第6話 使い魔ルーガル②
昼を少し過ぎた街は、熱を帯びた空気と人々の活気がさらに熱を増していく。
三日月と太陽の意匠を誇らしげに掲げた素材屋『アルカナ堂』の看板が、降り注ぐ日差しを眩しく跳ね返していた。
その木の彫りは祖父の代から続く古いものだが、丹念に磨き上げられた表面には、いまだに飴色の深い艶が宿っている。
「ただいま」
扉の鈴が涼やかに鳴ると、カウンター内にいたリラがパッと顔を上げて、ひだまりのような笑顔を見せた。
「お帰りなさい、リュネルさん。ソランさんも。……ルーガルも、お疲れさま。いい素材は見つかったかしら?」
ルーガルは主人の帰宅を報告するかのように短く鼻を鳴らすと、当たり前のような足取りで店の奥へと回り、リュネルの作業台の横に静かに腰を下ろした。
リラは手慣れた動作で、午前中に受けた注文の薬を包んでいく。紙の角を寸分の狂いなく合わせ、丈夫な麻糸で十字に括り、最後に出荷用の使用法を記した札を差し込む。その一連の動作は、見ていて惚れ惚れするほど無駄がない。
「ありがとうございます。午後は仕分けに取り掛かるから、店の方はお願いしますね。僕を指名された方が来たら、すぐに声をかけて下さい。……ソラン、君は外回りを頼むよ」
「了解、先生。……ルーガルは今日こっちに居るのか? 留守番、しっかり頼むぞ」
ソランがルーガルの頭を、親しみを込めて軽くポンと叩いた。
ルーガルは「任せろ」とでも言いたげに、目を細めて太い尻尾を一度だけ床に打ち付ける。
ソランは満足げに肩を揺らしながら、配達用の荷物を手に外へと出ていった。扉の鈴が一度高く鳴り、開いた隙間から午後の眩しい陽光がひと筋、店内の床を走った。
店内は、仕分けの紙が擦れる乾いた音と、リラの穏やかな応対で静かに回り始める。
香辛料の配合を相談する主婦、包帯に使う保存性の高い布素材を尋ねる若い兵士、長年の腰の痛みを訴える年配の職人。
リュネルは奥の作業台で素材の束を整え、丁寧にラベルを書き付けては、出入りの職人に引き渡していった。
「今回のヤツは、保管場所の湿度を少しだけ上げてください。原産地の木の乾燥が予想以上に進んでいたので」
「なるほど、了解だ。助かるよ、リュネル」
客足はやがて落ち着き、午後の光が床の木目を金色に深く染め上げていく。外の喧騒が遠ざかり、店の中は互いの呼吸が完全に同調した工房のように、心地よい静寂に包まれた。
しかし、その静寂は突如として破られた――。
入り口の鈴が、重く、低く鳴ったのだ。
入ってきたのは、浅黒い肌を隠すように深い外套を纏った男だった。
その視線は落ち着きなく店内を巡り、何かを嗅ぎ分けるように鼻翼だけが忙しなく動いている。靴底には粘り気のある乾いた泥がこびりつき、左の袖口には微かな黒い粉末が付着していた。
男は扉が閉まるやいなや、吸い寄せられるようにカウンターへ身を寄せた。
「……強い薬が欲しい。この店で一番強いやつを、今すぐ出してくれ」
リラはプロフェッショナルな微笑を崩さなかったが、本能的な危うさを感じ取ったのか、さりげなく一歩分だけ間合いを保つ。
「申し訳ありません。効果の強い魔法薬や規制対象の薬品に関しては、お客様への直接販売はお断りしているんです。ギルド発行の証明書か、医師の処方箋はお持ちでしょうか?」
「うるさい、御託はいい。あんたは黙って、一番キツいのを出すだけでいいんだよ」
男の口調に、鋭い棘のような怒気が混じり始める。
リュネルは作業の手を止め、視線だけで静かに男の状態を測った。
外套の袖口に付着した、火薬にも似た黒い粉。爪の間に残る植物の緑色の滲み。そして、病的なまでにひび割れた唇。
それは、特定の“興奮剤”を常用する者が示す典型的な痕跡だった。薬識の薄い店を狙い、脅しをかけて“強い薬”を引き出そうとする……常習者特有の焦燥感が、男の全身から漂っている。
