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アルカナ堂は今日もゆく〜素材屋リュネルの秘録〜  作者: 磨羯瑞花


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第26話 貴き友から素材屋へ

穏やかな陽光が降り注ぐ定休日の街路は、まるで深い

眠りから覚めるのを惜しむかのように、いつもより緩やかなリズムで目を覚ましていく。

開店を急き立てる喧噪の声はなく、店内はどこかのんびりと空気に溶けていた。

《アルカナ堂》の店先に掲げられた札は表側の賑やかさを隠し、「定休日」の三文字を静かに外へ向けている。

それでも、店内の時間は止まってはいない。

素材たちが微かな魔力の余韻を放つなか、人々の営みは静かに、しかし確実に動いていた。

帳場ではベルギスが古びた椅子に深く腰かけ、相棒とも呼べる"道具"たちを丹念に磨き上げている。布が金属を擦る規則的な音が、店内の静寂を心地よく刻んでいた。

奥の台所からは、リラが昼食と次週の仕込みを兼ねたスープを煮込む温かな香りが漂ってくる。

コトコトという鍋の鳴る音が、家庭的な安らぎを添えていた。

一方、裏庭からはソランが丸太に拳を打ち込む峻烈な音が響いている。

時折、彼は打撃の手を止めては気遣わしげな視線を店へと向けていた。

リュネルは朝のルーチンをひととおり済ませ、ようやく淹れ立ての紅茶に口を付けたところだった。

琥珀色の液面から立ち上る湯気が、群青の瞳を柔らかく包む。

足元ではルーガルが大きな毛玉のように丸くなり、心地よい微睡みのなかで長い尻尾をゆったりと揺らしていた。

(さて。まずは在庫の照合を済ませて、午後は温室の魔術回路を調整しようか……)

リュネルが午後の予定を脳内で組み立てた、その刹那――。

静かな店内に、扉の鈴が澄んだ音色を響かせた。

本来、客を拒んでいるはずの定休日に鳴る鈴の音。

それは、不測の事態か、あるいは抗いがたい特殊な縁の到来を告げる合図か。

リュネルが反射的に顔を上げると、隣でベルギスが既に反応を示していた。

彼は無造作な動作のなかに鋭い緊張を潜ませ、さりげなく腰を浮かせて視線を入り口へと固定する。

「……今日は生憎だが、休みだぞ」

ベルギスが放ったひと言は、表面的にはぶっきらぼうな拒絶だったが、その内側には明確な警戒の火が灯っていた。

扉を押し開けて入ってきたのは、深海のような青を湛えた光沢のあるローブを羽織った青年と、その背後に影のように控える、高木を思わせる長身の男だった。

青年が指先でフードを外すと、陽光を反射して柔らかな金の髪がこぼれ落ちる。

彫刻のように端正な顔立ちに、理知と高貴さを宿した灰青の瞳。

「……やあ、リュネル。突然の訪問を許してくれ」

迷いのない、親しげな呼びかけ。

ベルギスの眉が、そのあまりにも身分の高そうな声色に一瞬だけピクリと動く。

リュネルは静かに椅子から立ち上がり、何事もなかったかのような落ち着いた所作で、小さく会釈した。

「――アルデラン殿下。ようこそお越し下さいました」

選んだ言葉は公的な場にふさわしい慇懃なもの。

けれど、その語尾には旧知の仲ゆえの、ごく薄い苦笑が滲み出していた。

(昨夜、リラさんが言っていた“気品のある青年”の正体は、やっぱり……)

