第7話 ベルギス①
朝、アルカナ堂の奥――リュネルたちの居住区画で事件は起きていた。
まだ店の表は、夜の余韻を纏って眠っている時間帯だ。表戸の札は「準備中」のまま裏返され、帳場の魔導灯もその光を落としている。
けれど、奥の生活区画だけは、細い火を灯したように静かに、しかし切迫した空気の中で動いていた。
鍋の底で湯がふつふつと小さく鳴り、乾燥棚の木が早朝の温度差でパキ……と小さく軋む。布巾を絞る重い水音。誰かが椅子を引く、床を擦る鈍い音。
――いつもの朝の気配、のはずだった。
今日は新たな探索区が出現したとの噂を聞きつけ、リュネルが調査に向かう予定の日である。
噂が舞い込んだのは、昨夜遅くだった。ギルドの掲示板で「地図が更新された」と聞いた馴染みの行商が店に立ち寄り、土産話のついでに落としていった言葉。
リュネルにとって“探索区”は、商売の種である以前に、世界の肌触りが一変するほどの「未知」そのものだ。
未知は危険だが、その危険を正しく解体し、理に当てはめれば、それは比類なき資源へと姿を変える。だから彼は、夜のうちに最低限の準備を整え、朝一番で動く段取りを組んでいた。
探索区とは、未確認、あるいは未開拓だった土地が、魔力の揺らぎや龍脈の変化によって観測可能となったエリアを指す。そこには手付かずの豊かな自然と、それ以上に過酷な環境が広がっている。冒険者界隈では「ワイルドエリア」とも呼ばれていた。
“観測できるようになった”という表現は、非常に厄介だ。そこに人が入れるようになったからといって、決して「安全」が保証されたわけではない。むしろ「これまでは見えていなかった危険が、こちらの目に映るようになっただけ」であり、地形も、気候も、独自の生態系も、すべてが未知の脅威として襲いかかってくる。
ちなみに、探索区の中でマナ濃度が一定値を超えたり、龍脈の捩れによって土地が自然的な迷宮化を引き起こすと、それは“ダンジョン”と呼称されるようになる。
自然の迷宮化は、じわじわと侵食するように起きることもあれば、突然空間の“折り目”のように現れることもある。
だからこそ、初動は早いほうがいい。地形が落ち着き、環境が「捕食者」によって固定される前なら、危険も資源もまだ“偏り”が少なく、介入の余地がある。
――リュネルは、そういう種類の、鋭敏な職業的勘を持っていた。
作業部屋で出発前の最終確認を終えたリュネルが扉を閉めようとしたその時。ダイニングから、魂を根こそぎ吸い取られたような、生気のない掠れた声が聞こえてきた。
「せ、先生ぇ……もう、無理だぁ……」
声の主は、生活区画の中央、ダイニングで蹲っていた。
その声色は、いつものように茶化したり演技をしたりする元気さえ残っていない、芯からの“弱り”だった。
振り向けば、廊下の隅でソランが壁に背を預け、膝を抱えて浅い呼吸を繰り返している。顔は石灰のように白く、額には嫌な汗が滲んでいる。
いつもなら朝から妙に元気で、台所の匂いに反応しては勝手に鍋を覗き、味見をして叱られている男が。
リラが淡々とした手つきで、湯気の立つ温かなハーブ湯を差し出し、小さく溜息を吐いた。
彼女が淡々としているのは冷たいからではなく、それが彼女なりの“落ち着かせ方”だからだ。こちらが慌てれば、患者の不安を煽るだけだと知っている。
「ソランさん。リュネルさんは、あれほど『素材の相性を無視するのはダメだ』と言ってくれていたじゃないですか」
「ひ、ひとは……挑戦で、強くなる……」
ソランは身悶えしながら、震える手でハーブ湯を啜った。
言葉だけは格好をつけているが、声の端が情けなく震えている。
挑戦の結果、ここまで無様に追い詰められている事実は皮肉を通り越して滑稽だが、本人にとっては文字通りの死活問題だろう。
リュネルが台所を覗くと、そこには中身がどろりと流れ出している器があった。その色はおどろおどろしい紫黒色を呈し、およそ食用とは思えない視覚的暴力を放っている。
器の縁には、化学反応のような粘り気のある黒がこびりつき、毒々しい赤がまだ湿った光沢を帯びていた。
台所に充満する匂いは、焦げた獣脂の腐敗臭と、鼻の奥にへばりついて離れないような、刺すような甘ったるい刺激臭。
リュネルは無言で鼻を布で押さえ、器の残骸を調べ始めた。
その動作は、熟練の鑑定士そのものだ。まず視覚による色彩判定、次に嗅覚による揮発成分の推測、最後に掌をかざして微弱な魔力反応を読み取る。