その時、ルーガルが音もなく立ち上がった。
牙を見せることはない。低く唸ることもない。
ただ、カウンターの端へと自然な動作で移動し、その位置から琥珀色の双眸でじっと男を見据えた。
男の退路はあえて残しつつも、リラへの物理的な攻撃線は完全に遮断する――それは訓練された番犬というより、愛する“家族”を絶対に守り抜くという、気高き意志の表れだった。
男の喉仏が、一度だけ大きく上下する。
それでも、彼は引きつった笑みを顔に貼り付けた。
「……随分といい番犬を飼ってるじゃないか」
「番犬ではありません。……私の大切な『家族』です」
リュネルの声は穏やかで、どこまでも透明だった。
しかし、その静かな言葉には、決して譲歩を許さない鋼のような重みが宿っている。
「我々も信頼を第一に商いを行っております。まずは、こちらの記録で用途を確認させて――」
「俺は急いでるんだと言ってるだろうが!!」
男が激昂し、身を乗り出した瞬間。
ルーガルの前足が、トォン……と静かに、しかし重く床を鳴らした。
その“音”と、ルーガルが放った目に見えぬ威圧感に、店の空気は一瞬にして氷点下まで張り詰める。
リラは自然な動作で棚の影へ半歩下がり、避難路を確保した。リュネルもまた袖の内に杖を忍ばせる。
「……っ……すみません」
男の口調から、不意に勢いが削がれた。
張り詰めた空気の中、ルーガルの一切の揺らぎがない眼差しに、男の精神が根底から気圧されたのだ。
「……じゃあ、弱いのでいい。とにかく、眠れるやつを……」
男から熱が引いたのを確認したリュネルはさり気なくカウンターに進み出た。
「かしこまりました。休息を助けるための穏やかな薬なら、すぐにご用意できます。飲み合わせを確認しますので、今現在服用されているものがあれば、お教えてください」
「……いや、ない。ないが、とにかくほしいのはその……」
言葉が続かない。彼自身、明確な理由など持たずに、ただ己の内の渇きに突き動かされてここへ来たのだろう。
リュネルは肩の力を抜き、包み込むようなやわらかな声で言葉を重ねた。
「眠れないというのは、本当にお辛いことですよね。もしよろしければ、服用薬の他に、香りで安らぎを促す特別な香油薬もお付けしましょう。……お客様。今日は“強い”モノではなく、あなたの身体に深く“効く”モノを持って帰りましょう」
男の強張っていた肩が、ふっと力なく下がった。
ルーガルの視線は、もう彼を脅してはいなかった。ただ、峻厳な山のようにそこに“在る”だけだ。
その変わらぬ在り方が、男の荒い呼吸を、波立つ心を、静かに整えていく。
「……頼む」
短い言葉に、もはや敵意の欠片も残っていなかった。
リラが丁寧に包みを用意し、穏やかな口調で使用法を説明する。男は何度か小さく頷き、料金を置くと、逃げるように、しかしどこか憑き物が落ちたような足取りで店を出ていった。
扉の鈴が、今度は遠慮がちに小さく鳴った。
揺れる光の中に静けさが戻ると、ルーガルは何事もなかったかのように作業台の横へ戻り、ふぁ、と小さくあくびをした。
リラがそっと、安堵の溜息とともに笑う。
「……ありがとう。正直、少し怖かったけれど……本当に心強かったわ」
ルーガルは尻尾を一度だけ床に打ち、再び伏せの姿勢をとる。その仕草は、まるで「家族として当然のことをしたまでだ」と言っているようだった。
奥から戻ってきたリュネルは、リラの顔色に異常がないことを確かめ、ルーガルの逞しい背を優しく撫でた。
「助かったよ。……切実に“強いもの”を求める人は、極限状態にある。何をしてくるか分からないからね。今日は君のおかげで、一番穏便な形で解決できたよ。ありがとう、ルーガル」
ルーガルは鼻先でリュネルの手のひらを押し上げ、満足げに目を細めた。
2. 素材屋の日常と、忍び寄る「風の匂い」
ひと息つくと、店の中には再び柔らかな午後の時間が流れ出した。