ーーアルデラン・ルクス・ルキフェリア。

ルキフェリア王国の第二王子。

そして、リュネルにとってはかつて共に同じ理想の欠片を追いかけた――。

「ベルギス。ごめん、少し席を外してもらってもいいかな?あとーー」

リュネルが穏やかな声音で促す。

ベルギスはアルデランとその護衛を鋭い眼光で一瞥し、わざと威圧感を込めた声量で言い置く。

「リュネル、何か不穏な動きがあったらすぐに呼べ。…あの2人は俺にまかせろ」

「うん。ありがとう、助かるよ」

そのまま裏手へ消えていくベルギスの背中を見送り、リュネルは改めて正面の二人に向き直った。

「……改めまして。アルデラン殿下、それからヒュロス卿も。お久しぶりです」

護衛の男――ヒュロスは、一分の隙もない軍人らしい所作で一礼を返した。

「リュネル様、先日は大変失礼致しました。我が君の命とはいえ、唐突な接触を試みた非礼、お詫び申し上げます」

ヒュロスは先日、リュネルへ忠告の書簡と共に姿を現したあの偉丈夫だ。

つまり、あの時彼が「我が主」と呼んでいたのは、他ならぬアルデラン王子のことだったのだ。

「久しいな、リュネル。変わらず健やかに、この店を営んでいるようで何よりだ。君の無事な姿を見られるのは、私にとって何よりの救いだよ」

「おかげさまで。殿下も、ご壮健そうで安心いたしました」

「ふふ、相変わらず言葉が固いな。今日は公式な訪問ではなく、あくまで“お忍び”の範疇なのだから、そんなにかしこまらなくても――」

と、言いかけたところで、アルデランはふと懐かしむように店内を見回した。

使い込まれた帳場。

整然と並ぶ薬棚。天井から吊るされた乾燥草。

そして、奥から漂うスープの温かな匂い。

「……なるほど。ここの空気は、昔から変わらないままだね」

「…変わってしまったら、それはもう僕たちの店ではありませんから」

言葉に宿る温度が、わずかに和らぐ。

その微かな弛緩を敏感に読み取ったヒュロスは、音もなく一歩下がり、壁際に身を寄せた。

ただ、それが“対話の核”から決して意識を離さない、完璧な防衛の立ち位置であることをリュネルは見抜いていた。

(殿下は自由な“お忍び”を楽しみたくても、ヒュロス卿は徹頭徹尾“護衛”だもんな)

リュネルは心の中で小さく肩を竦めつつ、万全を期して店の簡易防音結界を起動した。

杖を取り出すまでもない。

空中に指先で微かな魔導の紋様を描き、どこかに触れるだけで十分だ。

瞬時に透明な膜が店の内側を包み込み、外部の音から隔絶された。

「……さて。お忍びでわざわざ足を運ばれた殿下が、しがない素材屋にどんなご用件でしょうか」

「単なるお茶飲み友達としての再会、……と言いたいところだけどね」

アルデランは、いつもの人懐こい笑みを浮かべながらも、その瞳の深淵だけには消えない真実の輝きを宿していた。

「今日は――“素材屋”である君に、国家規模の仕事を依頼しに来た」

    


「仕事……ですか?」

リュネルは不可解そうに、軽く首を傾げる。

アルデランは頷き、カウンター脇の椅子を勧められるより早く、遠慮のない動作で腰を下ろした。王族らしからぬそのラフな振る舞いは、彼なりの親愛の情の裏返しだった。

「ルキフェリア王立軍学校の“特別演習”における、外部講師を務めてほしい」

「…………」

一拍の沈黙。

リュネルの思考回路に、真っ白な空白が走った。

「……恐れ入りますが、もう一度、正確に聞き返してもよろしいですか?」

アルデランはにこやかに、しかし言葉の重みを込めて繰り返した。

「ルキフェリア王立軍学校の“特別演習”講師だ。具体的には、探索区での実戦的なサバイバル訓練だ。そこに、外部の専門家として君に立ってほしいんだ」

「それはつまり――軍学校の……未来の士官たち、ですよね」

「その通りだ」

「……」

沈黙が店の空気を再び支配した。

ルーガルが足元で、何かを警戒するように耳をぴくりと動かす。

実体を現さぬ黒豹――オルフェウスは、梁の上でくつろいでいた姿勢を正し、尻尾を振る速度をぴたりと止めた。

(軍学校。特別演習。サバイバル。……僕に、教鞭を執れと?)

