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第9話 アルカナ堂の定休日①

リュネルの朝は早い。

空がまだ、夜の帳と朝の光の境目をうっすらと残し、真珠母色に霞んでいる頃。簡素な寝室に差し込む光は弱く、窓枠の影が床の上に細長い四角形を、静謐な幾何学模様のように描いている。

目を覚ましてすぐ、リュネルはゆっくりと布団から上半身を起こした。寝癖はほとんどつかない体質だが、それでも指先で柔らかな髪を梳いてととのえ、漏れ出るあくびをひとつ、上品に噛み殺す。

洗面台に向かい、蛇口を捻る。ぬるま湯をすくって頬に当てれば、眠気が解されていく。

石鹸の泡は、リラが選んだ控えめなラベンダーの香りを漂わせ、気分を落ち着かせる。

「……よし」

短く呟き、枕元に置いた杖を軽くひと振り。

衣装棚の前に浮かび上がった簡易魔法陣が、淡い燐光を放って明滅した。

選ばれたのは、袖口に余裕のある生成りのカッターシャツと、機能性を重視したカーゴパンツ風の作業ズボンだ。

「はて……」

リュネルは鏡の前で少し首を傾げる。

(こんなポケットの多いズボン、いつ買ったっけか……)

太腿の横には素材袋が吸い付くように収まる隠しポケットがあり、腰のループもまた、採取用のナイフや試験管ホルダーを引っかけるには絶妙な位置に配されていた。

「まぁ、これだけ動きやすいなら文句はないね」

ボタンを丁寧に留め終え、まだ袖を通さぬ外套を腕にかけて部屋を出る。

定休日の朝、街の喧騒はまだシーツの下でまどろんでいるように柔らかい。遠くで響く荷馬車の車輪の軋みも、朝靄に包まれてどこか幻想的な響きを帯びていた。

店の方へ向かう前に台所へ立ち寄り、手慣れた動作でティーセットを準備する。

指先を弾けばポットの水は瞬時に沸き立ち、温められたティーポットの中で茶葉が踊る。砂時計の砂が落ちるのを待つ間、リュネルの心は今日の作業工程へと静かに沈んでいった。

2/3ほどの砂が落ちた完璧なタイミングでカップに注がれた紅茶は、鮮やかなルビー色。立ち上るベルガモットの香りが、白い磁器の縁から心の中まで満たしていく。

勘でやっても良いのだが、きっちり計る方が美味しいのだ。

アルカナ堂の店内は、厚手のカーテンに守られ、深い海の底のような静寂に包まれていた。

リュネルは帳場に腰を下ろし、指先を軽く鳴らす。

ランプに橙色の灯がともり、昨日書き殴られたままの帳面を照らし出した。

まずは出納。

次に在庫。

受注台帳に残るリラの丁寧な追記と、自分の殴り書きを突き合わせ、在庫のパズルを解いていく。

「……ウシシの肉、少し仕入れが過剰かな。鮮度が落ちる前に、来週はなじみの料理人に回してしまおう」

独り言を漏らしながら、ペン先を走らせる。

数字は嘘をつかない。誤魔化したとき、あるいは見落としたとき、それは必ず後で鋭い牙を剥く。

「店の信用は、帳簿の正確さに宿る」――それは、今は亡き祖父から繰り返し叩き込まれた、リュネルの矜持であった。

外では日の出とほぼ同じ頃。

台所から、朝の香りが漂ってくる。焼きたてのパンの香ばしさ。炒めた玉ねぎの甘やかな香り。今日の朝食当番はベルギスらしい。きっちりと統制された包丁の音が廊下を伝わってくる。

