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【電子書籍化決定】私の婚約者は、どうやら婚約解消をしたいらしい

作者: 榎本モネ
掲載日:2026/01/01



 私、ランタナ・エルルは、貴族社会の女性たちからすると、


「とても幸運」で

「身の程知らず」な

「馬の骨」らしい。


 少なくとも、彼女たちの囁き声を総合すると、そうなる。


 もっとも、それを耳にするたび、胸を痛めたり、夜も眠れなくなったりはしない。むしろ、「また始まった」と、内心で肩をすくめる程度だ。

 私がそうした評価を受ける理由は、きわめて単純である。


 私の婚約者が、侯爵家長男クレマチス・アルベルトであるからだ。


 クレマチス・アルベルトは、美しい。

 それは誰が見ても認めざるを得ない事実であり、否定しようとすれば無理が生じる。

 整った顔立ち、過不足のない体躯、感情をほとんど表に出さない冷静な物腰。

 王女付き近衛という立場も相まって、彼は社交界で常に目を惹く存在だった。


「近づきがたい」

「高嶺の花ならぬ、高嶺の人」


 そう評する声を、私は何度も聞いてきた。

 そして同時に、必ずと言っていいほど続く言葉がある。


「……あの人が、どうしてエルル家の娘なんかと」


 それが、私、ランタナ・エルルの評価であった。


 エルル家は没落しているわけでも貧乏であるわけでもない。だが、王都でも指折りの名門というほどでもない。

 堅実で、無難で、目立たない。それが我が家の立ち位置だ。


 私は次女であり、社交界で殊更注目を浴びる存在でもなかった。顔立ちも、取り立てて噂に上るほどではない。知性はあるが、見せびらかす趣味はない。友人はそれなりにいるが、派閥を率いるタイプでもない。

 つまり、「どこにでもいる貴族令嬢」である。


 その私が、クレマチス・アルベルトの婚約者。それは、多くの令嬢にとって、理解しがたい出来事だったのだろう。

 もっとも、理解しがたく思っているのは彼女たちであって、私ではない。なぜなら、この婚約は、政略ではないからだ。


 クレマチスが、私を選んだ。

 ただ、それだけの話である。


 私とクレマチスは、直接会うのは、社交の場か、公式な行事、あるいは互いの家を訪問するときだけだ。それ以外だと、お互いに日々の様子を記した手紙を送りあっている。

 その距離感は、私にとって心地よかった。


 ――もちろん、世間はそうは見ない。


「きっと裏がある」

「家同士で何か取引があったのでは」

「弱みを握ったのかもしれない」

「すでに冷め切っている」

「そのうち婚約を解消するに違いない」


 そんな憶測が、もっともらしい顔で語られる。



 その日も、私はいつも通り、社交の一角に身を置いていた。


 王城の庭園で開かれた、ささやかな茶会。主催はアンリエッタ王女。年若く、可憐で、誰からも愛される存在だ。


 私は王女と特別親しいわけではない。だが、無礼を働いた覚えもない。

 距離を置かれていることもなく、このようにお茶会に招かれるし、お会いすれば礼を尽くす。それ以上でも、それ以下でもない距離。


 それで十分だと、私は思っていた。――少なくとも、そのときまでは。


「……ランタナ様」


 名を呼ばれ、振り向く。声の主は、あまり会話を交わしたことのない令嬢のひとりだった。柔らかな笑みを浮かべているが、視線はどこか探るようだ。


「はい、何でしょうか」


 そう返すと、彼女は周囲をちらりと見回し、声を落とした。


「――ある噂を耳にしまして」


 噂。

 その言葉を聞いた瞬間、指先がほんの一瞬、ティーカップの縁で止まった。

 それから内心で、ため息をつく。来たか、と思ったのだ。


「どのような噂でしょうか」


 即答はしない。それは、防御でもあり、礼儀でもある。令嬢は少し困ったように眉尻を下げ、しかし言葉を続けた。


「クレマチス様が……その、婚約を解消したがっていらっしゃる、と」


 ああ、やはり。私は驚いた顔を作ることもなく、ただ静かに彼女を見返した。


「それは、どなたから?」


 問い返すと、彼女は少し躊躇いながら答える。


「先日の美術館で行われたお茶会で、王女殿下にお付きの方々が、口々に。ランタナ様はご参加されていらっしゃらなかったので……」

「そうなのですね」


 そう返しつつ、先日の美術館でのガーデンパーティは所用で参加していなかったな、と頭を整理する。


 このような噂話ははじめて聞いたものの、私は困惑も動揺も見せなかった。

 なぜなら、この噂の内容自体に、現実味がなかったからだ。もしクレマチスが婚約解消を望んでいるなら、私がそれを噂で知るはずがない。


 彼は、必要なことは、必要な相手に、必要な形で伝える。回りくどい裏工作など、彼のやり方ではなかった。


 だから私は、泣きもしなければ、逃げもしない。

 ただ、ひとつだけ思った。


「――ああ、面倒なことになりそうだな」と。


 私が出席していない場で、様々な人の耳に入る形で、王女殿下にお付きの令嬢……つまり、王女殿下の取り巻きたちが噂をまわしている。それはつまり、彼女たちの噂が本当であると、"周知の事実という形"を作り出そうとしているに他ならない。