喉の奥が、冷たい氷に触れたかのように少しだけきしむ。

軍。特務。そして、…戦場。

あまり不用意に抉りたくはない過去の記憶の扉に、直接手をかけられたような感覚があった。

「……殿下。私はもう、とうの昔に国務職を返上した身です。表向きはただの錬材師であり、場末の素材屋ですよ」

「そのことは百も承知だ」

遮ることなく、アルデランは静かに言葉を継いだ。

「けれど、今の軍学校の内部構造は、かつて“私たち”が学んでいた頃とはずいぶんと変質してしまった」

「……変質、ですか?」

「ああ。表向きの理由は『カリキュラムを画一化し、能力の平準化を図ることで、効率的な組織運営を目指す』というものだ。だが……その実態は、“現場で生き延びるために必要な、余計な知識”を削ぎ落とそうとする画策だという斜な噂があってね」

リュネルは目を細め、その情報の裏側を探る。

「座学はひどく簡素化され、現場での生存に必須となる毒草の知識、魔獣の微細な生態、さらには地形と地脈の相関関係……そういった“生きた技術”は有志の教官が個人的に教える以外に術がない。そして、教えようとする熱意ある者は、“上”から目に見えない圧力でやんわりと制止される」

「“やんわり”……ですか」

「功績評価に影を落とし、望まぬ僻地への転属を仄めかす。……君も、その手の政治的な手口はよく知っているだろう?」

苦い冗談のような響きを伴った問い。

リュネルは無言のまま、冷めた視線だけでその肯定を示した。

「それでも、優秀な教官たちは隙を突いて知識を伝えようと抗っている。だが、それにも限界があるんだ」

 アルデランは、長い指先で卓の木目を軽く叩いた。

「兵士としての根幹は軍学校での4年間で叩き込まれる。“そこで何を教え、何を意図的に削るか”という選択は、10年後のこの国の軍の在り方を根本から変えてしまう。それは、君なら痛いほど理解できるだろう?」

「……ええ、わかっています。痛いほどに」

理解しているからこそ、リュネルの足取りはかつてのぬかるみに引き戻されるように重くなる。

「最近、軍学校の教育方針に対する匿名の痛烈な批判意見が急増しているんだ。『最近の若い兵士は現場の呼吸を理解していない』『魔獣のテリトリーに無知なまま無謀な突撃を敢行する』『兵の質が劇的に低下している』……そして、現場の状況を無視した、身の丈に合わない傲慢な命令が増えている、とな」

「……それは、最前線の現場からの悲鳴、でしょうか」

「一部はね。あとはギルドや、支援を受けた市民たちからも届いている。だが……“現場からの苦情”という看板を意図的に利用した、議会派閥による世論誘導の可能性も否定できない」

国家政治という名の、不透明な盤上の上で繰り広げられるゲーム。

非難の矛先を、あえて“現場で教える側”へと向ける誘導か。

「――だからこそ、軍学校の現場側から『信頼に足る外部講師を招聘したい』という切実な声が上がったんだ。特定の政治派閥に属さず、かつ実戦的な現場の知識を極めた専門家を、という大義名分を掲げてね」

「それで……僕に白羽の矢が立った、と?」

「ああ。王都周辺で、“素材と魔獣、そしてフィールドワークに最も精通した人間は誰か”と問えば、10人中8人はアルカナ堂のリュネルの名を挙げるよ」

「……残りの2人は?」

「1人は、君の伝説的な祖父殿。そしてもう1人は――“かつての君”そのものだ」

 軽口を装いながら、逃げ道を塞ぐような狡猾な返し。

リュネルは肩の力を抜き、溜息混じりの苦笑を漏らすしかなかった。

「この正式な依頼は、第一王子の名において発令されている。兄上自身も、軍学校の現状……その腐敗したシステムには強い危機感を抱いているんだ」

「……王太子殿下の名が出るなら、貴方を介さずとも、王宮の正規ルートから正式な使者が来てもおかしくない案件ですね」

「そのルートは今、至るところで目詰まりを起こしていてね」

アルデランの声のトーンが、急速に温度を下げる。

「正面から手続きを通せば、即座に“余計な真理を与えぬための壁”に阻まれる。だからこそ、私がこの足で、非公式な“お忍び”という隠れ蓑を使ってやってきたんだ」

(……なるほど、そういうことか)

