍りついた心を焦がし、溶かしていく。
そ、そんな目で見つめないで。
彼女はさらに酷く怯える表情を見せる。恐らく、私の運命に抗う顔が、勘違いで恐ろしく見たからでしょう。
彼女の表情は、逃げ場のない孤独を映し出している。悲劇のヒロインが演じる、最も美しく、最も儚い瞬間でもあった。