 その場では、それ以上のやり取りはなかった。

 令嬢は曖昧な微笑みを残して去り、私は再び紅茶に視線を落とした。琥珀色の液体は、微かな湯気を立てながら、何事もなかったかのように揺れている。


 ――婚約解消を望んでいる、か。


 それは、聞く者によっては十分に心を乱される内容だろう。

 だが私にとっては、確認すべき事柄がひとつ増えただけの話だった。


 「噂」という形で流れている以上、誰かがそれを“望んでいる”のは確かだ。だが、望んでいる者と、当事者の意思は一致しない。


 視線を上げると、少し離れた場所でアンリエッタ王女が談笑しているのが見えた。

 淡いピンク色のドレスに身を包み、光を受けるたびに柔らかくきらめく金の髪。その輪郭は幼さを残しており、笑うと年相応の無邪気さが前面に出る。


 ――可憐だ。


 その評価に異論はない。

 事実、彼女は美しく、愛らしい。


 そして、その周囲には、常に人がいる。彼女が声をかければ笑顔が集まり、視線を向ければ応える者がいる。


 可愛らしい声を紡ぐ彼女の口から出るのは、

「――素敵だと思わない?」

「――そうだったら、幸せよね」

 という、柔らかな言葉だ。


 その言葉をどう受け取るかは、聞き手に委ねられている。

 だが、王女の言葉を“そのまま”受け取る者は、ほとんどいない。誰もが、その奥に意味を探し、期待を読み取り、先回りする。

 それが忠誠であり、善意であり、そして――暴走の温床でもある。


「クレマチス様は、やはりお優しい方ですわ」


 誰かがそう言えば、


「殿下にだけ、少し表情が和らぐように見えますものね」


 と、別の誰かが続く。

 アンリエッタ王女は、その会話に曖昧な微笑みを浮かべるだけだ。


 否定もしない。

 肯定もしない。

 ただ、少し頬を染めて視線を伏せる。それだけで、周囲は“理解したつもり”になる。


 ――ああ、なるほど。

 私は紅茶を一口含みながら、静かに思う。王女殿下は、クレマチス様をご所望らしい。


 そんなことを思っていた私は、後になって、このときの王女の沈黙と微笑みの意味、そしてその結果を、何度も思い返すことになる。


「ランタナ」


 再び声をかけられ、振り向く。

 今度は、私と親しい令嬢だった。彼女は私の表情を見て、少し眉を上げる。


「……何か言われた?」

「ええ、少しだけ」

「そう」


 彼女は溜息をついた。


「本当に、皆、暇なのね」


 その言葉に、私は思わず小さく笑った。


「同感」


 私には、友人がいる。味方、というほど大仰なものではない。だが、現実を一緒に見てくれる人間は、確かにいる。    


「ねえ、ランタナ」


 友人は声を落とした。


「あなた、どうするつもり?」

「どう、とは?」

「噂」


 私は、少し考えてから答えた。


「確認するわ」

「……本人に?」

「ええ」


 それ以外に、何があるのだろう。噂に噂を重ねて、憶測で悩むほど、私は暇ではない。

 友人は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに苦笑した。


「あなたらしいわ」


 その一言に、私は肩をすくめる。


 クレマチス・アルベルトは、感情を表に出さない。

 笑うことはあるが、それは社交上の微笑みだ。怒る姿を見た者は、ほとんどいない。だからこそ、周囲は彼の内面を想像し、推察し、令嬢たちは私との婚約に対して彼が不満を持っているはずだ、という幻想を見る。


 だが、彼をよく知る者は、理解している。必要と判断すれば、彼は躊躇しない。


 だからこそ、噂が可笑しかった。

 もし彼が婚約解消を望んでいるなら、こんな回りくどい形を取るはずがない。もっと直接的で、もっと静かで、そしてもっと、逃げ場のない形を選ぶだろう。


 その日の茶会は、何事もなく終わった。

 少なくとも、表向きには。


 だから私は、その夜、机に向かった。

 誰にも相談せず、誰にも愚痴を言わず。ひとりで、静かに、紙を取り出す。


 ペン先にインクを含ませ、そっとペンを走らせる。しかし、インクを含ませすぎて、冒頭の文字が少しにじんでしまったので、新しい紙を取り出して、改めて宛先を記した。


 ――クレマチス様。


 短く、しかし確かな文字で、私は書き始めた。

 噂のこと。茶会のこと。私がどう感じたかではなく、どう判断したか。

 そして最後に、こう記した。


「あなたの言葉を聞かせてください」


 余計な感情は、書かない。誓いも、疑念も、並べない。

 必要なことだけを、必要な形で。それが、私と彼の間で、最も自然なやり取りだった。


 封をし、手紙を閉じる。この一通が、すべての始まりになることを、私は理解していた。同時に、終わりでもあることも。

 しかし、私には少しも不安はなかった。



■■■


 ある日。特に親しいお友達だけを招いたアンリエッタ王女のお茶会は、午後の静かな時間に開かれていた。

 王城奥の小広間には柔らかな光が差し込み、春の花が控えめに飾られている。


 集められた令嬢たちは、王女の表情や声色の変化に、自然と注意を向ける立場の者たちだった。


「最近、近衛の訓練が整ってきているそうですね」


 ひとりの令嬢がそう切り出す。


「若い方が多いのに、動きがとても美しいとか」

「そうなの?」


 アンリエッタは、興味を惹かれたように顔を上げた。


「ええ。中でも……クレマチス様のお名前を、よく耳にします」


 その名が出た瞬間、王女の指がわずかに止まった。


「まだ若手でいらっしゃるのに、所作がとても綺麗で、無理に目立とうとなさらないのに、自然と目を引くそうです」


 アンリエッタは、小さく息を吸い、微笑んだ。


「……そうね。遠くから拝見したことがあるけれど、動きに無駄がなくて……」


 言葉を選ぶように、一拍置く。


「見ていると、不思議と安心するの」


 場の空気が、わずかに静まった。


「殿下は、その方と話される機会も?」


 そう尋ねられ、アンリエッタは少しだけ慌てたように首を振った。


「いえ。公の場で言葉を交わすほどでは……」


 それから、少し考えるように付け足す。


「でも、すれ違うときに……こちらを気遣うように一礼してくださったり……」


 言葉が途切れ、王女は頬をわずかに染めた。


「……誠実な方だと思うわ」


 誰かが小さく息を呑む。


「そういうところが、殿下のお目に留まったのですね」


 その言葉に、アンリエッタは否定しなかった。


「ええ、そうね」


 小さく、しかし確かな肯定だった。


 その場で話題を変えることも、誤解を正すこともできたはずだった。だが、アンリエッタはそれを選ばなかった。否定しなかったのではない。否定しないという振る舞いを、無意識に選んでいた。