表層の政治と、深層の思惑。

アルデランは幼い頃から、常にその“相容れない境界”に立ち、調整役を強いられる性分だった。

「特別演習という名目のもと、探索区でのサバイバル訓練を集中して行う。その教導役として――」

「僕を?」

「君を、だ。リュネル」

「……」

リュネルは沈黙を守り、視線を落とした。

磨き上げられたカウンターの木目。

その上で一本ずつ、自らの覚悟を問うように指を折っていく。

「……期間は、どの程度でしょうか」

「事前講義を含めて、実質2日間。初日に学校での座学と装備の選定、2日目に実際のフィールド入りだ。日程は軍学校の最終学年における、卒業前の特別カリキュラムとして既に組み込まれている」

「対象は……最終学年ですか」

「いわゆるエリート候補生たちの組だ。次世代の隊長、参謀、あるいは補給将校の卵たちだ。卒業と同時に、最前線の判断を下す立場に就く人材ばかりだよ」

「ふむ……」

ただ一兵卒として剣を振るう者たちではない。

部下に命令を下し、物資の流れを管理し、戦況を左右する側の人間。

彼らが一歩判断を誤れば、その背後にいる数百、数千の命が不条理に奪われることになる。

(……だからこそ、綺麗事だけではない、本質を叩き込んでおくべきなんだ)

類似した毒草の、微細な種類の違い。

過酷な環境下での効率的な歩行術。

汚染された水から飲用可能な一滴を得る方法。

魔力を無駄に消費しない、最小限の術式。

そして、魔獣との埋めることのできない距離の取り方。

それらの“些細な差異”が、生と死を分かつ峻厳な境界線を決定づける。

「リュネル様」

沈黙の重圧に耐えかねたように、壁際で控えていたヒュロスが口を開いた。

その声は軍人らしい率直さに満ち、乾いてはいたが、確かな熱量を帯びていた。

「私はこれまで、数多の最前線をこの眼で見て参りました。近年の若い兵士は、確かに基礎体力や魔力適性の数値は極めて優秀です。しかし、彼らは“マニュアルにない未踏の難問”に直面した瞬間、驚くほど脆く崩れ去る」

「……知識…いえ、教養不足、ですか」

「然り。例えば、深刻なマナ霧が発生した地帯での行軍。かつての兵士であれば、植生や魔獣のテリトリーを読み解き、死地を避けるルートを選別するのは、下士官レベルの当然の教養でした。しかし今や、『支給された地図の指示通りに歩く』ことこそが教義カリキュラムのすべて。案内役というリソースを割けなければ、彼らは容易に霧の中に消えていくのです」

リュネルは、セレストリアの会合で交わされた、あの冷徹な言葉を反芻した。

『需要があるのも事実。締め付けすぎれば、闇市場が肥大化するだけだ』

構造は同じだ。

 “教えない”ことによって、知識を独占し、大衆を飼い慣らそうとする。

しかしその不条理な代償は、常に名もなき現場の血によって支払われる。

「私は一軍人として、内部からの改革を叫び続けてきました。ですが……」

ヒュロスは、苦渋を滲ませるように言葉を切った。

「軍の外部、真に現場を知り尽くした者から示される『生きた教養』には、内部の訓示とは比較にならぬ重みがあります。私がまだ新兵だった頃は、かつての古参たちが酒を酌み交わしながら教えてくれたこと。ですが、今の若者たちはその継承の機会を失いつつある。知識を持たぬ者が辿る悲劇的な終着点を……私は誰よりも知っているつもりです」