「……これは、イワカサダケとブラックヴァイパーの……何だ、内臓かい? よく生きてるね。強烈な神経毒と強酸性の粘液が混ざってる。毒性が偶然打ち消し合ったのか、それとも……」
口調は軽いが、その目は真剣だ。
毒が相殺される組み合わせも稀にあるが、往々にしてそれは“第三の、より凶悪な未知の毒性”へと昇華される。まして内臓という魔力の濃い部位同士を合わせるのは、実験というにはあまりに乱暴な自殺行為だ。
劇物を観察しながら、リュネルは手持ちの素材から即席の解毒薬を調合した。
乾燥させた薄緑の薬草、中和剤となる魔鉱抽出物の粉末、そして清涼な魔力を宿した透明な滴。
瓶の口を開ける音が小気味よく重なり、調合皿の上で薬液が鮮やかに混ざり合っていく。
仕上げに、指先から魔力を「一滴」だけ流す。
「気休めだけど、これ。飲み干して」
「っゔぉ、っ苦っ……げふっ……!!」
ソランは悶絶しながらも、リュネルの差し出した薬を律儀に飲み干した。彼はどんな時でも、リュネルの言葉には抗わない。
「いつか、やらかすとは思っていたけど。まさか、よりによって出発の朝にやるとはね」
「ひとは……ちょうせんで、つ、よく……」
「胃や腸は、挑戦で鍛えられる組織ではありません」
リラの容赦ない正論が、椅子へ倒れ込んだソランの背中に突き刺さる。
テーブルの脚が床を嫌な音で擦り、ソランがどれだけ自力で体を支えられなくなっているかを物語っていた。
様子を眺めていたベルギスが肩をすくめながら現れた。
彼は無駄な音を立てず、ただそこに、岩のような頼もしさで立っていた。
「リュネル。今日は代わりに俺がつく。店の方はリラとルーガルに任せれば、留守番は回せるだろう」
“つく”という一言。余計な説明も、ソランへの皮肉もない。彼の中ではすでに、合理的な役割分担が完了していた。
リュネルはソランの額に手を当て、熱がないことを確認すると、小さく苦笑した。命に別状はないが、胃壁が悲鳴を上げている状態。
「助かるよ、ベルギス。――ソラン、今日は大人しく休んでいて。帰ったらちゃんと薬を調合するから。あ、夕飯はお粥だよ」
「お粥……やさしい、味……」
ソランが虚空に伸ばした手は力なく落ち、再び沈黙した。
「味は“無難”と言います。はい、病人はベッドへ」
リラが現実を突きつけ、ルーガルが鼻先でソランの背を小突き、寝室へと追い立てていく。
狼の鼻先は柔らかいが、そこから伝わる意志は鋼のように強固だ。
ソランは抵抗する気力もなく、情けない呻き声を残して闇へと引きずられていった。
リュネルは外套を手に、リラへ頷いた。
誰かが欠けても、誰かがその穴を埋める。慌てず、秩序を保つ。この阿吽の呼吸こそが、アルカナ堂という組織の強さだ。
「店はお願いしますね」
「お任せください! リュネルさんも、よい『散歩』を。……初めての探索区ですから、呉々もお気を付けて」
「分かっていますよ」
「行ってくる」
扉の鈴が澄んだ音を鳴らし、2人だけの、久しぶりの冒険が幕を開けた。
外へ出ると、朝の冷たい空気が肺の奥まで入ってくる。
石畳はまだ人の熱を持たず、街の音も少ない。
2人の足音が静かに響いた。
目的地は最近マップに追加された〈カヴァ丘陵・東の緑地〉ーー新規の探索区として噂が立った場所だ。
地図の更新は、単なる小さな点や線の追加に見える。
だが、その線の向こうには手付かずの資源と、未確認の危険が隣り合わせで眠っているのだ。
ポータルから最寄りの観測地点へ跳ぶと、そこには草原というよりは、乾いた生命力を感じさせるサバンナの景観が広がっていた。
転移の光が収束した瞬間、熱を帯びた風が頬を叩く。乾いた砂の匂いと、微かな土埃。
足元の土は焼けたように硬く、一歩踏みしめるたびに、小気味よい砂の摩擦音が響く。湿潤な森とは、空気の重さも、光の透過率も根本から違っていた。
緩やかに波打つ黄金色の丘陵。黄土色の地肌には、鋭い棘を持つ灌木が点在し、時折、大地の背骨を思わせる無骨な岩石が地表から覗いている。
空はどこまでも高く、雲は刷毛で掃いたように薄い。遮るもののない陽光が、鋭い影を地面に焼き付けていた。
「……聞いていたよりも、ずっと痩せた土地じゃないかな」
リュネルは足裏で大地の脈動を感じ取る。
こういう土地に生きる植物は、背を低く保ちながら、水分を求めて根を地中深くへと潜らせる。根が強い場所には、それを支える強固な地盤と、そこに惹き寄せられる“強いもの”が潜むのが道理だ。