ちょうどその時、近所の少年が戸口から元気よく顔を覗かせる。
「リラお姉ちゃん! 母ちゃんがさ、いつもの咳止めが欲しいって!」
「あら、いらっしゃい。はい、前と同じ配合のもので大丈夫かしら?」
「うん! あと、弟にも一つ。……それと、俺は……その……」
少年は、急に恥ずかしそうにモジモジと指を弄んだ。
「遊びすぎて喉を枯らしちゃったのかしら?」
「……う。なんでわかるのさ」
そのやり取りを見ていたルーガルが、くん……と少年の袖の匂いを嗅ぎ、優しく指先をぺろりと舐めた。
「わあ、なにこれ、すごいかわいい! 狼?」
「名前はルーガル。……あんまり甘やかすと、君の家まで付いていっちゃうよ」
リュネルが薬を包みながら、少年に慈しむような表情を向ける。
「えっ、それは困る! ウチ、肉あんまりないし!」
店内に明るい笑いが波紋のように広がっていく。
こうした、取るに足らない、けれどかけがえのない何気ないやり取り。それもまた、素材屋の日常を守るための大切な「素材」なのだ。
やがて、外回りから戻ってきたソランが、ルーガルの様子を見るなり首を傾げた。
「ただいま。……ん? 先生、なんかあったか?」
リラが笑顔で首を振った。
「ルーガルが少しだけ、かっこいいところを見せてくれたんですよ」
「なんだよ、ずるいぞ。俺がいないときに限って……」
「大丈夫だよ、ソラン。君はいつだって、最高に“目立つ”係だからね」
リュネルは作業の手を止めずに、さらりと言葉を投げる。
「先生。それ、絶対に褒めてないだろ。……いや、褒めてるのか? どっちだ?」
「褒めてる、褒めてる」
「……よし! ならいいや。褒められた!」
ソランは単純明快に笑い、伝票の束を机に置いた。ふと、彼は鼻をひくつかせる。
「先生。……なんか、店の中……ほんのちょっとだけ、におうか?」
「……ああ、そうかもね」
リュネルは少しの間考え込んでから、立ち上がった。
「いや、気のせいならいいんだけど」
「……いや念のため、換気を強めておこう。湿度が落ちすぎない範囲でね」
「はいよ」
そこへ、裏口からベルギスが顔を出した。
「リュネル。今日の夕方は、早めに閉めたほうがいいかもしれんぞ」
「……ありがとう、ベルギス。何か、荒れそうな予感かい?」
「ああ。雲の流れが異常に速い。風が、今夜あたりから少し強くなるかもしれんな」
短いやり取りの後、ベルギスは再び裏へと消えた。その背中に、ルーガルの鋭い眼差しが一瞬だけ、静かに寄り添った。
日が傾くと、店の床に伸びる影はドラマチックに長くなっていく。
表の看板が風に揺られ、キィ……と小さく鳴った。鎖が鳴き、木がそれに応える。
ソランが外回りの報告を終え、カウンターに腰を下ろして一息ついた。
「そういえば先生。診療所のドクターが、新しい鎮静剤の材料に、あの薬草が欲しいって言ってたぜ」
「……それはドクターの方が詳しいと思うんだけど」
そういいつつリュネルは納品リストをめくり、診療所の品目に目を通す。
「鎮静剤か。……どんなのが良いとか言っていたかい?」
「ああ、えーっと……ソム、ソム……ソムの、フィルム?」
「……『ソムニフェルム』かな?」
「それだ! さすが先生、よく分かったな!」
(……ソムニフェルムか。あれは依存性が極めて高い。医療用としても、あまり出回らせるのは気が進まないな……)
リュネルの顔が一瞬、深く曇る。その微かな変化を、ソランは見逃さなかった。
「……先生。他のじゃ駄目か今度聞いてこようか?」
リュネルは改めて、ソランの「野生の勘」とも呼ぶべき洞察力に感心した。彼は何も言わずとも、相手の表情の僅かな揺らぎから思考を読み取ってしまう時がある。
「……いや、いいよ。今度、僕が直接ドクターと話してくる」
「ん、りょーかい……あとは特に変わったことはなかったぜ」