「……ヒュロス卿」

名前を呼ぶと、偉丈夫は場を乱したことを恥じるように、わずかに視線を逸らした。

「……不躾な物言いを、失礼致しました」

「いいえ」

リュネルは、深く肺の奥まで満たしていた空気を吐き出した。

胸の奥底で錆びついていた、重い箱の蓋が微かな音を立てて動いた気がした。

「ただ……」

「ただ?」

「私はもう、“国家の装置”ではありません。私のような異分子がしゃしゃり出ることで、現場で日々奮闘している教官たちの立場を危うくする可能性もあります。『外部の知恵を借りて補強した』という形ならまだしも、結果として『軍の教育不足を露呈させた』という批判の材料にされることは避けたいのです」

 それは臆病さではなく、この数年間、素材屋という中立の立場で身につけた精緻な“バランス感覚”だった。

「その懸念については――私が、全責任を持って処置しよう」

アルデランが迷いのない瞳で、断言した。

灰青の瞳に宿る光はいつになく鋭く、統治者としての強靭さを帯びている。

「私の名において発令された依頼だ。『王族の強い要望による、特別な外部知見の導入』という形式を徹底させる。軍学校の上層部も、“王家の顔”という盾の前に、露骨な妨害工作は不可能なはずだ」

「盾が必要だからこそ、殿下自らが」

「そして、その盾の裏側に隠された“真実の中身”が必要だからこそ、君を頼るんだ」

アルデランは、少しだけ肩の力を抜いて柔らかく笑った。

「なあ、リュネル。これは、私一人の思いつきや我が儘ではない。軍学校の良心ある教官たちや、実戦を経て戻ってきた卒業生たちからも、君を推す声が挙がっていたんだ。『あの街角にある素材屋の店主は、“かつての英雄たち”と同じ、本物の現場の匂いがする』とね」

「……身に覚えがあるような、ないようなお話ですね」

かつての戦場に漂っていた、焦げた火薬と土の匂いが、記憶の底を微かに掠める。

それは苦く忌まわしいはずなのに、どこか懐かしく、そして今の穏やかな生活を壊しかねない恐怖を伴っていた。

「君は今、この“素材屋”という場所から、多くの命を密かに救い続けている。

ならば――これから峻烈な戦場へと送り出される若者たちの未来に、生き延びるための種を植えてやることも、君ならできるはずだ」

「…………」

 ルーガルが、そっとリュネルの足元に鼻先を押し当て、無言の励ましを送る。

梁の上のオルフェウスも、静かに一度だけその尾を打った。

(世界中のすべてを救うことはできない。すべての零れ落ちる命を繋ぎ止めることも。

それでも、目の前に差し出されたこの“機会”だけは……拾い上げることができるかもしれない)

セレストリアの円卓で、あまりの政治的な不透明さに飲み込んでしまった言葉がリュネルの喉の奥で形を変えて熱を帯びる。

素材は、扱いを誤れば人を殺す。

だからこそ、正しく真理を見抜く力を授けなければならない。

それは錬材も軍事も根源的な部分は同じなのだ。

「……ひとつ、条件があります」

沈黙の帳を切り裂いたのは、リュネル自身の覚悟だった。

「条件? 言ってみてくれ」

「私が教える内容に対し、一切の“政治的制約”を設けないでください。当然、軍の機密事項を暴くつもりはありません。ですが、『不用意に教えると危険だから伏せる』というこれまでのやり方は、私の教室では通用しません。『危ないからこそ、その本質を徹底的に正しく教える』……。そのやり方を貫かせていただきます」