「植物系はあまり期待できそうにないかな。でも、鉱物や魔獣の希少素材は、この地層なら眠っていそうかな」
リュネルは隣のベルギスへと視線を投げかける。
ベルギスは無言で土を一握りし、鼻先に寄せた。指の間からこぼれ落ちる砂が、サラサラと乾いた乾いた音を立てる。
「……まさに『猛獣の庭』だな。土に湿り気がない。だが、匂いは濃い。足跡は新しく、体重は重め……群れだな。風下の谷筋が連中の獣道だ」
サバンナにおいて、風は視覚以上に重要な情報源だ。音、匂い、獲物の気配――すべてが風に乗って運ばれてくる。
ベルギスの言葉で、リュネルも風向きにも意識を向ける。
「つまり、魔獣素材の宝庫、というわけだね。……それに、なかなか良い龍脈の奔りを感じるよ。ダンジョン化の予兆は今のところないけれど、このマナの密度なら、希少な鉱脈が地表近くまでせり出している可能性がある」
リュネルは淡い青光を放つ魔力羅針を掌に浮かべ、地脈の流れを読み取った。針先は、地中を走る見えない魔力の激流に呼応して、細かく震えている。
2人は、獣たちの足跡が刻まれた微かな轍に沿って北へと進んだ。
しばらく歩くと、周囲に切り立った岩場が増え始め、リュネルのセンサーが鋭く反応した。丘陵の地下を走る鉱脈が、岩の割れ目から世界に顔を覗かせている。
「……綺麗だ」
思わず、足が止まった。
リュネルの胸の奥が、ほんの少しだけ熱を持つ。
危険を前にした高揚ではなく、見つけたという純粋な喜び。
岩肌の亀裂に露出した鉱石が、朝日を受けて静かに、しかし自己を主張するように輝いている。
針鉄鉱の漆黒、白鉄鉱の鈍色。そしてその中心に、砂糖菓子のように透明な結晶が、神秘的な藍色を内側に宿して鎮座していた。
「リュネル?」
ベルギスは急に黙り込んだリュネルへ低い声をかける。
「……《藍晶》の一種だね。純度がかなり高い。水脈と霊脈が極限の圧力で交差したときにだけ析出する、大地の雫だよ。でも割り方を間違えると価値が落ちるからーー」
リュネルの瞳は、すでに素材に魅了された研究者のそれへと変貌していた。
値段云々の話ではなく、性質だの、構造だのの話が滾々と湧き出る。
この結晶がどういう環境の答えとして生まれたのかーーそこへ思考が沈む
“あぁ、いつものやつか“と、べルギスは微笑ましい視線をリュネルへ送りつつも、周囲に鋭い視線を巡らせ、短剣の柄に手をかける。
「夢中になると足元がお留守になるぞ」
リュネルは我に返り、気恥ずかしげに咳払いする。
「ごめん、3分だけ」
「2分だ」
「……努力する」
こういうやり取りができる相手がいることが、リュネルは少し嬉しい。
自分の背中を預けられる人間は、案外少ない。
リュネルは槌を取り出さず、周囲の亀裂に魔力を込めた極薄の鏨を差し込んだ。
石にも、呼吸と急所がある。無理に叩けば、この繊細な藍の心臓は容易に砕け散る。
彼は魔力を浸透させ、石の「結合の弱り」を指先で探り当てた。
「――そこだ」
カチリ、という微かな音が岩の内側で響く。
魔力を込めた指先で、石の息に合わせるように力を加えると、藍晶は自ら解き放たれるように、スルリと岩肌から剥がれ落ちた。
掌に残る、心地よい重みと、吸い付くような冷涼な感触。
「……よし、確保したよ」
包みに収め、リュネルが顔を上げたその刹那――世界の体感温度が、一気に数度下がった。
丘の斜面から乾いた小石がパラパラと転げ落ち、灌木の陰から、陽炎のように不吉な影が膨れ上がる。
低く、喉を抉るような威嚇音。尾の先が苛立たしく地面を叩き、発達した肩の筋肉が衣の下の鋼のように蠢く。
目の縁は乾いた琥珀色。背丈は狼より低いが、驚異的な脚力と噛みつきの破壊力を誇る丘狼の群れだ。
彼らの目は目の前の獲物を逃さんとする捕食者のそれである。
「……来たな」
ベルギスが半歩前へ出る。身体を斜に構え、重心を低く落として大地を掴む。
リュネルの意識も、瞬時に実戦へと切り替わった。
「ベルギス、初手は任せていいかい?」
「ああ。……いつも通りだ」
最前列の一頭が、大地を爆ぜさせて跳んだ。瞬きの間に牙が眼前に迫る。
ベルギスは踏み込みを合わせず、逆に半歩後ろへ引き、敵の突進力を「無」へと流した。
牙が空を切った刹那、ベルギスは短剣を抜かず、鞘のまま顎を打ち上げた。
――ガッ!