「リュネルさーん。朝ごはん、準備できましたよ」

リラの凛とした声が届き、リュネルは「今行きます」と応じてペン先を布で拭いて置いた。

朝食――カリッと焼かれたトースト、卵スープ、そして旨味が凝縮された根菜の煮込み――を平らげた後、リュネルは裏庭の温室へと向かう。

中庭には温室が2棟ある。

片方は薬草・香草用。もう片方は魔法植物用。

そこは、植物たちが織りなす小さな小宇宙だ。

扉を開けると、湿り気を帯びた肥沃な土の香りが全身を包む。

「おはよう、みんな」

声をかけると、日光を浴びて透き通るような緑の葉が、微風もないのにふわりと揺れた。

病斑はないか、魔力の循環に淀みはないか。

リュネルの指先は繊細に葉の裏を返し、剪定すべき枝を見定めていく。

使えない素材なんて存在しない。ただ、使い方を知らないだけだ。

根の張りを確かめ、生育の良いものを残し、間引きもする。

間引きした芽は別のポットへ植え替え、剪定した枝は挿し木にする。

処分するという選択肢は、ほとんど無い。

そんな作業に没頭していると、足元にどっしりとした、しかし温かな影が滑り込んできた。

「……ルーガル」

琥珀色の瞳を持つ狼が、至近距離で座り込んでいた。

その視線は、有無を言わせぬ二択を提示している。――『散歩』か、『遊び』か。

「まだ仕事が残っているんだけど……」

じっと見つめられる。その眼差しには、魔法よりも強力な無言の圧力があった。

「……5分だけだよ」

そう言った時点で、勝利の女神はルーガルに微笑んでいた。

現実逃避までは、早かった。

リュネルは温室の隅から木製のディスクを取り出し、力いっぱい遠くへ投げる。

空を裂く銀灰色の軌跡。ルーガルは芝生を滑るように駆け、一切の無駄なくディスクを空中でキャッチした。

3往復目、ルーガルはわざとディスクを足元にポトリと落とし、挑発するように鼻を鳴らす。

「気づいているよ。今手を抜いたね?」

「……主よ、それは気のせいだ」

ルーガルは耳をぴんと立て、尻尾を一度だけ地面に叩きつけた。

「そら、もう1回だ!」

現実逃避は大抵、3倍になる。

5分の約束は、気づけば15分にまで引き延ばされていた。

額ににじむ汗。だが、胸のうちは驚くほど軽い。

「……僕の方が、遊びたかったのかもしれないな」

ふっと笑い、リュネルは仕事へと戻る。

乾燥棚の乾湿計を確認し、薬包紙を新しい束に替える。

温室では簡易結界を張り直す。

魔法陣を描く指は迷いなく、線は細く、美しい。書庫の古びた背表紙を修復し、分類も更新する。

毒草の項を「用途別」に重ねて索引を付け足す。毒草は「どのくらいの調合で薬となるか」で整理したのも自分だ。

さらに今日「調理に使うときの注意」の頁も増えた。

ソランの顔が一瞬脳裏をよぎった。

「炒めると毒性が増す」という注意書きを赤いインクで、ひときわ大きく書き加えた。

正午前、ふと手が止まった。

視界の端で、ルーガルが顎を作業台に乗せて見上げている。

「主……」

「……もう一回だけ」

現実逃避、延長線が開始された。

ルーガルが持ってきたのは、さっきとは別のおもちゃーー頑丈なロープだ。

今度は綱の引き合い。

リュネルが片端を握り、軽く引く。

ルーガルがぐい、と引き返す。

魔法を使わない、純粋な腕力と足の踏ん張りだけ。

「……っ、けっこう、力あるよね、君は、…って当たり前か」

ルーガルの方はビクともせず、最終的にはロープはルーガル側にずるずると引き寄せられた。

勝ったのは、圧倒的にルーガルだ。

今度は本気だった。

「はいはい、君の勝ち」

ロープを手放し、リュネルは肩で笑った。

午後は、手紙への返事を書く。

常連の職人からの相談、ギルドからの照会、遠方の知人への近況。

言葉は短く、意図は明確に、温度は柔らかく。


《先日の薬草の件、保存方法を同封します。塩分をもう少し減らすと香りが保てます》


《ギルドの討伐報告の写し、了解しました。こちらでも整理が終わり次第、コピーをお返しします》


《そちらの天候が荒れているとのこと、畑が無事であることを祈っています。もし種が必要なら、いつでも言ってください》


最後に、全員用の連絡板にメモを残す。

帳場の横に掛けられた黒板に、杖先で文字を起こす。


《在庫調整:ウシシの肉→料理人へ回す/霜鳴茸→ アル=ウッザーへ》


《温室の鍵は所定の場所へ》


《ソラン、丸太は元の位置に戻しておきなさい》


《夜、みんなでごはん》


杖先が文字を起こし終えた瞬間、リュネルは深く息を吐いた。

整えて、ほどいて、少し逃げて――

それで、十分よく休めた。

「さて。夕飯まで、まだ少し時間があるな」

紅茶を飲み干し、帳場から立ち上がる。

窓から差し込む午後の光が、温室のガラスを淡く照らす一日。

定休日の静けさは、心を整えるにはちょうどよかった



ソランの朝は日の出の熱気が街に届き始めた頃、爆発するように始まる。

窓から差し込む直射日光を全身に浴び、鳥の声が合図を告げれば、彼はバネのように布団から跳ね起きる。

「……っし! やるか!」

寝癖は盛大についているが、そのまま廊下へ出るあたりが彼らしい。

朝食は手早く1人で済ませる事が多い。(他はすでに済ませている…)