アルデランは虚を突かれたように一瞬だけ目を瞬かせ、やがて誇らしげに破顔した。

「……それはつまり、君自身の“日常スタイル”そのものだな」

「え?」

「君が日々、この素材屋で客と向き合い、誠実に続けていることと、何ら変わりはない。

 危険物だからこそ、その正体を隠さない。知らないふりをして通り過ぎさせない。

 ――君はただ、その信念を軍学校に持ち込むだけ。そうだろう?」

「……そうなりますね。結果として」

「ならば、異論などあるはずがない。むしろ、そのために私は君を呼びに来たのだから」

アルデランは、重苦しい空気を払拭するようにひらりと手を振った。

「現場の教官たちには私から直接厳命しておこう。“外部講師の教義内容に、いかなる干渉も行うべからず”とな」

「……我が君。しかし、教頭あたりはあまり芳しい顔をしないのでは」

ヒュロスの口から、思わずこぼれ落ちた懸念。

アルデランは「ああ……」と、心底面倒そうに顔をしかめた。

「……残念ながら、既に取り繕う余裕もないほど、不機嫌そうな顔をしていたよ」

「やはり……」

セレストリアの会合で見せつけられた、“不都合な真実をなかったことにする空気”。

それが、この王都の学び舎にまで既に蔓延している。

それでも――。

「承知いたしました」

リュネルは揺るぎない眼差しで、アルデランを正面から見据えた。

「そのお仕事、謹んでお引き受けします。王立軍学校の特別演習、二日間。

ただし、私はあくまで一介の“錬材師”として赴きます。“これから未来を生きる人たちのために”」

アルデランの表情が、春の陽光を受けたかのようにパッと明るく輝いた。

「……ありがとう、リュネル。心から感謝するよ」

その言葉は一国の王子としての義務的なものではなく、一人の友人としての剥き出しの真心から出たものだった。

    

「具体的な日程は?」

「一週間後だ。場所は王都近郊に位置する軍管轄の訓練地帯――“第3訓練探索区”」

「……あのジャングルですか」

リュネルは、手元のメモ帳に淀みのない手つきで情報をさらさらと書き記していく。

「マナ霧が恒常的に停滞しやすく、変異種の毒植物が群生している。中型魔獣の繁殖域であり、深部にはボス級の個体も数体観測されている……」

「……驚いたな。視察もせずに、そこまで把握しているのか?」

「素材屋にとって、“どの座標に何が自生しているか”は必修ですから。危険な深淵ほど、至高の素材が眠っているものです。私の隠れた庭のようなものですよ」

「…そういう恐ろしいことを、笑いながら言わないでくれ」

「リュネル様、あそこは一般の方の立ち入りは厳格に制限されているはずなのですが……」

アルデランが呆れたように苦笑し、ヒュロスがわずかに口元を緩める。

リュネルは含みのある笑顔を浮かべたまま、それ以上の追求を巧みに躱した。

「同行者の希望は?」

アルデランの問いに、リュネルは少しの間を置いてから答える。

「基本的には、私一人で十分です。……まぁ正確には、私とルーガル、そしてオルフェウスを」

「……使い魔二体、か。心強い」

ヒュロスが深く、納得のいったように呟いた。

「ソランやベルギス殿は連れていかないのか?」

「……ソランを、あまり国家の枢機に触れる人間たちに会わせたくないんです。彼自身も軍靴の響きには敏感なようですし。それに、ベルギスは……軍という組織に対して、あまりに重すぎる記憶を抱えています。あそこへ連れ戻すのは、あまりに過酷な仕打ちでしょう」

「ふむ……配慮、痛み入る」

アルデランは深く頷き、その事情を尊重することを示した。

「私は遠見の魔導具を介して、離れた本営から状況を見守ることにしよう。ヒュロスは――」

「私は殿下の影の護衛として、学院側には一切顔を出しません。周辺の魔活動の抑制と、不測の事態に備えたバックアップに徹します」

ヒュロスは簡潔に、自らの役割を定義し、言い切った。

「……非常に信頼できる陣容ですね」

リュネルは、少しだけ肩の重みを下ろした。

「こちらの勝手な都合ですが、できれば店の定休日に合わせて動きたいところですが」

「そのあたりは、あらかじめ調整済みだ。まぁ、前日の準備を含めれば1日は店を空けてもらうことにはなるが……君のことだ、最終的には承諾してくれるだろうと踏んでいたよ」