 しばし沈黙が流れたあと、王女はふと、窓の外に視線を向ける。


「でも、人の縁って不思議でしょう?」


 唐突に聞こえるその言葉に、誰も遮らなかった。


「決まった形があるようで、ふと、違う物語が見えることもあるもの」


 王女の声は柔らかく、どこか夢を見るようだった。


「正しいとか、ふさわしいとか……そういうことより先に、心が動いてしまうこともあるわ」


 アンリエッタは、視線を戻し、微笑んだ。


「それを、止められないことも」


 その言葉が、何を指しているのか。場にいる者たちは、もう十分に理解していた。


 王女は、自分が語れば、この場の誰かが「察し」、その想いに応えようとすることを無意識に知っている。だからこそ、否定もしなければ、話題を切り上げることもしなかった。


 この午後のお茶会は、命令のないまま、方向性だけが示された場となる。

 やがてそれは、「殿下のお気持ちを守るため」という大義名分を得て、噂という形で動き出すことになる。


 その最初の火種が、今しがた交わされた、この何気ない会話だった。

 そして広がった噂は後日、当事者であるランタナの耳に届くことになる。



■■■


 ランタナの日々は、表向きには変わらなかった。


 朝の庭、屋敷の廊下、書斎に差し込む光。

 どれも、昨日までと同じ。


 クレマチスに手紙を出したあとも、特別な出来事が起こるわけではなく、屋敷にはいつも通りの便りと来客の予定だけが届いていた。


 彼からの返事が届かない理由を、ランタナは知っている。


 数日前、届いた知らせ。

 若手騎士を含む一団が、王都を離れて合同訓練に参加すること、そこに参加するとクレマチスから手紙で知らされていた。


 遠方での訓練。数日、あるいは十日以上、音沙汰がなくなることもある。

 だから、届かないこと自体が「異常」ではなかった。


 昼過ぎ、ランタナは母に伴われて、近隣の屋敷を訪れた。格式ばった催しではない。日頃の挨拶と、短い滞在だけを目的としたものだった。

 応接間に通され、簡単な言葉を交わす。その間、ランタナは、以前よりも多くの視線を受けていることに気づいた。


 探るような目。

 確かめるような沈黙。


 しばらくして、ひとりの夫人が、ためらうように口を開く。


「……お変わりありませんか?」


 遠回しで、慎重な問い。その瞳には、好奇心ではなく心配の色が強く出ているのがわかる。ランタナは、視線を向け、静かに頷いた。


「ええ」


 それ以上、言葉を重ねない。表情も、声音も、いつも通り。

 問いかけた夫人は、一瞬だけ迷うような間を置き、結局、噂に触れることはなく、庭の花や天候の話へと話題を変えた。


 ――思っていた反応では、なかったのだろう。


 夫人は噂の真相を聞きたいと思っていたに違いない。彼女は社交界では情報通として知られている。得た情報を「ここだけの話ですけど」と前置きをしながら、周囲に漏らす。もちろん、情報の取捨選択はしたうえで。