今日はベルギスが残しておいてくれたパンとスープ。

パンを二切れ頬張り、スープを一気に流し込む。

「ごちそーさま」

洗い物を流しに置き、上着を肩に引っかける。

寝間着から動きやすい服に着替えるのは、ほとんど一瞬だ。

向かう先は、裏庭。

ベルギスとリュネルが相談して設置した、訓練用の“相棒”だ。

彼は一人、裏庭の「相棒」――訓練用の巨大な丸太の前に立つち、拳を握る。

腰を落とし、大地のエネルギーを足裏から吸い上げるように構える。

「いち、に、さん……!」

打ち込みの音が、乾いたリズムで中庭に響く。

腕だけで打つのではない。腰の回転、重心の移動、そして呼吸の同調。

息を乱さず、肩を上げず、下半身で打つ。腕だけで殴れば、身を壊すと何度も言われたからだ。

燃やさない。

炎に頼らない。

拳の皮はとっくに硬くなっており、骨の厚みも増している。だが、彼の目指す「速さ」と「重さ」の極致はまだ先にある。

100を越えるころには、汗が額を伝い、背中にじっとりと張りつく。

200で一度区切り、今度は体幹を行う。

大きく、遅く、ねじる。

ぶれない身体を意識して、足の裏で土をしっかり掴む。

「……っは」

息が自然と整っていく。

流れる汗が朝日を受けてきらりと光る。

身体が温まってきたところで、上を脱ぎ“本格的”な鍛錬に移る。

鍛え上げられた肉体が朝日を浴びて、彫刻のような陰影を描く。

そして彼は何もない空間にそっと手を伸ばした。

指先に熱が集まり、薄い光が編まれていく。

「……来い」

空気が捩れ、銀の粒子が糸を紡ぐように形を成す。

白銀の穂先、黒い柄、そして使い手の魂に共鳴する冷徹なまでの重み。

愛用の槍が、音もなくその掌に収まった。

ここからは自分との対話だ。

炎の力を使わず、純粋な武技だけで千本の突きを放つ。

ただ振るのではなく、一本一本に意味を持たせる。

もし目の前に敵がいたなら。もし背後に守るべき人がいたなら。

イメージの刃は、一突きごとに鋭さを増していく。

空間の歪みを、足裏と耳と、首筋の感覚で感じながら。

「……よし」

その場でぱちり、と指を鳴らすと、槍は糸をほどくように光へほどけ、何もない空気へ帰っていく。

息は上がっているが、まだ余裕はある。

しかし、これ以上やれば、午後まで引きずると知っている程度には、冷静さもある。

足はそのまま風呂場へ向かった。汗を流し、さっと湯を浴びる。

濡れた髪を乱暴に拭き、ざっと結ぶと、さっぱりした顔で玄関へ。

「行ってきまーす!」

まだ店が閉まっている時間帯だが、休日の外出は自由だ。

街へ出ると、もうそこそこ賑やかだ。

パン屋の前には、朝から並ぶ常連客。

魚屋は大声で売り口上を叫び、果物屋は色とりどりの果実を積み上げている。

顔馴染みになった露店で、ソランは焼きたての薄パンを二枚注文する。

「兄ちゃん、いつものかい?」

「おう。肉と野菜、たっぷりで。片方は辛めな」

「もう片方は?」

「甘めで。……あの子どもに渡す」

焼き台の上でパンが膨らみ、香ばしい匂いが鼻をくすぐる。

タレを塗り分け、具を挟んで渡されるころには、子どもがさらに集まってきていた。

「兄ちゃん、火の人だろ!」

「この前の討伐、すげーって噂聞いた!」