「……完全に先回りされていましたね」

「君の頑固なまでの性分は、もう十分に知り尽くしているつもりさ」

アルデランがいたずらっぽく目を細める。

リュネルは苦笑で返しつつ、胸の奥底で静かに覚悟の脈動を整えた。

(……行くべき理由は、確かに目の前にある。行かないための言い訳も山ほど積み上げられる。それでも――)

「殿下」

リュネルは、わずかに声音のトーンを落とし、探るような視線を向けた。

「ひとつ、確認させていただいてもよろしいでしょうか」

「何かな?」

「この提案……本当に、殿下“だけ”の純粋な意志ですか?

例えば、議会の誰かが、殿下の言葉を媒介として、私という異分子の動向を測ろうとしている……そんな裏の可能性は?」

一瞬だけ、店内の空気がピンと張り詰める。

ヒュロスの視線が警戒を帯びかけ――しかし、アルデランが穏やかな手つきでそれを制した。

「君の懸念は、もっともだ。……正直に、すべてを話そう」

アルデランは、欺瞞の一切ない真剣な眼差しでリュネルを射抜いた。

「完全に私一人の独断ではない。

 軍学校内の良心的な教官、現場から生還した将校たち、そして兄上……それから、君もよく知る幾つかの人物たちの思惑が奇跡的に重なり、『リュネルに依頼することこそが、この国の閉塞感を打ち破る最善の手段だ』という結論に至ったんだ」

「……議会の中枢は、この動きをどう見ていますか?」

「…半数は“知らないふりをして通り過ぎている”、という表現が最も正確だろうね」

セレストリアで見せつけられたのと全く同じ構図だ。

知らなければ、失敗した時の責任は発生しない。

しかし知ってしまえば、自らの立場を鮮明にし、何かを決断しなければならなくなる。

「だからこそ、これは――“未来が本当に必要だ”と信じる人たちが、ぎりぎりのところで綱渡りをして作り出した、唯一の隙間なんだ」

アルデランの声には、一点の曇りもなかった。

リュネルは、ほんの少しだけ視線を伏せて情報を整理し、やがて力強く頷いた。

「……承知いたしました。ならばなおさら、中途半端な失敗は許されませんね」

「はは、そんなに怖い顔をするなよ」

アルデランが安堵したように、冗談めかして言った。

「『すべての零れたものを拾おうとするな』と、君の祖父殿もよく諭していただろう?」

「……ええ。最近、その言葉が呪文のように脳裏をよぎります」

思わず自嘲気味な笑みが、リュネルの口元から零れた。

「なら、せめて。“今、この手で拾い上げられるもの”だけは、確実に救いに行きましょう」

アルデランは立ち上がり、右手を力強く差し出した。

「よろしく頼むよ、リュネル。これは王族としての正式な要請であり……一人の友人としての、精一杯のわがままだ」

「……仕方のないお人ですね、殿下は」

リュネルはその手を取り、固く握り締めた。

その感触は短かったが、交わした誓いは揺るぎない確信を帯びていた。

    

アルデランとヒュロスの二人が風のように立ち去ったあと。

扉の鈴が再び涼やかに鳴り、店内に穏やかな静寂が戻ってくる。

その静寂を最初に破ったのは、裏口から遠慮がちに、しかし好奇心に満ちた顔を出したソランだった。

「……なあ、先生。今のすごそうな二人、一体誰なんだ?」

ついさっきまで丸太と格闘していたはずなのに、いつの間にか身なりを整え、廊下まで忍び寄っている。

リラも台所の入り口から姿を現し、心配と期待が入り混じったような眼差しでこちらを見守っていた。

ベルギスはといえば、店の太い柱に背を預け、腕を組んだまま静かに状況を見極めている。

(あぁ……そういえば、2人には何も説明していなかったな)