 彼女に情報を漏らさなかったということは、漏らしていい段階ではないということだ。夫人はそれをしっかりと察して話題を変えた。


 屋敷を辞したあと、馬車の中で、母が何も言わなかったのも、その空気を察してのことだ。小言を言われなかったということは、私の言動は正しいと容認している証左でもある。


 ランタナは、周囲の目が、噂が流れるより前と比べて少しだけ変わったことを、確かに感じ取っていた。

 それでも日々は続いている。


 彼が戻り、彼自身の言葉で返事を寄越す。

 そのときを、静かに迎える準備をするだけだった。



■■■


 クレマチス・アルベルトが、自分が「期待される存在」であることを自覚したのは、物心がついてすぐのことだった。その重さを思い知ったのは、十分に育った後。


 侯爵家の長男。それは、生まれた瞬間から役割が決まっている立場だ。


「将来が楽しみですね」

「さすが、侯爵家のご嫡男だ」

「この子は、いずれ――」


 誰も悪意を持ってはいない。だが、その言葉の積み重ねは、彼から「選ぶ自由」を少しずつ削っていった。


 後継であること。

 家名を損なわぬこと。

 感情よりも判断を優先すること。

 好き嫌いよりも、ふさわしさを選ぶこと。


 褒め言葉の形をした圧力は、常に周囲にひそんでいる。彼が感情を表に出さない少年になったのは、自然な成り行きだった。

 近衛を志したのも、偶然ではない。剣の腕と規律が評価される世界は、血筋や将来像よりも、「今の出来」を問われる。

 少なくとも、そこでは「侯爵家の長男」としてではなく、「ひとりの若者」として存在できる気がした。


 それでも、完全に期待から逃れられるわけではない。


「将来は、どの家と縁組を?」

「王家との関係を見据えれば――」

「侯爵家として、然るべき相手を」


 そうした話題は、折に触れて持ち上がる。そこにあるのは、人ではなく、条件だった。




 そんな彼が、ランタナ・エルルという名をはっきりと覚えたのは、王城ではなく、王都郊外の小さな礼拝堂だった。

 貴族であれば身分を問わず訪れることができる、ひっそりとした場所。


 その日、彼女はひとりで祈りを終え、立ち上がろうとして、膝の上に置いていた手袋を落とした。

 拾おうとして、少しだけ姿勢を崩す。ほんの些細な出来事だった。


 だが、クレマチスは足を止め、自然とそれを拾い上げていた。


「落とされました」


 そう言って差し出すと、彼女は少し驚いたように目を見開き、それから、穏やかに笑った。


「ありがとうございます」


 声は静かで、飾りがない。礼拝堂の空気に溶け込むような、落ち着いた声だった。本来なら、それだけで終わるやり取りだ。

 だが、彼女は立ち去り際、ごく自然に、こう言った。


「お気遣い、感謝します」


 その言葉に、身分を測る気配はなかった。近衛だからでも、侯爵家の人間だからでもない。

 ただ、「そうしてくれた相手」に向けられた礼。その感覚が、妙に胸に残った。


 数日後、再び同じ礼拝堂で彼女を見かけた。今度は家族と共に訪れており、父親の顔で、彼女が誰なのかを察した。


 エルル家――伯爵家。堅実で、穏健。王都では知られているが、権力争いの中心に立つ家ではない。彼女はその次女だった。

 あの静かな在り方は、家の気風そのものなのだろう。


 それから、街の行事や郊外での式典で、偶然が何度か重なった。

 彼女は、決して中心に立たない。だが、必要な場では必ず役目を果たし、それ以上に踏み出すことはない。静かで、穏やかなその佇まいは、不思議と目を惹いた。


 彼女を見かけるたびに、つい目をやってしまう。そうして視線が合えば、必ず彼女は目礼を返してくれた。

 侯爵家の長男や近衛という立場に過剰な意味を見出すこともなく、かといって、無関心でもない。クレマチスの立場を十分に理解しているうえで、自然な対応をしている。


 役割や将来像ではなく、「今そこにいる人」として見られている。

 その感覚は、クレマチスにとって新鮮だった。


 侯爵家の長男として、常に「何ができるか」「何になるか」を見られてきた自分が、何者でもなくても構わない場所。


 それが、ランタナのそばだと思った。


 好意を自覚するまで、時間はかからなかった。だが、急ぐつもりもなかった。

 彼女は伯爵家の次女だ。軽い言葉で触れていい存在ではない。そして、自分もまた、軽い覚悟で名乗りを上げられる立場ではない。


 縁談の話を家に持ち出したとき、反応は予想通りだった。


「エルル家か」

「悪くはないが……」

「もう少し、王家に近い縁も考えるべきでは?」


 そのすべてを、クレマチスは受け止めたうえで言った。


「この方となら、共に在る未来を想像できます」


 条件でも、打算でもない理由だった。だが、それ以上に誠実な答えはなかった。


 エルル家に婚約を申し込み、顔合わせでランタナに向き合ったとき、彼女は浮ついた反応を見せなかった。驚き、考え、そして穏やかに微笑みながら言った。


「誠実でいてくださるなら」


 それは要求ではなく、確認だった。

 侯爵家の長男としてではなく、ひとりの人間として向き合えるかどうか。クレマチスは、それを当然の前提として受け入れた。


 こうして、2人は婚約した。

 政略ではない。だが、軽い選択でもない。それぞれが背負う立場を理解したうえで、互いを選んだ。


 だからこそ、この婚約を崩そうとする噂が流れていると知ったとき、彼は決して見過ごさなかった。


 まずは手紙をしたためる。ランタナ・エルルの婚約者として、必要な言葉を、必要な相手に、必要な形で返す準備を始めた。


 そして、侯爵家の長男であり、ランタナ・エルルの婚約者として、取るべき行動を頭に整理する。まずは父母と、今後の動きをすり合わせなければならない。



■■■


 クレマチスからの返書が届いたのは、ランタナが予想していた時期から、少しも外れていなかった。


 王都を離れ、近衛の訓練で北方の駐屯地へ赴いている。

 それは事前に聞いていたことで、戻りは数日後になる――その予定通りだった。


 封蝋に刻まれたアルベルト家の紋章を見た瞬間、息が一拍、遅れた。だが、それは不安でも、焦りでもない。

 ただ、「帰ってきたのだ」と理解しただけだ。


 手紙は簡潔だった。


 王都へ戻った。

 直接、話したい。

 可能なら、明日の午後。


 余計な説明はない。だが、それで十分だった。

 クレマチスは、言葉を軽く扱わない。だからこそ、紙の上では最小限に留め、顔を合わせて話すつもりなのだと分かる。


 翌日、ランタナは実家の応接間で彼を迎えた。

 約束の時間よりも少し早く現れた彼は、いつも通りの無表情に近い落ち着いた顔をしていたが、玄関先で目礼したとき、ほんのわずかに視線が和らいだ。


「お帰りなさい。遠方の訓練、お疲れさまでした」

「……ああ」


 それだけのやり取りだ。抱擁も、感情的な言葉もない。

 だが、互いに「無事だった」という事実を確認するには十分だった。


 席に着き、使用人が下がると、室内には2人だけが残る。紅茶を口に含み、カチャリと下げると、最初に口を開いたのは、クレマチスだった。


「手紙を読んだ」

「はい」

「噂についても、茶会の様子についても」


 ランタナは頷く。彼女から、補足説明を加えることはしなかった。

 彼は、必要な情報はすでに受け取っている。ランタナからの情報だけでなく、侯爵家としても、情報を収集したはずだ。


「確認したい、と書いてあったな」

「ええ」

「……確認というのは」


 そこで、クレマチスは一拍置いた。


「私が、婚約解消を望んでいるかどうか、だな」


 回りくどさはなかった。核心を、まっすぐに突いてくる。

 ランタナは、静かに彼を見返した。


「はい」


 それだけだ。責める口調でも、試すような視線でもない。

 クレマチスは、その態度に一瞬だけ視線を伏せた。


「結論から言う」


 そう前置きして、彼は言った。


「私は、一度もそのようなことを考えたことはない」


 声は低く、揺れもない。それは、ただ事実を伝えている。しかし、彼の眼差しは、ランタナに信じてほしい、という強い願いがこもっていた。


「噂の発生源については、すでに把握している」

「……そうですか」

「王女殿下が直接何かを命じたわけではない。

 だが、周囲が“そう解釈する余地のある言葉”があった」


 ランタナは小さく息を吐いた。


「やはり、そうでしたか」

「驚かないのだな」

「はい。構造としては、自然でした」


 クレマチスの口元が、ほんのわずかに緩む。それは、外から見れば気づかない程度の変化だ。


「君は、最初から噂を疑っていたな」

「疑っていた、というより……」


 言葉を選び、ランタナは続ける。


「私は……あなたが、そういうやり方を選ぶ方ではないと、知っていますから」


 彼は、その言葉をすぐには受け取らなかった。一度、噛み砕くように間を置いてから、口を開く。


「信じてくれている、という理解でいいのか」

「はい」


 迷いのない返答だった。

 その瞬間、クレマチスの内側で張り詰めていたものが、静かに緩んだ。


「念のため、伝えておく」


 クレマチスは背筋を正した。


「この婚約は、私の希望だ。誰かに勧められたものでも、状況に流された結果でもない」

「ええ」

「今後も、それは変わらない」


 そこで彼は、視線を逸らさず、ランタナを見た。


「君が望まない限り、解消されることはない」


 それは、約束というより確認だった。対等な相手に対する、意思表示。

 ランタナは、にっこりと微笑んだ。


「安心しました」

「それだけか?」

「それだけです」


 感情を大げさに示す必要はない。この会話自体が、すでに答えだからだ。


「では、次だ」


 クレマチスは淡々と続ける。


「噂を流した者たちについてだが――」

「それは、お任せします」


 即答だった。

 彼は一瞬、驚いたように目を瞬かせる。


「いいのか」

「はい。貴族社会のやり方は、あなたの方がよくご存じですから」


 それに、と付け加える。


「私が口を出す場面ではありません」


 線引きが、はっきりしていた。クレマチスは、その判断を尊重した。同時に、改めて思う。


 ――この人は、隣に立つことを理解している。


 庇護される存在ではない。だが、無理に前へ出ることもない。

 だからこそ、自分は迷わず動ける。


「ひとつだけ、言っておく」


 彼は低く言った。


「君に向けられた不躾な期待や干渉については、私が処理する」

「はい」

「君が気に病む必要はない」

「わかっています」


 それ以上、言葉はいらなかった。

 2人は並んで座りながら、しばらく沈黙を共有した。だが、その沈黙は重くない。窓の外では、午後の光がゆっくりと傾き始めている。


 噂は、すでに役目を終えていた。

 これから先、誰が何を思い、どう動こうと。


 2人の間で、確認すべきことは、すべて確認されたのだから。



■■■


 ある日の午後の茶会。いつも通り華やかである一方、微妙な緊張が漂っていた。ランタナは紅茶を手元に置きながら周囲を眺める。視線の先には、噂を流した令嬢たち――王女アンリエッタの取り巻きたちと、彼女たちから提供される話を楽しむ令嬢たち。彼女たちは依然として自信に満ち、ささやかな笑みを浮かべながらいつものように噂話を口にしていた。


「ねえ、クレマチス様、王女様と親しげに話されるって本当かしら」

「それ、聞きました!」

「まあ、あの方ったら、どこまで本気かしらね」


 小声のささやきは、笑い声に混じりながら室内に漂う。噂話は瞬く間にテーブルをひと回りし、軽やかな興奮が空気を支配していた。誰もが、事の重大さよりも、自分たちが耳にした面白い話のスリルに酔っている。


「まあ、ユリア様の本日のお召し物、もしかして、アトリエの新作ですの?」


 楽しげに会話に興じていた彼女たちは、突如差し込まれた話題に少し間を置いた。そして名指しされたユリア嬢が「ええ、そうですの。このゴールドの刺繍を気に入りまして」と返す。