目を輝かせてくる子ども達に、ソランはうっかりウィンクしてしまう。

子ども達の笑い声が弾ける。

リュネルがここにいたら、「子どもは案外強かだな」とか言うだろう。

パンを半分かじりかけ――ふと、店の方向へ視線をやる。

(……先生、今頃何してるかな)

少し胸がむずむずする。

休日は、それぞれ自由に過ごす。

けれど、なんとなく足が向きそうになるのを、ひとまず別方向へ逸らす。

路地を抜け、武器屋で足を止める。

並べられた剣や槍、斧に、思わず目がいく。

今更、槍以外を使うことは考えていない。けれど、見るのは好きだ。

ふと、先日にはなかった双剣に目がいった。

柄の部分に繊細な彫金細工。そこに深青の魔法石が埋め込まれている。

(……先生、最近剣つかわねぇからなぁ)

ほんの一瞬、リュネルの横顔が脳裏をよぎる。

値札に視線を移し――

「……高っ」

ソランは何も見なかったことにして、逃げるように武器屋を出た。

革屋でグリップ用の革紐を選ぶ。

色は無難な黒と茶。巻きは丁寧で、手触りがしっとりしているものを選ぶ。

道具に派手さはいらない。派手なのは、自分の役目だけで足りる。


午後。

アルカナ堂の屋根の陰は、意外と居心地が良い。

街道を望む小さな屋根裏部分に腰を下ろし、ソランはのびのびと寝転がる。

今日の太陽は穏やかで、風が額を撫でる。

遠くの鐘が三度鳴る頃には、瞼が自然と重くなってくる。

夢の縁で、“さっきの子ども達”によく似た顔が「もう一回!」とせがんでくる気がして、ソランはうとうと笑う。

目が覚めれば、空は少し西に傾いていた。

身体のだるさはなく、むしろいい具合の休息になっている。

なんとなく、店の裏へ降りていく。足は勝手に、リュネルのいるほうへ向かう。

温室の扉を軽くノックし、開ける。

「せんせー、手伝うこと」

振り返ったリュネルは、まるで全部見ていたかのような顔をしていた。

柔和な笑みはいつもどおりだ。

「ちょうどよかった。箱の移動と、細い瓶のラベル貼り、どっちがいい?」

「……貼るのは嫌だ。細かいの、苦手」

「じゃあ箱。『重いほう』ね」

「やっぱりな!」

「ふふ、頼もしいね」

重労働を一身に引き受け、筋肉を躍動させるソラン。その様子を眺めながら、リュネルは細かなラベル貼りを進めていく。

最後の一つを運んでいるとき、ふと「魔法で運べばいいのに」と思ってしまう。

口にはしないが、顔に少し出ていたらしい。

「ソラン?」

「なんでもない!」

箱を積み終えると、ソランは腰に手を当てて胸を張る。

「先生、次はー?」

結局、重労働ど呼ばれる事を全て頼まれてしまったのだが、気持ちはとても心地良い。

正反対の二人。けれど、その間には言葉にせずとも通じ合う「呼吸」があった。


夕方。

商いは休みでも、厨房は動く。

ソランはまな板の前でトマトを刻み、玉ねぎに涙をこぼし、時々、盗み食いをする。

「……ソラン」

背後からリュネルの声。

「すみませんでした」

反射で謝るあたり、もう“慣れて”いる。

リュネルの視線は鋭い。だが、声はやさしい。

それが、ソランには嬉しいから――

明日もきっと、彼は派手に暴れてしまうのだろう。

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