リュネルは小さく咳払いをして、家族同然の仲間たちを見渡した。

「さっきの2人は、王宮に連なる方々だよ。軍学校で開催される特別演習の講師を頼まれてね」

「軍学校の……講師?」

ソランの表情が、驚きと複雑な憧憬に激しく揺れ動く。

ベルギスはわずかに目を細め、その真意を探るように短く問うた。

「……行くのか」

「ああ。1週間後、2日間だけ。錬材師として教鞭を執ってくるよ」

「……そうか。分かった」

ベルギスの声は相変わらず淡々としていたが、その奥底には、かつての戦友を案じるような、わずかなざらつきが混じっていた。

リュネルは、その微かな震えを看過しなかった。

「ベルギス、安心してくれ。戦場へ戻るわけじゃないし、相手はまだ学びの徒である学生たちだ。僕の身を案じる必要はないよ」

「……分かっている」

ベルギスはそこで一度言葉を切り、決意を込めて続けた。

「だが、お前が決めたことだ。お前が不在の間、俺はこの店を守る。それが、今の俺に与えられた役割だからな」

「……ありがとう、頼りにしているよ」

リュネルは、心からの感謝を込めて頭を下げた。

「ソラン、リラさん。その2日間、この店を任せてもいいかな? ルーガルとオルフェウスを連れていくから、少し人手が足りず忙しくなるかもしれないけれど」

「任せてくれよ! 先生の店だろ? つまり、オレの店でもあるんだからさ!」

ソランは頼もしげに胸を張り、眩しい笑顔を見せる。

「私も、精一杯お手伝いします。……それに、軍学校の学生さんたちのために、リュネルさんが教えに行くのは、きっと素晴らしいことです」

リラは穏やかに微笑み、それから少しだけ声を潜めて付け加えた。

「……けれど、どうか。何よりもご自身の安全を第一に」

「もちろんです。僕は戦いのために行くのではなく、“生き延びる術を授けるため”に行くのですから」

そう言って笑いながらも、リュネルの胸の奥では、既に緻密な準備の歯車が回り始めていた。

実戦的な教材の選定。

希少な毒草と、その天敵となる薬草の標本。

マナ霧が渦巻くジャングルにおける、最善の行軍ルート図。

そして――あの白塔の会合で感じた、得体の知れない“影”と対峙するための、精神的な防壁。

(軍学校。あの学び舎で、“今を生きる若者たち”に、僕は何を継承できるだろうか)

ルーガルが足元で、自らの役割を自覚したように静かに尾を打つ。

梁の上のオルフェウスは大きな欠伸をひとつ漏らすと、琥珀色の瞳を細めて主の覚悟を見守っていた。

セレストリアの白塔で警告されたあの不吉な影は、既にこの王都の軍学校にもその触手を伸ばしているのか。

そうだとしても、今の自分にできる唯一の抵抗は――未来ある若者たちに、“生還するための叡智”を手渡すことだ。

「……よし」

リュネルは、使い込まれた帳場に真っ白な紙束を置いた。

その最初の一枚の上に、迷いのない筆致でペンを走らせる。

《王立軍学校・特別演習用:フィールドサバイバル実戦講義案》

その大見出しの下に、具体的な項目が次々と整然と並んでいく。

《マナ霧の変質理論と、生体への不可視の干渉》《毒植物の瞬時判別法と、現場での応急処置》《魔獣の行動予測に基づく、回避パターンの構築》

《生存環境下での水・食料・休息における、冷徹な優先順位》《「勇気ある不戦」の選択と、死線を越えない撤退の美学》――

真っ白だった紙は、次第に濃密な知識の連なりで埋め尽くされていく。

それは、どんな困難も受け止めるというリュネルの意志の現れのようでもあった。

窓の外では、定休日の穏やかな街の喧噪が、変わらぬリズムで流れている。

昼下がりの心地よい風を受け、店の入り口で控える重厚な扉が、時折かすかに鳴った。

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