 声をかけてきた令嬢が子爵家のユリア嬢よりも高位の伯爵家令嬢であり、流行に敏感な方だと知られているからだろう。そのまま、最近のファッションの流行の話に主題が移り変わる。

 流行話は彼女の独壇場だ。これまで話していた噂話から話題を逸らされた令嬢は、話題豊富にさまざまな意匠やアクセサリーの話をする彼女に対して相槌を打つしかなく、言葉を続ける余地を失った。


 話題はやがて最近話題の芸術作品や舞踏会の予定へと移っていった。周囲もすぐに別の話題に反応し、場は滑らかに動く。王家に関わる名を含む話題だけが、まるで最初から存在しなかったかのように避けられたまま。


 茶会が進むにつれ、取り巻きたちはより多くの話題で口を挟めなくなり、笑顔の中に小さな焦りが滲む。周囲の令嬢たちも、微妙な空気を察している。

 やがて、茶会の最後に向けて、彼女たちは一度も中心の話題に参加できないまま、沈黙を守るしかなかった。


 令嬢たちの振る舞いや会話の流れ――すべては自然に、当たり前の社交の一場面のように進んでいる。


 だが、ランタナは理解していた。


 これは偶然ではない。

 小石を投じられたのだ、と。



■■■



 クレマチスと王女の噂は、徐々に勢いを失っていった。

 それは否定されたからではない。訂正も、公式の声明も出ていない。

 ただ、語られなくなった。


「……この前の話ですけれど」


 茶会の席で、ある令嬢が切り出しかける。声は柔らかく、表情も整っている。だが、その言葉は、最後まで続かなかった。

 隣に座る伯爵夫人が、何気ない調子で別の話題を被せたからだ。


「そういえば、次の舞踏会の席順が出たそうですよ」


 会話は自然に流れる。遮った、という印象すら残さない。

 切り出した令嬢は、一瞬だけ口を閉ざし、それから微笑んだ。だが、その微笑みは、少しだけ引きつっていた。


 ――あれ?

 そんな小さな違和感が、最初だった。


 別の場では、別の形で起きる。


「ねえ、アルベルト侯爵家のお話なのだけれど」


 今度は、噂話に積極的だった令嬢のひとりが、楽しげに言葉を振る。だが、向けた相手は、曖昧に頷いただけで、すぐ別の客へと注意を移した。


 返事がない。否定も、同調もない。

 ただ、受け取られなかった。


 令嬢は一瞬、取り残されたように瞬きをし、それから慌てて話題を変える。だが、その変えた話題も、うまく拾われなかった。


 誰かが意図的に避けている。


 そう気づくには、もう少し時間が必要だった。

 噂に積極的だった家々に、目に見える変化が出始める。それは数日で起きたことではない。いくつかの茶会と季節の行事を挟むうち、少しずつ、確実に進んでいった変化だった。


 縁談の話が進まない。以前なら当然のように声がかかっていた先から、招待が届かない。

 ある家では、商談の条件が微妙に変わった。数字としては小さな違いだ。だが、長期で見れば、確実に不利になる。


「……以前は、こうではなかったはずだが」


 当主が首を捻っても、相手は穏やかに微笑むだけだった。


「情勢が変わりまして」


 それ以上は、何も言わない。


 社交の場でも、小さな失態が際立つようになる。

 発言の順番を誤る。笑いどころを外す。話題の中心に入ろうとして、するりと外される。


 以前なら誰かが助け舟を出した。今は、誰も出さない。


「……あら、そうでしたわね」


 そう言って微笑む相手の声は優しい。

 だが、その視線は、すでに次の話題へと向いている。


 王女の取り巻き令嬢たちやその家々は、徐々に理解し始める。


 ――おかしい。

 ――何かが、変わった。


 だが、原因は掴めない。


 誰かが叱責したわけでも、名指しで非難されたわけでもない。

 ただ、“扱われ方”が変わっただけだ。


 気づけば、噂を流していた者同士の間にも、微妙な距離が生まれていた。


「最近……あの方、来ていませんわね」


 誰かがそう言うと、別の誰かが曖昧に笑う。


「ご用事があるのでは?」


 それ以上、深掘りしない。深掘りすれば、自分も同じ位置に立たされると、無意識に分かっているからだ。


 そして、決定的だったのは、ある舞踏会の夜。

 噂の蔓延に深く関わっていた令嬢が、これまでであれば座れていた中心の席に案内されなかった。

 代わりに示されたのは、壁に近い位置。


「……こちらですの?」


 問いかけは丁寧だった。だが、使用人は淡々と頷くだけだ。


 理由は示されない。抗議することもできない。その夜、彼女は誰とも深い会話を交わせなかった。

 これは偶然ではない。だが、誰がやったのかを口に出す者はいない。




 クレマチスと王女の噂話を流していた令嬢たちや家々が自然に立場を失い、静かに社交界の序列が整理されていく。


 こうして、噂は破綻した。



■■■


 王宮の空気が変わり始めたことに、アンリエッタが気づいたのは、誰かがあからさまに彼女を避けるようになったからではなかった。


 むしろ逆だった。


 以前よりも丁寧な礼。

 以前よりも慎重な言葉選び。

 以前よりも――距離を測るような沈黙。


 ただ、それが「何を意味するのか」までは、アンリエッタにはわからなかった。

 人の態度が変わる理由など、ひとつに決まっているものではない。忙しさかもしれないし、気分の問題かもしれない――そう考えるほうが、自然に思えた。


 朝の回廊で交わされる挨拶は、相変わらず整っている。だが、ほんの一瞬遅れて視線が逸らされる。控えめに下げられたまなざしが、決して彼女を見ようとしない。その不自然さが、アンリエッタの胸に小さな引っかかりを残した。