ソランはカウンターからヒョイと離れると、鼻歌交じりに店の奥へと消えていった。
閉店前、最後のお客が帰っていく。
鈴の音の余韻が店内に響き渡り、それが静まっていくにつれ、夜の足音と街の遠い賑わいが耳に届き始める。
店内から人の声が消え、紙を滑るペンの音と、衣擦れの音だけが残った。
リラが帳場の隅を整えながら、今日の結果を報告する。
「今日の売上は極めて良好です。香草の問い合わせが3件、うち2件は明日以降のご予約になりました」
「ありがとう。……記録に『混ぜ物に関する注意喚起』も添えておいて。明日、ギルド便で各所に回そう」
「了解いたしました」
リラは鉛筆でさらさらと記録を書き付け、封蝋用の小さな印台を用意した。
赤い蝋の上に、アルカナ堂の誇りである『三日月と太陽』の紋章が、くっきりと深く沈み込んでいく。
ルーガルは椅子とカウンターの隙間に身体を丸め、彼らの穏やかな声を枕にするように、満足げに目を閉じた。
店を完全に閉める前、リュネルは看板を仰ぎ見て、誰に聞かせるでもなく静かに呟いた。
「今日も、よく働いたね」
リラが灯りを落とし、ソランが鍵を確かめ、最後にルーガルが扉の内側で一度だけ振り返る。
その琥珀色の瞳に、看板の青い魔法石の残光が小さく宿っていた。
「明日も、よろしく頼むよ」
リュネルが囁くと、ルーガルは短く鼻を鳴らした。その声は、確かに「もちろんだ」と響いた気がした。
その夜。
そっと中庭に出たルーガルは、しばらくの間、独りで夜空を仰いでいた。
星々の瞬きはどこまでも淡く、風は凪いでいる。
彼はじっと空を見つめ、夜の静かな風がその柔らかな毛並みを撫でるに任せていた。
中庭の鉢植えから、朝に採ってきた薬草の残香がわずかに漂う。
ルーガルは鼻を近づけ、その匂いを確かめるように深く吸い込むと、再び天へと顔を戻した。
背後で扉が微かに開き、リュネルの穏やかな気配がした。
夜風が冷え込む季節、リュネルはショールを肩に巻き直し、相棒の側へと歩み寄る。
リュネルはルーガルの隣に腰を下ろし、彼と同じように空を見上げた。ルーガルは当然のように、その大きな身体をリュネルへと預ける。
言葉を必要としない夜。それぞれの呼吸が、同じゆったりとした速度へと同調していく。
「ねぇ、ルーガル」
リュネルの静かな呼びかけに、ルーガルの耳がぴくりと反応する。
「ソランが言っていたね。君は“人間くさい“って」
リュネルはルーガルの頭を、慈しむようにゆっくりと撫でる。
「……まったく。人間くさいとは失礼な物言いよな。ヤツは妙に感だけは良すぎるぞ」
ルーガルが、伏せた姿勢のまま、重厚な響きを持つ声で応えた。
「ソランの勘に助けられていることも多いんだから、そこは大目に見てやってよ」
「……主の唯一無二の相棒は、この我であろう?」
ルーガルは顔を上げず、しかしどこか不貞腐れたような響きを声に乗せる。
「もしかして、焼きもちかい? ルーガル、君にしては珍しいね」
リュネルは相棒の意外な一面に、思わず口元を綻ばせた。
「……そんなものではない。ただの事実確認だ」
リュネルはルーガルの豊かな毛並みに腕を回し、そっとその胴を抱き寄せた。
「君がいるから、僕は安心して店を空けられるし、採取の仕事にも全力で打ち込めるんだ。……ルーガル。いつも、本当にありがとう」
ルーガルは言葉では返さなかったが、その太い尻尾は非常に素直に、何度も地面を叩いた。
不意に風が向きを変え、屋根の上の風見鶏がカタカタと羽を鳴らした。
看板の三日月と太陽が、夜風に吹かれてもう一度、やさしい音を立てる。
ルーガルはその音に片耳を向け、小さく目を細めた。
(……主よ。案ずるな、明日もまた良き1日となるぞ)
その確信だけを胸に、夜は静かに深まっていく。
冷たい夜風の中、月明かりに照らされた1人と1匹は、温かな体温を分け合うように、いつまでも寄り添い続けていた。




