第七話 ベルギス ①
朝、アルカナ堂の奥のリュネル達の居住区画で事件は起きていた。
今日は新たな探索区が出現したとの噂を聞きつけたリュネルが調査に行く事にしたのである。
探索区とは未確認又は未開拓だった土地を観測できる様になったエリアを指し、手付かずの豊かな自然、厳しい環境の広がる土地だったりする。ワイルドエリアと呼ばれる事もある。
ちなみに、探索区の中でマナ濃度が一定値を超えたり、龍脈の異常などで土地の自然的な迷宮化や迷宮自体が出現する事があり、これらが“ダンジョン”と呼称されている。
作業部屋で出発前の最終確認を終えたリュネルが扉を閉めかけたとき、ダイニングから魂の抜けたような声が聞こえた。
「せ、先生ぇ……無理だぁ……」
振り向けば、廊下の隅にソランが蹲っている。顔は死人のように白い。
リラが淡々と温かなハーブ湯を差し出し、ため息を吐いた。
「ソランさん、リュネルさんはいつもいつも“ダメだ”と、言ってくれていたじゃないですか」
「ひ、人は挑戦で強くなる……」
ソランは身悶えながらハーブ湯で唇を濡らす。
リュネルが台所を覗くと、そこには中身が流れ出ている器があり、その色はおどろおどろしいく、とても食べ物とは思えない。念のため、鼻を布で押さえながら器を調べる。
「……コレは、イワカサダケとブラックヴァイパーの……何だ、内臓?よく無事だね。それとも毒が打ち消しあったのかな?」
なんて事を言いつつ、リュネルは手持ちの素材で即席の魔法薬を調合する。
「気休めだけど、ほら飲み干して」
「っゔぉ、っ苦っげ〜……」
ソランの顔は苦悶に満ち満ちている。
「いつか、やらかすとは思っていたけど。本当にやるとはね」
「ひとは、ちょうせんで、つ、よくなる」
「胃や腸は挑戦で強くなりません」
ぐうの音も出ないソランは椅子へ倒れ込み、うめいた。
様子を眺めていたベルギスが肩を竦めて現れる。
「リュネル、今日は代わりに俺がつく。留守番はリラとルーガルで回せるだろ」
リュネルはソランの額に手を当て、熱のないのを確かめた後、小さく笑った。
「助かる。――ソラン、今日は休んで。帰ったらちゃんと薬作るから。それと夕飯はお粥だよ」
「お粥……やさしい味がするやつ……」
「味は“無難”と言います。はい、ベッドへ」
ルーガルが鼻先でソランの背を小突き、寝室へ追い立てる。
リュネルは外套を手に、リラへ頷いた。
「店はお願いしますね」
「はい。よい“散歩”を。…初めての探索区ですから、お気をつけくださいね」
「分かってますよ」
「行ってくる」
笑いとともに扉の鈴が鳴り、2人の久しぶりの冒険が始まる
目的地は最近マップに追加された〈カヴァ丘陵・東の緑地〉――“新規の探索区”として噂が立った場所だ。
ポータルで最寄りへ跳ぶと、そこは草原ではなく、むしろサバンナといった方がいい景観だった。
緩やかに波打つ丘の連なり。黄土色の地肌に、背丈の低い灌木。時折、岩の背骨が地表から覗いている。
「聞いていたよりずっと痩せた土地じゃないかな」
リュネルは足で地面の質感を感じる。
「植物系は期待できなそう。でも、鉱物とか魔獣の素材集めはできそう?」
リュネルは隣のベルギスに投げかける。
「……まさに『猛獣の庭』だな」
ベルギスが土を一握りして鼻へ寄せる。
「足跡は新しい。体重は重め、群れ。風下の谷筋が獣道だ」
「つまり、魔獣素材の宝庫って事ね。…それに、なかなか良い龍脈がありそうだよ。ダンジョン化がちょっと心配だけど…うん、この感じならダンジョンは現れないかもね」
リュネルは淡い青光の羅針を手のひらに呼び、魔力の流れを読む。
2人はとりあえず歩き出した。サバンナ地帯には獣道がうっすらできていたのでそれに沿って北に歩く。
しばらく歩いていると岩場が増えてきて、リュネルのセンサーが働き始める。
丘陵の下、脈のように走る鉱脈が、うっすらと世界に縫い目を描いていた。
「……綺麗だ」
思わず足が止まる。
岩肌に露出した鉱石が、朝日を受けて静かに光る。針鉄鉱の黒、白鉄鉱の灰、そして――砂糖菓子のように透明な結晶が、薄い藍を内側に宿していた。
「リュネル?」
「《藍晶》の一種かな。……水脈と霊脈が交差して析出するタイプ。純度が高い。割り方を間違えると価値が落ちるから――」
語尾がほどけて、瞳は完全に“研究者の色”になる。