 それは、かつて彼女の周囲を取り巻いていた令嬢たちの変化として、より顕著に表れた。


 彼女たちは、以前は王女の一挙手一投足に過剰なほど反応していた。噂を運び、言葉を脚色し、善意を装っては誰かを切り取るような視線を向けていた存在だ。


 だが、ある日を境に、彼女たちは話題を選び始めたように見えた。

 もっとも、それは王女であるアンリエッタの前だから、慎重になっているだけなのだろう、と彼女は受け取っていた。

 自分の言葉ひとつで相手が身構える。そういうものだと、彼女は疑いもせずに育ってきた。


 王女の前では、過度な私語を控える。

 他家の名が出ると、即座に話を切り上げる。

 以前なら嬉々として語っていた「聞いた話」を、口にしかけては呑み込む。


 彼女たちが社交界の多様な噂話を運んでこなくなっても、アンリエッタの耳にも、断片的な情報は届いていた。


「最近、◯◯家のご令嬢を見かけませんね」

「療養中だと伺いましたが……」

「いえ、あれは――」


 そうした言葉が、直接向けられることはない。だが、廊下の向こう、衝立の陰、半開きの扉の奥で、確かに囁かれていた。


 やがて、具体的な名前が消えていく。


 舞踏会に現れない令嬢。

 茶会の名簿から外された名家。

 王妃付きの侍女の配置換え。


 どれも「偶然」や「体調不良」「家庭の事情」という言葉で覆われていた。しかし、その裏で起きていることを、宮廷に生きる者たちは理解していた。


 クレマチスと王女の噂を作った者たちが、ひとりずつ、音もなく舞台から降ろされていく。


 それが、王家の意志によるものだとは、アンリエッタは考えなかった。王が動くなら、もっと公的で、もっと明確な形を取るはずだと思っていたからだ。


 もし自分に何かしら重大な不手際があったのなら、王は沈黙を選ばない。クレマチスに関する噂が耳に入っているであろう時期を過ぎても、呼び出しも、注意もない。

 だからアンリエッタは、それを「問題視されていない」という合図のように受け取っていた。そう信じていたし、それは王女として育てられてきた経験則でもあった。


 誰かが何かを失っているのだとしても、それはきっと、その家の事情なのだろう。

 王女である自分が、そこまで立ち入って考える必要はない――最終的には、しかるべき大人たちが整理するはずだ。

 そう信じることで、心は穏やかに保たれていた。


 だからこそ、制裁は淡々と、形式的に、逃げ道を与えぬ形で下される。


 表向きの理由は穏やかでも、その結果は決して軽くない。婚約の破棄、後援者の撤退、社交界からの事実上の追放。いずれも、令嬢にとっては人生そのものを組み替えられる措置だった。


 アンリエッタは、その変化を、どこか現実感のないまま眺めていた。


 ある日のこと。お友だちの令嬢が、目を伏せて通り過ぎていく。以前なら、必ず声をかけてきたはずの相手だ。

 いつものように声をかけようとして、少し彼女に近づく。いつもなら、彼女はアンリエッタが声をかける前にこちらの動きに気が付き、にこやかな笑顔を向けて、アンリエッタを見るはずだった。


 だが、その令嬢は視線を上げない。


 ――忙しいのだろうか。

 それとも、今日はたまたま気分がすぐれないのかもしれない。そう考えるほうが、自然な気がした。


 自分の存在そのものが、誰かを遠ざける理由になるなどとは、考えたこともなかった。アンリエッタの存在そのものが、もはや安全な後ろ盾ではなくなっている。その無言の理解が、距離となって表れていた。


 それでも、アンリエッタ自身は、なぜ周囲がこんなにも落ち着かなくなっているのかを、把握できていなかった。その中心に自分がいるという発想だけは、どうしても浮かばなかった。だからこそ、彼女はまだ理解していない。


 宮廷はすでに、結論に向かって動いている。

 責任の所在も、処遇の形も、静かに定まりつつある。


 その中心に、自分が置かれていることを、アンリエッタは、まだわかっていなかった。


◇◇◇



 その日は、妙に整いすぎていた。


 朝の身支度は滞りなく進み、侍女たちの手際も申し分ない。誰もが正確に役割を果たしている。その様子が、かえってアンリエッタの胸に落ち着かない感覚を残した。


 侍女たちは必要なことしか口にしない。

 視線を交わすことも控えめで、言葉を選ぶというより、言葉そのものを削ぎ落としているようだった。


「本日のご予定ですが……」


 告げられた内容は、ごく形式的なものだった。

 午前中は私室で待機。外出の予定はない。謁見の予定も――この時点では、まだ正式には伝えられなかった。


 それでも、アンリエッタは気づいていた。

 この「待機」という言葉が、今日に限っては特別な意味を持っていることを。


 王宮の中を移動することが、暗黙のうちに制限されている。

 回廊に出れば、いつもより多い近衛兵が立っている。彼らはアンリエッタを見ると、即座に最敬礼をするが、その視線は決して長く留まらない。


 敬意ではなく、距離。


 それが、今の王宮における彼女の位置なのだと、無言のうちに示されていた。


 窓辺に立ち、庭を見下ろす。

 手入れの行き届いた生け垣も、美しい花壇も、何ひとつ変わらない。だが、そこに行き交う使用人の数は少なく、動きは慎重で、まるで誰かの目を常に意識しているかのようだった。



 しばらくして、控えめなノックの音が響いた。

 入ってきた侍女は、いつもより一段低い姿勢で礼を取る。


「陛下より、お呼びでございます」


 その言葉は、簡潔で、感情を含まない。それでいて、逃げ場のない重さを伴っていた。


 アンリエッタは、返事をする前に一拍置いた。

 理由は告げられない。時間も指定されない。ただ、「今すぐ」という意味だけが、はっきりと含まれている。


 アンリエッタは、背筋を伸ばし、扉へ向かった。


 まだ、自分が何を求められているのかもわからない。

 ただ、この後、何かを告げられるのだろうという予感で、妙に胸がざわめいていた。それが、どれほど重い意味を持つものなのかまでは、まだ想像できていなかった。


 もし何か問題があったのなら、父はとっくに叱っているはずだ。それがない以上、自分は「判断を委ねられている立場」なのだと、アンリエッタはそう信じて疑わなかった。


 ――もう、叱る段階を通り越し、評価と決断の段階に入っていることに、気が付かぬまま。



■■■


 扉が開いた瞬間、王太子エーリッヒは、空気がわずかに張りつめるのを感じた。


 玉座の間は、いつもと同じ配置だった。王は中央に座し、その右隣、王位継承者の席に、エーリッヒはすでに立っている。近臣の数も最低限。必要以上の立ち会いを避けた布陣は、これが公的な場でありながら、極めて限定された決定の場であることを雄弁に物語っていた。