衝撃で首が仰け反った一瞬、彼の膝が丘狼の胴を正確に捉える。
肋骨が軋む音とともに、1頭が斜面を無様に転がり落ちた。
殺すことはないが、確実に戦意を折っていく。
リュネルは素直に感嘆の声をもらす。
「……流石だね、相変わらず無駄がない」
「血の匂いを撒き散らすのは得策じゃない。他の魔獣が寄ってくるからな。……リュネル、採取は後にしろ…」
リュネルがおもむろに採取キットに手をかけたのをベルギスは見逃さなかった。
その間も丘狼の攻撃は畳みかけられた。
2頭目が脇から噛み上げるも、ベルギスは流れるような体捌きで攻撃をいなし、首根を掴んで地面へ叩きつけた。
3頭目は背後から。
ベルギスは振り向くことなく、短剣の鞘で側頭を打つ。
がらりと体勢が崩れ、牙の列が地を噛む。
伏した体は痙攣して動かなくなった。
4頭目が死角から飛び出す。
リュネルは最小限の詠唱で地面に印を走らせた。
「――《メタモルフォ・プルウィス(性質変化・粉状化)》!」
丘狼が踏み込もうとした乾いた土が、一瞬にして底なしの粉砂へと変貌する。
完璧な跳躍を見せようとした獣の足元がズレ、その軌道が半拍分だけ遅延した。
ベルギスの回し蹴りが、その空白を穿つように獣の側頭部を捉え、地面へと沈めた。
さらに5、6頭と……影が加速度的に増えていく。群れは“圧”によって獲物の冷静さを奪い、包囲網を完成させようとする。
「数が多いな。どうする?」
「今回は討伐じゃないからね。……勝つ必要はないよ、『抜ける』だけだ」
リュネルは腰のポーチから特製の香包を裂き、風下へと投げた。
「右の谷筋に誘い香を流す。ベルギス、30数える間だけ正面を押し通して!」
「了解!」
鼻腔を刺す刺激性の強い草香が風に乗って広がり、丘狼たちの鋭敏な嗅覚を撹乱する。
同時に、反対側の岩陰へと獣が好む高濃度の脂香を撒いた。
本能的な「快」と「不快」の間で、獣たちの連帯がほんの一瞬だけ瓦解する。
「――今」
ベルギスが弾丸のように地を蹴った。
正面の1頭を力強く押し込み、衝突の反動を利用して次の死角へと回り込む。
リュネルもまた、肩越しに短詠唱を放ち、後列の脚を狙って麻痺成分を帯びた魔力の針を落とした。
斜面の砂が舞い、獣たちの統率が完全にほどける。
1頭の執念深い丘狼が、ベルギスの喉笛を狙って飛び込んできた。
「《スギア・ルア(疾く護り給え)》!」
薄光の盾がベルギスと丘狼とを瞬時に隔てた。
硬質な衝突音とともに牙が滑り、生まれた“空白”にベルギスの裏拳が突き刺さる。
頚椎を強打された獣は、そのまま地を這うように沈黙した。
だか、統率を失ってなお未だ獲物を諦めずに向かってくる。
しかし、それを次々といなしていくベルギスの呼吸は全く乱れていない。
ベルギスは隙を一切見せず、最低限の動きで丘狼を落としていく。
リュネルもベルギスの動きに合わせて、丘狼の進路に罠を仕掛けていく。
視線が重なり、互いに頷く。言葉はいらない。
ーーついに群れは崩れた。
最後の一頭が尻尾を巻き、低く鳴くと、退却していった。退路としておいた方に誘い香の漂い、丘狼たちはそちらへ釣られて、向こうへ消えた。
丘に再び静けさが戻り、乾いた風が吹き抜けた。
リュネルは大きく息を吐き出し、ポーチに収めた藍晶の感触を確かめた。
「……ベルギス。ありがとう、君がいなければ、僕は藍晶と狼の腹の中だったよ」
「……石はリュネルの戦利品だ。俺の仕事は、それを無事に持ち帰らせること。……まあ、お前に限ってそう簡単に食われはしないだろうがな」
ベルギスは短剣の鞘を布で拭い、血の匂いを消すための簡易的な浄化魔法を施した。
その手つきは、畑で苗を扱う時のようにどこまでも平穏で、手慣れていた。
彼にとって、この死闘さえも、日常の「手入れ」の延長に過ぎないのだ。