ベルギスは肩で笑い、周囲へ鋭い視線を巡らせた。
「夢中になると音が聞こえなくなるタイプだ。――警戒は俺がやる」
リュネルは我に返り、気恥ずかしげに咳払い。
「ごめん。三分だけ」
「二分だ」
「努力する」
槌を使わず、周囲の亀裂に魔力をこめた薄刃を差し込み、ゆっくりと『石の息』に合わせて力を入れる。微細な振動が落ちた瞬間、結晶は自ら剥がれるようにすっと外れた。
「……よし」
包みに収めて顔を上げた、そのときだった。
空気が張り詰める。
丘の斜面から乾いた小石が転げ落ち、灌木の陰で影が三つ、四つ、ふくらむ。
唸り声。
低く、喉を擦る音。尾の先で土を叩き、肩の筋肉が蠢く。目の縁は乾いた琥珀色。
背は狼より低いが、肩幅と太腿が異様に発達した“丘狼”の群れだ。
「……来た」
ベルギスが短く呟き、半歩前へ。体を斜にし、足裏で足場をしっかりと踏みしめる。
リュネルの頭が切り替わる。
「ベルギス、初手だけ任せていい?」
「あぁ。リュネルは…いつも通りで良い」
先頭が跳ぶ――瞬きの半分の速さで。
ベルギスは踏み込みを合わせず、逆に後ろへ半足引いた。敵の爪が空を切る。
土を滑らせながら腰を落とし、短剣の柄で顎を打ち上げ――刀身はまだ抜かない。
衝撃で首が仰け反る一瞬、膝で胸を打つ。
ごろり、と巨体が転がり、そのまま斜面を落ちた。
一撃。
リュネルは素直に感嘆の息を漏らす。
「……さすが」
「刃が鈍る。骨は後回しだ」
二頭目が脇から噛み上げるも、ベルギスは半歩の外へいなし、肩で受ける前に首根を掴み、土へ叩きつけた。
喉が鳴り意識が刹那に飛ぶ。
三頭目――背後。
ベルギスは呼吸で位置を読んだ。振り向かない。短剣の鞘で側頭を打つ。
がらりと体勢が崩れ、牙の列が地を噛む。
リュネルは最小限の詠唱で地面に印を走らせた。
「ーー《メタモルフォ/プルウィス(性質変化/粉状)》」
乾土が一瞬だけ粉砂になり、踏み込んだ獣の足がとられ半拍遅れる。
ベルギスの蹴りが、そこに落ちた。
丘の風が一度止み、次の瞬間、別方向からの唸りが重なる。
さらに五、六――。
囲まれた。
「数が多い。どうする?」
ベルギスの声は低いが、揺れない。
「今回は討伐でも採取でもないからね、無闇に殺す必要はないよ」
リュネルはルートを一瞬で算段し、腰の装備に指を入れた。
「匂い消しと誘い香を右手の谷筋へ流す。ベルギス、三十数える間だけ正面を切り続けて」
「了解」
香包を裂き、風下へ投げる。
鼻腔を刺す刺激性の草香が一瞬で広がり、丘狼たちの鼻面がゆがむ。
同時に反対側へ甘い誘い香。獣の好む脂香が風に乗り、少し離れた岩陰へ注意を引きつけた。
「――今」
ベルギスが地を蹴る。
正面の一頭を“押し”、次の一頭の侵入角を塞ぐように倒す。
リュネルは肩越しに短詠唱を差し込み、後列の脚筋へ痺針を落とした。足がもつれ、転ぶ。
斜面の砂粒がわずかに流れ、獣たちの軌道が乱れる。
それでも数の圧は消えない。
一頭が詰めてきた。牙がベルギスの前腕に届く寸前――。
「《スギア・ルア(疾く護り給!)》」
薄光の盾がベルギスと丘狼とを瞬時に隔て、丘狼の牙を滑らせる。
ベルギスがその“わずか半拍”の空白へ膝を斜めに打ち上げ、頸椎に衝撃を走らせた。
獣は倒れ込み、失神した。
呼吸は乱れない。
ベルギスは攻めながら、常に体を斜に置く。腹を見せず、背を見せない。無駄に倒さず、倒すべき時だけ落とす。
リュネルは彼の動きに合わせ、“ここへ来る”という場所へ罠の瞬詠を置く。
視線が絡み、頷きが交わる。言葉はいらない。
――群れは、崩れた。
最後の一頭が尻を落とし、尾を巻いた。低く吠えて、退却していく。
退路に誘い香が流れている。丘狼はそちらへ釣られ、影の向こうへ消えた。
丘に静けさが戻り、そよぐ風を感じる。
リュネルは遅れて胸の奥をふぅと吐いた。
「……ベルギス。ありがとう。君が居なければ、僕は鉱石を抱えたまま噛まれてた」
「石はリュネルの戦利品だ。俺の仕事は、おまえがそれを持ち帰れるようにすること。
……まぁ、おまえに限って“噛まれる”なんて事は無いだろ」
さらりと言って、彼は短剣の刃を布で拭った。
血の匂いが強くなりすぎないよう、浄化魔法も忘れない。
その手つきは、畑で草を束ねるときと同じく、手慣れていた。