 アンリエッタが入室する。


 足取りは慎重で、だが怯えすぎてもいない。

 王女として身につけてきた振る舞いが、彼女を支えているのは確かだった。ただ、その視線は落ち着きなく揺れ、場の空気を測りかねている様子が隠せない。


 ――まだ、わかっていない。


 エーリッヒはそう判断した。


 玉座の前まで進み、礼を執るアンリエッタを、王はしばらく黙って見下ろしていた。その沈黙が、単なる感情の整理ではないことを、エーリッヒは理解している。


 王は、叱るべき時期を意図的に過ぎ去らせた。王女自身がどのような選択をするのか、確認するために。

 その確認は終わった。ならば、結果を伝えなくてはならない。


「アンリエッタ」


 低く、しかし明瞭な声だった。


「お前の婚姻について、決定を告げる」


 その一言だけで、空気が決定的に変わる。エーリッヒは、妹の肩がわずかに強張るのを見逃さなかった。


「ジョルノ辺境伯家への下賜とする。輿入れは1年後だ」


 言葉は簡潔だった。余計な前置きも、情緒的な配慮もない。


 アンリエッタは、すぐに反応できなかった。理解が追いついていないというより、その言葉が意味する重みを、まだ正確に掴めていないのだ。


 ジョルノ辺境伯家。その名を聞いたとき、アンリエッタはわずかに瞬きをした。

 それは遠い地の守りを担う家。王宮の社交とはほとんど縁のない存在としての記憶でしかない。

 なぜ、よりにもよってそこなのか。

 王家と深く結ばれた名門ではなく、王家と長く縁が途切れていた家。その選択の意味を、アンリエッタは測りきれずにいた。


「……下賜、とは」


 思わずこぼれた声は、問いというより確認に近い。

 王女として、その言葉の定義を知らないはずはない。それでも、どこか現実味のない響きで、口にしてしまった。


 王は答えない。説明する段階は、すでに過ぎているからだ。


 アンリエッタは一瞬、助けを求めるように視線を上げた。その先にいるのが兄だと気づき、はっとしたように姿勢を正す。


「……お父様の、ご判断なのですね」


 そう言いながらも、声の奥には、まだ理解しきれない戸惑いが滲んでいる。


 なぜ自分なのか。

 なぜ今なのか。


 その問いが形にならないまま、胸の内で渦を巻いているのが、エーリッヒには痛いほどわかった。だが、彼は何も言わない。


 王が一度、短く頷く。


「以上だ」


 それで終わりだった。


 アンリエッタは、形式通りに礼を執り、ゆっくりと下がる。歩調は乱れていない。だが、扉へ向かう背中には、どこか現実から切り離されたような、薄い隔たりがあった。


 ――理解していない。

 それでも、決定だけは受け取った。


 扉が閉じる音が、やけに大きく響いた。





 扉が閉じたあとも、しばらくのあいだ、玉座の間には沈黙が残っていた。先ほどまでそこにいたアンリエッタの気配が、まだ床や空気に滲んでいるようだった。


 エーリッヒは、あの背中に、もう少し早く言葉を与えることはできなかったのか、と一瞬だけ考えて。そして、その考えを切り捨てた。


「……甘かったか」


 王が重く口を開いた。問いかけではなく、確認でもない。自らに向けた呟きに近い。

 エーリッヒは、視線を正面に据えたまま答える。


「いいえ。ここまで拡大した以上、王家として何もしない方が不自然です」


 王は、短く息を吐いた。


「貴族の動きは、把握しているな」

「すべてではありませんが」


 エーリッヒは正直に言った。だが、貴族社会に起きている変化の輪郭は、十分に見えている。


 クレマチスと王女の噂は、徐々に勢いを失った。

 それに付随して、王女の名を軽々しく使っていた令嬢たちが、社交の場で微妙な行き詰まりを見せ始めた。招待が減り、話が進まない。契約が宙に浮き、縁談が自然消滅する。

 誰かが罰したわけではない。だが、誰も彼女たちを庇わなかった。


 その中心に、クレマチスがいる。


「彼は、あくまで静かに動きました」


 エーリッヒの声は淡々としている。


「表で断罪すれば、噂は増幅します。婚約者にも影響が出るかもしれない。だから、あくまで“起きなかったこと”として処理した」


 王は、重く頷いた。


「秩序を壊さずに、原因だけを削った、か」

「はい。彼自身の信用も、傷つけない形で」


 それが可能な立場と影響力を持つ者は、そう多くない。だからこそ、その静けさは、より決定的だった。

 今回の騒動。クレマチスの、アルベルト侯爵家の次期当主には十分な政治能力があるとわかったことは、今後のエーリッヒの治世に向けての幸運ではあった。


 王は、視線を玉座の前に落とす。


「……それでも、王女の名が使われた事実は消えぬ」


 王は、低く言った。


「自ら正す機会を奪えば、王女としての資質を測ることはできぬ。噂を否定するのは、王女として当然に行われるべき行動だった。

 それができなかった以上、王女という地位に留める理由はない」


 後継者に、なぜこのような動きをとったのかを語る国王。エーリッヒは今後の自分への戒めとして、深く刻む。


「はい。だからこそ、王家が責任を示す必要があります」


 それは単なる社交界の噂話ではなかった。

 最初は取るに足らない、若い令嬢たちの好奇心から始まったものだ。しかし次第に、クレマチスとの噂話だけでなく、王女の名は“権威の裏付け”として様々な場面に登場し、利用されるようになっていった。


 名を使っても、何も咎められない。その状況は、どんどん貴族たちを大胆にさせ、事態を悪化させていく。


 ――王女がそうお考えだそうですわ。

 ――殿下のお耳に入っているとお聞きした。


 その言葉を添えるだけで、交渉は通りやすくなる。

 縁談は優位に進み、契約は傾き、立場の弱い家は沈黙せざるを得なくなる。事実であるかのように語られ、実際に利益を得た者も少なくなかった。


 アンリエッタは、噂が広がり始めた段階で、諫める立場にあった。「そのような話は事実ではない」と、たった一度でも示せば、流れは変わったはずだ。王女の名を騙って、勝手な行動をする貴族は動けなくなり、被害を受けた貴族家は被害救済を申し立てられたかもしれない。


 だが、アンリエッタは動かなかった。


 彼女は、自分の名がどのように使われているのかを、深刻には捉えていなかった。

 曖昧に笑い、言葉を濁し、空気を壊さないことを選び続けた。


 その結果、空気は壊れなかった代わりに、歪み続けた。


「王女であることは、善意だけでは務まらない。行動しなかったという選択にも、責任は生じる」


 エーリッヒは、深く頷く。


「不適格、ということですね」

「不忠でも、反逆でもない。しかし、王家の名を背負う立場としては、不適性が明らかになった――それだけのことだ」


 そして、下賜という措置。それは罰ではない。だが、明確な線引きだった。


「元王女が王家の庇護を離れる。それだけで、多くの者が理解するでしょう」


 エーリッヒは、王女の名を使って暗躍していた貴族たちの顔を思い浮かべる。


「もう、その名は使えない、と」


 裏で行われていた取引、圧力、忖度。それらはすべて、根拠を失う。

 王は、少し視線を上げた。


「下賜先についても、異論はあるまいな」

「ありません」


 エーリッヒの答えは即答だった。


「ジョルノ辺境伯家は、ここ数代、王家との直接の縁が途切れていました。しかし同時に、王国の防波堤でもある」


 敵国と接する最前線。軍事、補給、情報。そのすべてを担う防衛の要。


「王家の血を迎えることで、辺境伯家の立場はより強固となります。『特に問題を起こしていない、王家の姫』が輿入れすることで、辺境伯家が王家の信頼を得ていることが内外にも示されるでしょう。

 王国としても、彼らとの結びつきを再構築する必要がありました」


 それは政治的な判断であり、同時に合理的でもあった。


 アンリエッタは、道具として使われたわけではない。

 だが、王女という立場を失うことで、王国全体の歪みを正す役割を負い、さらに元王女であることが、辺境伯家のメリットになる。


「……本人は、まだ理解していないだろうな」


 王の言葉に、エーリッヒは否定も肯定もしなかった。


「おそらく、自分が何を問われ、何を果たせなかったのかを、まだ考えられていません」


 それでも、決定は変わらない。


「理解できなくとも、受け止めなければならない」


 王はそう締めくくった。


 王女であったからこそ、許されていた曖昧さ。

 王女である限り、求められていた責任。


 その境界を、アンリエッタは見極められなかった。


 エーリッヒは、扉の向こうへと意識を向ける。


 今ごろ、妹は自分が罰せられたのだと思っているかもしれない。

 だが、これは違う。


 これは、王家が王家であり続けるための、最低限の選択だった。

 そして、それを理解できないこと自体が、彼女が王女であり続けられなかった、何よりの理由なのだ。


■■■


 伯爵家の客間には、柔らかな光が差し込んでいた。


 長机の上には生地見本と刺繍糸、仕立て屋が持参した細かな道具が整然と並べられ、職人たちは静かな声で最終確認を交わしている。

 ランタナは、使用人に整えられた椅子に腰掛け、仕立て屋の女主人と向き合っていた。


「侯爵家の紋章に合わせるのでしたら、こちらの金糸が一番落ち着きますね」

「ええ。あの方は、あまり目立つ色を好まれませんから」


 それは、すでに何度も重ねたやり取りだった。

 婚礼衣装は主役のためのものだが、同時に、家と家を結ぶ象徴でもある。派手さよりも、長く残る品格を選ぶ。それが、2人の共通した考えだった。


 仮縫いが終わり職人たちが下がったあと、用意された紅茶を口にしていると、女主人が慎重に話題を選ぶように言った。


「……失礼でしたら、お流しくださいませ。王女殿下の件、お耳に入りましたか」


 ランタナは、ほんの一瞬だけ視線を落とした。


「はい。少し前に」


 それ以上、詳しい話を求めることはしなかったし、女主人もそれ以上は語らなかった。


 民は王女の結婚に沸き立っている。軒先にはお祝いの花が飾られ、結婚祝いの記念品も多く流通しているという。

 そのような祝福ムードとは裏腹に、貴族たちの間ではその婚姻が静かに受け止められていた。この仕立て屋は貴族家に出入りすることが多いので、王女の結婚に対する貴族社会の空気を感じ取っているのだろう。


 王女が下賜される――。その事実は、すでに噂という形ではなく、確定した出来事として静かに受け止められつつある。


 クレマチスの噂が流れた発端が王女であることは、皆理解していた。それがきっかけとなり、様々な家に影響が及んだことも。

 しかし、不思議なことに、王女を非難する声は、ほとんど聞こえてこない。少なくとも、彼女の知る限り、誰ひとりとして、王女を非難する声を持っていなかった。――誰もが、これは王家が責任を示した結果なのだと受け止めていたからだ。


 いつの間にか消えていった噂。

 声をひそめるようになった令嬢たち。

 話題に上らなくなった名前や家。


 それらは、ランタナの日常を乱すことなく、ただ遠くで収束していった。


「結婚は人生の一大事ですから、王女殿下も準備でお忙しいでしょうね」


 ランタナは紅茶を口に運ぶ。穏やかに喉を通る苦味と香りとともに、それ以上の言葉を飲み込んだ。



◇◇◇


 夕刻、クレマチスが伯爵家を訪れた。

 応接室で向かい合い、彼女が衣装の進捗を伝えると、彼は満足そうに頷く。


「順調そうだね」

「はい。仕上がりが楽しみです」


 少し迷ってから、ランタナは静かに切り出した。


「……王女殿下、ご結婚されるとか。民の間では、王女にひとめぼれした辺境伯が熱烈に求婚したのだと噂されているようです」


 クレマチスは一度だけ息を整え、短く答えた。


「そうか」


 説明はない。

 だが、それで足りた。


「不思議ですね」


 ランタナは、自分の胸の内を確かめるように言った。


「以前なら、噂ひとつで、こんなに落ち着いてはいられなかったと思います」

「今は?」

「今は……日々が、きちんと前に進んでいる感じがします」


 クレマチスは、少しだけ目を細めた。


「それならいい。余計なものに振り回される必要はない」


 窓の外では、庭の手入れが進められていた。

 枝を剪定し、足元を整え、冬を迎える準備を淡々と続ける――

 その様子は、どこか今の空気に似ている。


「結婚まで、もう少しですね」

「ああ」

「……その先も」


 言葉を探すランタナに、クレマチスは穏やかに言った。


「今と同じでいい。静かで、確かな日々を積み重ねていこう」


 特別な出来事がなくてもいい。

 騒ぎ立てる必要もない。


 互いに立つ場所をわきまえ、信じ、歩調を合わせる――

 それだけで、十分だった。


 ランタナは、小さく微笑んだ。


 これから先も、今日と同じような日が続いていく。

 かつては、その確信を持つこと自体が怖かった。

 けれど今は、その考えを、当然のものとして受け取ることができる。


 胸の奥にあるのは、不安ではなく、確かな安堵だった。



噂話を真に受けたり、それっぽい場面を見たりして、逃亡するヒロインの話も好きですが、淡々と事実確認をするタイプのヒロインを書いてみたかったので、筆を執りました。

お目通しいただきありがとうございました!


追記:

「下賜」の表現について、感想欄でコメントいただいていますが、あえて使用しております。ご了承くださいませ。


「アルとメリアの怪異奇譚」

https://ncode.syosetu.com/n7610jc/

「阿本くま」名義で、もちまるさんと共著連載中です。こちらもぜひ、お読みください。

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― 新着の感想 ―
知性の高いヒロインとヒーローは見てて気持ちがいいですね。 こんなまともな王家の作品、久々に読んだ気がする(^^)d
淡々と粛々と色んなことが進んでいく展開が静かな文体と相まって非常に面白く読ませていただきました。 その一方で「ええい!まだるっこしい!ちゃんと言葉で説明しろよ!」と登場人物たちに何度もツッコミを入れて…
作者サマの後書きの通り、要らんことして余計ややこしくなるパターンも好きですが、この揺るぎない既に老齢の夫婦のようなやりとり好きです(笑) 王女サマもいい感じに周りを使ってクレマチスGETしつつ、やり過…
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